表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第1話 還ってきた名は、別人の声で泣いた
9/19

第八節 ― 名の侵食

 還名神殿へ戻ったとき、青い灯籠の火は、今にも消えそうになっていた。


 回廊に入る前から、ルカにはそれがわかった。


 名は、光に似ている。


 強い名は、呼ばれなくてもそこにある。暗い場所でも、自分の輪郭を保っている。けれど弱った名は、誰かに呼ばれなければ沈み、強すぎる別の声に押されれば、簡単に形を失ってしまう。


 ノアの名は、いま沈みかけていた。


 神殿の奥から、泣き声が聞こえる。


 少年のものではない。


 少女の声だった。


「お母さん……」


 セグラム神官の足が速くなる。


 ルカもその後を追った。


 小室の前には、神官見習いたちが集まっていた。扉は開いている。中から海底香の煙が溢れ、床を這うように回廊へ流れていた。


 白い灯籠の光が、煙の中で強く揺れている。


 青い灯籠は、ほとんど燃えていなかった。


「下がれ」


 セグラム神官が見習いたちを退かせる。


 ルカは部屋へ飛び込んだ。


 ノアは寝台の上で身を起こしていた。


 だが、その目はノアのものではなかった。


 薄い灰青の瞳が、どこか遠い場所を見ている。頬には涙が流れ、唇は震え続けていた。胸元の貝殻護符は、布越しにもわかるほど白く光っている。


 リサがノアの肩を抱き、必死に呼びかけていた。


「ノア、聞こえる? ノア、私を見て。お願い、返事をして」


 しかし、ノアは答えない。


 その前で、ミナの母が膝をついていた。


 彼女は両手で桃色の髪紐を握りしめ、涙で濡れた顔を少年へ向けている。


「ミナ……」


 その名が落ちる。


 白い灯籠の火が伸びた。


 ノアの体が、びくりと震える。


「はい……お母さん」


 リサの顔から血の気が引いた。


「やめて!」


 彼女の声が裂ける。


「その名で呼ばないでって言ったでしょう!」


 ミナの母は、リサの声を聞いていなかった。


 いや、聞こえていても、止められなかったのかもしれない。


 目の前の少年が、自分を母と呼んだ。


 十年待った声で。


 十年分の祈りが、その一言に縋りついている。


「ミナ、寒かったのね。ずっと、ひとりで」


「うん……暗かった」


 ノアの声は細く、少女のものに近かった。


「でも、歌を覚えてた。お母さんの歌。窓の貝鈴の音。夜明け貝の色。髪を結んでくれた手」


「そうよ。そうよ、ミナ」


 母は泣きながら、少年の手を取ろうとした。


 ルカはその間に入った。


「手を離してください」


 母が驚いたようにルカを見る。


「どうして」


「ノアさんの名が沈みます」


「この子は――」


「この子はノアさんです」


 ルカの声は、自分でも驚くほど硬かった。


 ミナの母の顔が、打たれたように歪む。


 だが、今は優しく言い換える余裕がなかった。


 青い灯籠の火が、芯だけになっている。


 ノア自身の名が、もう部屋に留まれなくなっている。


「リサさん、ノアさんの名前を呼んでください。ただし、強く叫ばないで。近くから、短く」


 リサは涙をこらえながら頷く。


 ノアの耳元へ顔を寄せた。


「ノア」


 青い灯籠が、かすかに揺れた。


「ノア、ここにいるよ。私はリサ。あなたの家にいる。南通りの網小屋。朝になると、潮網を干す匂いがするでしょう」


 ノアの眉が動いた。


 だが、すぐに白い灯籠の火が強くなる。


「お母さん……私、帰りたい」


 ミナの母が、息を呑む。


 その声に引かれ、また名を呼ぼうとする。


 ルカは彼女の手を取った。


「呼ばないでください」


「でも、あの子が私を呼んでいるのよ」


「はい」


「だったら、私は答えなきゃ」


「答えることと、呼び戻すことは違います」


