第二節 ― 返したものが道になる
透明な祈魚は、ルカの掌のすぐ下にいた。
指を閉じれば捕まえられる。本当に、それだけの距離だった。ウェル=メリアの海水は淡く光り、魚の輪郭を薄い銀色に浮かび上がらせている。胸のあたりにある二つの光が震えるたび、ルカの身体も応えた。
胸の奥に、第一の一音。
呼吸の底に、第二の一音。
まったく同じではない。けれど近い。あまりにも近いからこそ、欲しかった。
この魚を連れて帰れば、何度でも確かめられる。メルナ=レイの神殿で調べられる。もしかしたら二つの先まで聞けるかもしれない。三つ目、四つ目、それより先も。長いあいだ探してきた名前へ、今まででいちばん近づけるかもしれない。
ルカの指先が、水の中でわずかに曲がった。
「エルン」
「うん」
少年はすぐ隣にいた。ルカは魚から目を離せないまま訊く。
「どうしたらいいと思う?」
返事がない。
少し待った。
「エルン?」
「いる」
「それは分かってる」
横目で見ると、エルンも透明な祈魚を見ていた。いつもの、何を考えているのか分かりにくい顔ではない。何か言いたいことがある。それでも、わざと口にしない。そんな顔だった。
「捕まえたら、私たちも帰れなくなると思う?」
「分からない」
「この魚、本当に私の名前かもしれないよ」
「うん」
「違うかもしれないけど」
「うん」
「調べないと分からない」
「うん」
「……それだけ?」
自分でも分かるくらい、声が尖った。
エルンなら、ルカには見えないものが見える。海の下へ沈んだ道も、残響も、古い記録も読める。だから、こういう時くらい答えを教えてくれてもいいはずなのに。
「エルンはどう思うの?」
「思ってることはある」
「だったら言って」
「言わない」
ルカは顔を上げた。
「なんで?」
エルンはすぐには答えなかった。
巡礼船の方から、また声が聞こえる。
「潮が変わるよ」
船長の母親の声だった。続いて、夏祭りの歌。沈んだ故郷を持つ女性が、水鉢を抱えたままじっと耳を澄ませている。捕まえられた祈魚の弱い光が、生簀の中で揺れていた。
「僕が言ったら」
エルンがようやく口を開く。
「ルカは、僕が正しいと思った方を選ぶかもしれない」
「だって、エルンの方が見えてることだってあるでしょ」
「ある」
「だったら――」
「でも」
エルンは透明な魚を見た。
「ルカの名前かもしれない」
そこで、ルカの言葉が止まった。
「僕のじゃない」
静かな声だった。
「だから、ルカが決めて」
捕まえるな、とも。
逃がせ、とも。
エルンは言わなかった。
ルカは眉を寄せる。
「……助けてって言ってるのに」
「手伝うよ」
「じゃあ教えてよ」
「それは違う」
「何が?」
「僕が決めることになるから」
ルカはしばらくエルンを睨んでいた。
彼は視線を逸らさない。
正しいことを言っている。たぶん。
だから余計に腹が立った。
「ずるい」
「うん」
「そこは否定して」
「でも、決めるのはルカ」
「……ほんと、ずるい」
結局、そこへ戻る。
ルカは唇を噛み、もう一度祈魚を見た。
魚は逃げない。待っているようにさえ見える。
それが、つらかった。
ヴァルカには言えた。止めれば届かない。潮を止めることは守ることではない。名を閉じ込めれば、その名が行くべきところへ行けなくなる。
あの時は、それを止めようとしていたのが他人だった。失うものも、自分の名前ではなかった。
今は違う。
この魚を放したら、二度と会えないかもしれない。これが本当に自分の失った名へ続くものだったとしても、次にどこへ行くのか、誰のところへ渡るのか、もう二度と分からなくなるかもしれない。
「……嫌だな」
ルカは正直に言った。
エルンは何も言わない。
「逃がしたくない」
指先が魚へ近づく。
透明な鰭が水を揺らし、ほんの一瞬、ルカの指へ触れた。
体温は分からなかった。魚も海も、同じ温度だった。
それでも、その瞬間。
胸の奥で第一の一音がはっきり鳴った。呼吸が変わり、第二の一音が肺の底へ戻ってくる。
「……ほしい」
声に出た。
小さな、誰に聞かせるつもりもない声だった。
「これ、ほしい」
名拾いだからではない。
潮名の航海士だからでもない。
自分の名前を失った一人の少女として、知りたかった。誰だったのか。誰に呼ばれていたのか。どこへ帰るはずだったのか。どうして今の名前で生きているのか。
目の前に、その手掛かりがある。
なら、手に入れたい。失いたくない。
それは間違いなく、自分の欲だった。
ルカはその欲を否定しなかった。
欲しい。
今も。
それでも、彼女はゆっくりと指を開いた。
「……行って」
透明な祈魚が揺れる。
すぐには動かなかった。
「捕まえないから」
