第一節 ― 本物の記憶から帰れない
ウェル=メリアの海には、夜がなかった。
空には昼の白い光が残っているのに、水面の下では無数の星が瞬いている。銀の尾を引く小魚、氷片を削り出したような半透明の魚、腹の奥に青白い灯を抱く深海魚。薄い鰭を翼のように広げ、水中を飛ぶように滑っていくものもいる。
どれも祈魚だった。
本来なら同じ海どころか、生涯一度も出会わないはずの魚たちが、互いを避けることもなくナミル=レイの周囲を巡っている。海そのものも淡く光り、船首が水を分けるたびに真珠色の波紋が広がっていった。祈魚がそこへ触れるたび、一瞬だけ光が強くなり、海の中に新しい星が生まれて、すぐに消える。
「……きれい」
ルカは船縁から身を乗り出した。
「落ちないで」
「落ちないよ」
「さっきから三回くらい落ちそうになってる」
「見てたの?」
「見てる」
「じゃあ、落ちたら拾って」
「深かったら無理」
「そこは頑張ってよ」
エルンは真面目な顔をしていた。冗談なのか本気なのか、相変わらず分からない。
「ナミルは助けてくれるよね?」
ルカが船首を見ると、名灯が一度だけ淡く瞬いた。
「ほら」
「今の、分からないって意味かも」
「なんでそっちに取るの?」
「さっきも二回光った」
「二回だと何?」
「分からない」
「結局分からないんじゃん」
帆が小さく鳴った。抗議しているようにも聞こえて、ルカは笑う。
それでも、海から目を離せなかった。
どこまで進んでも色が尽きない。青、緑、紫、真珠色。水深が変わるたびに光の層まで変わり、さらに深いところにはナミル=レイより大きな魚影が、古い夢の中を泳ぐようにゆっくり横切っていく。
海上には島がない。雲も少ない。それなのに、ときおり水平線さえ分からなくなる。空の青と海の青が、祈魚の光の中で溶け合ってしまうからだ。
「ここなら、ずっと見てられるかも」
何気なく呟いたルカへ、エルンは海面を見たまま答えた。
「帰れなくなるよ」
「縁起でもないこと言わないで」
「でも、出口見える?」
「出口?」
そこで初めて、ルカは振り返った。
ナミル=レイが入ってきたはずの霧は、もうどこにもない。普通の海も見えなかった。
星潮羅針盤を開く。針は壊れたように暴れているわけではない。ゆっくり北を探し、一度そこへ寄りかけては、何かを思い直すように離れていく。その繰り返しだった。
「……まあ、入れたんだから出られるでしょ」
「どうやって?」
「祈魚に聞く」
「言葉、分かる?」
「……ナミルに聞く」
名灯が二度、弱く明滅した。
「分からないって」
「今の本当にそういう意味?」
「たぶん」
「最近ナミルの気持ち、全部それで済ませてない?」
ルカは笑った。
まだ、その時は。
ウェル=メリアは、不思議で美しいだけの海に見えていた。
*
最初に船を見つけたのは、エルンだった。
「ルカ」
「ん?」
「あそこ」
祈魚の光が濃すぎて、ルカにはすぐ見つけられなかった。目を凝らすと、淡い光の向こうに一本の帆柱が浮かんでいる。帆は半分下ろされ、船体は波間へ静かに浮かんでいた。大きく傾いてもいない。
「船?」
「うん」
「動いてないね」
ルカは舵を切った。
近づくにつれて、中型の帆船だと分かる。軍船ではない。商船にしては荷を積む甲板が狭く、その代わり船縁には小さな祈り布が何十枚も結ばれていた。船首には潮神へ捧げる貝殻飾り、帆柱には旅の無事を願う細い縄。
「巡礼船だ」
ルカは速度を落とした。
けれど、妙だった。
帆は破れていない。船腹にも大きな損傷はなく、浸水している様子も、座礁した痕跡もない。
何より、人がいる。
一人や二人ではなかった。
「遭難……してない?」
甲板では、何人かが船縁へ腰を下ろして海を見つめ、別の者たちは小さな桶や水鉢を囲んでいる。倒れている者も、助けを求める者もいなかった。
むしろナミル=レイへ気づいた灰色髪の男が、人差し指を唇へ当てる。
静かに。
そういう合図だった。
「……助けに来た側なんだけどな」
