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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第8話 祈魚は、神ではない名を運んだ
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第二節 ― 返したものが道になる

 透明な祈魚は、ルカの掌のすぐ下にいた。


 指を閉じれば捕まえられる。本当に、それだけの距離だった。ウェル=メリアの海水は淡く光り、魚の輪郭を薄い銀色に浮かび上がらせている。胸のあたりにある二つの光が震えるたび、ルカの身体も応えた。


 胸の奥に、第一の一音。


 呼吸の底に、第二の一音。


 まったく同じではない。けれど近い。あまりにも近いからこそ、欲しかった。


 この魚を連れて帰れば、何度でも確かめられる。メルナ=レイの神殿で調べられる。もしかしたら二つの先まで聞けるかもしれない。三つ目、四つ目、それより先も。長いあいだ探してきた名前へ、今まででいちばん近づけるかもしれない。


 ルカの指先が、水の中でわずかに曲がった。


「エルン」


「うん」


 少年はすぐ隣にいた。ルカは魚から目を離せないまま訊く。


「どうしたらいいと思う?」


 返事がない。


 少し待った。


「エルン?」


「いる」


「それは分かってる」


 横目で見ると、エルンも透明な祈魚を見ていた。いつもの、何を考えているのか分かりにくい顔ではない。何か言いたいことがある。それでも、わざと口にしない。そんな顔だった。


「捕まえたら、私たちも帰れなくなると思う?」


「分からない」


「この魚、本当に私の名前かもしれないよ」


「うん」


「違うかもしれないけど」


「うん」


「調べないと分からない」


「うん」


「……それだけ?」


 自分でも分かるくらい、声が尖った。


 エルンなら、ルカには見えないものが見える。海の下へ沈んだ道も、残響も、古い記録も読める。だから、こういう時くらい答えを教えてくれてもいいはずなのに。


「エルンはどう思うの?」


「思ってることはある」


「だったら言って」


「言わない」


 ルカは顔を上げた。


「なんで?」


 エルンはすぐには答えなかった。


 巡礼船の方から、また声が聞こえる。


「潮が変わるよ」


 船長の母親の声だった。続いて、夏祭りの歌。沈んだ故郷を持つ女性が、水鉢を抱えたままじっと耳を澄ませている。捕まえられた祈魚の弱い光が、生簀の中で揺れていた。


「僕が言ったら」


 エルンがようやく口を開く。


「ルカは、僕が正しいと思った方を選ぶかもしれない」


「だって、エルンの方が見えてることだってあるでしょ」


「ある」


「だったら――」


「でも」


 エルンは透明な魚を見た。


「ルカの名前かもしれない」


 そこで、ルカの言葉が止まった。


「僕のじゃない」


 静かな声だった。


「だから、ルカが決めて」


 捕まえるな、とも。


 逃がせ、とも。


 エルンは言わなかった。


 ルカは眉を寄せる。


「……助けてって言ってるのに」


「手伝うよ」


「じゃあ教えてよ」


「それは違う」


「何が?」


「僕が決めることになるから」


 ルカはしばらくエルンを睨んでいた。


 彼は視線を逸らさない。


 正しいことを言っている。たぶん。


 だから余計に腹が立った。


「ずるい」


「うん」


「そこは否定して」


「でも、決めるのはルカ」


「……ほんと、ずるい」


 結局、そこへ戻る。


 ルカは唇を噛み、もう一度祈魚を見た。


 魚は逃げない。待っているようにさえ見える。


 それが、つらかった。


 ヴァルカには言えた。止めれば届かない。潮を止めることは守ることではない。名を閉じ込めれば、その名が行くべきところへ行けなくなる。


 あの時は、それを止めようとしていたのが他人だった。失うものも、自分の名前ではなかった。


 今は違う。


 この魚を放したら、二度と会えないかもしれない。これが本当に自分の失った名へ続くものだったとしても、次にどこへ行くのか、誰のところへ渡るのか、もう二度と分からなくなるかもしれない。


