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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第1話 還ってきた名は、別人の声で泣いた
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第十一節 ― 別人の声で泣いた理由

 夜明け前、海葬桟橋の灯はまだ消えていなかった。


 白い灯籠。


 青い灯籠。


 そして、二つのあいだで揺れる真珠色の灯籠。


 三つの火は、潮風に吹かれても消えなかった。むしろ、波が桟橋の下をくぐるたび、互いの光を確かめ合うように静かに瞬いた。


 オルカ=ベルの町は、まだ眠っている。


 だが、神殿の前には人々が集まっていた。昨夜から噂を聞きつけた者たち、還名儀式の行方を知ろうとする者たち、そして、同じように還らぬ名を待ち続ける家の者たち。


 誰も大きな声を出さなかった。


 海葬都市の朝は、いつも静かだ。


 けれどその日の静けさは、いつもの弔いの静けさとは少し違っていた。


 何かが終わったあとの静けさ。


 そして、何かを受け入れなければならない朝の静けさだった。


 ノアは、桟橋の端に座っていた。


 リサが隣にいる。彼女は片手でノアの肩を支え、もう片方の手で、彼の冷えた指を包んでいた。昨夜の名分けのあと、ノアはしばらく眠った。深い眠りではなかったが、少なくとも、ミナの声で泣き続けることはなかった。


 目を覚ましたとき、彼は最初に自分の名を呼んだ。


 ノア。


 その声はかすれていた。


 けれど、確かに少年の声だった。


 リサはその場で泣き崩れた。名を取り戻した子を抱くように、ノアを抱きしめた。


 そして今、ノアの胸元には、例の貝殻護符が戻されている。


 護符は、以前とは少し変わっていた。


 表面に、細い白い線がひと筋だけ浮かんでいる。傷ではない。銀糸でもない。光の角度によって見えたり消えたりする、貝殻の内側に刻まれたような淡い線だった。


 ルカはそれを見ていた。


 青い名に、白い祈りが残っている。


 ノアの名を覆うものではない。


 ノアの名を消すものでもない。


 ただ、かつて彼が海から返されたことを示す、小さな証。


「これは、消えないんですか」


 ノアが尋ねた。


 声はまだ弱い。


 けれど、そこに混じる少女の響きは、もうほとんどなかった。


「たぶん、完全には」


 ルカは答えた。


「怖い?」


 ノアは、自分の護符を見下ろした。


 長い沈黙のあと、小さく首を振る。


「昨日までは怖かった。自分じゃない声が、胸の中で泣いていたから」


「うん」


「でも今は……泣いてない」


 ノアは護符を両手で包んだ。


「少し、あたたかい」


 ルカは頷いた。


「それは、ミナさんの名の全部ではありません」


「うん」


「ミナさんの魂でも、ミナさん本人でもありません」


「うん」


「でも、ミナさんが最後にあなたを助けようとした祈りです」


 ノアは目を伏せた。


 朝の薄明かりの中で、彼の睫毛が震える。


「僕、助けられたんですね」


「はい」


「覚えてなかった」


「忘れていたんじゃなくて、持てなかったんだと思います」


 ノアが顔を上げる。


 ルカは言葉を探しながら続けた。


「十年前のあなたは、とても小さくて、自分の名もまだ薄かった。そこへ、大きすぎる出来事が起きた。海に落ちて、死にかけて、誰かが代わりに沈んだ。その記憶を、あなたの名だけでは持てなかった」