ルカは小声で呟き、ナミル=レイを巡礼船へ横づけした。
「大丈夫ですか!」
今度は普通に呼びかける。
何人かが振り向いたものの、答えたのは先ほどの灰色髪の男だけだった。
「船は無事だ」
「人は?」
「無事だ」
「船長さんですか?」
「ああ」
なら話は早い。
「どうして停まってるんです?」
巡礼船長は答えず、代わりに訊いた。
「聞こえないか」
「何が?」
「声だ」
ルカは海を見る。
声なら、ずっと聞こえていた。祈魚が運ぶ名の残響、祈りの断片、意味の取れない古い潮語、どこか遠くで鳴った鐘。水の下で、そうしたものが絶えず重なっている。
「それじゃない」
船長が言った。
彼のそばには、小さな木桶が置かれていた。張られた海水の中を、一匹の銀色の祈魚が泳いでいる。
船長が桶へ顔を寄せる。
祈魚が尾を振った。
その瞬間。
「――あんたは、また帆を畳み忘れたのかい」
女の声がした。
ルカは息を止めた。
甲板にいる誰の声でもない。年を取った女性の、少し掠れた声。呆れているのに、その奥では笑っている。
船長の顔が崩れた。
「母さん」
祈魚が泳ぐ。
「潮が変わるよ。先に片づけちまいな」
船長は目を閉じた。
「飯まで冷めちまうよ」
小さく笑う。
「……いつも、これだった」
「いつも?」
「漁から戻ると、帆を畳むより先に家へ帰ろうとした。そのたびに叱られた」
母の声が、また流れる。
「何度言えば分かるんだろうね、この子は」
船長は笑った。目は少し赤かった。
「最後に言われた言葉じゃない」
ルカは黙って聞く。
「死ぬ前の言葉でもない。遺言でもない。俺に残した大事な言葉でもない」
「……はい」
「だから余計に駄目なんだ」
ルカが顔を上げる。
「最期の声なら、終わりだったって分かったのかもしれん」
船長は少し遠くを見るような顔をした。
けれど、これは違う。
明日も、次の日も、来月も。また同じように言われると信じていた日の声だった。
「こんな何でもないことで、また叱られると思ってた」
船長が桶を見つめる。
「それが一番、戻ってきてほしかったらしい」
別の場所から歌が聞こえた。
子どもたちの声。鈴。太鼓。手拍子。夏の祭りらしい、明るい歌。
けれど、それを聞いている若い女は泣いていた。彼女の前にも水鉢があり、中では祈魚が泳いでいる。水面には一枚の光る鱗が浮いていた。
「故郷の歌」
ルカへ気づいた女が、涙を拭きながら言った。
「島が沈む前」
「沈んだ?」
「ずっと前に」
歌が続く。
女は最初の数音だけ、そこへ自分の声を重ねた。
「夏になると、毎年歌った」
「覚えてるんですね」
「途中までは」
女は苦く笑った。
「子どもの頃だったから。二番の途中から曖昧なの」
けれど、水鉢から流れる歌は、彼女の記憶が止まったところを越えて、その先まで続いていく。
女は泣きながら耳を澄ませた。
「本当にあった」
小さく言う。
「私が作ったんじゃなかった」
ルカは眉を寄せた。
「作った?」
「今は、あの島を知ってる人もほとんどいない。海図からも消えたし、古い記録も少ない。祭りのことを話しても、そんな歌は聞いたことがないって言われる」
祭歌は明るく続いている。
「私が覚えてるって言っても、いつか誰にも信じてもらえなくなる」
女の指が震えた。
その言葉は、思ったより強くルカの胸へ入った。
「だから、これがあれば」
女は水面の鱗を見る。
証拠になる。
そうは言わなかった。それでも、ルカには分かった。
自分だけの記憶ではない。
故郷はあった。人がいた。夏が来た。子どもたちは歌った。
そのことを、自分以外の何かもまだ覚えている。
甲板のあちこちから、さらに声が聞こえてきた。
幼い子ども。若い男。年老いた女。笑い声。叱る声。
「おかえり」
「ちゃんと食べてる?」
「風が強い日は東の浜へ行くなよ」
誰も、大切なことなど言っていなかった。
だからこそ、胸に刺さる。
日常だった。
失うつもりなどなかった日々。明日も続くと、誰も疑わなかった時間。
最初、ルカは幻なのだと思った。