「……嫌だな」


 ルカは正直に言った。


 エルンは何も言わない。


「逃がしたくない」


 指先が魚へ近づく。


 透明な鰭が水を揺らし、ほんの一瞬、ルカの指へ触れた。


 体温は分からなかった。魚も海も、同じ温度だった。


 それでも、その瞬間。


 胸の奥で第一の一音がはっきり鳴った。呼吸が変わり、第二の一音が肺の底へ戻ってくる。


「……ほしい」


 声に出た。


 小さな、誰に聞かせるつもりもない声だった。


「これ、ほしい」


 名拾いだからではない。


 潮名の航海士だからでもない。


 自分の名前を失った一人の少女として、知りたかった。誰だったのか。誰に呼ばれていたのか。どこへ帰るはずだったのか。どうして今の名前で生きているのか。


 目の前に、その手掛かりがある。


 なら、手に入れたい。失いたくない。


 それは間違いなく、自分の欲だった。


 ルカはその欲を否定しなかった。


 欲しい。


 今も。


 それでも、彼女はゆっくりと指を開いた。


「……行って」


 透明な祈魚が揺れる。


 すぐには動かなかった。


「捕まえないから」


 ルカは水の中から手を引き、魚を囲もうとしていた指を一つずつ離していく。


「私の名前だったとしても……」


 そこで喉が詰まった。


 言いたくなかった。


 けれど言わなければ、また手を伸ばしてしまいそうだった。


「今は、持って帰らない」


 いらないわけではない。欲しくなくなったわけでも、諦めたわけでもなかった。


「また会えるかどうかも、分からないけど」


 水滴が指先から落ちる。


 ルカは祈魚を見つめた。


「あなたが何かを運んでる途中なら、私のところで止めない」


 胸が痛んだ。


 魚の尾が一度、小さく動いた。


 次の瞬間、透明な祈魚は身を翻した。


「あ」


 銀色の輪郭が、水の中を伸びていく。速い。魚はナミル=レイを離れ、無数の祈魚の光へ紛れた。


 すぐに、どれがそうだったのか分からなくなった。


「……行っちゃった」


 ルカの手だけが、水面の上へ残った。


 何も起きなかった。


 光の柱も、新しい潮路も、胸へ落ちてくる新しい音もない。ウェル=メリアはさっきまでと変わらず、水は光り、魚は泳ぎ、風も同じように吹いている。巡礼船からは、まだ母の声と祭歌が聞こえていた。


