第八節 ― 名の侵食
還名神殿へ戻ったとき、青い灯籠の火は、今にも消えそうになっていた。
回廊に入る前から、ルカにはそれがわかった。
名は、光に似ている。
強い名は、呼ばれなくてもそこにある。暗い場所でも、自分の輪郭を保っている。けれど弱った名は、誰かに呼ばれなければ沈み、強すぎる別の声に押されれば、簡単に形を失ってしまう。
ノアの名は、いま沈みかけていた。
神殿の奥から、泣き声が聞こえる。
少年のものではない。
少女の声だった。
「お母さん……」
セグラム神官の足が速くなる。
ルカもその後を追った。
小室の前には、神官見習いたちが集まっていた。扉は開いている。中から海底香の煙が溢れ、床を這うように回廊へ流れていた。
白い灯籠の光が、煙の中で強く揺れている。
青い灯籠は、ほとんど燃えていなかった。
「下がれ」
セグラム神官が見習いたちを退かせる。
ルカは部屋へ飛び込んだ。
ノアは寝台の上で身を起こしていた。
だが、その目はノアのものではなかった。
薄い灰青の瞳が、どこか遠い場所を見ている。頬には涙が流れ、唇は震え続けていた。胸元の貝殻護符は、布越しにもわかるほど白く光っている。
リサがノアの肩を抱き、必死に呼びかけていた。
「ノア、聞こえる? ノア、私を見て。お願い、返事をして」
しかし、ノアは答えない。
その前で、ミナの母が膝をついていた。
彼女は両手で桃色の髪紐を握りしめ、涙で濡れた顔を少年へ向けている。
「ミナ……」
その名が落ちる。
白い灯籠の火が伸びた。
ノアの体が、びくりと震える。
「はい……お母さん」
リサの顔から血の気が引いた。
「やめて!」
彼女の声が裂ける。
「その名で呼ばないでって言ったでしょう!」
ミナの母は、リサの声を聞いていなかった。
いや、聞こえていても、止められなかったのかもしれない。
目の前の少年が、自分を母と呼んだ。
十年待った声で。
十年分の祈りが、その一言に縋りついている。
「ミナ、寒かったのね。ずっと、ひとりで」
「うん……暗かった」
ノアの声は細く、少女のものに近かった。
「でも、歌を覚えてた。お母さんの歌。窓の貝鈴の音。夜明け貝の色。髪を結んでくれた手」
「そうよ。そうよ、ミナ」
母は泣きながら、少年の手を取ろうとした。
ルカはその間に入った。
「手を離してください」
母が驚いたようにルカを見る。
「どうして」
「ノアさんの名が沈みます」
「この子は――」
「この子はノアさんです」
ルカの声は、自分でも驚くほど硬かった。
ミナの母の顔が、打たれたように歪む。
だが、今は優しく言い換える余裕がなかった。
青い灯籠の火が、芯だけになっている。
ノア自身の名が、もう部屋に留まれなくなっている。
「リサさん、ノアさんの名前を呼んでください。ただし、強く叫ばないで。近くから、短く」
リサは涙をこらえながら頷く。
ノアの耳元へ顔を寄せた。
「ノア」
青い灯籠が、かすかに揺れた。
「ノア、ここにいるよ。私はリサ。あなたの家にいる。南通りの網小屋。朝になると、潮網を干す匂いがするでしょう」
ノアの眉が動いた。
だが、すぐに白い灯籠の火が強くなる。
「お母さん……私、帰りたい」
ミナの母が、息を呑む。
その声に引かれ、また名を呼ぼうとする。
ルカは彼女の手を取った。
「呼ばないでください」
「でも、あの子が私を呼んでいるのよ」
「はい」
「だったら、私は答えなきゃ」
「答えることと、呼び戻すことは違います」
ミナの母は首を振った。
「わからない」
その声は、幼い子どものようだった。
「私にはわからない。名のことなんて、わからない。私はただ、あの子に帰ってきてほしかっただけなの」
ルカは唇を噛んだ。
この人を責めることはできない。
十年、待った。
十年、呼べなかった名を胸の中で呼び続けた。
その声が、目の前の少年から返ってきた。
それを、呼ぶなと言われて止められるほど、人の悲しみは素直ではない。
それでも、止めなければならない。
ノアが消える。
「ミナさんの名は、ここにあります」
ルカは、ゆっくり言った。
「でも、ミナさんそのものではありません。今、あなたがその名を強く呼べば、ミナさんの名がノアさんの名を覆ってしまいます」
「覆う?」
「はい。ノアさんが、自分の名前を思い出せなくなります」
その言葉に、リサが顔を上げた。
ミナの母も凍りついたように動きを止める。
その瞬間、ノアの唇が動いた。
「ぼく……」
部屋の全員が、彼を見る。
「ぼくの、名前……」
リサがすぐに言った。
「ノア」
少年は瞬きをした。
「ノ……」
青い灯籠が、かすかに光る。