ウェル=メリアが巡礼者たちの望みを読み、彼らの欲しい声を作っているのではないか。そういう海なのだと。
けれど、少し意識を合わせた瞬間、分かってしまった。
オルカ=ナハトで、名が渡っていった道を読んだ時のように。
どこから来た。
何を通った。
誰へ渡った。
声の道を辿る。
目の前の船長から生まれたものではない。彼の記憶を読み、今ここで作られた声でもなかった。
もっと古い。
ずっと昔、どこかの海辺で、誰かが本当に口にした。
その時、声は何かへ残った。祈り。名。潮。流された品。沈んだ船。祈魚。
いくつものものを通り、形を変え、それでも消えずにここまで来た。
「……本物」
ルカの声が漏れた。
隣でエルンが頷く。
「うん」
「分かる?」
「ルカとは違う」
彼は巡礼船ではなく、その下の深い海を見ていた。
「でも、作ったものじゃない」
「やっぱり」
巡礼船長が二人を見る。
「分かるのか」
「少しだけ」
ルカは慎重に答えた。
「たぶん、本当に昔どこかで言われた声です」
船長は目を閉じた。
安堵したように見えた。
それと同じくらい、困ったようにも。
「だから帰れない」
ルカは眉を寄せる。
「帰れない?」
船長は一度口を閉じ、桶の中の銀魚を見た。
「……違うな。帰りたくない」
それで、ルカはようやく理解した。
この船は遭難しているのではない。壊れてもいないし、航路を失っただけでもない。
彼ら自身が、ここから離れようとしていない。
「どのくらい、ここに?」
「分からん」
「分からないって」
「昼と夜の区別がない。三日なのか、十日なのか、もっとなのか」
「食料は?」
「減ってる」
「水は?」
「祈魚が淡水の潮溜まりへ連れていく」
「それで大丈夫って話じゃないですよ」
「分かってる」
船長はすぐに答えた。
その速さに、ルカが止まる。
「……分かってるんですか」
「ああ」
船長は疲れた顔で笑った。
「船長だからな」
甲板を見渡せば、髭が伸びた者、服の汚れた者、眠れていないらしい者がいる。それでも誰も、声から離れようとはしていなかった。
「帰らせるべきだと思ってる。最初の日から」
「じゃあ――」
「俺が最初に捕まえた」
船長は後部甲板を指した。
そこには急ごしらえの生簀が三つあった。海水を循環させる木枠。その中に、何十匹もの祈魚がいる。
外海を泳ぐ魚たちと比べて、どれも光が弱い。
「最初は一匹だった」
船長は桶の銀魚を見る。
「母の声を運んでた魚だ。どこかへ行ったら、もう聞けないと思った」
「だから?」
「一匹だけなら」
船長は自嘲するように笑った。
「そう思った」
若い女も、水鉢の鱗へ視線を落とす。
「私は、一枚だけならって思った」
「鱗を?」
「魚そのものを連れて帰るよりはいいと思った」
ルカは祈魚を見る。
鱗を失ったところだけ、小さく光を欠いていた。
「痛がってる」
「分かってる」
女は目を逸らさなかった。
「分かってるよ。だから一枚だけ」
「でも、その一枚を――」
「じゃあ、どうすればいいの?」
返ってきた声に、ルカは止まった。
「紙に歌詞を書く? 書くよ。覚えてるところは全部書く」
「なら」
「でも、歌は戻らない」
オルカ=ナハトでのことが、すぐに浮かんだ。
ミレアも、同じところで立ち止まっていた。
「音も残そうとした」
女は甲板の端を指す。
そこでは一人の巡礼者が細い潮管を水鉢へ差し込み、祈魚の声を蝋管へ刻もうとしていた。
再生すると、水音と低い震え、掠れた雑音だけが戻ってくる。
祭歌だけが、きれいに抜け落ちていた。
「また違う」
男が呻く。
「確かに聞こえたのに」
若い女はルカを見る。
「私が歌っても違う」
「……うん」
「故郷へ帰って、誰かと合わせることもできない」
その島は、もう沈んでいる。
「これしかないの」
女は鱗を握りしめる。
「これを持って帰れたら、少なくとも私だけが言ってる話じゃなくなる。私の島は、本当にあったって言える」
ルカは何も言えなかった。