 ミナの母は首を振った。


「わからない」


 その声は、幼い子どものようだった。


「私にはわからない。名のことなんて、わからない。私はただ、あの子に帰ってきてほしかっただけなの」


 ルカは唇を噛んだ。


 この人を責めることはできない。


 十年、待った。


 十年、呼べなかった名を胸の中で呼び続けた。


 その声が、目の前の少年から返ってきた。


 それを、呼ぶなと言われて止められるほど、人の悲しみは素直ではない。


 それでも、止めなければならない。


 ノアが消える。


「ミナさんの名は、ここにあります」


 ルカは、ゆっくり言った。


「でも、ミナさんそのものではありません。今、あなたがその名を強く呼べば、ミナさんの名がノアさんの名を覆ってしまいます」


「覆う?」


「はい。ノアさんが、自分の名前を思い出せなくなります」


 その言葉に、リサが顔を上げた。


 ミナの母も凍りついたように動きを止める。


 その瞬間、ノアの唇が動いた。


「ぼく……」


 部屋の全員が、彼を見る。


「ぼくの、名前……」


 リサがすぐに言った。


「ノア」


 少年は瞬きをした。


「ノ……」


 青い灯籠が、かすかに光る。


「ノ……?」


 彼の顔に、恐怖が広がった。


 自分の名を掴もうとして、そこに穴が空いていることに気づいた顔だった。


「ノ……わからない」


 リサが息を呑んだ。


「ノア!」


 今度は強かった。


 青い灯籠が一瞬だけ燃え上がり、すぐに小さくなる。


 ノアは頭を抱えた。


「違う、違う、僕は……私は……」


 声が混ざる。


 少年と少女の声が、同じ喉でぶつかり合う。


「お母さん、寒い」


「リサ母さん、怖い」


「髪紐、どこ?」


「貝の笛、鳴らない」


「海底香の匂いがする」


「網の結び目がほどけない」


「夜明け貝、割っちゃった」


「白い階段が、下へ、下へ」


 記憶が溢れ出していた。


 ミナのもの。


 ノアのもの。


 どちらのものでもないもの。


 それらが整理されないまま、ノアの口からこぼれている。


 ルカは寝台に近づき、貝殻護符へ手を伸ばした。


「触ります」


 誰にともなく告げる。


 リサが頷いた。


 ミナの母は、声を出さなかった。


 ルカの指先が護符に触れた。


 冷たい。


 前よりもずっと冷たい。


 まるで、貝殻の内側に小さな深海が開いているようだった。


 瞬間、視界が揺れる。


 白い部屋が遠のいた。


 海底香の匂いが消え、かわりに塩水が喉へ入る感覚がした。


 ルカは名を読みにいった。


 ノアの中へ。


 青い糸を探す。


 それは、細くなっていた。


 ノア=リム。


 リサに呼ばれ、南通りの家で育ち、潮網を繕い、貝の笛を大事にし、熱を出した夜に背中をさすられた少年の名。


 その糸は確かにある。


 けれど、ところどころが切れかけている。


 そして、その切れ目に白い糸が絡んでいた。


 ミナ=ベルカ。


 母の歌を覚え、夜明け貝を愛し、鯨歌いになりたかった少女の名。


 白い糸は、ノアの糸を食い破っているのではない。


 むしろ、破れたところを塞ぐように絡んでいる。


 けれど今、外から「ミナ」と呼ばれすぎたことで、白い糸が膨らみすぎていた。


 ノアの青い糸を、覆ってしまうほどに。


 ルカは、その境目を探した。


 どこまでがミナの祈りで、どこからがノアの命なのか。


 どこをほどけば、どちらも千切らずに済むのか。


 だが、深く読めば読むほど、潮がこちらへ流れ込んでくる。


 冷たい潮。


 十年前の潮。


 名を渡した少女の祈り。


 名を持てずに戻された幼い子の沈黙。


 それらが、ルカの胸の中へ押し寄せた。


 ルカは、自分の名を胸の内で呼ぼうとした。


