↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第8話 祈魚は、神ではない名を運んだ
PR
85/94

第一節 ― 本物の記憶から帰れない

 ウェル=メリアの海には、夜がなかった。


 空には昼の白い光が残っているのに、水面の下では無数の星が瞬いている。銀の尾を引く小魚、氷片を削り出したような半透明の魚、腹の奥に青白い灯を抱く深海魚。薄い鰭を翼のように広げ、水中を飛ぶように滑っていくものもいる。


 どれも祈魚だった。


 本来なら同じ海どころか、生涯一度も出会わないはずの魚たちが、互いを避けることもなくナミル=レイの周囲を巡っている。海そのものも淡く光り、船首が水を分けるたびに真珠色の波紋が広がっていった。祈魚がそこへ触れるたび、一瞬だけ光が強くなり、海の中に新しい星が生まれて、すぐに消える。


「……きれい」


 ルカは船縁から身を乗り出した。


「落ちないで」


「落ちないよ」


「さっきから三回くらい落ちそうになってる」


「見てたの?」


「見てる」


「じゃあ、落ちたら拾って」


「深かったら無理」


「そこは頑張ってよ」


 エルンは真面目な顔をしていた。冗談なのか本気なのか、相変わらず分からない。


「ナミルは助けてくれるよね?」


 ルカが船首を見ると、名灯が一度だけ淡く瞬いた。


「ほら」


「今の、分からないって意味かも」


「なんでそっちに取るの?」


「さっきも二回光った」


「二回だと何?」


「分からない」


「結局分からないんじゃん」


 帆が小さく鳴った。抗議しているようにも聞こえて、ルカは笑う。


 それでも、海から目を離せなかった。


 どこまで進んでも色が尽きない。青、緑、紫、真珠色。水深が変わるたびに光の層まで変わり、さらに深いところにはナミル=レイより大きな魚影が、古い夢の中を泳ぐようにゆっくり横切っていく。


 海上には島がない。雲も少ない。それなのに、ときおり水平線さえ分からなくなる。空の青と海の青が、祈魚の光の中で溶け合ってしまうからだ。


「ここなら、ずっと見てられるかも」


 何気なく呟いたルカへ、エルンは海面を見たまま答えた。


「帰れなくなるよ」


「縁起でもないこと言わないで」


「でも、出口見える?」


「出口?」


 そこで初めて、ルカは振り返った。


 ナミル=レイが入ってきたはずの霧は、もうどこにもない。普通の海も見えなかった。


 星潮羅針盤を開く。針は壊れたように暴れているわけではない。ゆっくり北を探し、一度そこへ寄りかけては、何かを思い直すように離れていく。その繰り返しだった。


「……まあ、入れたんだから出られるでしょ」


「どうやって?」


「祈魚に聞く」


「言葉、分かる?」


「……ナミルに聞く」


 名灯が二度、弱く明滅した。


「分からないって」


「今の本当にそういう意味?」


「たぶん」


「最近ナミルの気持ち、全部それで済ませてない?」


 ルカは笑った。


 まだ、その時は。


 ウェル=メリアは、不思議で美しいだけの海に見えていた。


     *


 最初に船を見つけたのは、エルンだった。


「ルカ」


「ん?」


「あそこ」


 祈魚の光が濃すぎて、ルカにはすぐ見つけられなかった。目を凝らすと、淡い光の向こうに一本の帆柱が浮かんでいる。帆は半分下ろされ、船体は波間へ静かに浮かんでいた。大きく傾いてもいない。


「船?」


「うん」


「動いてないね」


 ルカは舵を切った。


 近づくにつれて、中型の帆船だと分かる。軍船ではない。商船にしては荷を積む甲板が狭く、その代わり船縁には小さな祈り布が何十枚も結ばれていた。船首には潮神へ捧げる貝殻飾り、帆柱には旅の無事を願う細い縄。