魚を傷つけるのは嫌だった。捕まえ、弱らせるのも違うと思う。
それでも、女の言っていることまで間違いだとは思えない。
船長が生簀を見る。
「一匹だけなら」
若い女が鱗を見る。
「一枚だけなら」
甲板のどこかで、誰かが呟いた。
「一声だけ」
これだけ残せれば。
その願いが、一つずつ積み重なったのだ。
船長は目を閉じる。
「それが増えた」
一人が一匹。別の者が一枚。さらに別の者が一声。
「止めるべきだった。俺が」
「でも」
「船長だからな」
今度の言葉には、さっきの冗談めいた響きはなかった。
「俺が最初にやった。だったら、ほかの奴に駄目だとは言えなかった」
桶から、また声がした。
「潮が変わるよ」
母親の声。
船長の肩が小さく動いた。
「出口も探したんですよね」
ルカが訊く。
「何度も」
「祈魚について行けば?」
「最初は案内してくれた」
「最初は?」
「生簀を作ってから、どれだけ進んでもここへ戻るようになった」
ルカは星潮羅針盤を開いた。
針は相変わらず、どこにも決まらない。
「魚を捕まえたから?」
「分からん」
「でも」
エルンが言った。
全員が少年を見る。
彼は海面よりもっと下へ視線を置いていた。
「前より、道が少ない」
「道?」
「入ってきた時はいっぱいあった」
祈魚たちは、それぞれ違う海から来ていた。違う名、違う祈りを抱え、ここで交わり、またどこかへ向かっていく。
「今は、この船の周りで止まってる」
エルンは生簀を見る。
「入って、出てない」
ルカも意識を澄ませた。
オルカ=ナハトで覚えた、名が渡っていく道。
祈魚の中には、確かに残響がある。海から魚へ。魚から次へ。本来なら続くはずの流れだ。
けれど、この船では生簀へ入り、鱗へ、瓶へ、蝋管へ、誰かの手元へと留まり、その先へ抜けていない。
「止めてるから……」
言いかけて、ルカは口を閉じた。
七つの錨。
凍ったように静止した海。
ヴァルカ。
動くものを止めれば、失わずに済む。そう信じた人。
あの時、ルカは言えた。
止めれば届かない。名も、海も、帰る場所へ行けない。
今も、それが間違っていたとは思わない。
けれど、同じ言葉をこの人たちへ向けて簡単に言うことはできなかった。
船長がルカを見る。
「言いたいことがあるなら言え」
「……あります」
「魚を放せ?」
ルカは答えなかった。
「帰れ?」
船長の声に責める響きはない。ただ疲れていた。
「死んだ人間は戻らない?」
「そんなこと」
ルカは眉を寄せる。
「簡単に言える話じゃないです」
「そうか」
船長は少し笑った。
「なら、聞く」
桶から、母親の声がまた流れる。
「先に飯食べちまうよ」
船長はそれを最後まで聞いてから、ルカへ訊いた。
「これがお前の母親の声だったら?」
ルカの呼吸が止まった。
「え」
「もう二度と聞けない。顔も、家も、何も残ってない」
船長は桶を見る。
「この一匹を放したら、二度と聞けないかもしれない。それでも海へ返せるか?」
ルカは答えなかった。
答えられなかった。
もし、本当に母の声だったら。
自分を呼んでいた声なら。
ずっと知りたかったものなら。
「……分かりません」
ようやく、それだけ言った。
船長も何も言わなかった。
それで話は終わった。
帰れ。
魚を放せ。
そんな正論を、ルカはもう口にできなかった。
*
その時、ナミル=レイの名灯が鳴った。
光ではない。
ちり、と小さな貝殻同士が触れたような音。
「ナミル?」
ルカが振り返る。
船縁の外に、一匹の祈魚が浮いていた。
透明だった。
ほとんど水と区別がつかない。骨も内臓も見えず、輪郭だけが淡く光っている。
その胸の辺りに、二つの小さな光があった。
「さっき、いた?」
ルカが訊くと、エルンは首を振った。
「見てない」
魚がナミル=レイへ近づいてくる。
逃げない。
むしろルカを選んで、こちらへ来た。そう思えるほど真っ直ぐだった。
「……私?」
魚が口を開いた。
声は聞こえなかった。
代わりに、ルカの胸が鳴る。
「――っ」
