第九節 ― 沈名守セレ=アウナ
潮庭集落にも、異変は届いていた。
最初にルカがそれへ気づいたのは、市場を抜けた先だった。
白珊瑚の家々が少なくなり、青い潮灯の並ぶ通りが一本の太い潮流へ合流する。その脇に、住民たちが何人も集まっていた。
笑い声はない。
大きな貝籠がいくつも並べられ、その中へ青黒い貝殻が積まれている。
メルナ=レイの浜で見たものと同じだった。
「……ここにもある」
ルカが足を止める。
エルンも表情を変えた。
貝の多くは閉じている。けれど、いくつかはすでに割れていた。
そこから名が立ち上がることはない。
代わりに、殻の内側へあったはずの光だけが細い糸となり、集落のさらに奥へ引かれている。
「戻そうとしてる?」
ルカが訊いた。
「うん」
エルンは糸の行く先を見る。
「でも、戻れてない」
確かにそうだった。
光は沈もうとしている。それなのに一定の深さまで行くと何かに押し返され、また貝へ戻ってしまう。
沈む。
押し返される。
もう一度沈み、また戻される。
その繰り返しは、息をする場所を失った者が、水面と水中の境を何度も行き来しているように見えた。
近くにいたネレイオンの男が、貝籠を抱え直す。
ルカは声をかけた。
「あの」
男が振り向く。
「海面から来た人?」
「はい。メルナ=レイでも、この貝が大量に浮いています」
男の顔が曇った。
「やっぱり上まで行ったのか」
「知ってたんですか?」
「ここ数日、沈名が落ち着かない」
男は抱えた貝籠へ目を落とした。
「昨日からは、外へ抜け始めた」
「どこから?」
男は答えようとして、ルカたちの背後へ目を向けた。表情がわずかに改まる。
「沈名守が来た」
潮の流れへ逆らわず、一人の女性がこちらへ泳いできた。
年齢は、ルカにはよく分からなかった。
若くも見える。けれど目元には、長い年月を深い水の中で過ごした者だけが持つような静けさがある。
髪は暗い青。水中へ流れるたび、その間を銀色の細い光が走る。耳の後ろには大きめの半透明の鰭があり、首から肩へかけて薄い真珠色の鱗が並んでいた。
身につけているのは、飾りの少ない白い長衣。腰には大小いくつもの貝札を下げ、その一枚一枚へ文字のような潮紋が刻まれている。
女性が近づくと、周囲の住民たちは自然に道を開けた。
「セレ=アウナ」
先ほどの男が呼ぶ。
女性は小さく頷き、貝籠の一つへ手を添えた。そのまましばらく目を閉じる。
青黒い殻が、一度だけ震えた。
「また浅くなっています」
「今朝より?」
「ええ」
セレ=アウナと呼ばれた女性は、そこでようやくルカたちを見た。
最初にルカ。
次に、ナミル=レイが停泊している方角。
最後にエルン。
視線が、そこで止まった。
ほんの一瞬だった。
けれどルカには分かった。
何かを感じた。
「あなたたちは?」
「ルカ=ネリスです」
ルカは答えた。
「海面で名拾いと、潮名航海士をしています」
水面へ置いてきた役割名だった。
口にすると少し妙な感じがした。それでも、自分が何をしてきた者なのか説明するには必要だった。
「こっちはエルン=カイオ」
「エルン=カイオ」
セレ=アウナが復唱する。
エルンは小さく頷いた。
「うん」
「それから、船がナミル=レイ」
遠くで、ちり、と音がした。
まるで自分の名が聞こえていたように、ナミル=レイの名札が一枚だけ鳴った。
セレ=アウナの表情が少し柔らぐ。
「三つとも、きちんと持ってきたのですね」
ルカは目を瞬いた。
「分かるんですか?」
「ここまで降りて、それぞれがまだその名へ応えているのなら、それで十分です」
その言い方は、先ほど潮庭で出会った子どもたちとどこか似ていた。
「私はセレ=アウナ。この外縁で《沈名守》をしています」
女性が胸元の貝札へ触れる。
「沈名守?」
「沈められた名が、沈むべき深さに留まれるよう見守る者です」
ルカは目の前の貝へ視線を落とした。
「じゃあ、この貝のことも」
「知っています」
セレの表情が曇る。
「こちらの事故です」
ルカとエルンは同時に顔を上げた。
「事故?」
「ええ」
「何が起きたんですか?」
問いかけても、セレはすぐには答えなかった。
まず周囲の住民へ短い指示を出す。貝籠が別の潮流へ乗せられ、集落の奥へ運ばれていく。