「巡礼船だ」


 ルカは速度を落とした。


 けれど、妙だった。


 帆は破れていない。船腹にも大きな損傷はなく、浸水している様子も、座礁した痕跡もない。


 何より、人がいる。


 一人や二人ではなかった。


「遭難……してない?」


 甲板では、何人かが船縁へ腰を下ろして海を見つめ、別の者たちは小さな桶や水鉢を囲んでいる。倒れている者も、助けを求める者もいなかった。


 むしろナミル=レイへ気づいた灰色髪の男が、人差し指を唇へ当てる。


 静かに。


 そういう合図だった。


「……助けに来た側なんだけどな」


 ルカは小声で呟き、ナミル=レイを巡礼船へ横づけした。


「大丈夫ですか!」


 今度は普通に呼びかける。


 何人かが振り向いたものの、答えたのは先ほどの灰色髪の男だけだった。


「船は無事だ」


「人は?」


「無事だ」


「船長さんですか?」


「ああ」


 なら話は早い。


「どうして停まってるんです?」


 巡礼船長は答えず、代わりに訊いた。


「聞こえないか」


「何が?」


「声だ」


 ルカは海を見る。


 声なら、ずっと聞こえていた。祈魚が運ぶ名の残響、祈りの断片、意味の取れない古い潮語、どこか遠くで鳴った鐘。水の下で、そうしたものが絶えず重なっている。


「それじゃない」


 船長が言った。


 彼のそばには、小さな木桶が置かれていた。張られた海水の中を、一匹の銀色の祈魚が泳いでいる。


 船長が桶へ顔を寄せる。


 祈魚が尾を振った。


 その瞬間。


「――あんたは、また帆を畳み忘れたのかい」


 女の声がした。


 ルカは息を止めた。


 甲板にいる誰の声でもない。年を取った女性の、少し掠れた声。呆れているのに、その奥では笑っている。


 船長の顔が崩れた。


「母さん」


 祈魚が泳ぐ。


「潮が変わるよ。先に片づけちまいな」


 船長は目を閉じた。


「飯まで冷めちまうよ」


 小さく笑う。


「……いつも、これだった」


「いつも?」


「漁から戻ると、帆を畳むより先に家へ帰ろうとした。そのたびに叱られた」


 母の声が、また流れる。


「何度言えば分かるんだろうね、この子は」


 船長は笑った。目は少し赤かった。


「最後に言われた言葉じゃない」


 ルカは黙って聞く。


「死ぬ前の言葉でもない。遺言でもない。俺に残した大事な言葉でもない」


「……はい」


「だから余計に駄目なんだ」


 ルカが顔を上げる。


「最期の声なら、終わりだったって分かったのかもしれん」


 船長は少し遠くを見るような顔をした。


 けれど、これは違う。


 明日も、次の日も、来月も。また同じように言われると信じていた日の声だった。


「こんな何でもないことで、また叱られると思ってた」


 船長が桶を見つめる。


「それが一番、戻ってきてほしかったらしい」


 別の場所から歌が聞こえた。


 子どもたちの声。鈴。太鼓。手拍子。夏の祭りらしい、明るい歌。


 けれど、それを聞いている若い女は泣いていた。彼女の前にも水鉢があり、中では祈魚が泳いでいる。水面には一枚の光る鱗が浮いていた。


「故郷の歌」


 ルカへ気づいた女が、涙を拭きながら言った。


「島が沈む前」


「沈んだ?」


「ずっと前に」


 歌が続く。


 女は最初の数音だけ、そこへ自分の声を重ねた。


「夏になると、毎年歌った」


「覚えてるんですね」


「途中までは」


 女は苦く笑った。


「子どもの頃だったから。二番の途中から曖昧なの」


 けれど、水鉢から流れる歌は、彼女の記憶が止まったところを越えて、その先まで続いていく。


 女は泣きながら耳を澄ませた。


「本当にあった」


 小さく言う。


「私が作ったんじゃなかった」


 ルカは眉を寄せた。


「作った?」


「今は、あの島を知ってる人もほとんどいない。海図からも消えたし、古い記録も少ない。祭りのことを話しても、そんな歌は聞いたことがないって言われる」


 祭歌は明るく続いている。


「私が覚えてるって言っても、いつか誰にも信じてもらえなくなる」


 女の指が震えた。


 その言葉は、思ったより強くルカの胸へ入った。


「だから、これがあれば」


 女は水面の鱗を見る。


 証拠になる。


 そうは言わなかった。それでも、ルカには分かった。


 自分だけの記憶ではない。


 故郷はあった。人がいた。夏が来た。子どもたちは歌った。


 そのことを、自分以外の何かもまだ覚えている。


 甲板のあちこちから、さらに声が聞こえてきた。