 ルカは長いあいだ動かなかった。


 やがて周囲を見回す。


「……え?」


 何も変わっていない。


「これだけ?」


 エルンは答えない。


「本当に?」


 ナミル=レイの名灯も、いつも通り淡く光っている。星潮羅針盤も、相変わらず北を探しては離していた。


「……間違えた?」


 胸の奥へ、急に不安が押し寄せた。


 もし、あれが唯一の手掛かりだったら。


 自分の本当の名前へ直接繋がっていたものを、自分から逃がしただけだったら。


「エルン」


「うん」


「追えば、まだ間に合うかな」


「たぶん」


「そこは止めないんだ」


「追うって決めたなら手伝う」


 ルカは思わず彼を見る。


 エルンは本気だった。


 捕まえるなら手伝う。


 放すなら、それも手伝う。


 けれど、どちらを選ぶかはルカへ返す。


 その態度が、さっきより少しだけ分かった。


「……ほんとに、ずるい」


「うん」


 ルカは舵へ向かって走りかけた。


 一歩。


 二歩。


 そこで止まる。


 祈魚が消えた方向。まだ追える。ナミル=レイなら帆を張れば、きっと間に合う。


 けれど。


「……違う」


 舵輪へ伸ばしかけた手が止まった。


 追えば、結局は同じだ。


 網で捕まえないだけ。水槽へ入れないだけで、失いたくないからどこへ行くのかを見張り、自分が安心できるところまで追い続ける。


 それでは手放したことにならない。


 ルカは舵輪へ額を当てた。


「悔しい……」


 小さく漏れる。


 本当に悔しかった。


 もっと聞きたかった。確かめたかった。あれが自分の名前なのか、知りたかった。


 けれど返したのなら、その先まで自分のものにはできない。


「追わない」


 ルカは顔を上げた。


 エルンが見る。


「いいの?」


「よくない」


 即答した。


「全然よくない」


 少し笑う。笑わなければ、泣きそうだった。


「欲しいし」


「うん」


「今でも追いたい」


「うん」


「でも、追わない」


 それだけだった。


 正しいからではない。


 立派だからでもない。


 欲しいまま、それでも選んだ。


 その時、ルカは巡礼船の方へふと視線を向けた。


 船長がこちらを見ていた。


 何も言わない。母の声を運ぶ木桶を、両手で抱えたまま。


 その少し後ろでは、沈んだ故郷の女性もルカを見ていた。彼女の手には一枚の光る鱗がある。


 握りしめていた指が、ほんのわずかに緩んだ。


 それだけだった。


 ルカも何も言わなかった。


 説得するつもりはない。


 自分だって、誰かに命じられて手放せたわけではないのだから。


「巡礼船は?」


 エルンが訊いた。


「今は連れていかない」


「どうする?」


「帰る道が分かったら教える」


 ルカは答え、巡礼船へ目を向けた。


「そのあとは、あの人たちが決めることだよ」


 さっきエルンから自分へ返されたものを、今度は自分が別の誰かへ返す。


 ルカは帆へ手を伸ばした。


「ナミル」


 船首を軽く叩く。


「いったん帰る方を探そう」


 名灯が淡く瞬き、ナミル=レイがゆっくりと動き始める。


 透明な祈魚が消えた方向とは逆へ、一艘だけ、光る海の中を進んでいった。


 十呼吸。


 二十呼吸。


 何も起きない。


 ルカは前を向いたまま、何度も振り返りそうになった。もういない。会えなくても、そうすると決めたのだ。


「ルカ」


 エルンが言った。


「何?」


「前」


 ルカは顔を上げた。


 船首の少し先、水面の下を一匹の魚が泳いでいる。


「……え?」


 透明だった。


 輪郭だけが薄く銀色に光り、胸には二つの小さな輝きがある。


「いつから?」


「分からない」


「戻ってきた?」


 ルカの声へ、ほんの少し期待が混ざる。


 エルンは首を横に振った。


「違うと思う」


「何が?」


「ルカのところへ来てない」


 ルカも意識を澄ませた。


 第一。


 第二。


 似た響きは確かにある。けれど、さっきとは違っていた。


 こちらへ向けて呼びかけてはいない。


 魚はナミル=レイの前を、一定の距離を保って泳いでいる。近づかず、遠ざかろうともしない。


「……同じ方向に進んでる」


 ルカは呟いた。


 最初は案内してくれているのだと思った。


 けれど、それも違う。


 透明な祈魚は一度も振り返らない。待たない。ついて来いとも言わない。ただ自分の道を泳いでいて、その道とナミル=レイの進路が偶然のように重なっているだけだった。


「追わなくなったら」