それを見送ってから、セレは二人へ視線を戻した。
「ここでは話しにくいですね。来てください」
ルカとエルンは、セレの後を追って集落の奥へ進んだ。
*
潮庭の外縁には、大きな白珊瑚の壁があった。
天然のものではない。
何本もの珊瑚柱が弧を描き、その隙間へ黒い貝板が嵌め込まれている。壁そのものが、何か巨大なものを囲っているようだった。
その向こうから、低い震えが届く。
ごうん。
エルンが足を止めた。
「……鐘」
セレも振り返る。
「聞こえますか」
「うん」
「いつから?」
「海面にいた時から」
「海面で?」
初めて、セレの声へ明確な驚きが混じった。
「何日か前から」
エルンは胸元へ手を置く。
「最初は遠かった。でも、四つの音が揃った頃から近くなった」
「四つの音?」
ルカとエルンは顔を見合わせる。
少なくとも今、隠す理由はなかった。
「潮真名です」
ルカが答えた。
セレの目がルカへ向く。
「四つ?」
「はい」
「一つの名を分けたもの?」
「それも、まだ分かりません」
ルカは胸元へ手を当てる。
「最初はネル=エルか、それより古い神様の名前なんじゃないかと思ってました。でも四つ繋げても、神様の名前には聞こえなくて」
セレは何も言わずに聞いている。
「その四つが揃ってから、どの方角を見ても次の道が出なくなったんです」
「それで、下へ?」
「エルンが鐘を聞いたから」
女性の視線が、また少年へ戻る。
「なるほど」
それだけだった。
白珊瑚の壁には、小さな空洞がいくつも並んでいる。セレはその一つへ手を差し入れ、中から水晶に似た薄い板を取り出した。
板には、幾重もの波紋が刻まれていた。
「これは?」
「深層の圧を記録する潮板です」
「圧?」
「水の重さではありません」
セレは指先で、一番外側の波紋をなぞる。
「名が、どれほど深く留まっているか。その安定を、私たちは便宜上そう呼んでいます」
板の外側では、波紋が整っている。
内側へ行くほど歪み、ある地点で大きく跳ね上がっていた。
「数か月前」
セレが言う。
「深層全体に強い揺れがありました」
ルカの胸へ嫌な予感が広がった。
「数か月前って……」
「海面で、何か大きな固定の仕組みが動きませんでしたか」
答えは一つしかない。
「七錨静潮機」
ルカの声が低くなる。
セレはその名を知らないようだった。
「七つの層へ錨を打って、潮を固定する装置です。一度、本格的に動いた。そのあと、止めました」
「七つ」
セレが呟く。
「起動した時と、停止した時。両方ですか」
「たぶん」
エルンが潮板を覗き込んだ。
「ここ、二回揺れてる」
ルカには、どちらも同じ乱れにしか見えない。
セレはわずかに目を細めた。
「読めるのですね」
「少し」
「そうですか」
それ以上は何も言わず、セレは潮板を光へかざした。
「深い場所へ何かを強く固定すれば、その力は下まで届きます。逆に、それを急に外せば、押さえられていたものが戻ろうとする」
指が、二つの大きな乱れをなぞる。
「最初の揺れは、おそらくその装置の起動。そして、こちらが停止」
ルカの胸が重くなった。
「私たちが止めたから?」
「一因でしょう」
「じゃあ――」
「一因です」
セレが遮った。
責める声ではない。
むしろ、そこで早まるなと止めるような声だった。
「これだけでは、沈名庫は開きません」
「沈名庫」
初めて聞く名前だった。
その言葉に、エルンが反応した。
胸元へ置いた手へ少し力が入る。
ごうん。
白珊瑚の壁の向こうから、また低い震えが届いた。
「その中に、この貝が?」
ルカが訊く。
「一部は」
セレは潮板を裏返した。
裏面には、別の波紋がある。
こちらは新しい。
四つの小さな円。
その四つが互いへ近づき、一つの大きな輪郭を作り始めている。
ルカは息を呑んだ。
「これ……」
「数日前から現れました」
セレがルカを見る。
「あなたが持っている四つの名と、同じ頃でしょうね」
「……私?」
「正確には、あなたが悪いという意味ではありません」
セレは淡々と続けた。
「深い場所に、古い仕組みが眠っていた。そこへ、長く離れていた音が重なった」
四つの円を指す。
「だから動いた?」
「ええ」
「私が四つを集めたから」
「それだけなら、ただ目を覚ましただけでしょう」