ルカは水の中から手を引き、魚を囲もうとしていた指を一つずつ離していく。
「私の名前だったとしても……」
そこで喉が詰まった。
言いたくなかった。
けれど言わなければ、また手を伸ばしてしまいそうだった。
「今は、持って帰らない」
いらないわけではない。欲しくなくなったわけでも、諦めたわけでもなかった。
「また会えるかどうかも、分からないけど」
水滴が指先から落ちる。
ルカは祈魚を見つめた。
「あなたが何かを運んでる途中なら、私のところで止めない」
胸が痛んだ。
魚の尾が一度、小さく動いた。
次の瞬間、透明な祈魚は身を翻した。
「あ」
銀色の輪郭が、水の中を伸びていく。速い。魚はナミル=レイを離れ、無数の祈魚の光へ紛れた。
すぐに、どれがそうだったのか分からなくなった。
「……行っちゃった」
ルカの手だけが、水面の上へ残った。
何も起きなかった。
光の柱も、新しい潮路も、胸へ落ちてくる新しい音もない。ウェル=メリアはさっきまでと変わらず、水は光り、魚は泳ぎ、風も同じように吹いている。巡礼船からは、まだ母の声と祭歌が聞こえていた。
ルカは長いあいだ動かなかった。
やがて周囲を見回す。
「……え?」
何も変わっていない。
「これだけ?」
エルンは答えない。
「本当に?」
ナミル=レイの名灯も、いつも通り淡く光っている。星潮羅針盤も、相変わらず北を探しては離していた。
「……間違えた?」
胸の奥へ、急に不安が押し寄せた。
もし、あれが唯一の手掛かりだったら。
自分の本当の名前へ直接繋がっていたものを、自分から逃がしただけだったら。
「エルン」
「うん」
「追えば、まだ間に合うかな」
「たぶん」
「そこは止めないんだ」
「追うって決めたなら手伝う」
ルカは思わず彼を見る。
エルンは本気だった。
捕まえるなら手伝う。
放すなら、それも手伝う。
けれど、どちらを選ぶかはルカへ返す。
その態度が、さっきより少しだけ分かった。
「……ほんとに、ずるい」
「うん」
ルカは舵へ向かって走りかけた。
一歩。
二歩。
そこで止まる。
祈魚が消えた方向。まだ追える。ナミル=レイなら帆を張れば、きっと間に合う。
けれど。
「……違う」
舵輪へ伸ばしかけた手が止まった。
追えば、結局は同じだ。
網で捕まえないだけ。水槽へ入れないだけで、失いたくないからどこへ行くのかを見張り、自分が安心できるところまで追い続ける。
それでは手放したことにならない。
ルカは舵輪へ額を当てた。
「悔しい……」
小さく漏れる。
本当に悔しかった。
もっと聞きたかった。確かめたかった。あれが自分の名前なのか、知りたかった。
けれど返したのなら、その先まで自分のものにはできない。
「追わない」
ルカは顔を上げた。
エルンが見る。
「いいの?」
「よくない」
即答した。
「全然よくない」
少し笑う。笑わなければ、泣きそうだった。
「欲しいし」
「うん」
「今でも追いたい」
「うん」
「でも、追わない」
それだけだった。
正しいからではない。
立派だからでもない。
欲しいまま、それでも選んだ。
その時、ルカは巡礼船の方へふと視線を向けた。
船長がこちらを見ていた。
何も言わない。母の声を運ぶ木桶を、両手で抱えたまま。
その少し後ろでは、沈んだ故郷の女性もルカを見ていた。彼女の手には一枚の光る鱗がある。
握りしめていた指が、ほんのわずかに緩んだ。
それだけだった。
ルカも何も言わなかった。
説得するつもりはない。
自分だって、誰かに命じられて手放せたわけではないのだから。
「巡礼船は?」
エルンが訊いた。
「今は連れていかない」
「どうする?」
「帰る道が分かったら教える」
ルカは答え、巡礼船へ目を向けた。
「そのあとは、あの人たちが決めることだよ」
さっきエルンから自分へ返されたものを、今度は自分が別の誰かへ返す。
ルカは帆へ手を伸ばした。
「ナミル」
船首を軽く叩く。
「いったん帰る方を探そう」
名灯が淡く瞬き、ナミル=レイがゆっくりと動き始める。
透明な祈魚が消えた方向とは逆へ、一艘だけ、光る海の中を進んでいった。
十呼吸。
二十呼吸。
何も起きない。
ルカは前を向いたまま、何度も振り返りそうになった。もういない。会えなくても、そうすると決めたのだ。
「ルカ」
エルンが言った。
「何?」
「前」
ルカは顔を上げた。
船首の少し先、水面の下を一匹の魚が泳いでいる。
「……え?」
透明だった。
輪郭だけが薄く銀色に光り、胸には二つの小さな輝きがある。
「いつから?」
「分からない」
「戻ってきた?」
ルカの声へ、ほんの少し期待が混ざる。
エルンは首を横に振った。
「違うと思う」
「何が?」
「ルカのところへ来てない」
