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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第1話 還ってきた名は、別人の声で泣いた
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第七節 ― 鯨歌堂

 鯨歌堂は、海葬桟橋のさらに先にあった。


 そこへ続く道は、道というより、海の上に置かれた細い骨だった。白い鯨骨を敷き、貝殻石で繋ぎ、潮が満ちれば半分沈む。昼のうちは歩けるが、夕刻を過ぎると波が膝元まで上がり、夜には完全に海へ呑まれる。


 ルカとセグラム神官が辿り着いたとき、潮はすでに満ちはじめていた。


 足元の鯨骨の隙間を、黒い水が行き来している。波が寄せるたび、骨道はかすかに鳴った。乾いた楽器のような音だった。


 鯨歌堂は、湾の外れに建っていた。


 屋根は低く、半分は岩に、半分は海に差し出されている。壁には扉がなく、海へ向いた大きな口だけが開いていた。堂内には祭壇も椅子もない。ただ、中央に鯨骨で作られた円座があり、その周囲に古い名札が吊るされている。


 風が吹くと、名札が触れ合って鳴った。


 かた、かた、からん。


 その音は、言葉になる前の声に似ていた。


「遅い」


 堂の奥から、低い声がした。


 声の主は、円座のそばに座っていた。


 年老いた男だった。


 背は曲がり、髪は潮に焼けて真っ白になっている。顔には深い皺が刻まれ、片目は白く濁っていた。だが、もう片方の目だけは、夜の海のように黒く澄んでいる。


 肩には、古い潮布が巻かれていた。


 布の端には、鯨の歯で作った小さな札がいくつも結ばれている。札には文字がない。おそらく、彼にとって記録は文字ではなく、音なのだ。


「モルカ=オルム」


 セグラム神官が名を呼んだ。


 老人は鼻で笑った。


「神官がわしの名を呼ぶと、いつも紙の匂いがする」


「今日は紙だけでは足りない」


「ようやく気づいたか」


 モルカはゆっくりと顔を上げた。


 黒い片目が、ルカを見る。


「そっちが、真珠港の名拾いか」


「ルカ=ネリスです」


「陸の名だな」


「はい」


「潮の名は?」


 ルカは少しだけ黙った。


 セグラム神官がこちらを見る気配がした。


「欠けています」


 ルカが答えると、モルカは笑わなかった。


 ただ、潮の音を聞くように、少し首を傾けた。


「なるほど。だから呼ばれたか」


「誰にですか」


「海に決まっている」


 老人はそれ以上言わなかった。


 ルカも追わなかった。


 ここへ来たのは、自分の名の話をするためではない。


「十年前の海を聞きに来ました」


 ルカは言った。


「ミナ=ベルカと、名の薄い幼い子どもの事故について」


 モルカの黒い目が、わずかに細くなる。


「神殿の紙には、なんと書いてあった」


「ミナ=ベルカは一人で海に落ちた、と」


 老人は、ふっと息を吐いた。


 笑ったようにも、嘆いたようにも聞こえた。


「紙は乾くと嘘をつく」


 セグラム神官が顔を強張らせた。


「記録を侮辱するな」


「侮辱ではない。紙の性質を言っただけだ。紙は乾く。乾けば、濡れていたものを忘れる。人も同じだ」


 モルカは鯨骨の円座を指で叩いた。


 こん、と低い音が鳴る。


「鯨は乾かん。だから覚えている」


「十年前のその夜を、鯨は歌えますか」


 ルカが尋ねると、モルカは海の方を見た。


 湾はすでに夕闇に沈みはじめていた。


 空にはまだ星はない。けれど、海は空より先に暗くなっている。湾の外側で、水面が大きく盛り上がった。


 鯨の背だった。


 遠く、ゆっくりと黒い影が動く。


「今夜なら聞こえる」


 モルカは言った。


「昨夜、鯨鐘が勝手に鳴った。十年黙っていた名が、ようやく喉に上がってきたんだろう」


「喉に?」


「鯨歌とは、海の喉だ」


 老人は立ち上がった。


 その動作は遅かったが、足元は不思議と揺れない。潮が骨道を洗いはじめているのに、彼はまるで陸に立っているようだった。


「ただし、見えると思うな。歌は絵ではない。歌は、切れた網だ。そこに残った鱗や潮の匂いから、魚の形を思い出すしかない」


