終節 ― 海の底から来た名
メルナ=レイは、ルカが戻った日も賑やかだった。
真珠市では、朝から商人たちの声が飛び交っている。
「南海の黒真珠だよ、今日の潮で上がったばかり!」
「涙真珠、二粒で銀貨三枚! 名札飾りにもいいよ!」
「海底香はこっちだ。沈んだ船の祈りまで香る、いい品だよ!」
潮布を干す桟橋では、船乗りたちが布の乾き具合を確かめていた。風を含んだ潮布が、ぱたぱたと波のように鳴っている。
ネリュエの小神殿では、出航前の船乗りたちが潮名を預けていた。
水盤に札を浸すたび、水面に淡い文字が浮かび、すぐにほどける。
「今日の潮は北向きだ」
「なら、名札船は先に出せるな」
「星読船は夜まで待て。昼の海じゃ沈んだ名は見えない」
沈没船の噂を売る情報屋が、貝殻細工の屋台の陰で客を捕まえている。
「東の礁湖で古い鐘が見つかったって話、聞くかい? ただし銀貨一枚だ」
「鐘なんて昨日も聞いたぞ」
「昨日のは鯨鐘。今日のは沈没船の鐘さ。響きが違う」
浜では、名拾いたちが朝の漂着名札を乾かしていた。
濡れた木札を潮布の上に並べ、真珠粉を薄く振り、まだ読んではいけないものと、すぐに神殿へ届けるものを分けている。
ルカは、その作業に戻った。
オルカ=ベルで何が起きたかは、まだ詳しく話していない。
けれど港の人々は、彼女が南の海葬都市から戻ったことを知っていた。名拾いたちは詳しいことを聞きたがったが、ルカが「あとで」と言うと、それ以上は追わなかった。
名の事件は、急いで話すと形が歪む。
それを知っている者たちだった。
マリカが、いつものように貝菓子を持ってきた。
「また朝飯抜きでしょ」
「今日は食べました」
「船の上で干し貝を一枚かじっただけ、なんて言わないだろうね」
ルカは答えなかった。
マリカは呆れたようにため息をつき、貝菓子を二つ渡した。
「南の事件、終わったの?」
ルカは少し考えた。
終わった。
そう言っていいはずだった。
ノアは戻った。
ミナの名は分けられた。
神殿の記録も改められる。
少なくとも、あの事件としては終わった。
「終わりました」
ルカが答えると、マリカは頷いた。
「なら、今日は少し休みな」
「名札の分類が終わったら」
「あんたの“終わったら”は信用できないんだよ」
ルカは小さく笑った。
メルナ=レイの港は、いつものように騒がしい。
潮の匂い。
真珠市の呼び声。
潮名を預ける船乗りたちの低い祈り。
ネリュエの小神殿の鐘。
名札を乾かす潮布の音。
そのすべてが、ルカの日常だった。
オルカ=ベルの重い海から戻ってきたばかりの彼女には、その賑やかさが少し眩しかった。
けれど、心地よくもあった。
世界には、名を失う夜だけではない。
名を売り、名を呼び、名を預け、名を笑いながら使う朝もある。
ルカは名戻り浜で、漂着した名札を一枚拾った。
潮の匂いを嗅ぐ。
貝殻の震えを聞く。
塩の残り方を見る。
いつもの仕事。
いつもの浜。
いつもの自分。
胸の奥で、自分の名を呼ぶ。
ルカ。
ちゃんと届く。
そのことに、彼女は少しだけ安堵した。
その夜、ルカは久しぶりに早く眠った。
ナミル=レイの揺れも、鯨歌も、ノアの泣き声も、夢には出てこなかった。
ただ、深い海の底に白い階段がある気配だけが、眠りの端をかすめていった。
そして、夜明け前。
メルナ=レイの外れにある白灯台で、鐘が鳴った。
からん。
からん。
からん。
港の鐘ではない。
神殿の朝鐘でもない。
白灯台の漂着鐘だった。
本来、その鐘は名札や遺品が流れ着いたときに鳴らされる。潮が危険な名を運んできたとき、あるいは神殿へすぐ届けるべきものが浜へ上がったとき、灯台主が鳴らす鐘である。
その音を聞いた瞬間、ルカは目を覚ました。
まだ空は暗い。
窓の外には、青白い夜明け前の光が滲んでいる。
ルカは上着を掴み、部屋を飛び出した。
港はまだ眠っていた。
真珠市の天幕は閉じられ、潮布の桟橋にも人影はない。ネリュエの小神殿の灯だけが、白く小さく揺れている。
ルカは名戻り浜を抜け、白灯台へ向かった。