ルカも意識を澄ませた。
第一。
第二。
似た響きは確かにある。けれど、さっきとは違っていた。
こちらへ向けて呼びかけてはいない。
魚はナミル=レイの前を、一定の距離を保って泳いでいる。近づかず、遠ざかろうともしない。
「……同じ方向に進んでる」
ルカは呟いた。
最初は案内してくれているのだと思った。
けれど、それも違う。
透明な祈魚は一度も振り返らない。待たない。ついて来いとも言わない。ただ自分の道を泳いでいて、その道とナミル=レイの進路が偶然のように重なっているだけだった。
「追わなくなったら」
ルカが少し笑う。
「今度は前にいる」
「うん」
「意地悪」
祈魚は答えない。
尾を振り、ただ先へ進む。
ルカは舵を微調整した。魚の真後ろへはつけない。距離が縮まれば少し速度を落とし、離れても無理に詰めない。
「ナミル」
船縁を軽く叩く。
「ついて行くんじゃないよ」
帆が小さく鳴った。
「同じ道を行こう」
ナミル=レイが船首をほんの少し海流へ合わせる。
その時、ルカの中で細い感覚が繋がった。
「……あ」
「何?」
エルンが訊く。
ルカは透明な祈魚を見つめた。
どこから来たのか。何を通ったのか。誰へ渡ったのか。
そこまでは、もう少し分かる。
オルカ=ナハトで覚えた、名が通った道。
けれど今、初めてその先が見えた。
祈魚がルカへ来た。
ルカが触れた。
そして捕まえず、魚へ返した。
その場所にも、何かが残っている。
「返したところにも」
ルカが呟く。
「道がある」
エルンが首を傾げる。
「見える?」
「見えるっていうか……分かる」
ルカは胸へ手を置いた。
「この魚は、私のところに来た」
そして、掌を開く。
「私のところを通って、また先へ行った」
それだけだった。
名がルカのものになったわけではない。
けれど、ルカのところへ来なかったわけでもない。
触れた。
通った。
返した。
その全部が消えず、道として残っている。
「……返したら」
ルカは小さく言った。
「なかったことになるんじゃないんだ」
第一の一音は、まだ胸にある。
第二の一音も、まだ呼吸の底にある。
透明な魚の響きだって、忘れたわけではない。
ただ、持っていない。
それだけだった。
ルカは少しだけ肩の力を抜いた。
新しい音は来ない。光も現れない。
それでいい。
返したことと、何かを得ることは同じではないのだから。
透明な祈魚が少し速度を上げる。
ルカは追わない。
同じ潮筋へ、帆を合わせるだけだ。
やがて周囲の祈魚も、少しずつ同じ流れへ集まり始めた。北の氷魚、浅瀬の灯鱗、青白い深海魚。それぞれ違う海から来たものたちが、一匹、また一匹と透明な魚と同じ潮へ入っていく。
ルカには、そのいくつかが辿ってきた道をわずかに感じることができた。
誰かの祈り。
沈んだ船。
古い島。
さらに遠い、まだ自分には読めない何か。
全部を読む必要はない。
今、分かるところだけでいい。
名も、声も、祈りも、誰かの手を通り、誰かのところを離れ、また別の場所へ向かう。
それは一本の線ではなく、受け渡しが連なって生まれる道だった。
「ルカ」
エルンが前を指した。
海の色が変わっている。
白い霧だった。
ウェル=メリアへ入った時のものとは少し違い、淡い金色の光を内側へ含んでいる。
「島?」
「まだ見えない」
透明な祈魚が霧へ入る。
ほかの魚たちも続いた。
ルカはナミル=レイの速度を変えなかった。
追わない。
けれど、離れようともしない。
「行こう」
帆が霧を受け、水滴が織り目へ張りつく。それらは太陽でも月でもない光を弾き、視界をゆっくり白く染めていった。
祈魚の影だけが、星の列のように前へ続いている。
しばらくは、何も見えなかった。
やがて霧の向こうに、白い影が浮かび上がる。
「……陸」
ルカが呟いた。
最初に見えたのは、海から切り立つ白い岩壁だった。その上には淡い緑の木々と低い丘があり、島の周囲を無数の祈魚が巡っている。浅瀬にも、岩礁の隙間にも、潮溜まりにも光が満ち、近づくほど海そのものが明るくなっていった。
ルカは、古い地誌で見た名を思い出す。
全海域から運ばれた祈りと名と声が、物ではなく記録として集まる島。
「テレシ=グレイス」
祈宝の島。
名を口にしても、透明な祈魚は速度を落とさなかった。ルカたちを振り返りもせず、そのまま浅瀬へ向かって泳いでいく。
ルカは今度こそ、手を伸ばさなかった。
「行ってらっしゃい」
小さく言う。
魚は答えない。
それでよかった。
ルカはナミル=レイの舵を、同じ島へ向ける。
返したものを追ってきたわけではない。
返したものが進んだ道と、今の自分たちが選んだ道が、たまたま同じ場所へ続いていた。
ただ、それだけだった。