「わかっています」


「わかっていない者ほど、そう言う」


 モルカはそう言って、ルカに円座の内側へ入るよう手招きした。


 セグラム神官も一歩進もうとしたが、老人は手を上げて止めた。


「神官は外だ」


「なぜだ」


「お前は、聞こえたものをすぐ記録にしようとする。今夜の歌には邪魔だ」


 セグラム神官の顔が険しくなる。


 だが、反論はしなかった。


 彼も、ここではモルカの領分だと知っているのだろう。


「ルカ=ネリス」


 モルカが言った。


「座れ。名を軽くしろ。陸のことを忘れろ。ここで聞くのは、誰が正しいかではない。海が何を覚えているかだ」


 ルカは円座の内側へ座った。


 骨は冷たかった。


 足元の水が、ゆっくりと円座の縁まで上がってくる。海底香はない。灯籠もない。あるのは、暗くなっていく湾と、鯨骨に囲まれた静かな空間だけだった。


 モルカは、鯨歯の札をひとつ外した。


 文字のない札。


 それを舌の上に乗せ、目を閉じる。


 そして、歌いはじめた。


 歌とは言っても、人の歌ではなかった。


 言葉はない。


 低く、喉の奥で震える音。波が岩の内側を通るような音。長く引き伸ばされた息が、骨と水を震わせる。


 最初、ルカにはただの低音にしか聞こえなかった。


 だが、やがて音の中に、別の音が混じりはじめる。


 潮。


 貝鈴。


 子どもの息。


 遠くの笑い声。


 そして、静けさ。


 嵐ではなかった。


 十年前の夜は、荒れていなかった。


 そこにあったのは、むしろ不自然なほど穏やかな海だった。波は低く、風は弱く、空には薄い月が出ている。白珊瑚礁のあたりだけが、静かに乱れていた。


 潮が、音もなく向きを変えている。


 押していた水が、急に引く。


 引いた水が、横から戻る。


 子どもなら、足を取られる。


 ルカの膝のあたりまで上がった潮が、冷たく震えた。


 歌の中で、幼い足音がした。


 ぱしゃ、ぱしゃ、と浅瀬を歩く音。


 名の薄い子ども。


 まだノアとは呼ばれていない。


 自分の名をうまく持てない幼い子。


 その子は、白珊瑚礁の浅瀬に立っていた。


 なぜそこにいたのかは、歌からはわからない。


 迷い込んだのか。

 誰かを追ったのか。

 潮に呼ばれたのか。


 ただ、その子が笑っていないことだけはわかった。


 不安そうに、海を見ている。


 次に、少女の声がした。


 ミナ=ベルカ。


 名前が歌われたわけではない。けれど、ルカにはそれがミナだとわかった。貝鈴のような軽い足音。夜明け貝を拾う指先。母に叱られたとき、言い訳を探す前に歌を口ずさむ癖。


 断片。


 小さな断片だけが、音の中に散っている。


 少女は、幼い子に気づいた。


 危ない、と言ったのかもしれない。


 戻って、と叫んだのかもしれない。


 その言葉は、歌の中では泡になって弾けた。


 潮が引いた。


 幼い子の足元が消える。


 水が膝を越え、腰を越え、体を攫う。


 声が出ない。


 名が薄いからか。


 恐怖で喉が閉じたからか。


 幼い子は、海へ落ちた。


 ルカは思わず息を呑んだ。


 円座の水が胸元まで来たような錯覚がした。


 実際には、潮はまだ足首の高さにしかない。けれど歌の中では、もう海の中だった。


 冷たい。


 暗い。


 泡が上へ逃げる。


 月の光が水面で割れる。


 幼い手が、水を掴もうとする。


 届かない。


 そのとき、別の手が伸びた。


 ミナの手。


 細くて、必死で、まだ子どもの手。


 彼女は幼い子の腕を掴んだ。


 自分も足を取られている。


 潮は静かに、しかし強く、ふたりを沖へ引いていた。


 嵐のような乱暴さはない。


 だからこそ、怖い。


 海は怒っているのではない。


 ただ、流。


 海は怒っているのではない。


 ただ、流れを変えただけ。


 人の命も、名も、同じ潮の中の軽いものとして扱っている。


 ミナは、幼い子を抱えようとした。


 だが、抱えたままでは戻れない。


 歌が低く沈む。


 水の中で、少女の息が切れる。