 幼い子ども。若い男。年老いた女。笑い声。叱る声。


「おかえり」


「ちゃんと食べてる?」


「風が強い日は東の浜へ行くなよ」


 誰も、大切なことなど言っていなかった。


 だからこそ、胸に刺さる。


 日常だった。


 失うつもりなどなかった日々。明日も続くと、誰も疑わなかった時間。


 最初、ルカは幻なのだと思った。


 ウェル=メリアが巡礼者たちの望みを読み、彼らの欲しい声を作っているのではないか。そういう海なのだと。


 けれど、少し意識を合わせた瞬間、分かってしまった。


 オルカ=ナハトで、名が渡っていった道を読んだ時のように。


 どこから来た。


 何を通った。


 誰へ渡った。


 声の道を辿る。


 目の前の船長から生まれたものではない。彼の記憶を読み、今ここで作られた声でもなかった。


 もっと古い。


 ずっと昔、どこかの海辺で、誰かが本当に口にした。


 その時、声は何かへ残った。祈り。名。潮。流された品。沈んだ船。祈魚。


 いくつものものを通り、形を変え、それでも消えずにここまで来た。


「……本物」


 ルカの声が漏れた。


 隣でエルンが頷く。


「うん」


「分かる?」


「ルカとは違う」


 彼は巡礼船ではなく、その下の深い海を見ていた。


「でも、作ったものじゃない」


「やっぱり」


 巡礼船長が二人を見る。


「分かるのか」


「少しだけ」


 ルカは慎重に答えた。


「たぶん、本当に昔どこかで言われた声です」


 船長は目を閉じた。


 安堵したように見えた。


 それと同じくらい、困ったようにも。


「だから帰れない」


 ルカは眉を寄せる。


「帰れない?」


 船長は一度口を閉じ、桶の中の銀魚を見た。


「……違うな。帰りたくない」


 それで、ルカはようやく理解した。


 この船は遭難しているのではない。壊れてもいないし、航路を失っただけでもない。


 彼ら自身が、ここから離れようとしていない。


「どのくらい、ここに?」


「分からん」


「分からないって」


「昼と夜の区別がない。三日なのか、十日なのか、もっとなのか」


「食料は?」


「減ってる」


「水は?」


「祈魚が淡水の潮溜まりへ連れていく」


「それで大丈夫って話じゃないですよ」


「分かってる」


 船長はすぐに答えた。


 その速さに、ルカが止まる。


「……分かってるんですか」


「ああ」


 船長は疲れた顔で笑った。


「船長だからな」


 甲板を見渡せば、髭が伸びた者、服の汚れた者、眠れていないらしい者がいる。それでも誰も、声から離れようとはしていなかった。


「帰らせるべきだと思ってる。最初の日から」


「じゃあ――」


「俺が最初に捕まえた」


 船長は後部甲板を指した。


 そこには急ごしらえの生簀が三つあった。海水を循環させる木枠。その中に、何十匹もの祈魚がいる。


 外海を泳ぐ魚たちと比べて、どれも光が弱い。


「最初は一匹だった」


 船長は桶の銀魚を見る。


「母の声を運んでた魚だ。どこかへ行ったら、もう聞けないと思った」


「だから?」


「一匹だけなら」


 船長は自嘲するように笑った。


「そう思った」


 若い女も、水鉢の鱗へ視線を落とす。


「私は、一枚だけならって思った」


「鱗を?」


「魚そのものを連れて帰るよりはいいと思った」


 ルカは祈魚を見る。


 鱗を失ったところだけ、小さく光を欠いていた。


「痛がってる」


「分かってる」


 女は目を逸らさなかった。


「分かってるよ。だから一枚だけ」


「でも、その一枚を――」


「じゃあ、どうすればいいの?」


 返ってきた声に、ルカは止まった。


「紙に歌詞を書く? 書くよ。覚えてるところは全部書く」


「なら」


「でも、歌は戻らない」


 オルカ=ナハトでのことが、すぐに浮かんだ。


 ミレアも、同じところで立ち止まっていた。


「音も残そうとした」


 女は甲板の端を指す。


 そこでは一人の巡礼者が細い潮管を水鉢へ差し込み、祈魚の声を蝋管へ刻もうとしていた。


 再生すると、水音と低い震え、掠れた雑音だけが戻ってくる。


 祭歌だけが、きれいに抜け落ちていた。


「また違う」


 男が呻く。


「確かに聞こえたのに」


 若い女はルカを見る。


「私が歌っても違う」


「……うん」


「故郷へ帰って、誰かと合わせることもできない」


 その島は、もう沈んでいる。


「これしかないの」


 女は鱗を握りしめる。


