第九節 ― 還ったのは娘ではない
海葬桟橋には、夜の潮が満ちていた。
昼間は白く乾いていた板の隙間から、黒い水が覗いている。桟橋の両側に吊るされた古い名札は、潮風に揺れて、かた、かた、と低く鳴っていた。
遠くで鯨が鳴く。
その声は、海底からゆっくり浮かび上がってくる記憶のようだった。
神官見習いたちが、黙って儀式の支度を進めている。
名灯籠が二つ。
ひとつには、ミナ=ベルカの潮紙。
もうひとつには、ノア=リムの名札。
その間に、空の灯籠がひとつ置かれていた。
まだ誰の名も結ばれていない。
その灯籠だけが、火を入れられる前から、かすかに白く光っているように見えた。
ルカは桟橋の先で、潮の流れを見ていた。
水面は静かだった。
だが、その下で名が動いている。
ミナの名。
ノアの名。
十年前の祈り。
それらが、まるでほどけかけた網のように、水の中で絡まり合っていた。
ルカの背後では、リサがノアを支えている。
ノアは歩ける状態ではなかった。けれど、寝台に置いたままでは名が眠りすぎる。だから、リサが肩を貸し、ノアは桟橋の中央に座っていた。
彼の胸元には貝殻護符がある。
布を外された護符は、青と白の光を交互に漏らしていた。
その光が強くなるたび、ノアの呼吸が乱れる。
リサはノアの背に手を添え、名前を呼ばずに囁き続けていた。
「ここにいるよ。大丈夫。息をして。私の手、わかる?」
ノアは弱く頷く。
彼の唇は、何度も自分の名を探して動いた。
ノア。
その二音を掴むだけで、今の彼には大きな力が要るようだった。
少し離れた場所に、ミナの母が立っていた。
彼女は白い喪布をまとい、両手で桃色の髪紐を握っている。十年前の海葬で流したはずの遺品。いまは、神殿に回収され、儀式のために戻されていた。
彼女は、ノアを見ていた。
娘を見る目で。
そう見てはいけないと、自分に言い聞かせながらも、どうしてもそう見てしまう目で。
ルカは、彼女の前に立った。
「お話ししなければならないことがあります」
ミナの母は、うっすらと笑った。
笑みというより、もう泣く力が残っていない人の表情だった。
「真実、というもの?」
「はい」
「真実なら、もう聞いたわ」
彼女はノアを見たまま言った。
「あの子は、私の娘を助けてくれた子ではなく、娘に助けられた子だった。ミナは、その子を返すために沈んだ。あなたたちは、そう言うのでしょう」
「はい」
「でも、それならなおさらでしょう」
母の指が、髪紐を強く握る。
「ミナは、その子の中にいる。あの子の名は、あの子の命に残っている。だったら、どうして私は呼んではいけないの?」
ルカはすぐには答えなかった。
夜の潮が、桟橋の下で静かに動く。
「あなたは、娘さんを呼んでいます」
「ええ」
「でも、ミナさんの名は今、ノアさんの名に絡んでいます。あなたの声は、ミナさんの名だけでなく、ノアさんの名も一緒に引いてしまう」
「私は、あの子を傷つけたいわけじゃない」
「わかっています」
「わかっていないわ」
母の声が、少しだけ鋭くなった。
「あなたは若い。名拾いだと言うけれど、子どもを海に返した母親ではない。十年待った母親ではない」
その言葉は、ルカの胸に刺さった。
確かに、その通りだった。
ルカは母親ではない。
子を海に返したこともない。
十年、帰らない名を待ち続けたこともない。
彼女には、その悲しみを本当の意味でわかるとは言えない。
けれど、名が沈む恐怖なら少しだけ知っている。
自分の名が遠くなる瞬間の冷たさなら。
ルカは胸元の潮名札に触れそうになり、手を止めた。
今は、自分の名に逃げてはいけない。
「私は、あなたの悲しみを全部はわかりません」
ルカは言った。
「でも、名が沈むことの怖さは知っています」
ミナの母は、ルカを見た。
「ノアさんは今、自分の名前を思い出せなくなりかけています。あなたが悪いからではありません。ミナさんの名が偽物だからでもありません。ミナさんの名が本物だからです」
「本物……」
母の瞳が揺れる。
「本物なのね」
「はい」
ルカは頷いた。
それだけは、曖昧にしてはいけない。
「ノアさんの中にあるミナさんの名は、本物です。子守歌も、夜明け貝も、潮布の感触も、あなたに帰りたいと泣いた声も、偽物ではありません」
母の頬に涙が落ちた。
「だったら」
彼女は震える声で言った。
「だったら、あれは娘でしょう」
ルカは首を横に振った。
