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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第1話 還ってきた名は、別人の声で泣いた
11/19

第十節 ― 潮は名を分けて還す

 海葬桟橋の先に、三つの灯籠が並べられた。


 ひとつは、白い灯籠。


 ミナ=ベルカの潮紙と、夜明け貝、桃色の髪紐、欠けた真珠の耳飾りが結ばれている。十年前、海へ流されたはずの遺品。けれど還名儀式のために神殿へ戻され、今はもう一度、潮の前に置かれている。


 ひとつは、青い灯籠。


 ノア=リムの名札と、彼が幼いころから身につけていた貝殻護符が結ばれている。リサが何度も繕った銀糸は、潮に濡れて黒く光っていた。


 そして、中央には空の灯籠。


 名のない灯籠だった。


 火も、札も、遺品もない。


 ただ、白い骨組みだけが、満ち潮の前で静かに立っている。


 セグラム神官は、その空の灯籠を見て眉を寄せた。


「その灯籠は何のためだ」


 ルカは潮紙を広げながら答えた。


「まだ、どちらの名にも入れられないもののためです」


「神殿の還名儀式に、そのような灯籠はない」


「これは神殿の儀式ではありません」


 ルカは顔を上げた。


「名拾いの儀式です」


 その言葉に、桟橋にいた者たちが静かになった。


 神官見習いたちも、リサも、ミナの母も、モルカも、誰も口を挟まなかった。


 正式な還名儀式なら、手順は決まっている。


 神官が名を呼び、遺品を潮へ示し、名灯籠に火を入れ、還るべき名を家へ迎える。オルカ=ベルで何百年も続いてきた、死者の名を戻すための儀式。


 けれど今、必要なのはそれではない。


 ミナの名を、ノアから剥がすことではない。


 ノアの中に残ったミナの名を、ただ死者として海へ流すことでもない。


 ルカが行おうとしているのは、もっと危うく、もっと曖昧な作業だった。


 ミナの名のうち、遺族へ還るべきもの。


 そして、ノアの命に残るべきもの。


 その二つを、潮の前で分ける。


 切り裂くのではなく、ほどく。


 捨てるのではなく、それぞれの場所へ戻す。


 桟橋の下で、潮が静かに満ちていた。


 黒い水面には、月が映っている。だが、波が動くたび、月は細かく割れた。まるで一つの光が、いくつもの欠片に分かれても、なお同じ月であり続けることを、海が見せているようだった。


 ルカは、十年前の潮紙を中央に置いた。


 そこにはもう、乾いた文字しか見えない。


 ミナ=ベルカ。

 白珊瑚礁。

 同伴者なし。


 けれどルカは知っている。


 この紙は、濡れれば別の記録を浮かべる。


 人が書かなかったもの。


 潮が消さずに残したもの。


「モルカさん」


 ルカが呼ぶと、老いた鯨歌いは桟橋の端で鯨歯の札を握り直した。


「また底へ行くなよ」


「行きません」


「若い者の“行きません”ほど信用ならん」


 それでも、モルカは歌う準備をした。


 彼は桟橋の端に膝をつき、鯨歯の札を舌に乗せる。目を閉じ、海へ向かって低く息を吐いた。


 まだ歌は始まらない。


 けれど沖の鯨が、先に答えた。


 低く、深く、夜の海を震わせる声。


 その声に合わせて、吊るされた古い名札が鳴る。


 かた、かた、からん。


 ルカはノアへ向き直った。


「ノアさん」


 少年はリサに支えられながら顔を上げた。


 青白い顔。


 けれど、その目には先ほどより少しだけ焦点が戻っている。


「これから、十年前の潮をもう一度見ます」


 ノアの喉が動く。


「僕も?」


「はい。あなたの中にあるものだから」


 リサが不安そうにノアの肩を抱く。


「この子に、また苦しい思いをさせるんですか」


「苦しくないとは言えません」


 ルカは正直に言った。


「でも、ノアさん自身が思い出さなければ、名は他人の言葉で固まってしまいます。神殿の記録でも、町の噂でも、ミナさんのお母さんの願いでもなく、ノアさんの中に残っているものとして」