 幼い子の体が、ぐったりと重くなる。


 そのとき、ミナは何かを決めた。


 ルカには、それが映像として見えたわけではない。


 ただ、歌の中で、少女の震えが止まった。


 恐怖が消えたわけではない。


 恐怖ごと、決めたのだ。


 ミナは幼い子の背を押した。


 上へ。


 岸へ。


 戻って。


 潮の流れに逆らうのではなく、一瞬だけ変わった戻り潮にその子を乗せる。小さな体が、泡に包まれて上へ浮かぶ。


 代わりに、ミナの体が沈んだ。


 潮布を握る手。


 冷たさで動かなくなる指。


 髪紐が水の中でほどける感覚。


 母の歌を思い出そうとする声。


 ルカの胸が痛んだ。


 ミナは、帰りたかった。


 死にたかったわけではない。


 家へ帰りたかった。


 母に会いたかった。


 もう一度、窓辺の貝鈴の音を聞きたかった。


 それでも、彼女は幼い子を押し戻した。


 歌の中で、言葉が生まれた。


 はじめは泡のように曖昧だった。


 けれど、次第に形を持つ。


 ――返して。


 それは、神に向けた祈りではなかった。


 海へ投げた言葉だった。


 潮へ。


 水へ。


 自分を呑み込むものへ。


 ――この子を、返して。


 ミナの名が、そこで揺れた。


 ルカはそれを感じた。


 名とは、ただ呼ばれるための音ではない。


 誰かが誰かを呼ぶ力。

 帰る場所を指す灯。

 自分が自分であるための輪郭。


 ミナはその輪郭を、潮へ差し出していた。


 ――わたしの名は、いらないから。


 歌が、深く沈んだ。


 モルカの喉が震える。


 円座の鯨骨が低く鳴る。


 ルカの胸元で、潮名札がひどく冷たくなった。


 ――この子を返して。


 その祈りが、海に触れた。


 潮は、祈りを聞いた。


 ただし、人の願いどおりにではない。


 海は幼い子を返した。


 岸へ。


 浜へ。


 生者の側へ。


 だが、ミナの名は完全には沈まなかった。


 彼女が差し出した名の一部が、幼い子の命に絡みついた。

 沈みかけた名と、戻された命。

 そのあいだに、白い糸のようなものが結ばれる。


 それは祝福にも見えた。


 呪いにも見えた。


 あるいは、どちらでもなかった。


 名が、命を引き留めただけ。


 潮はそれを正しいとも間違いとも言わなかった。


 ただ、そうなった。


 歌はさらに深く潜ろうとした。


 白い階段。


 海底で鳴る鐘。


 誰かが待っている気配。


 ルカは、その奥へ引かれかけた。


 だが、次の瞬間、モルカが鯨歯の札を噛みしめる音がした。


 ぱきり。


 歌が途切れた。


 ルカは大きく息を吸った。


 鯨歌堂に戻ってくる。


 夜になっていた。


 いつの間にか、空には星が出ている。潮は円座の縁まで満ち、ルカの足首を冷たく濡らしていた。堂の外では、黒い海が静かに揺れている。


 遠くで、鯨がもう一度鳴いた。


 今度は短い声だった。


 まるで、これ以上はまだ早い、と言っているようだった。


 モルカは鯨歯の欠片を手のひらに吐き出し、深く息をした。


 老人の顔色は悪かった。額には汗が浮かんでいる。


「今の奥は、聞くな」


 彼は低く言った。


「白い階段のことですか」


 ルカが尋ねると、モルカの片目が鋭くなる。


「聞いたのか」


「少しだけ」


「なら、忘れろ」


「できません」


「なら、今は触るな」


 モルカは、折れた鯨歯の札を握りしめた。


「十年前の事故は、その階段の歌にかすった。だが、今必要なのはそこではない。少女と少年の名をほどくことだ。底の歌まで起こせば、戻れなくなる」


 堂の外で待っていたセグラム神官が、濡れた骨道を渡って近づいてきた。


「何が聞こえた」


 モルカは答えなかった。


 代わりに、ルカを見た。


 ルカはゆっくりと立ち上がった。


 足が少し震えている。


 歌の中で海へ沈んだ感覚が、まだ体に残っていた。


「ミナさんは、一人で落ちたのではありません」


 ルカは言った。


「ノアさんを助けようとしました」


 セグラム神官は目を閉じた。


 すでに潮紙で見たことだ。


 だが、鯨歌で聞いた今、それは痕跡ではなく、記憶になった。