「これを持って帰れたら、少なくとも私だけが言ってる話じゃなくなる。私の島は、本当にあったって言える」


 ルカは何も言えなかった。


 魚を傷つけるのは嫌だった。捕まえ、弱らせるのも違うと思う。


 それでも、女の言っていることまで間違いだとは思えない。


 船長が生簀を見る。


「一匹だけなら」


 若い女が鱗を見る。


「一枚だけなら」


 甲板のどこかで、誰かが呟いた。


「一声だけ」


 これだけ残せれば。


 その願いが、一つずつ積み重なったのだ。


 船長は目を閉じる。


「それが増えた」


 一人が一匹。別の者が一枚。さらに別の者が一声。


「止めるべきだった。俺が」


「でも」


「船長だからな」


 今度の言葉には、さっきの冗談めいた響きはなかった。


「俺が最初にやった。だったら、ほかの奴に駄目だとは言えなかった」


 桶から、また声がした。


「潮が変わるよ」


 母親の声。


 船長の肩が小さく動いた。


「出口も探したんですよね」


 ルカが訊く。


「何度も」


「祈魚について行けば?」


「最初は案内してくれた」


「最初は?」


「生簀を作ってから、どれだけ進んでもここへ戻るようになった」


 ルカは星潮羅針盤を開いた。


 針は相変わらず、どこにも決まらない。


「魚を捕まえたから?」


「分からん」


「でも」


 エルンが言った。


 全員が少年を見る。


 彼は海面よりもっと下へ視線を置いていた。


「前より、道が少ない」


「道?」


「入ってきた時はいっぱいあった」


 祈魚たちは、それぞれ違う海から来ていた。違う名、違う祈りを抱え、ここで交わり、またどこかへ向かっていく。


「今は、この船の周りで止まってる」


 エルンは生簀を見る。


「入って、出てない」


 ルカも意識を澄ませた。


 オルカ=ナハトで覚えた、名が渡っていく道。


 祈魚の中には、確かに残響がある。海から魚へ。魚から次へ。本来なら続くはずの流れだ。


 けれど、この船では生簀へ入り、鱗へ、瓶へ、蝋管へ、誰かの手元へと留まり、その先へ抜けていない。


「止めてるから……」


 言いかけて、ルカは口を閉じた。


 七つの錨。


 凍ったように静止した海。


 ヴァルカ。


 動くものを止めれば、失わずに済む。そう信じた人。


 あの時、ルカは言えた。


 止めれば届かない。名も、海も、帰る場所へ行けない。


 今も、それが間違っていたとは思わない。


 けれど、同じ言葉をこの人たちへ向けて簡単に言うことはできなかった。


 船長がルカを見る。


「言いたいことがあるなら言え」


「……あります」


「魚を放せ?」


 ルカは答えなかった。


「帰れ?」


 船長の声に責める響きはない。ただ疲れていた。


「死んだ人間は戻らない?」


「そんなこと」


 ルカは眉を寄せる。


「簡単に言える話じゃないです」


「そうか」


 船長は少し笑った。


「なら、聞く」


 桶から、母親の声がまた流れる。


「先に飯食べちまうよ」


 船長はそれを最後まで聞いてから、ルカへ訊いた。


「これがお前の母親の声だったら?」


 ルカの呼吸が止まった。


「え」


「もう二度と聞けない。顔も、家も、何も残ってない」


 船長は桶を見る。


「この一匹を放したら、二度と聞けないかもしれない。それでも海へ返せるか?」


 ルカは答えなかった。


 答えられなかった。


 もし、本当に母の声だったら。


 自分を呼んでいた声なら。


 ずっと知りたかったものなら。


「……分かりません」


 ようやく、それだけ言った。


 船長も何も言わなかった。


 それで話は終わった。


 帰れ。


 魚を放せ。


 そんな正論を、ルカはもう口にできなかった。


     *


 その時、ナミル=レイの名灯が鳴った。


 光ではない。


 ちり、と小さな貝殻同士が触れたような音。


「ナミル?」


 ルカが振り返る。


 船縁の外に、一匹の祈魚が浮いていた。


 透明だった。


 ほとんど水と区別がつかない。骨も内臓も見えず、輪郭だけが淡く光っている。


 その胸の辺りに、二つの小さな光があった。


「さっき、いた?」


 ルカが訊くと、エルンは首を振った。


「見てない」


 魚がナミル=レイへ近づいてくる。


 逃げない。


 むしろルカを選んで、こちらへ来た。そう思えるほど真っ直ぐだった。


「……私?」


 魚が口を開いた。


 声は聞こえなかった。