 リサは目を閉じた。


 それから、ノアの耳元で囁いた。


「無理なら、やめていい。あなたが戻ってくる方が大事だから」


 ノアは、小さく首を振った。


「見る」


 声は弱かったが、確かだった。


「僕も……知らなきゃいけない気がする」


 ミナの母が、髪紐を胸に抱きしめる。


 ルカは彼女にも視線を向けた。


「あなたにも、見届けてもらいます」


 母は頷いた。


「呼ばないわ」


 その声は震えていた。


「今は、呼ばない」


 ルカは深く頷いた。


 それだけで、青い灯籠の火が少し安定した。


 名は、声に揺れる。


 呼ぶことも、呼ばないことも、名に触れる行為だった。


 ルカは三つの灯籠の前に立つ。


 白い灯籠に、ミナの遺品。

 青い灯籠に、ノアの護符。

 空の灯籠に、十年前の潮紙。


 そして、足元に潮。


 ルカは胸元から自分の潮名札を取り出した。


 何も浮かばない、欠けた札。


 それを水に浸すつもりはなかった。


 ただ、左手に握る。


 自分の名を、潮へ持っていかれないために。


 他人の名を読むとき、自分の名が近づきすぎないように。


 ルカは胸の内で、自分の名を呼んだ。


 ルカ。


 少し遠い。


 けれど届く。


 届くなら、まだ大丈夫だ。


 彼女は右手を潮紙に触れさせた。


「ミナ=ベルカの名を、ここに」


 白い灯籠の火が入る。


 神官の火ではない。


 ミナの遺品に残っていた名の火だった。


 淡く、白く、涙のように揺れる。


「ノア=リムの名を、ここに」


 青い灯籠の火が強まる。


 リサが息を呑む。


 ノアは自分の胸元に手を当てた。


「そして、十年前の潮を、ここに」


 ルカは潮紙を持ち上げ、桟橋の下から満ちてきた潮へそっと浸した。


 文字が消える。


 乾いた記録がほどける。


 同伴者なし、という一文が、水に溶けてなくなる。


 かわりに、紙面に白珊瑚礁の線が浮かび始めた。


 同時に、モルカが歌い出した。


 低い鯨歌。


 今度の歌は、鯨歌堂で聞いたものより短く、鋭かった。深く潜るためではない。十年前の潮を呼び起こし、今の桟橋へ引き寄せるための歌。


 海が応える。


 足元の潮が、桟橋の板の隙間から吹き上がるように揺れた。


 ノアが呻いた。


「見える……」


 リサが支える手に力を込める。


「何が見えるの」


「白い珊瑚……月……水が引く」


 ノアの声が、だんだん幼くなる。


 十年前へ戻っているのだ。


 リサは泣きそうな顔になったが、名を呼ばなかった。


 ルカは潮紙の上へ意識を沈める。


 今度は、ひとりではない。


 モルカの鯨歌が支えになり、セグラム神官の灯籠が境を作り、リサの手がノアをこちら側へ繋ぎ止めている。


 ミナの母は、声を殺して祈っている。


 呼び戻す祈りではない。


 見届けるための祈り。


 それらが、ルカを深すぎる潮から少しだけ守っていた。


 潮紙の上に、二つの点が浮かぶ。


 少女。


 幼い子。


 幼い子が足を滑らせる。


 ノアの体が震えた。


「落ちた……僕、落ちたんだ」


「はい」


 ルカは言った。


「でも、戻ってきました」


「違う」


 ノアは目を見開いた。


 涙がこぼれる。


「戻ったんじゃない。戻された」


 白い灯籠が揺れる。


 ミナの母が、息を止めた。


 ノアの声が変わる。


 少女の記憶が、彼の口から溢れる。


「だめ。沈んじゃだめ。上に、戻って。息をして。こっちを見ないで。泣かないで」


 それは、ミナの声だった。


 だが、今度は母を呼んでいない。


