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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第1話 還ってきた名は、別人の声で泣いた
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第十二節 ― 名拾いの帰路

 オルカ=ベルの朝は、前の日より少しだけ軽かった。


 海葬都市から悲しみが消えたわけではない。


 白い貝殻の階段には、まだ夜の潮が残っている。海葬桟橋の古い名札は、風に揺れるたび小さく鳴り、還らぬ名を待つ家々の灯籠も、いつもと同じように軒先で白く乾いていた。


 ミナ=ベルカが生き返ったわけではない。


 十年前の別れが、なかったことになったわけでもない。


 けれど、彼女の名は、ようやく正しく泣く場所を得た。


 それだけで、町の空気は少し変わった。


 還名神殿では、セグラム神官が記録の書き直しを始めていた。


 乾いた潮紙には、まだ古い文字が残っている。


 同伴者なし。


 事故原因、潮の急変。


 けれど、その横に新しい記述が加えられる。


 ――同夜、白珊瑚礁にて名の薄き幼子を救おうとした痕跡あり。


 ――ミナ=ベルカの名の一部は、ノア=リムの命に祈りとして残存。


 ――還名は二分され、遺族へ帰る名と、生者の命に残る名として定着。


 神殿の記録としては、あまりに曖昧な言葉だった。


 けれど、セグラム神官はその曖昧さを消さなかった。


 奇跡とも書かなかった。


 偽装とも書かなかった。


 潮がそうした、とも書かなかった。


 ただ、見届けたことを、そのまま記した。


 それは、神官にとって小さくない敗北だったのかもしれない。


 同時に、ようやく記録が潮に追いついた瞬間でもあった。


 ノアは、朝のうちにリサと家へ戻った。


 神殿を出るとき、町の者たちは遠巻きに彼を見ていた。誰も、ミナとは呼ばなかった。呼びたそうな者はいた。恐れる者もいた。祈るように頭を下げる者もいた。


 ノアは、その視線を浴びながら、胸元の貝殻護符を握っていた。


 護符の内側には、淡い白い線が残っている。


 それは、死者の名に取り憑かれた印ではない。


 誰かに救われた命の証。


 そう呼べるようになるまでには、きっと時間がかかるだろう。


 それでもノアは、リサに支えられながら、自分の足で神殿の階段を下りた。


 その後ろ姿を、ミナの母は見送った。


 彼女はノアを抱きしめなかった。


 娘として呼ばなかった。


 ただ、夜明け貝を胸に抱き、彼の背中へ小さく頭を下げた。


 ルカは、その姿を見届けたあと、ナミル=レイの待つ港へ向かった。


 オルカ=ベルの港は、もう朝の仕事を始めている。


 葬送用の小舟を磨く職人。海底香を水盤に沈める香師。昨夜の噂を低い声で交わしながら、貝粉を量る商人たち。


 誰もが、事件の答えを完全に理解したわけではない。


 それでも、町は動き出していた。


 死者を見送り、生者を送り出す都市らしく。


 ナミル=レイの係留縄を解こうとしたとき、桟橋の影から声がした。


「もう行くのか」


 振り返ると、老いた鯨歌いが立っていた。


 モルカ=オルム。


 彼は潮布を肩に巻き、鯨歯の札を指先で弄んでいる。昨夜の歌で疲れているはずなのに、黒い片目だけは相変わらず海の底のように澄んでいた。


「はい。メルナ=レイへ戻ります」


「真珠港の浜は、今日も名札で忙しいだろうな」


「たぶん」


「名拾いは休めん」


「そうですね」


 ルカは小さく笑った。


 モルカは港の沖を見た。


 朝の海は穏やかだった。けれど、オルカ=ベルの海の底には、まだ歌われていない記憶が沈んでいる。白い階段。海底で鳴る鐘。底で待つ少年の影。


 それを思い出した瞬間、ルカの胸元の潮名札が、かすかに冷えた。


 モルカは、それに気づいたように片目を細める。


「名は、戻るとは限らん」