「ノ……?」
彼の顔に、恐怖が広がった。
自分の名を掴もうとして、そこに穴が空いていることに気づいた顔だった。
「ノ……わからない」
リサが息を呑んだ。
「ノア!」
今度は強かった。
青い灯籠が一瞬だけ燃え上がり、すぐに小さくなる。
ノアは頭を抱えた。
「違う、違う、僕は……私は……」
声が混ざる。
少年と少女の声が、同じ喉でぶつかり合う。
「お母さん、寒い」
「リサ母さん、怖い」
「髪紐、どこ?」
「貝の笛、鳴らない」
「海底香の匂いがする」
「網の結び目がほどけない」
「夜明け貝、割っちゃった」
「白い階段が、下へ、下へ」
記憶が溢れ出していた。
ミナのもの。
ノアのもの。
どちらのものでもないもの。
それらが整理されないまま、ノアの口からこぼれている。
ルカは寝台に近づき、貝殻護符へ手を伸ばした。
「触ります」
誰にともなく告げる。
リサが頷いた。
ミナの母は、声を出さなかった。
ルカの指先が護符に触れた。
冷たい。
前よりもずっと冷たい。
まるで、貝殻の内側に小さな深海が開いているようだった。
瞬間、視界が揺れる。
白い部屋が遠のいた。
海底香の匂いが消え、かわりに塩水が喉へ入る感覚がした。
ルカは名を読みにいった。
ノアの中へ。
青い糸を探す。
それは、細くなっていた。
ノア=リム。
リサに呼ばれ、南通りの家で育ち、潮網を繕い、貝の笛を大事にし、熱を出した夜に背中をさすられた少年の名。
その糸は確かにある。
けれど、ところどころが切れかけている。
そして、その切れ目に白い糸が絡んでいた。
ミナ=ベルカ。
母の歌を覚え、夜明け貝を愛し、鯨歌いになりたかった少女の名。
白い糸は、ノアの糸を食い破っているのではない。
むしろ、破れたところを塞ぐように絡んでいる。
けれど今、外から「ミナ」と呼ばれすぎたことで、白い糸が膨らみすぎていた。
ノアの青い糸を、覆ってしまうほどに。
ルカは、その境目を探した。
どこまでがミナの祈りで、どこからがノアの命なのか。
どこをほどけば、どちらも千切らずに済むのか。
だが、深く読めば読むほど、潮がこちらへ流れ込んでくる。
冷たい潮。
十年前の潮。
名を渡した少女の祈り。
名を持てずに戻された幼い子の沈黙。
それらが、ルカの胸の中へ押し寄せた。
ルカは、自分の名を胸の内で呼ぼうとした。
いつものように。
ルカ。
それだけで、自分の輪郭を取り戻せるはずだった。
けれど、その響きは、いつもより少し遠かった。
ルカ。
声が届かない。
水の向こうから、誰かが呼んでいるように聞こえる。
それは自分の声なのか、他人の声なのか、わからない。
胸元の潮名札が冷える。
ルカは初めて、はっきりと恐怖を覚えた。
他人の名を読むということは、ただ見ているだけではない。
名の潮へ、自分の名を近づけることだ。
他人の欠けたところに触れれば、自分の欠けたところも呼び起こされる。
ノアの穴を覗けば、ルカ自身の穴もまた、海に晒される。
底で待っている少年。
名を拾う子を呼ぶ声。
その気配が、また遠くに立ち上がる。
白い階段。
下へ続く階段。
誰かが、そこからこちらを見ている。
ルカは、護符から手を離そうとした。
だが、離れない。
ノアの中の名が、彼女の指先を掴んでいる。
助けて。
その声は、ノアのものだった。
帰りたい。
その声は、ミナのものだった。
そして、もっと深いところから、別の声がした。
――まだ、来てはいけない。
ルカは息を呑んだ。
誰の声かはわからない。
少年の声だったような気がする。
だが、海底で聞いた声のように古かった。
次の瞬間、誰かがルカの肩を掴んだ。
「ルカ!」
現実の声だった。
セグラム神官ではない。
リサでもない。
モルカの声だ。
いつの間に来ていたのか、老いた鯨歌いが部屋の入り口に立っていた。片手には折れた鯨歯の札を持ち、もう片方の手でルカの肩を強く引いている。
「戻れ、名拾い。そこはまだ底じゃない」
ルカの指が、護符から離れた。
空気が戻る。
海底香の匂い。
白砂の床。
泣いているリサ。
震えているミナの母。
低く唸るセグラム神官の声。
そして、ノア。
ノアは寝台の上で、苦しそうに息をしていた。
だが、完全に沈んではいない。
青い灯籠の火が、まだ細く残っている。
ルカは膝をついた。
息が荒い。
自分の手が震えている。
「ルカさん!」
リサが叫ぶ。
ルカは片手を上げて、大丈夫だと示した。
大丈夫。
そう思おうとした。
だが、胸の内で自分の名を呼ぶと、やはり少し遅れて響いた。
ルカ。
まるで、潮の向こうから返ってくるように。
彼女は震えを押さえ、顔を上げた。