 幼いノアへ向けられた声だった。


 ノアは両手で顔を覆う。


「僕、覚えてる。手が……あの子の手が、僕の背中を押した。痛いくらい強く。僕は水の上へ行った。でも、あの子は下へ……」


 青い灯籠と白い灯籠の火が、同時に伸びる。


 ルカは潮紙へ手をかざした。


「ミナさんの名」


 彼女は静かに呼ぶ。


「あなたは、ノアさんを返したかった」


 白い灯籠の火が震える。


「そして、家へ帰りたかった」


 ミナの母が、涙を流した。


 けれど、声は出さなかった。


「その二つの願いは、どちらも本物です」


 ルカは続ける。


「だから、どちらか一つにしません」


 潮が強く動いた。


 潮紙の上で、ミナの名がほどける。


 白い糸のような光が、ノアの青い名へ絡みついている。

 その糸の一部は、ノアの名の欠けた場所を支えていた。

 だが別の一部は、母の方へ伸び、家へ帰ろうとしている。


 ルカは、その境目を探した。


 間違えれば、ノアの名を裂く。


 間違えれば、ミナの名を沈める。


 指先が冷える。


 潮がルカの名まで引こうとする。


 胸の内で、また自分の名が遠のきかける。


 ルカ。


 彼女は強く、自分を呼んだ。


 ルカ。


 私はここにいる。


 名を拾うために。


 奪うためではなく。


 返すためでもなく。


 見届けるために。


 その瞬間、指先に境目が触れた。


 ミナの名の中にある、二つの祈り。


 ひとつは、帰りたいという祈り。


 母に歌を返したい。

 夜明け貝を返したい。

 最後に言えなかった言葉を返したい。


 もうひとつは、生きてほしいという祈り。


 この子を返して。

 この子の息を止めないで。

 私の名を使ってもいいから、岸へ戻して。


 ルカは、白い糸を切らなかった。


 ただ、潮に沿ってほどいた。


 ひとつを白い灯籠へ。


 ひとつを青い灯籠へ。


 空の灯籠が、ふいに燃えた。


 白でも青でもない、淡い真珠色の火だった。


 セグラム神官が息を呑む。


 モルカの歌が、さらに低くなる。


 空の灯籠の火が二つに割れた。


 ひとつは、白い灯籠へ向かう。


 ひとつは、青い灯籠へ向かう。


 火は細い尾を引きながら、夜の桟橋を渡った。


 白い火は、ミナの遺品に触れた。


 桃色の髪紐が淡く光る。


 夜明け貝の内側に、薄紫の光が浮かぶ。


 欠けた真珠の耳飾りが、小さな音を立てた。


 りん。


 それは、遠い日の貝鈴の音に似ていた。


 ミナの母が、両手で口元を覆う。


 声を出さないように。


 それでも、涙が止まらない。


 もうひとつの火は、ノアの胸元の護符へ向かった。


 貝殻護符の銀糸が光る。


 護符に浮かんでいた白い光が、青い光とぶつからず、ゆっくりと重なった。白は青を覆わない。青も白を拒まない。


 ただ、ひとつの小さな結び目になって、護符の奥へ沈んだ。


 ノアが大きく息を吸った。


 まるで、十年ぶりに本当に息をしたような音だった。


「僕……」


 リサが彼を抱きしめる。


「うん」


「僕、覚えてる」


 ノアは泣いていた。


 だが、その声は少年のものだった。


「ミナが、助けてくれた」


 その名を、彼は初めて自分の声で呼んだ。


 白い灯籠は揺れたが、ノアの名を奪わなかった。


「僕は、助けられた」


 ミナの母が崩れるように膝をついた。


 ノアは彼女を見た。


 胸元の護符を握りしめる。


「ごめんなさい」


 母は首を横に振った。


「謝らないで」


「でも、僕だけ……」