 ノアの手が護符を握る。


「だから、ミナが持っていた?」


「ミナさんの名の一部が、持ってくれていたんだと思います」


 ノアは唇を噛んだ。


 泣きそうになる。


 けれど、今度の涙は、ミナのものではない。


 ノア自身の涙だった。


「僕のせいで」


「違います」


 リサがすぐに言った。


 強い声だった。


「あなたのせいじゃない」


 ノアは何も言わなかった。


 リサは少年を抱き寄せる。


「あなたは生きて戻されたの。誰かがそう願って、そうなったの。だから、あなたは生きていていい」


 ノアは、リサの胸に顔を押し当てた。


 ルカは、その二人から少し離れた。


 桟橋の向こうでは、ミナの母が白い灯籠の前に座っていた。


 夜明け貝を両手で抱きしめている。貝の内側には、昨夜落ちた白い火が、まだ淡く残っていた。


 それは、声ではない。


 姿でもない。


 けれど、確かに名の気配だった。


 母へ還った、ミナの名の一部。


 家に帰りたかった名。


 母に最後の歌を返したかった名。


 十年間、ノアの中で泣き続けていた名。


 ミナの母は、その光をずっと見ていた。


 泣いてはいなかった。


 涙はもう、夜のうちにすべて流してしまったように見えた。


 ルカが近づくと、彼女は顔を上げた。


「不思議ね」


 母は言った。


「娘が帰ってきたのに、私は娘を抱けない」


 ルカは隣に膝をついた。


「はい」


「でも、帰ってこなかったわけでもない」


「はい」


 母は夜明け貝を見つめる。


「残酷ね」


「はい」


「でも……昨日よりは、少しだけ、息ができる」


 ルカは黙って聞いた。


「十年間、私はあの子が暗い海の底で泣いていると思っていた。寒いと、帰りたいと、ずっと私を呼んでいるんじゃないかって」


 母の指が、貝殻の縁をなぞる。


「本当に泣いていたのね」


「はい」


「でも、海の底でひとりきりだったわけじゃない」


 ルカは、少しだけ目を伏せた。


 それは、慰めになるのかどうか、わからなかった。


 ミナは死んだ。


 その事実は変わらない。


 けれど、彼女の名は十年間、ただ沈んでいたわけではなかった。


 ノアの中で、泣いていた。


 ノアを生かす祈りとして、残っていた。


 家へ帰りたいと願いながら、同時に、助けた少年の中に残り続けていた。


 その矛盾を、潮はひとつにしなかった。


 ミナを完全に母へ返すこともしなかった。


 ノアから完全に引き剥がすこともしなかった。


 人間が望むように、きれいな答えへ整理しなかった。


 ただ、名を分けて還した。


 母は小さく笑った。


 悲しい笑みだった。


「潮は意地悪ね」


「そうかもしれません」


「でも、人間より正直なのかもしれない」


 ルカは海を見た。


 潮は、ただ満ちて、引く。


 奪い、返し、また奪う。


 そこに人の望む善悪はない。


 けれど、嘘をついているわけでもない。


「私は、あの子を娘として抱きしめたかった」


 母は言った。


「もう一度だけでよかった。あの子の髪に触れて、声を聞いて、寒かったねって言いたかった」


 彼女の声が震える。


「でも、それをあの子にしてしまったら、ノアくんを傷つけるのね」


「はい」


「わかったわ」


 その一言は、痛々しいほど静かだった。


 受け入れたというより、これ以上誰かを傷つけないために、自分の願いを抱え直した声だった。


 母は立ち上がった。


 夜明け貝を胸に抱いたまま、ノアの方へ歩いていく。


 リサが緊張したようにノアを支えた。


 けれど、ミナの母はもう、ノアを娘の名で呼ばなかった。


「ノアくん」


 その呼び方に、青い灯籠が穏やかに揺れた。


 ノアは顔を上げる。


「はい」


 母は、彼の前で膝をついた。


 かつて娘の声で自分を呼んだ少年。


 娘が命を賭けて返した少年。


 娘ではない少年。


 それでも、娘の最後の祈りを胸に残している少年。


 母は、震える手を伸ばしかけた。


 途中で止める。


「触れてもいい?」


 ノアは少し驚いたように瞬きをした。


 それから、リサを見る。


 リサは、ためらいながらも頷いた。


 ノアも小さく頷いた。


 母は、ノアの手にそっと触れた。


 抱きしめはしなかった。


 娘として抱かなかった。


 ただ、生きている少年の手を、両手で包んだ。


「生きていてくれて、ありがとう」


 その言葉が、朝の桟橋に落ちた。


 ノアの目から涙がこぼれた。


 リサも顔を伏せる。


 ルカは、胸の奥が静かに痛むのを感じた。


 それは、ミナに言うべき言葉でもあったのかもしれない。


 ミナが守った命に、母がようやく触れた。


 娘を取り戻したわけではない。


 失ったものは失ったまま。


 けれど、失われた名の一部が、誰かを生かしていたことを、彼女は受け取った。


 白い灯籠の火が、ふわりと揺れた。


 まるで、泣いていた名がようやく息をついたように。


 ノアは自分の胸元の護符を握った。


「僕は、ノアです」


 ルカは頷いた。


「はい」


「ノア=リム」


 その名を口にすると、青い灯籠がはっきりと燃えた。