白灯台は、メルナ=レイの外れ、真珠礁の上に建っている。
昼間は白い塔に見えるが、夜明け前には海と空のあいだに立つ骨のようだった。灯台の根元には、漂着物を調べるための小さな浜がある。
そこに、人影があった。
最初、ルカは名札かと思った。
潮に濡れた白いものが、浜に横たわっている。
だが違った。
少年だった。
年は、ノアと同じくらいだろうか。
細い体。濡れた髪。閉じた瞼。
海水に浸かっていたはずなのに、溺れた様子がない。唇は青くなく、胸もかすかに上下している。眠っているようにも見えた。
身につけている服は、ルカの知るどの港のものとも違った。
古い祭服のようだった。
薄い布が幾重にも重なり、ところどころに貝殻片と緑青色の金具が縫い込まれている。袖や裾には、海図の線に似た刺繍が走っていた。
海底神殿の祭服。
ルカは、なぜかそう思った。
見たことはない。
けれど、そうとしか思えなかった。
少年の胸元には、割れた潮名札の欠片があった。
貝殻でも、木でも、骨でもない。
深海の石のように黒く、内側に青緑の光を含んでいる。そこに文字が浮かんでいるが、読めない。
ルカは膝をつき、少年の名を読もうとした。
まず、匂い。
塩。
深すぎる塩。
普通の海水ではない。太陽を知らない水の匂い。
次に、震え。
潮名札の欠片は、ほとんど震えなかった。
死んでいるのではない。
重すぎるのだ。
名が深すぎて、表面まで震えが届かない。
ルカは息を呑んだ。
読めない。
名がないのではない。
深すぎる。
まるで、海そのものの底に沈んでいる名を、指先だけで拾おうとしているようだった。
「上がってきたか」
背後から声がした。
ルカは振り返った。
白灯台の根元に、男が立っていた。
いつからそこにいたのかわからない。
夜明け前の薄明かりの中で、その姿は灯台の影と重なって見えた。
灯台主。
そう呼ぶには、どこか整いすぎていた。
古びた灯台守の外套をまとっているのに、立ち方は妙に優雅で、片手には細い灯火杖を持っている。顔は若くも老いても見えず、笑っているようで、笑っていない。目だけが、こちらの驚きも潮の動きもすべて見透かしているようだった。
「ずいぶん長く、沈んでいたね」
男は、浜に横たわる少年を見下ろしてそう言った。
ルカは立ち上がる。
「あなた、この子を知っているの?」
男はゆっくりと目を細めた。
「知っているとも」
声は穏やかだった。
けれど、波打ち際の温度が少し下がったような気がした。
「けれど、まだ名では呼べない」
ルカは少年を見る。
胸元の潮名札の欠片が、青緑にかすかに光る。
「どういう意味?」
男は微笑んだ。
「その子の名は、海の底にある」
ルカの胸元の潮名札が、冷えた。
白い階段。
海底で鳴る鐘。
底で待っている少年。
名を拾う子を呼ぶ声。
すべてが一瞬で繋がりそうになり、けれどまだ形にはならない。
「あなたは……」
ルカが問いかけようとしたとき、男は軽く帽子の縁に触れた。
「白灯台の灯台主、とでも呼んでおくといい」
「名前は?」
「エル=ネフリド」
その名は、潮風に乗って不思議なほど軽く響いた。
軽すぎた。
まるで本当の重さを、どこか別の場所に隠している名だった。
ルカはその名を胸の中で繰り返さなかった。
直感的に、そうしてはいけないと思った。
そのとき、浜に横たわる少年が、かすかに動いた。
ルカはすぐに膝をつく。
少年の瞼が震える。
薄く開いた瞳は、深い青緑だった。
海底の光のような色。
少年は、ルカを見た。
初めて会ったはずなのに、その目はどこか懐かしそうだった。
唇が動く。
声は、波に消えそうなほど弱かった。
「君の名も……」
ルカの息が止まる。
少年は、かすかに続けた。
「まだ、沈んでいる」
白灯台の鐘が、最後に一度だけ鳴った。
からん。
夜明け前のメルナ=レイで、潮が静かに引いていく。
ルカは少年を見つめたまま、動けなかった。
彼の名は、まだ読めない。
けれど、わかった。
この少年は、ただの漂着者ではない。
海の底から来た名。
そして、ルカ自身の沈んだ名へ続く、最初の波だった。