「違います」
母の顔が歪む。
「どうして」
「ミナさんの名の一部だからです」
「一部でも、ミナでしょう?」
「一部は、全部ではありません」
「そんな言葉で、私から娘をもう一度奪うの?」
桟橋の名札が、風もないのに鳴った。
かた、かた、からん。
リサがノアの肩を抱きしめる。
ノアは目を伏せている。けれど、その指は震えていた。彼にも聞こえている。
自分が誰かの娘として望まれていること。
自分の名が、その望みに耐えきれなくなっていること。
ルカは一歩、ミナの母へ近づいた。
「還ってきたのは、ミナさん本人ではありません」
「やめて」
「でも、偽物でもありません」
「やめて」
「還ってきたのは、ミナさんが最後に海へ託した祈りの名です」
母は息を止めた。
潮の音だけが残る。
「祈りの……名?」
「はい」
ルカは静かに続けた。
「ミナさんは、最後にノアさんを返してほしいと願いました。自分の名はいらないから、この子を返して、と。海はその祈りを聞いた。だから、ノアさんは戻った」
ルカはノアの胸元の護符を見る。
「でも、ミナさんの名は完全には沈まなかった。彼女が差し出した名の一部が、ノアさんの命に絡みついた。十年間、ノアさんの中で、ずっと残っていた」
ミナの母は、髪紐を握ったまま動かない。
「だから昨夜、還名儀式でミナさんの名を呼んだとき、その欠片が応えたんです」
「それは……」
母の唇が震える。
「それは、帰ってきたのと何が違うの」
ルカは答えに詰まった。
違う。
そう言うのは簡単だ。
けれど、ミナの母にとっては、声が戻った。
歌が戻った。
娘だけが知る記憶が戻った。
それを帰還と呼ばずに、何と呼べばいいのか。
ルカにも、言葉はすぐに見つからなかった。
そのとき、ノアが小さく呻いた。
「お母さん……」
少女の声だった。
ミナの母の表情が一瞬で変わった。
彼女は反射的にノアへ向かおうとした。
リサがノアを抱きしめる。
「ノア、ここにいて。お願い、戻ってきて」
ノアの瞳が揺れる。
「寒い……お母さん、海が……」
ミナの母が泣き崩れた。
「ほら」
彼女はルカを見る。
涙でぐしゃぐしゃになった顔だった。
「それでも、あの子は私をお母さんと呼んだ」
その言葉に、ルカの胸が痛んだ。
桟橋の上のすべてが、その一言に集まっていく。
十年分の祈り。
死んだ娘の声。
生きている少年の恐怖。
母でありたい人。
息子を守りたい人。
名を返したい海。
名を奪われたくない人。
ルカは、ゆっくりと息を吸った。
ここで逃げてはいけない。
優しい嘘を言ってはいけない。
でも、真実を刃にして渡してもいけない。
彼女は、ノアを見た。
ノアは泣いていた。
少女の声で母を呼びながら、少年の顔で泣いていた。
ルカは、母の前に膝をついた。
目線を合わせる。
そして、言った。
「呼んだのは、ミナさんの名です」
ミナの母の涙が止まる。
「でも、泣いているのはノアです」
その言葉は、桟橋に落ちた。
波の音が、一瞬遠のく。
母は、何も言わなかった。
ただ、ノアを見る。
今まで見ていたのと同じようで、少し違う目だった。
娘の帰還だけを見ようとしていた目が、はじめて、そこにいる少年の苦しみを見た。
ノアは胸を押さえている。
自分の名を失いかけた子どもの顔で、必死に息をしている。
唇が動く。
「ぼく……」
小さな声だった。
「ぼく、ノア……?」
リサがすぐに頷く。
「そう。あなたはノア」
ノアの目から涙がこぼれる。
「でも、寒いんだ。ここに、女の子がいる。ずっと泣いてる。帰りたいって。お母さんって」
ミナの母の体が震えた。
「ミナ……」
その名を呼びかけて、彼女は唇を噛んだ。
呼ばなかった。
かわりに、髪紐を胸に抱きしめた。
ルカは、静かに言った。
「ミナさんの名は、あなたのもとへ帰りたがっています」
母がルカを見る。
「でも同時に、ノアさんの中に残っていたい部分もあります。ノアさんを返してほしいという祈りが、まだノアさんの命に結ばれているからです」
「そんな……」
母は首を横に振る。
「そんなの、残酷よ」
「はい」
「帰ってきたのに、帰ってきていないなんて」
「はい」
「娘の名なのに、娘ではないなんて」
「はい」
ルカは否定しなかった。
それは残酷だった。
慰めようのない残酷さだった。
名は還る。
けれど、望んだ形で還るとは限らない。
今、その真実がミナの母の前に置かれている。