セレは二枚の潮板を重ねた。
七錨静潮機の起動と停止による乱れ。
四つの潮真名によって起きた、古い仕組みの目覚め。
二つの波紋が重なる。
その一点で、青白い光が弾けた。
「ここです」
「何が?」
「沈名庫の外縁が開きました」
ルカは、しばらく言葉を失った。
自分たちが七錨を止めた。
自分が潮真名を集めた。
その結果、眠っていた名が押し出された。
メルナ=レイで。
シアの母の古い名前が。
誰かの今の名前を、薄くしている。
「私が……」
「違います」
セレの声は静かだった。
けれど、はっきりしていた。
「でも、私が四つを――」
「鐘を鳴らした者が悪いのではありません」
ルカは顔を上げる。
セレは壁の向こうを見ていた。
「鐘が、まだ鳴るものだっただけです」
ごうん。
まるでその言葉へ応えるように、深い場所で鐘が鳴った。
「仕組みそのものが死んでいたなら、何も起こらなかったでしょう。七つの錨とやらで揺らされても、あなたが四つの音を持ってきても」
「でも、動いた」
「ええ」
「じゃあ、誰が悪いんです?」
セレは少しだけ考えた。
「今、決める必要がありますか?」
ルカは答えられなかった。
「誰かを責めれば貝が戻るのなら、そうします。戻らないのであれば、先に閉じるべき場所を閉じます」
単純な言葉だった。
ルカは小さく息を吐く。
「……はい」
「それに」
セレが続ける。
「沈名庫は、本来、少し揺れた程度で名を吐き出す場所ではありません」
「じゃあ、他にも何かある?」
「その可能性を調べています」
「中へ行けますか?」
セレはすぐには答えなかった。
「外縁までなら」
「その先は?」
「私にも入れない場所があります」
「沈名守なのに?」
「守ることと、すべてを知ることは違います」
その答えを聞いて、ルカは少しだけ安心した。
何でも知っている者が現れたわけではない。
深海にも、分からないものはある。
「セレ=アウナ」
エルンが初めて、自分から彼女の名を呼んだ。
「なに?」
「あの鐘」
白珊瑚の向こうを見る。
「沈名庫の鐘?」
「違います」
セレの返事は早かった。
エルンの顔がわずかに曇る。
「違う?」
「沈名庫にも鐘はあります。しかし、あなたが聞いているものは、もっと深い」
ルカの胸がざわついた。
「どれくらい?」
「深さでは説明できません」
海面でエルンが言ったのと同じだった。
「私たちの使う言葉なら」
セレはゆっくり言う。
「古い」
「古い?」
「沈み方が」
その瞬間、セレ=アウナがエルンを見る目が初めて明確に変わった。
それまでは、海面から来た客。
少し珍しい力を持った少年。
その程度だった。
今は違う。
警戒ではない。
恐怖でもない。
知っているものを見つけた顔でもなかった。
自分の知識より、もっと古い何かが目の前にいる。
そう気づいてしまった者の目だった。
「手を」
セレが言う。
エルンが戸惑う。
「僕?」
「ええ」
少年が右手を差し出した。
セレは掌へ直接触れなかった。
その少し上。
水を挟んで、手を重ねる。
目を閉じる。
しばらく何も起きない。
ルカは二人を見守った。
やがて、セレの指がわずかに震えた。
目が開く。
一歩、後ろへ下がった。
「セレ?」
「……あなた」
声が、初めて揺れた。
エルンが不安そうに自分の手を見る。
「何?」
「分かりません」
セレはすぐに言った。
「分からない?」
「ええ」
視線はエルンから外れない。
「あなたが何者なのかは、私には読めません」
ルカは無意識に、エルンへ一歩近づいた。
「でも、何か分かったんですよね」
「一つだけ」
セレは少し迷った。
それから、慎重に言葉を選ぶ。
「あなたの沈み方は、古い」
エルンの顔から表情が消えた。
「どのくらい?」
「比べられるものがありません」
「ネレイオンより?」
セレは答えない。
「沈名庫より?」
それにも答えなかった。
答えられないのだと、ルカには分かった。
「エルン」
ルカが名を呼ぶ。
少年が振り向いた。
「うん」
いつもの返事だった。
それだけで、少し安心する。
「今はエルン=カイオ」
ルカが言う。
セレの視線が、二人の間を動いた。
「そうですね」
意外にも、すぐに同意した。
「深さが何であれ、今その名へ応えるのなら、今はそれでよいのでしょう」