「ノアさんの名は、まだあります」
リサの目に涙が滲む。
「本当に?」
「はい。でも、弱っています。これ以上、ミナさんの名を強く呼べば、ノアさんは自分の名前を思い出せなくなる」
ミナの母が、両手で口元を覆った。
「私は……」
声が震えていた。
「私は、あの子をまた殺そうとしているの?」
「違います」
ルカはすぐに言った。
それだけは、すぐに言えた。
「あなたは、ミナさんを呼んでいるだけです。でも、その声が、今のノアさんには強すぎます」
母は髪紐を握りしめた。
「じゃあ、私は何もできないの」
「できます」
ルカは息を整えながら言った。
「呼び戻すのではなく、待つことです」
母は目を見開く。
「また、待つの?」
十年待った人に、また待てと言う。
どれほど残酷な言葉か、ルカにもわかっていた。
それでも。
「はい」
ルカは言った。
「今度は、戻ってきた名を奪い合わないために」
部屋の中に、長い沈黙が落ちた。
ミナの母は泣いていた。
けれど、ノアをミナとは呼ばなかった。
リサはノアの手を握り、何度も小さく「ここにいる」と囁いている。
名前は呼ばない。
ただ、存在を支える言葉を選んでいた。
モルカが低く唸る。
「悪くない」
ルカは彼を見た。
「来ていたんですか」
「お前が底に引かれたからな」
「……すみません」
「謝る相手は自分の名だ」
その言葉に、ルカは胸元へ手を当てた。
潮名札は、まだ冷たい。
セグラム神官が、重い声で言う。
「このままでは、夜を越せないか」
ルカはノアを見た。
青い灯籠の火。
白い灯籠の火。
ふたつの光は、どちらも不安定に揺れている。
「越せます」
ルカは言った。
「ただし、今夜中に準備を始める必要があります」
「何の準備だ」
「名を分けるための儀式です」
セグラム神官の表情が変わった。
「分ける?」
「はい。ミナさんの名を、ノアさんから剥がすのではありません。ノアさんを支えている部分と、ミナさんの家族へ還るべき部分を、分けて見届けます」
「そんなことができるのか」
「やらなければ、どちらかが壊れます」
ルカの声は掠れていた。
けれど、迷いはなかった。
ノアの名は弱っている。
ミナの名は帰りたがっている。
母は娘を呼びたい。
リサは息子を守りたい。
神殿は奇跡にしたがり、町は噂で名を歪める。
このまま放っておけば、誰かの願いが誰かの名を押し潰す。
それだけは、止めなければならない。
ルカはもう一度、自分の名を胸の内で呼んだ。
ルカ。
今度は、少し近くで響いた。
それでも完全ではない。
けれど、戻ってきた。
彼女は小さく息を吐く。
他人の名を読むたび、自分の名は潮へ近づく。
それが怖い。
怖いが、それでも拾わなければならない名がある。
寝台の上で、ノアがかすかに目を開けた。
「僕……」
リサが身を寄せる。
「うん」
「僕の名前……」
声は弱い。
だが、少年の声だった。
「ノア……?」
青い灯籠が、小さく燃えた。
リサが泣きながら頷く。
「そう。あなたはノア」
ミナの母は、唇を震わせながら、何も言わなかった。
白い灯籠の火が、静かに揺れる。
それは消えたわけではない。
ただ、少しだけ待つことを覚えたように見えた。
ルカはその二つの灯を見つめた。
今夜が、境目になる。
名が名を呑む前に。
祈りが命を縛る前に。
十年前の潮が、もう一度、同じ子どもを沈めてしまう前に。
ルカは立ち上がった。
「海葬桟橋を使います」
セグラム神官が頷く。
「準備させよう」
「名灯籠を二つ。ミナさんの遺品。ノアさんの護符。十年前の潮紙。それから、鯨歌を」
モルカが片目を細めた。
「また歌わせる気か」
「必要です」
「今度は底まで引かれても知らんぞ」
「引かれないようにします」
モルカは鼻を鳴らした。
「若い者は、すぐそう言う」
それでも、彼は拒まなかった。
ルカは最後に、ミナの母とリサを見た。
「おふたりにも、来てもらいます」
リサが頷く。
ミナの母は、少し遅れて頷いた。
「私は……呼ばない方がいいのね」
「まだ、呼ばないでください」
ルカは言った。
「でも、最後には、あなたの声が必要になります」
母の目が揺れる。
「私の?」
「はい。呼び戻すためではなく、見送るために」
その言葉の意味を、彼女はまだ理解していないようだった。
それでも、髪紐を胸に抱いたまま、静かに頷いた。
部屋の外では、夜の潮が高くなっていた。
海葬桟橋へ向かう潮路が、白い泡を立てている。
名の侵食は、まだ止まっていない。
ただ、ほんの少しだけ、猶予が生まれた。
ルカはその猶予を抱えて、次の潮へ向かうことにした。




