第四節 ― 海に奪われなかった少女
テレシ=グレイスを離れる頃には、空が少しずつ白み始めていた。
巡礼船はナミル=レイより先に出た。長く失われていた帰路を、一つずつ確かめるような遅い航海だった。甲板にはまだ泣き腫らした顔がいくつもあったが、もう誰も、いつまでも島を振り返ってはいない。
灰色髪の船長が帆を確かめている。一度通り過ぎたあと、何かを思い出したように戻り、端まできちんと畳み直した。
ルカは船首からそれを見て、少し笑った。
「今度は忘れなかったね」
「何を?」
「帆」
エルンも巡礼船を見る。
「ああ。お母さんに怒られない」
「もう怒られないよ」
「……そうだけどさ」
ルカは、白い霧の向こうへ消えていく帆を見送った。
巡礼船の甲板では、沈んだ故郷を持つ女性が一人で祭歌を歌っていた。祈魚の鱗はもう手元にない。それでも歌は残っている。
声は霧の中へ薄くなり、やがて聞こえなくなった。
そのあとを追う必要はなかった。
彼らには、彼ら自身が選んだ帰る海がある。
「私たちも出よっか」
「うん」
ルカは舵を取り、ナミル=レイの帆へ朝の風を入れた。
テレシ=グレイスの浅瀬では、無数の祈魚が静かに泳いでいる。あの透明な一匹は、もう見つけられなかった。
けれど胸の奥には、三つの音がある。
第一。七つの錨が眠った夜、胸へ還ってきた一音。
第二。オルカ=ナハトの鯨歌を辿り、身体そのものが覚えた一音。
そして第三。一度手放した祈魚から、持ち物ではなく音として還ってきた一音。
三つを続ければ、二つだった時よりもずっとはっきりと、誰かを呼ぶ響きになる。
それが誰なのかは、まだ分からない。
ルカが帆へ風を入れ直した、その時だった。
「ルカ」
エルンの声が少し変わった。
「何?」
「海」
ルカは舵を握ったまま周囲を見て、動きを止めた。
波がない。
「……え?」
風は吹いている。真珠色の帆は膨らみ、ルカの黒藍の髪も頬へかかる。ナミル=レイも確かに前へ進んでいる。
なのに、水面だけが磨いた鏡のように静止していた。
一瞬、身体が強張った。
七つの錨。凍りついたように止められた海。
あの光景が反射的に蘇る。
「違う」
エルンがすぐに言った。
「……うん」
ルカも次の瞬間には分かった。
違う。
押さえつけられているわけではない。潮は海面の下をきちんと流れていて、魚も泳いでいる。ナミル=レイも進んでいる。
ただ表面だけが、あまりにも静かだった。
風が水へ触れているのに、波を作らない。朝の空も、白い雲も、ナミル=レイの帆も、そのまま海へ映り込んでいる。
上にも空。
下にも空。
どこまでが本物で、どこからが映った景色なのか、その境目さえ分からない。
「……気持ち悪い」
ルカが呟く。
「きれいじゃない?」
「きれいすぎると怖いの」
「どうして?」
「なんかあるから」
「何か?」
「分かんないけど」
「じゃあ、たぶん?」
「それ今使うところじゃない」
ルカは船縁へ寄り、水面を覗き込んだ。
そこには自分の顔がある。短い黒藍の髪。潮焼けした肌。青緑の目。そして首元の、割れた貝殻護符。
それだけなら、ただの水鏡だった。
次の瞬間、胸の奥で三つの音が順番に鳴った。
第一。
第二。
第三。
すると水面へ、小さな波紋が三つ生まれた。
「私、触ってないよね?」
「うん」
一つ、二つ、三つ。
波紋はゆっくりと重なり、その中心だけが深く沈むように暗くなる。
鏡の下へ、もう一枚。
別の景色が現れた。
「……何?」
ルカは息を呑んだ。
島だった。
小さな島。低い緑の丘。白い浜。海沿いに並ぶ家々。小さな桟橋。
けれど顔を上げても、ナミル=レイの周囲には島などない。水平線まで見渡しても、何もない。
もう一度下を見る。
島がある。
「鏡の中だけ?」
「たぶん」
エルンも隣へ寄った。
島の輪郭のそばに、淡い文字が浮かぶ。潮文字とも祈字とも違う。それなのに、ルカには不思議なくらい自然に読めた。
「エル=ミラウ……」
その名を口にすると、鏡の中の島が少し近づいた。
浜の砂。屋根の形。家の窓。そこまで見えるようになる。
「知ってる?」
「名前だけ」
「どこで?」
「覚えてない」
古い船乗りの話だったか。神殿の地誌だったか。港で聞いた昔話だったのか。