第一の一音。
七つの錨が眠った夜から、胸の奥にあるもの。
続いて呼吸が変わる。胸骨、喉、肺。身体が第二の一音を思い出した。
魚の中の二つの光が震える。
第一。
第二。
同じではない。
それでも、近い。
あまりにも近かった。
自分の中にある二音が、外側から呼び返されたようだった。
「エルン」
ルカの声が掠れる。
「聞こえた?」
「少し」
「これ……」
その先の言葉が出なかった。
ネル=エル。
その痕跡を探しに来た。
二音は古い海の神の名前かもしれない。そう思っていたし、どこかでは、そうであってほしいとも願っていた。
けれど魚の中から二つの響きが返った瞬間、別の考えが浮かぶ。
ここへ来る前、口にしてしまった言葉。
祈魚って、世界中の名を持ってくるんだよね。
だったら。
私のもあるかな。
「私の……」
そこから先を口にするのが怖かった。
本当の名前。
海へ流れ着くより前に失った名。誰かが自分へ向かって呼んでいた音。
ずっと探してきたもの。
透明な祈魚は、手を伸ばせば届くところまで来ていた。
「……捕まえられる」
エルンは何も言わなかった。
魚も逃げない。
ナミル=レイには潮水槽がある。海水を循環させ、祈魚を弱らせずに運ぶ方法だって、工夫すればあるかもしれない。
メルナ=レイへ帰って、神官たちに調べてもらう。
第一と第二を照合する。
もし、この魚が続きを運んでいるのなら。
三つ目。
四つ目。
もっと先まで聞けるかもしれない。
ずっと探してきた自分の名へ、今までで一番近づける。
「この魚だけなら……」
口から出た言葉に、ルカ自身が息を止めた。
一匹だけなら。
船長が言った。
一枚だけなら。
若い女が言った。
一声だけ。
これだけ残せれば。
巡礼船の甲板にある弱った祈魚。鱗。瓶。蝋管。
ルカはそれらを見る。
違う。
同じじゃない。
そう思った。
自分は声を懐かしんで、ここへ留まりたいわけではない。名前を探している。それが今の航海の目的だ。
失ったものを取り戻したい。
自分が誰だったのか知る権利くらい、あるはずだ。
この魚を調べるのは、誰かの記憶へ執着することとは違う。必要な調査なのだと、いくらでも言える。
どの理由も嘘ではなかった。
ルカには本当に、知りたいことがある。
誰だったのか。
どこから来たのか。
誰が、どんな声で自分を呼んでいたのか。
どうして海へ流されたのか。
何を失ったのか。
知りたい。
第一潮真名を得るよりも、名を拾う仕事を始めるよりも、もっと前から。
たぶん、ずっと。
「逃げないで」
小さな声が出た。
自分でも驚くほど弱かった。
祈魚は、逃げていない。
それなのにルカは、もう失うことを怖がっている。
まだ手に入れてすらいないものを、なくしたくないと思っていた。
船長の母の声が、頭の片隅でもう一度響いた気がした。
――あんたは、また帆を畳み忘れたのかい。
何でもない言葉。
だからこそ、失いたくなかった声。
ルカには、そんな声の記憶すらない。
もし、この魚の中に、自分を呼んだ声へ続く何かがあるのなら。
欲しい。
欲しくないはずがなかった。
ルカは水面へ手を伸ばした。
指先が触れる。
ウェル=メリアの海は、驚くほど温かかった。体温に近い。
透明な魚が、掌のすぐ下を泳ぐ。
あと少し指を閉じれば、捕まえられる。
胸の奥で第一の一音が鳴り、呼吸の底には第二の一音が残っている。そして魚の中から、二つに似た何かがルカへ向かって響いていた。
神の名なのか。
自分の名なのか。
まだ分からない。
分からないからこそ、確かめたい。そのためには、手元へ置きたい。
そう思うことが間違っているとは、どうしても思えなかった。
船長へ魚を返せとは言えなかった。
今なら、その理由が嫌というほど分かる。
ルカは手を伸ばしたまま、透明な祈魚を囲みかける。
けれど指は、最後まで閉じなかった。
欲しいという気持ちも、離したくないという怖さも、どちらも消えないまま、温かな海水だけが指のあいだを静かに流れていた。