 白い灯籠の火は、青い火を邪魔しなかった。


 ただ、少し離れたところで静かに揺れている。


 ノアは、自分の名をもう一度言った。


「ノア=リム」


 今度は、声が震えなかった。


 彼の名は戻った。


 完全に元通り、というわけではない。


 おそらく、もう以前と同じノアではいられない。


 潮名にも、ミナの響きが微かに残るだろう。


 海に出るとき、彼の名札には、青い文字の端に白い波紋が浮かぶかもしれない。


 人によっては、それを不吉と呼ぶかもしれない。


 死者の名を宿した子だと囁く者もいるかもしれない。


 けれど、ルカはそれを呪いとは呼びたくなかった。


 それは、救われた命の証だった。


 誰かが自分の名を差し出してまで、彼を岸へ押し戻した証。


 生きていていい、と海の底から結ばれた祈りの跡。


 セグラム神官が、桟橋の中央へ進み出た。


 町の人々が遠巻きに見ている。


 神官は、しばらく黙っていた。


 昨夜から何度も、彼は儀式の言葉を選ぼうとしていたのだろう。


 奇跡と言うべきか。


 異常と言うべきか。


 神殿の管理下に置くべきか。


 記録の誤りを認めるべきか。


 だが、今彼は、町の者たちへ向かって深く頭を下げた。


「昨夜、還名儀式において起きたことは、死者の蘇りではない」


 ざわめきが広がる。


 神官は声を張った。


「また、偽装でもない」


 町人たちは顔を見合わせる。


「十年前、ミナ=ベルカは一人で海へ落ちたのではなかった。彼女は、当時名も薄く漂着した幼い子を救おうとした。その子が、今のノア=リムである」


 空気が揺れた。


 リサがノアの肩を抱く。


 ミナの母は夜明け貝を胸に抱いたまま、目を閉じている。


「ミナ=ベルカの名は、完全には海へ沈まなかった。彼女が最後に託した祈りの名が、ノア=リムの命に残っていた。昨夜の還名儀式は、それを呼び起こした」


 セグラム神官は、一度言葉を切った。


 そして、白い灯籠と青い灯籠を見た。


「潮は、その名を分けて還した。ミナ=ベルカの家へ還る名と、ノア=リムの命に残る祈りとして」


 町人たちは黙っていた。


 誰もすぐには理解できなかっただろう。


 奇跡と言われた方が、簡単だった。


 偽装と言われた方が、怒りやすかった。


 けれど、セグラム神官は、どちらの言葉にも逃げなかった。


「神殿は、十年前の記録に欠落があったことを認める」


 その言葉に、見習いたちが息を呑んだ。


 町人たちもざわめいた。


 神官は続けた。


「だが、今からでも記録を改める。ミナ=ベルカは、ただ海に奪われた少女ではない。彼女は、名も持てぬほど弱っていた幼子を岸へ返した。その祈りは十年、ノア=リムの中で生き続けた」


 ノアが、小さく肩を震わせた。


 リサがその背を撫でる。


 ミナの母は、泣きながらも顔を上げた。


 自分の娘の名が、ようやく正しく呼ばれたからだ。


 蘇った者としてではなく。


 誰かを救った者として。


 沖で鯨が鳴いた。


 低く、長く。


 それは弔いの歌にも、祝福の歌にも聞こえた。


 モルカが桟橋の端で目を閉じている。


 彼は何も言わなかった。


 けれど、その沈黙が、鯨の声を受け止めているようだった。


 ルカは、三つの灯籠を見つめた。


 真珠色の灯籠は、少しずつ光を弱めていた。


 役目を終えたのだ。


 間に置かれていた名のない灯。


 どちらにも入れられなかったものを一時だけ預かり、分かれる場所を示した灯。


 その火が消えると、白い灯籠と青い灯籠だけが残った。


 白い火は、夜明け貝の中へ静かに沈み続けている。


 青い火は、ノアの胸元の護符と同じ調子で揺れている。


 ルカは、自分の潮名札に触れた。


 冷たさは少し引いていた。


 だが、欠けた感触はそのままだ。


 彼女は心の中で、自分の名を呼ぶ。


 ルカ。


 今朝は、ちゃんと届いた。


 それでも、その先は白く沈んでいる。


 いつか、自分の名もまた、どこかで分かれて還るのだろうか。


 誰かの中に残っているのだろうか。


 それとも、まだ海の底で待っているのだろうか。


 ルカはその問いを、今は胸の奥へしまった。


 この朝は、ミナとノアのものだった。


 別人の声で泣いた理由は、ようやくわかった。


 ミナが蘇ったからではない。


 ミナの名が、十年間、ノアの中で泣き続けていたからだ。


 家へ帰りたいと。


 でも、助けた少年を離したくないと。


 その矛盾を、潮は矛盾のまま抱いた。


 そして今、分けて還した。


 人間が望むような、ひとつの美しい答えではなく。


 それでも、誰かが生きていけるだけの形にして。


 朝日が昇りはじめる。


 オルカ=ベルの白い貝殻の階段が、薄桃色に染まっていく。


 名札が揺れる。


 名灯籠の火が、朝の光の中で少しずつ薄くなる。


 ミナの母は、ノアの手をそっと離した。


 そしてもう一度、静かに言った。


「生きていてくれて、ありがとう」


 ノアは泣きながら頷いた。


「はい」


 その返事は、はっきりとノアの声だった。

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