エルンへ向けた言葉だった。
少年の肩から、ほんの少し力が抜ける。
ごうん。
鐘が鳴った。
今度は、さっきより近い。
白珊瑚の壁へ、細い亀裂が走った。
その隙間から青い光が漏れる。
セレが振り向いた。
「また開いています」
「沈名庫?」
「外縁です」
亀裂の向こうから、一枚の名札が流れ出した。
けれど浮かばない。
沈もうとする。
壁の前で何かに押し返され、また沈み、また戻される。
その動きを見て、エルンが目を細めた。
「苦しそう」
「ええ」
セレは腰の貝札を一枚外し、亀裂へ押し当てた。潮紋が青白く光り、裂け目が少しだけ狭くなる。
けれど、閉じない。
「もう、外から押さえるだけでは無理です」
セレが言った。
ルカは迷わなかった。
「中へ行きます」
「ルカ」
エルンが見る。
「鐘もそっち?」
「途中までは」
「なら、行こう」
セレは二人を見た。
「沈名庫は、海面の還名場とは違います」
「分かってます」
「いいえ」
静かな声で否定された。
「まだ、分かっていないと思います」
ルカは黙る。
セレは亀裂の向こうへ目を向けた。
「そこにあるのは、還れなかった名ではありません」
青い光が揺れる。
「還らないことを選ばれた名があります」
ルカの胸に、シアの声が蘇った。
――母さんが捨てた名前を、死んだあとで勝手に本当へ戻さないで。
ルカは無意識に胸元へ触れる。
そこには《ルカ=ネリス》と書いた潮紙がある。
そのもっと奥には、四つの潮真名が眠っている。
これまで自分は、失われた名を探してきた。還れないなら道を作り、届かないなら届く場所まで運ぶ。それが名拾いであり、潮名航海士の仕事だと思っていた。
けれど、ここには違う名がある。
誰にも見つけてもらえなかったから沈んだのではない。
帰る場所を失ったから眠っているのでもない。
還らないために、深い場所へ置かれた名前。
それを勝手に起こしてしまえば、メルナ=レイで起きたことと同じになるのかもしれない。
「……行きたいです」
今度は、さっきより少しだけ声が変わった。
ただ事故を止めるためではなかった。
知りたかった。
名前を還さないとは、どういうことなのか。
名を守ることと、名を返すことが、もし同じではないのなら。
自分が探している名前も、ただ見つけて持ち帰ればいいものではないのかもしれない。
セレはしばらくルカを見つめた。
やがて、静かに頷く。
「では、案内します」
彼女は白珊瑚の壁へ手を置いた。
「ただし、奥へ進む道を私が読めなくなったら」
そこで一度、言葉を止める。
視線がエルンへ向いた。
「そこから先は、あなたが読んでください」
エルンが目を見開いた。
「僕が?」
「あなたには聞こえているのでしょう」
ごうん。
深い鐘が鳴る。
エルンは胸元を押さえた。
怖そうな顔をしていた。
海面で初めて鐘を聞いた時よりも、その意味へ近づいてしまった分だけ、恐怖も形を持ち始めているのかもしれない。
それでもエルンは目を逸らさなかった。
「……うん」
小さく答える。
白珊瑚の壁が、ゆっくりと開き始めた。
隙間から冷たい潮が流れ込み、潜名泡の中とは違う深い匂いがルカの肌へ触れる。潮庭の灯りも、人々の声も、開いていく壁の向こうまでは届かない。
そこにあったのは光ではなかった。
無数の名が、音もなく沈んでいる。
木札も、貝札も、紙も、声だけになったものも、それぞれの深さへ向かってゆっくり落ちていく。そのどれもが水面を目指してはいない。
ルカには行き先を読めなかった。
けれど、読めないことがもう、異常だとは思わなかった。
還らない名には、還らない名の道がある。
そして今、その道のさらに奥から、エルンだけに聞こえる鐘が鳴っている。
ごうん。
少年の肩がわずかに震える。
ルカは何も言わず、その隣へ立った。
名を呼ぶ必要が来た時には、呼べばいい。
エルン=カイオ。
今、その名へ振り向ける彼を、勝手に別の何かへ決め直さないために。
セレが先へ進む。
ルカとエルンも、その後を追った。
白珊瑚の壁が背後でゆっくり閉じ、潮庭の灯りが細くなっていく。
その先には、底の見えない暗がりが続いていた。
還らなかったのではない。
還らないまま、そこにいることを許された名たちの海だった。