 代わりに、ルカの胸が鳴る。


「――っ」


 第一の一音。


 七つの錨が眠った夜から、胸の奥にあるもの。


 続いて呼吸が変わる。胸骨、喉、肺。身体が第二の一音を思い出した。


 魚の中の二つの光が震える。


 第一。


 第二。


 同じではない。


 それでも、近い。


 あまりにも近かった。


 自分の中にある二音が、外側から呼び返されたようだった。


「エルン」


 ルカの声が掠れる。


「聞こえた?」


「少し」


「これ……」


 その先の言葉が出なかった。


 ネル=エル。


 その痕跡を探しに来た。


 二音は古い海の神の名前かもしれない。そう思っていたし、どこかでは、そうであってほしいとも願っていた。


 けれど魚の中から二つの響きが返った瞬間、別の考えが浮かぶ。


 ここへ来る前、口にしてしまった言葉。


 祈魚って、世界中の名を持ってくるんだよね。


 だったら。


 私のもあるかな。


「私の……」


 そこから先を口にするのが怖かった。


 本当の名前。


 海へ流れ着くより前に失った名。誰かが自分へ向かって呼んでいた音。


 ずっと探してきたもの。


 透明な祈魚は、手を伸ばせば届くところまで来ていた。


「……捕まえられる」


 エルンは何も言わなかった。


 魚も逃げない。


 ナミル=レイには潮水槽がある。海水を循環させ、祈魚を弱らせずに運ぶ方法だって、工夫すればあるかもしれない。


 メルナ=レイへ帰って、神官たちに調べてもらう。


 第一と第二を照合する。


 もし、この魚が続きを運んでいるのなら。


 三つ目。


 四つ目。


 もっと先まで聞けるかもしれない。


 ずっと探してきた自分の名へ、今までで一番近づける。


「この魚だけなら……」


 口から出た言葉に、ルカ自身が息を止めた。


 一匹だけなら。


 船長が言った。


 一枚だけなら。


 若い女が言った。


 一声だけ。


 これだけ残せれば。


 巡礼船の甲板にある弱った祈魚。鱗。瓶。蝋管。


 ルカはそれらを見る。


 違う。


 同じじゃない。


 そう思った。


 自分は声を懐かしんで、ここへ留まりたいわけではない。名前を探している。それが今の航海の目的だ。


 失ったものを取り戻したい。


 自分が誰だったのか知る権利くらい、あるはずだ。


 この魚を調べるのは、誰かの記憶へ執着することとは違う。必要な調査なのだと、いくらでも言える。


 どの理由も嘘ではなかった。


 ルカには本当に、知りたいことがある。


 誰だったのか。


 どこから来たのか。


 誰が、どんな声で自分を呼んでいたのか。


 どうして海へ流されたのか。


 何を失ったのか。


 知りたい。


 第一潮真名を得るよりも、名を拾う仕事を始めるよりも、もっと前から。


 たぶん、ずっと。


「逃げないで」


 小さな声が出た。


 自分でも驚くほど弱かった。


 祈魚は、逃げていない。


 それなのにルカは、もう失うことを怖がっている。


 まだ手に入れてすらいないものを、なくしたくないと思っていた。


 船長の母の声が、頭の片隅でもう一度響いた気がした。


 ――あんたは、また帆を畳み忘れたのかい。


 何でもない言葉。


 だからこそ、失いたくなかった声。


 ルカには、そんな声の記憶すらない。


 もし、この魚の中に、自分を呼んだ声へ続く何かがあるのなら。


 欲しい。


 欲しくないはずがなかった。


 ルカは水面へ手を伸ばした。


 指先が触れる。


 ウェル=メリアの海は、驚くほど温かかった。体温に近い。


 透明な魚が、掌のすぐ下を泳ぐ。


 あと少し指を閉じれば、捕まえられる。


 胸の奥で第一の一音が鳴り、呼吸の底には第二の一音が残っている。そして魚の中から、二つに似た何かがルカへ向かって響いていた。


 神の名なのか。


 自分の名なのか。


 まだ分からない。


 分からないからこそ、確かめたい。そのためには、手元へ置きたい。


 そう思うことが間違っているとは、どうしても思えなかった。


 船長へ魚を返せとは言えなかった。


 今なら、その理由が嫌というほど分かる。


 ルカは手を伸ばしたまま、透明な祈魚を囲みかける。


 けれど指は、最後まで閉じなかった。


 欲しいという気持ちも、離したくないという怖さも、どちらも消えないまま、温かな海水だけが指のあいだを静かに流れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。