確かな場所を持たず、水鏡の中にだけ現れる島。
そんな話をどこかで耳にした気がする。それくらいだった。
「三つ目が来たからかな」
ルカは胸へ触れる。
第一、第二、第三。
三音が揃う前には、この海は現れなかった。
「また、先が出てきた」
そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなる。
新しい道なら、航海士として考えられる。
「行けるのかな」
「どうやって?」
「……水の中?」
「船ごと?」
「それはやだ」
ルカは潮鏡を取り出しかけて、やめた。
今は海そのものが、巨大な潮鏡になっている。
ナミル=レイを少しだけ前へ進めると、水鏡の中の島も近づいてきた。船が島へ向かっているのか、それとも島の方が鏡の奥を滑ってくるのか、判断できない。
やがて白い浜が、船のすぐ下まで来た。
「停める?」
「うん」
ルカは帆を落とした。ナミル=レイが静かに速度を失い、水鏡の上へ留まる。
もう一度、海を覗き込む。
島。
浜。
細い道。
家。
そして、人。
「……誰かいる」
小さな少女だった。
最初に見えたのは後ろ姿で、今のルカよりずっと幼い。十歳にも届いていないだろう。肩より少し長い髪。飾り気のない服。きちんと靴を履いている。
手には何も持っていなかった。
剣も、神具も、名札も、潮笛もない。
少女は家の前を走っていた。誰かに呼ばれたらしく、不意に振り返り、それから急いで家へ駆け込んでいく。
景色が変わった。
「……何これ」
朝だった。
小さな寝台で、少女が掛け布を頭まで被っている。誰かの手が布を剥ぐと、少女がすぐ取り返す。また剥がされ、今度は身体ごと丸まった。
「起きない」
エルンが言う。
「朝は眠いでしょ」
「ルカも?」
「私は起きる」
「嘘」
「何で知ってるの?」
「船で見てる」
「……見なくていいところまで見てない?」
鏡の中の少女がようやく起きる。不機嫌そうに誰かへ文句を言っているが、声は聞こえない。
相手の顔も見えなかった。
輪郭だけはあるのに、顔の部分だけが朝の光を反射したように白く欠けている。
それでも、その人が少女を大切にしていることだけは、不思議なくらい分かった。
少女は椅子へ座らされ、後ろから髪を梳かれる。櫛が引っ掛かると肩が跳ね、勢いよく振り返った。口が大きく動く。
「痛いって言った」
ルカは思わず自分の髪へ触れる。
「聞こえた?」
「聞こえない。でも絶対言った」
少女は櫛を取り上げようとするが、相手に避けられ、もう一度髪を梳かれる。ぶすっとした顔。それでも逃げない。
毎朝、たぶん同じことをしていたのだ。
そんな手付きだった。
次は食卓。
少女の前へ皿が置かれる。眠そうな顔で食べながら、皿の中から嫌いなものを一つ選んで端へ寄せた。
向かい側の誰かが指を差す。
少女は知らないふりをする。
皿を押し戻される。
顔が思い切り嫌そうに歪んだ。
「嫌いなんだ」
エルンが言う。
「そうみたい」
「ルカも?」
「あるよ」
「何?」
「今聞く?」
「気になる」
「あとで」
少女はしぶしぶ嫌いなものを口へ入れた。
その直後、隣にいる年の近い誰かへ残しておいた菓子を取られる。
少女がものすごい速さで振り返り、奪い返そうとする。相手も離さず、二人で引っ張り合いになる。
何か言い合っている。
喧嘩だ。
けれど最後には、二人とも笑っていた。
「……誰だろ」
ルカが呟く。
兄弟。姉妹。従兄弟。近所の子。
何も分からない。顔も見えず、声も聞こえない。
それでも、近い。
家族と呼べるほどに近しい誰か。
次の景色では、少女が家を出ようとしていた。年上らしい誰かが後ろから肩を一度、ぽん、と叩く。
少女が振り返る。
相手が何かを言い、少女も短く返す。
そこに儀式めいたものは何もない。
たぶん、行っておいで、とか。
気をつけて、とか。
そんな言葉だ。
ルカには、それがひどく羨ましかった。
別の日。
少女は誰かと喧嘩している。腕を組み、頬を膨らませ、背を向けて先へ歩く。後ろから呼ばれても振り返らない。
けれど、歩く速度だけが少し遅くなる。
また別の日。
帰宅はもう夜だった。
家の窓には灯りがある。少女が扉を開けると、中から誰かが出てきた。