 唐突に、彼は言った。


「戻ったように見えて、誰かに残ることもある」


 ルカは黙って聞いた。


 老人の声は、鯨歌よりも乾いていた。けれど、そこには同じ深さがあった。


「そして、戻らぬように見えて、底で待っている名もある」


 潮風が吹く。


 ナミル=レイの帆が小さく鳴った。


 ルカは胸元に手を当てた。


「私の名のことですか」


「さてな」


 モルカは、少しだけ口元を歪めた。


「鯨はそこまで歌っておらん。だが、お前の名は軽すぎる。潮に浮く名ではない。沈んだ名だ」


「沈んだ名……」


「沈んだものは、なくなったとは限らん」


 モルカは桟橋の板を杖の先で叩いた。


「沈むことで、流されずに残るものもある」


 ルカは返事ができなかった。


 自分の潮名は、いつも途中で欠ける。


 水盤に浸しても、浮かぶのは「ルカ」の二音だけ。その先に続くはずの響きは、白く沈んだまま戻らない。


 これまでは、それをただ欠けているのだと思っていた。


 けれど、もし沈んでいるのだとしたら。


 どこに。


 誰が。


 何のために。


 モルカは、それ以上は語らなかった。


 ただ、海の方を見たまま低く言う。


「底の歌には、まだ触るな」


「白い階段の歌ですか」


「そうだ」


「でも、あれは今回の事件にも……」


「かすっただけだ」


 老人の声が、少しだけ鋭くなる。


「かすっただけで、少女の名と少年の命を十年絡ませた。底の歌そのものを起こせば、もっと大きなものが上がる」


 ルカは息を呑んだ。


「何が、上がるんですか」


 モルカは答えなかった。


 かわりに、遠く沖を見た。


「名拾い」


「はい」


「お前は名を拾う。だが、拾われる側になる日も来るかもしれん」


 その言葉を残し、モルカは背を向けた。


 白い貝殻の階段へ向かって、ゆっくり歩いていく。


 ルカはしばらく、その後ろ姿を見つめていた。


 やがて、ナミル=レイの縄を解く。


 帆を上げる。


 小さな船は、オルカ=ベルの桟橋を離れた。


 海葬都市が少しずつ遠ざかる。


 白い階段も、海葬桟橋も、鯨骨の鐘も、霧の中へ沈んでいく。


 沖へ出ると、風が変わった。


 南から北へ。


 メルナ=レイへ戻る潮だった。


 ルカは舵を握りながら、胸の中で自分の名を呼んだ。


 ルカ。


 その響きは、今朝は届く。


 だが、何かが違った。


 オルカ=ベルを離れ、鯨歌の響きが薄れていくにつれ、海の下から別の音が上がってきた。


 波の音ではない。


 鯨の声でもない。


 名に似た響きだった。


 ルカ。


 いや、違う。


 ルカに似ているが、ルカではない。


 ルカのあとに続くはずの、もうひとつの響き。


 潮名の欠けた先。


 それが一瞬だけ、帆の下を通り過ぎた。


 ルカは思わず舵から手を離しかけた。


「今の……」


 船の下で、潮が泡立つ。


 白い泡が一筋、船尾から沖へ伸びる。


 だが次の瞬間、海は沈黙した。


 何も聞こえない。


 ただ、風と帆と波の音だけ。


 ルカは胸元の潮名札を取り出した。


 札は濡れていない。


 文字も浮かんでいない。


 ただ、白く、静かに沈黙していた。


 ルカはそれを握りしめる。


 名は、戻るとは限らない。


 戻ったように見えて、誰かに残ることもある。


 戻らぬように見えて、底で待っている名もある。


 モルカの言葉が、潮風の中で繰り返される。


 ルカは空を見上げた。


 雲の切れ間から、朝の光が落ちてくる。


 メルナ=レイまでは、まだ少しかかる。


 彼女は舵を握り直した。


 今回の事件は終わった。


 ミナの名は分かれて還った。


 ノアは自分の名を取り戻した。


 それでいい。


 少なくとも今は、そう思うことにした。


 ナミル=レイは、真珠港へ向かって潮を進んだ。

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