 いつものように。


 ルカ。


 それだけで、自分の輪郭を取り戻せるはずだった。


 けれど、その響きは、いつもより少し遠かった。


 ルカ。


 声が届かない。


 水の向こうから、誰かが呼んでいるように聞こえる。


 それは自分の声なのか、他人の声なのか、わからない。


 胸元の潮名札が冷える。


 ルカは初めて、はっきりと恐怖を覚えた。


 他人の名を読むということは、ただ見ているだけではない。


 名の潮へ、自分の名を近づけることだ。


 他人の欠けたところに触れれば、自分の欠けたところも呼び起こされる。


 ノアの穴を覗けば、ルカ自身の穴もまた、海に晒される。


 底で待っている少年。


 名を拾う子を呼ぶ声。


 その気配が、また遠くに立ち上がる。


 白い階段。


 下へ続く階段。


 誰かが、そこからこちらを見ている。


 ルカは、護符から手を離そうとした。


 だが、離れない。


 ノアの中の名が、彼女の指先を掴んでいる。


 助けて。


 その声は、ノアのものだった。


 帰りたい。


 その声は、ミナのものだった。


 そして、もっと深いところから、別の声がした。


 ――まだ、来てはいけない。


 ルカは息を呑んだ。


 誰の声かはわからない。


 少年の声だったような気がする。


 だが、海底で聞いた声のように古かった。


 次の瞬間、誰かがルカの肩を掴んだ。


「ルカ!」


 現実の声だった。


 セグラム神官ではない。


 リサでもない。


 モルカの声だ。


 いつの間に来ていたのか、老いた鯨歌いが部屋の入り口に立っていた。片手には折れた鯨歯の札を持ち、もう片方の手でルカの肩を強く引いている。


「戻れ、名拾い。そこはまだ底じゃない」


 ルカの指が、護符から離れた。


 空気が戻る。


 海底香の匂い。


 白砂の床。


 泣いているリサ。


 震えているミナの母。


 低く唸るセグラム神官の声。


 そして、ノア。


 ノアは寝台の上で、苦しそうに息をしていた。


 だが、完全に沈んではいない。


 青い灯籠の火が、まだ細く残っている。


 ルカは膝をついた。


 息が荒い。


 自分の手が震えている。


「ルカさん!」


 リサが叫ぶ。


 ルカは片手を上げて、大丈夫だと示した。


 大丈夫。


 そう思おうとした。


 だが、胸の内で自分の名を呼ぶと、やはり少し遅れて響いた。


 ルカ。


 まるで、潮の向こうから返ってくるように。


 彼女は震えを押さえ、顔を上げた。


「ノアさんの名は、まだあります」


 リサの目に涙が滲む。


「本当に?」


「はい。でも、弱っています。これ以上、ミナさんの名を強く呼べば、ノアさんは自分の名前を思い出せなくなる」


 ミナの母が、両手で口元を覆った。


「私は……」


 声が震えていた。


「私は、あの子をまた殺そうとしているの?」


「違います」


 ルカはすぐに言った。


 それだけは、すぐに言えた。


「あなたは、ミナさんを呼んでいるだけです。でも、その声が、今のノアさんには強すぎます」


 母は髪紐を握りしめた。


「じゃあ、私は何もできないの」


「できます」


 ルカは息を整えながら言った。


「呼び戻すのではなく、待つことです」


 母は目を見開く。


「また、待つの?」


 十年待った人に、また待てと言う。


 どれほど残酷な言葉か、ルカにもわかっていた。


 それでも。


「はい」


 ルカは言った。


「今度は、戻ってきた名を奪い合わないために」


 部屋の中に、長い沈黙が落ちた。


 ミナの母は泣いていた。


 けれど、ノアをミナとは呼ばなかった。


 リサはノアの手を握り、何度も小さく「ここにいる」と囁いている。

 名前は呼ばない。

 ただ、存在を支える言葉を選んでいた。