 ルカが少し笑う。


「今度は前にいる」


「うん」


「意地悪」


 祈魚は答えない。


 尾を振り、ただ先へ進む。


 ルカは舵を微調整した。魚の真後ろへはつけない。距離が縮まれば少し速度を落とし、離れても無理に詰めない。


「ナミル」


 船縁を軽く叩く。


「ついて行くんじゃないよ」


 帆が小さく鳴った。


「同じ道を行こう」


 ナミル=レイが船首をほんの少し海流へ合わせる。


 その時、ルカの中で細い感覚が繋がった。


「……あ」


「何?」


 エルンが訊く。


 ルカは透明な祈魚を見つめた。


 どこから来たのか。何を通ったのか。誰へ渡ったのか。


 そこまでは、もう少し分かる。


 オルカ=ナハトで覚えた、名が通った道。


 けれど今、初めてその先が見えた。


 祈魚がルカへ来た。


 ルカが触れた。


 そして捕まえず、魚へ返した。


 その場所にも、何かが残っている。


「返したところにも」


 ルカが呟く。


「道がある」


 エルンが首を傾げる。


「見える?」


「見えるっていうか……分かる」


 ルカは胸へ手を置いた。


「この魚は、私のところに来た」


 そして、掌を開く。


「私のところを通って、また先へ行った」


 それだけだった。


 名がルカのものになったわけではない。


 けれど、ルカのところへ来なかったわけでもない。


 触れた。


 通った。


 返した。


 その全部が消えず、道として残っている。


「……返したら」


 ルカは小さく言った。


「なかったことになるんじゃないんだ」


 第一の一音は、まだ胸にある。


 第二の一音も、まだ呼吸の底にある。


 透明な魚の響きだって、忘れたわけではない。


 ただ、持っていない。


 それだけだった。


 ルカは少しだけ肩の力を抜いた。


 新しい音は来ない。光も現れない。


 それでいい。


 返したことと、何かを得ることは同じではないのだから。


 透明な祈魚が少し速度を上げる。


 ルカは追わない。


 同じ潮筋へ、帆を合わせるだけだ。


 やがて周囲の祈魚も、少しずつ同じ流れへ集まり始めた。北の氷魚、浅瀬の灯鱗、青白い深海魚。それぞれ違う海から来たものたちが、一匹、また一匹と透明な魚と同じ潮へ入っていく。


 ルカには、そのいくつかが辿ってきた道をわずかに感じることができた。


 誰かの祈り。


 沈んだ船。


 古い島。


 さらに遠い、まだ自分には読めない何か。


 全部を読む必要はない。


 今、分かるところだけでいい。


 名も、声も、祈りも、誰かの手を通り、誰かのところを離れ、また別の場所へ向かう。


 それは一本の線ではなく、受け渡しが連なって生まれる道だった。


「ルカ」


 エルンが前を指した。


 海の色が変わっている。


 白い霧だった。


 ウェル=メリアへ入った時のものとは少し違い、淡い金色の光を内側へ含んでいる。


「島?」


「まだ見えない」


 透明な祈魚が霧へ入る。


 ほかの魚たちも続いた。


 ルカはナミル=レイの速度を変えなかった。


 追わない。


 けれど、離れようともしない。


「行こう」


 帆が霧を受け、水滴が織り目へ張りつく。それらは太陽でも月でもない光を弾き、視界をゆっくり白く染めていった。


 祈魚の影だけが、星の列のように前へ続いている。


 しばらくは、何も見えなかった。


 やがて霧の向こうに、白い影が浮かび上がる。


「……陸」


 ルカが呟いた。


 最初に見えたのは、海から切り立つ白い岩壁だった。その上には淡い緑の木々と低い丘があり、島の周囲を無数の祈魚が巡っている。浅瀬にも、岩礁の隙間にも、潮溜まりにも光が満ち、近づくほど海そのものが明るくなっていった。


 ルカは、古い地誌で見た名を思い出す。


 全海域から運ばれた祈りと名と声が、物ではなく記録として集まる島。


「テレシ=グレイス」


 祈宝の島。


 名を口にしても、透明な祈魚は速度を落とさなかった。ルカたちを振り返りもせず、そのまま浅瀬へ向かって泳いでいく。


 ルカは今度こそ、手を伸ばさなかった。


「行ってらっしゃい」


 小さく言う。


 魚は答えない。


 それでよかった。


 ルカはナミル=レイの舵を、同じ島へ向ける。


 返したものを追ってきたわけではない。


 返したものが進んだ道と、今の自分たちが選んだ道が、たまたま同じ場所へ続いていた。


 ただ、それだけだった。

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