その姿を見た途端、少女の顔が少しだけ緩み、安心したように笑う。
何でもない。
本当に、何でもない光景だった。
「……普通だ」
ルカの口から言葉が落ちる。
「何が?」
「あの子」
エルンも少女を見る。
「何もしてない」
「してるよ」
「そうじゃなくて」
ルカは水鏡から目を離せなかった。
「海を救ってない」
「うん」
「誰かの名前も拾ってない」
「うん」
「変な海にも入ってない」
「今のところ」
「そういうことじゃなくて」
少女は朝起きる。
食べる。
喧嘩する。
笑う。
出かける。
帰ってくる。
それだけ。
でも、その「それだけ」が、ルカの胸へ強く刺さった。
自分には、幼い頃がない。
正確には、あるのかもしれない。けれど覚えていない。
メルナ=レイの浜へ流れ着くより前、誰と暮らしていたのか。どんな家で眠っていたのか。朝、誰に起こされたのか。何が嫌いで、誰と菓子を取り合ったのか。帰れば誰が灯りをつけて待っていたのか。
何も知らない。
鏡の中の少女には、それが全部あるように見えた。
何より少女は、何度も誰かに呼ばれる。
そのたび、当たり前のように振り返る。
「……名前」
ルカは水面へさらに顔を近づけた。
聞きたい。
今度こそ。
誰かの唇が少女の名を呼ぶ。
その瞬間だけ、音が消えた。
「え?」
少女は振り返り、何かを返事する。
そこだけが、また聞こえない。
「名前だけ……」
ルカは船縁を強く掴んだ。
「名前だけ聞こえない」
次の景色へ移る。
別の誰かが少女を呼ぶ。
やはり、その部分だけが海の底へ沈んだように抜け落ちた。
「もう一回」
思わず頼む。
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からない。
「もう一回呼んで」
けれど記録は、ルカのために戻ってくれない。
そのまま次へ進んでいく。
少女はどこかへ出かけようとしていた。町か、港か、別の島か。その地名らしい部分も聞こえない。
「そこも?」
家族の顔は欠けている。
名前も聞こえない。
地名も分からない。
ここまで見せてくれるのに、一番知りたいところだけが海へ沈んでいる。
「なんで……」
ルカの指へ力が入った。
誰だったのか。
どこだったのか。
何と呼ばれていたのか。
それが一番、知りたかったのに。
景色がまた変わる。
少女は少し大きくなっていた。何年か経っているのだろう。それでも今のルカより、まだ幼い。
誰かから小さな包みを渡される。
開いた瞬間、少女の顔が明るくなった。
嬉しそうに胸へ抱え、向こう側の人も笑ったように見える。
「……いいな」
ルカの声が漏れた。
エルンがこちらを見た。
けれど、何も言わなかった。
「いいなあ」
もう一度。
今度は、ちゃんと言った。
祈魚を欲しいと思った時とは違う。
あの魚が持っていたのは、名前へ続くほんの一部だった。
ここには、人生がある。
朝。食卓。喧嘩。灯り。誰かの手。自分を呼ぶ声。帰る家。
もし、これが自分の失ったものなら。
全部欲しい。
そう思うのは、あまりにも当たり前だった。
ルカは水面へ手を伸ばす。
「ルカ?」
指先が鏡へ触れた。
冷たくなかった。
「……あったかい」
水に触れたというより、誰かの手へ触れたような温度だった。
波紋は広がらない。
そのまま指が沈んだ。
第一関節。
手の甲。
「入る」
エルンが言う。
ルカが振り向く。
「分かる?」
「向こう側がある」
「これ、行ったら?」
エルンは答えなかった。
「戻れる?」
「分からない」
ルカは少しだけ笑った。
「やっぱり?」
「うん」
エルンは止めなかった。
腕を掴まない。
行くなとも言わない。
ルカはもう一度、水鏡を見る。
少女が誰かに手を引かれている。楽しそうに歩いていく。その先には家があり、灯りがあり、呼ばれる名前がある。
失わなかったものが、全部そこにある。
ルカの指はさらに沈み、手首まで水鏡を越えた。
あと少し身体を船縁の向こうへ傾ければ、向こうへ行けるかもしれない。
本気で、行きたかった。
怖い。
でも、それ以上に行きたい。
もし向こうへ行けば、家族の顔が見えるかもしれない。少女の名前を聞けるかもしれない。失った記憶まで、全部戻ってくるかもしれない。