「謝らないで」


 彼女は泣きながら言った。


「ミナが、そう願ったのなら」


 白い灯籠の火が、ふわりと上がった。


 それは人の形にはならなかった。


 少女の姿にもならなかった。


 ただ、白い小さな火として、母の前に浮かぶ。


 髪紐が、その火に照らされて淡く揺れた。


 ミナの母は、震える手を伸ばした。


 触れようとはしない。


 ただ、手のひらを差し出す。


「ミナ」


 ルカは止めなかった。


 今度の呼び声は、ノアを引く声ではなかった。


 名を抱きしめて閉じ込める声でもなかった。


 見送るための声だった。


「帰ってきてくれて、ありがとう」


 白い火が、小さく揺れた。


 母の手のひらに、光が落ちる。


 それはすぐに消えず、夜明け貝の内側へゆっくり沈んでいった。


 白い灯籠が静かに燃える。


 青い灯籠もまた、静かに燃えている。


 二つの灯は、もう争っていなかった。


 ルカは潮紙を見た。


 紙面には、十年前の白珊瑚礁が浮かんでいた。

 少女と幼い子の点は、もう絡まっていない。


 少女の点は、白い灯籠の方へ。

 幼い子の点は、青い灯籠の方へ。

 その間には、細い白い線だけが残っている。


 それは、断たれた糸ではない。


 結ばれた祈りの跡だった。


 ミナの名は、完全に消えたのではない。


 母のもとへ還った名がある。


 そして、ノアの中に残った名もある。


 それはもう、ノアを侵食する名ではなかった。


 ノアを救った祈りとして、彼の命の奥に残るものだった。


 モルカの鯨歌が、ゆっくり終わった。


 沖の鯨が、最後に一度だけ低く鳴く。


 まるで、海がその分け前を認めたようだった。


 セグラム神官は、三つの灯籠の前に膝をついた。


 神殿の正式な儀式ではない。


 けれど彼は、祈りの姿勢を取った。


「潮神ネリュエよ」


 声は低く、疲れていた。


 だが、誠実だった。


「この名を、証しください」


 ルカは何も言わなかった。


 神が証すのか。


 海が証すのか。


 それとも、ここにいる人々がこれから生きていくことで証すのか。


 答えはまだわからない。


 だが、桟橋の下の潮は静かになっていた。


 ノアはリサに抱かれながら、胸元の護符を握っている。


 その表情にはまだ痛みが残っていた。

 けれど、自分の名を失う恐怖は少しだけ遠のいていた。


 ミナの母は、夜明け貝を胸に抱きしめている。


 その中には、白い火が小さく残っていた。


 娘そのものではない。


 けれど、偽物でもない。


 ミナが最後に海へ託した、帰りたいという祈りの名。


 ルカは桟橋の先に立ち、満ち潮を見た。


 潮は名を分けて還す。


 人が望むように、ひとつの答えへまとめてはくれない。


 けれど、それは必ずしも残酷だけではないのかもしれない。


 分かれたからこそ、母へ帰れた名がある。


 分かれたからこそ、少年の命に残れた祈りがある。


 ルカは胸元の潮名札を握った。


 そこにはまだ、自分の名の欠けた感触がある。


 でも今は、少しだけわかった気がした。


 名は、ひとつの場所だけに帰るとは限らない。


 失われた名も、沈んだ名も、時には分かれて、誰かを生かしながら、誰かのもとへ戻る。


 その夜、海葬桟橋の三つの灯籠は、夜明けまで燃え続けた。


 白い灯。


 青い灯。


 そして、その間で淡く揺れる真珠色の灯。


 それは、死者と生者のあいだに残された、祈りの色だった。

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