「彼女は、ノアさんを押し戻しました」


 ルカは続けた。


「その代わりに、自分が沈んだ」


 夜風が吹き、鯨歌堂の名札が鳴る。


 からん、からん。


 小さな弔鐘のようだった。


「最後に、ミナさんは祈りました。『わたしの名はいらないから、この子を返して』と」


 セグラム神官の顔が歪んだ。


 モルカは海を見ている。


 ルカは、自分の胸元に手を当てた。


 潮名札は、まだ冷たい。


「その祈りのせいで、ミナさんの名は完全には海へ沈まなかったんです。名の一部が、ノアさんの命に絡みついた。十年間、ずっと」


「だから、昨夜の還名儀式で呼び起こされた」


 セグラム神官が低く言った。


「はい」


「神殿がミナ=ベルカの名を呼んだことで、少年の中に残っていた名の欠片が応えた」


「そうだと思います」


 セグラム神官は何かを言おうとした。


 だが、声にならなかった。


 十年前の記録の欠落。


 昨夜の儀式。


 今苦しんでいる少年。


 死んだ娘が戻ったと信じかけた母。


 それらが、ひとつの線で繋がってしまった。


 モルカが、静かに言った。


「神殿は、少女を一人で死なせたことにした。海は、そう覚えていなかった。それだけの話だ」


「それだけで済む話ではない」


 セグラム神官の声には、苦痛があった。


「済まんだろうな」


 モルカは冷たくも優しくもない声で言った。


「だが、済まん話でも聞くしかない。それが名を預かるということだ」


 ルカは、海の方を見た。


 十年前、ミナが沈んだ海。


 ノアが戻された海。


 そして、いまも名を抱え続けている海。


 潮は人の祈りを聞く。


 けれど、人の願った形で答えるとは限らない。


 ミナはノアを返してほしいと願った。


 海はノアを返した。


 その代わり、ミナの名をノアの命に結びつけた。


 それは残酷だった。


 けれど、完全な拒絶ではなかった。


 ミナの名は十年間、ノアを生かす側にあったのかもしれない。


 ならば、無理に切り離せば、ノアの名だけでなく、彼の命の記録までも傷つく。


 ルカは深く息を吸った。


 やるべきことが、少しだけ見えた。


 ミナの名を、ノアから剥がすのではない。


 ミナの名がどの部分でノアを支え、どの部分で母のもとへ帰ろうとしているのかを見極める。


 そして、分ける。


 潮が十年前に結んだ名を、壊さずにほどく。


「戻りましょう」


 ルカは言った。


「ノアさんの名が、また揺れているはずです」


 モルカが片目を細める。


「わかるのか」


「はい」


 ルカは、自分でも少し驚いていた。


 遠く神殿の方から、青い灯籠の火が弱まる気配がした。実際に見えているわけではない。けれど、胸の奥にある名の感覚が、そちらへ引かれている。


 ノアの名が疲れている。


 ミナの名が、母の声を求めている。


 そして町の噂が、またそれを揺らしている。


「急ぎます」


 ルカは骨道へ足を踏み出した。


 潮はもう高い。


 足元に冷たい波が絡みつく。


 後ろで、モルカが言った。


「名拾い」


 ルカは振り返る。


 老人は、鯨歌堂の暗がりに立っていた。


「少女の名は、死んでいない。だが、生きてもいない。そこを間違えるな」


「はい」


「少年の名は、欠けている。だが、空っぽではない。そこも間違えるな」


 ルカは頷いた。


「わかっています」


「本当にわかるのは、痛いぞ」


 モルカの声は、潮の音に半分溶けていた。


「名を分けるというのは、誰かに、戻らないものを認めさせることだ」


 ルカは答えられなかった。


 ただ、胸元の潮名札に手を添える。


 自分の欠けた名が、冷たいまま沈黙している。


 戻らないもの。


 認めること。


 その言葉は、彼女自身にも刺さった。


 けれど今は、ノアのもとへ戻らなければならない。


 ルカはセグラム神官とともに、満ち潮の骨道を急いだ。


 背後で、鯨歌堂の名札が鳴っている。


 十年前の少女の祈りを、まだ覚えているように。

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