 モルカが低く唸る。


「悪くない」


 ルカは彼を見た。


「来ていたんですか」


「お前が底に引かれたからな」


「……すみません」


「謝る相手は自分の名だ」


 その言葉に、ルカは胸元へ手を当てた。


 潮名札は、まだ冷たい。


 セグラム神官が、重い声で言う。


「このままでは、夜を越せないか」


 ルカはノアを見た。


 青い灯籠の火。


 白い灯籠の火。


 ふたつの光は、どちらも不安定に揺れている。


「越せます」


 ルカは言った。


「ただし、今夜中に準備を始める必要があります」


「何の準備だ」


「名を分けるための儀式です」


 セグラム神官の表情が変わった。


「分ける?」


「はい。ミナさんの名を、ノアさんから剥がすのではありません。ノアさんを支えている部分と、ミナさんの家族へ還るべき部分を、分けて見届けます」


「そんなことができるのか」


「やらなければ、どちらかが壊れます」


 ルカの声は掠れていた。


 けれど、迷いはなかった。


 ノアの名は弱っている。


 ミナの名は帰りたがっている。


 母は娘を呼びたい。


 リサは息子を守りたい。


 神殿は奇跡にしたがり、町は噂で名を歪める。


 このまま放っておけば、誰かの願いが誰かの名を押し潰す。


 それだけは、止めなければならない。


 ルカはもう一度、自分の名を胸の内で呼んだ。


 ルカ。


 今度は、少し近くで響いた。


 それでも完全ではない。


 けれど、戻ってきた。


 彼女は小さく息を吐く。


 他人の名を読むたび、自分の名は潮へ近づく。


 それが怖い。


 怖いが、それでも拾わなければならない名がある。


 寝台の上で、ノアがかすかに目を開けた。


「僕……」


 リサが身を寄せる。


「うん」


「僕の名前……」


 声は弱い。


 だが、少年の声だった。


「ノア……?」


 青い灯籠が、小さく燃えた。


 リサが泣きながら頷く。


「そう。あなたはノア」


 ミナの母は、唇を震わせながら、何も言わなかった。


 白い灯籠の火が、静かに揺れる。


 それは消えたわけではない。


 ただ、少しだけ待つことを覚えたように見えた。


 ルカはその二つの灯を見つめた。


 今夜が、境目になる。


 名が名を呑む前に。


 祈りが命を縛る前に。


 十年前の潮が、もう一度、同じ子どもを沈めてしまう前に。


 ルカは立ち上がった。


「海葬桟橋を使います」


 セグラム神官が頷く。


「準備させよう」


「名灯籠を二つ。ミナさんの遺品。ノアさんの護符。十年前の潮紙。それから、鯨歌を」


 モルカが片目を細めた。


「また歌わせる気か」


「必要です」


「今度は底まで引かれても知らんぞ」


「引かれないようにします」


 モルカは鼻を鳴らした。


「若い者は、すぐそう言う」


 それでも、彼は拒まなかった。


 ルカは最後に、ミナの母とリサを見た。


「おふたりにも、来てもらいます」


 リサが頷く。


 ミナの母は、少し遅れて頷いた。


「私は……呼ばない方がいいのね」


「まだ、呼ばないでください」


 ルカは言った。


「でも、最後には、あなたの声が必要になります」


 母の目が揺れる。


「私の?」


「はい。呼び戻すためではなく、見送るために」


 その言葉の意味を、彼女はまだ理解していないようだった。


 それでも、髪紐を胸に抱いたまま、静かに頷いた。


 部屋の外では、夜の潮が高くなっていた。


 海葬桟橋へ向かう潮路が、白い泡を立てている。


 名の侵食は、まだ止まっていない。


 ただ、ほんの少しだけ、猶予が生まれた。


 ルカはその猶予を抱えて、次の潮へ向かうことにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