母は、しばらく声を出せなかった。
ただ、桃色の髪紐を見つめている。
「私は」
ようやく、彼女は言った。
「私は、あの子に謝りたかった」
ルカは黙って聞いた。
「海に近づかないでって、何度も言ったのに。あの日、私は叱ったの。貝殻を拾いに行きたいって言うあの子を、うるさいって。仕事が忙しいから後にしてって」
彼女の声が崩れる。
「それが最後だった。最後にちゃんと抱きしめていない。最後に歌ってあげてもいない。だから、還ってきたなら、今度こそって……」
母はノアを見た。
「今度こそ、抱きしめたいと思ったの」
リサは、何も言わなかった。
その目にも涙が浮かんでいる。
この場にいる誰も、ミナの母を責めきれなかった。
だが、ノアを差し出すこともできなかった。
ルカはそっと言った。
「抱きしめる相手を、間違えないでください」
母の目が揺れる。
「ミナさんの名は、たしかにここにあります。でも、ノアさんの体を娘さんの体として抱けば、ノアさんは自分の場所を失います」
「じゃあ、私はどうすればいいの」
「ミナさんの名に、帰ってきてくれてありがとうと伝えてください」
母は小さく息を呑む。
「でも、ノアさんを娘としてではなく、ミナさんが守った命として見てください」
その言葉に、母は崩れるように座り込んだ。
泣き声は出なかった。
ただ、肩が震えていた。
ノアが、彼女を見ていた。
ミナの記憶ではなく、ノア自身の目で。
「ごめんなさい」
ノアが言った。
リサが驚いて彼を見る。
ミナの母も顔を上げる。
「僕……覚えてない。でも、たぶん、助けてもらった。僕だけ戻って、ごめんなさい」
ミナの母の顔が歪んだ。
「あなたが謝ることじゃない」
声が、震えている。
「あなたが、謝ることじゃないわ」
ノアは泣いた。
今度は、少年の声で。
それでも、その涙の奥にミナの名が揺れているのを、ルカは感じた。
ミナの名も泣いている。
帰りたい。
でも、守った命を離したくない。
名の一部が、そんな矛盾を抱えて震えている。
セグラム神官が、静かに近づいてきた。
「ルカ=ネリス」
「はい」
「儀式の準備は整った」
海葬桟橋の先に、二つの名灯籠が置かれている。
青い灯籠。
白い灯籠。
その間に、空の灯籠。
モルカは桟橋の端で、鯨歯の札を手にして海を見ていた。彼は何も言わない。ただ、潮の入り方を聞いている。
ルカはミナの母へ手を差し出した。
「これから、名を分けます」
母は涙に濡れた顔でルカを見る。
「分けるって……ミナは、どうなるの」
「ミナさんの名のうち、あなたへ還るべき部分を見送ります」
「ノアくんの中に残るものは?」
「ノアさんを救った祈りとして残します」
「それは、娘を分けるということ?」
ルカは少しだけ目を伏せた。
「いいえ」
母は顔を上げる。
「ミナさんの名が、もともと二つの願いを抱えていたんです。あなたのもとへ帰りたいという願いと、ノアさんを生かしたいという願い。その二つを、無理に一つへ戻さないようにします」
母は、長く黙っていた。
そして、かすかに頷いた。
「私は……あの子を、帰してあげられるの?」
「はい」
「今度こそ?」
「はい」
ルカは答えた。
「ただし、帰ってくる形は、あなたが望んだものとは違うかもしれません」
母は涙を拭った。
「もう、わかっているわ」
それは、完全な納得ではなかった。
だが、最初の一歩だった。
彼女はノアへ向き直る。
唇が震えている。
それでも、ミナとは呼ばなかった。
「ノアくん」
その名を、初めて呼んだ。
青い灯籠の火が、細く、けれど確かに明るくなった。
ノアは驚いたように顔を上げる。
「はい」
ミナの母は、声を震わせながら言った。
「少しだけ、娘の名を預かっていてくれて、ありがとう」
ノアの瞳が揺れる。
胸元の貝殻護符が、青と白の光を同時に放った。
その光は、初めてぶつかり合わず、静かに並んで揺れた。
ルカは、海の方を見た。
満ち潮の時刻が近い。
今なら、名は動く。
今なら、まだ間に合う。
彼女は胸の内で自分の名を呼んだ。
ルカ。
今度は、届いた。
完全ではない。
けれど、聞こえた。
ルカは静かに息を吐き、桟橋の先へ歩き出した。
これから行うのは、奇跡ではない。
死者を蘇らせる儀式でもない。
誰かの願いをすべて叶えるものでもない。
ただ、絡まった名を、それぞれが泣ける場所へ戻すための儀式だった。