鏡の中で、少女が家へ帰る。
扉を開ける。
誰かに迎えられ、笑う。
何かを話す。
そこへまた別の誰かが来て、少女はさらに笑う。
ルカはその光景を見ながら、ふと口にした。
「……エルンは?」
「僕?」
「うん」
鏡の中を探す。
どこにもいない。
今の少年と似た姿すらない。
「いないね」
「うん」
当たり前なのかもしれない。
けれど、そのことを初めてはっきり意識した。
「ナミルも」
鏡の少女の日々には、真珠色の帆を持つあの小さな船がいない。
現実側で船首の名灯が小さく明滅する。
「ごめん。別に、いないのが悪いって意味じゃなくて」
帆が少し鳴った。
「今の絶対怒ったよね?」
「たぶん」
「そういう時だけ分かるんだ」
少しだけ笑う。
けれど、すぐに視線は鏡へ戻った。
カイラもいない。
あの豪快な笑い声も、名を売らない海賊も。
メルナ=レイの真珠港。名拾いとして歩いた浜。オルカ=ベル。ナラ=オルテ。イシュラ=マレ。
出会った人たち。拾った名。返した名。泣いた人。笑った人。
その全部を、鏡の少女は知らない。
代わりに彼女には、ルカが知らないものがある。
朝、髪を梳いてくれる人。
嫌いな食べ物を皿へ戻してくる人。
菓子を取り合う年の近い誰か。
出かける時に肩を叩いてくれる人。
夜、帰るまで灯りをつけていてくれる人。
そして何度でも、自分の名前を呼んでくれる声。
ルカの手は、まだ水鏡の向こうにあった。
引いていない。
もう少し進めば、本当に向こうへ行けるのかもしれない。
「……エルン」
「うん」
「行きたい」
隠さなかった。
「うん」
「すごく」
「うん」
「止めないの?」
エルンはルカを見る。
「ルカが決めることだから」
「また、それ」
「うん」
「ずるい」
「うん」
透明な祈魚の前でも、同じことを言われた。
今は、魚一匹ではない。
人生そのものが、目の前にある。
「行ったら、名前分かるかな」
ルカは水面を見つめたまま訊く。
「分からない」
「家族にも会えるかな」
「分からない」
「戻れるかな」
「分からない」
「……ほんと役に立たない」
「ごめん」
「そこ謝るんだ」
少しだけ笑った。
その笑いも、すぐに消える。
鏡の中で、少女が誰かに呼ばれた。
また名前だけが聞こえない。
少女は振り返り、笑う。
その姿が、たまらなく羨ましかった。
自分も、あんなふうに呼ばれていたのだろうか。
当たり前のように。
何度も。
今日も、明日も、その次の日も、呼んでもらえると思いながら振り返っていたのだろうか。
胸が痛い。
名を失ったことが、初めてただの謎ではなく、自分が失った生活そのものの大きさとして目の前へ現れていた。
水鏡の向こうには、名を失わなかった少女がいる。
こちらには、名を失ったあとも、ここまで生きてきた自分がいる。
どちらも、手を伸ばせば触れられそうだった。
けれど、どちらかへ進めば、もう一方から離れるかもしれない。
ルカは水鏡へ沈めた手を、まだ引かなかった。
ただ、初めて鏡の少女から目を逸らした。
こちら側を見る。
エルンがいる。
ナミル=レイがいる。
潮風が吹き、首元には割れた貝殻護符があり、胸の中では三つの音が鳴っている。
もう一度、向こう側を見る。
顔の見えない家族。
聞こえない名前。
帰る家。
自分が生きていたかもしれない、失われた日々。
そこには、海に奪われなかった自分の人生がある。
こちらには、海に奪われたあとも続いてしまった自分の人生がある。
誰も、どちらかを選べとは言っていない。
それでも今、海そのものから問われているように感じた。
失わなかった人生へ戻るのか。
それとも、失ったあとに続いてきた人生へ留まるのか。
水鏡は何も急かさない。ただ、体温に似た温かさでルカの手首を包み、向こう側の少女は何も知らないまま、誰かに呼ばれて振り返っている。
ルカはその光景を見つめ続けた。
羨ましいという気持ちは、消えなかった。
行きたいという願いも、まだ消えていない。
だからこそ、すぐには手を引けなかった。
ただ、向こうへ身体を預けることもできず、水鏡のこちら側と向こう側の間に立ったまま、二つの人生を初めて同じ重さで見つめていた。




