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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第8話 祈魚は、神ではない名を運んだ
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序節 ― 神の名を確かめる

潮には、

手放さなければ渡れない場所がある。


大切だからこそ握りしめ、

失いたくないからこそ、

離せなくなるものもある。


けれど、

選ばなかった名まで抱いたままでは、

今の自分が見えなくなることもある。


もし祈りを運ぶ魚が、

あなたの知らない名を差し出したなら、

どうか、それだけを本当の自分だと思わないでほしい。


選ばなかった海もまた、

今いる岸を形作っている。

 メルナ=レイへ戻って三日目の朝、ルカは自分の呼吸を五人の神官に囲まれて聞かれていた。


「……やりにくい」


 場所はネリュエ神殿の奥、潮記録庫に併設された小さな祈唱室だった。円形の部屋には窓がなく、壁一面を古い潮紙と貝板の棚が埋めている。床の中央には海水を張った浅い水盤があり、その周囲へ還名神官たちが座っていた。


 誰も咳払い一つしない。ただ、じっとルカを見ている。


「普段通りでよい」


 向かいに座った老神官が言った。


「そう言われると、普段通りが何だったか分からなくなるんですけど」


「オルカ=ナハトではできたのだろう」


「鯨はこんな顔して見てませんでした」


「鯨がどんな顔でお前を見ていたのかは知らんが、こちらも食いついたりはせん」


「そこは心配してません」


 壁際から小さな笑い声が聞こえた。


 エルンだった。


 ルカはすぐにそちらを睨む。


「他人事だと思ってるでしょ」


「少し」


「正直」


「でも、ルカしかできないから」


「それを言われると弱い」


 仕方なく肩の力を抜いた。


 机には何枚もの潮紙が並べられている。


 第一潮真名について、ルカが覚えている限りを書き留めたものだった。正確な文字ではない。胸のどの辺りで鳴るのか、響きはどれくらい続くのか。七つの錨が眠った夜、割れた貝殻護符がどう反応し、どんなふうに一音が自分の中へ戻ってきたのか。


 音そのものを書き写せなくても、その周囲で起きたことなら記録できる。


 問題は二つ目だった。


 オルカ=ナハトで受け取った第二潮真名は、文字へ置き換えれば違う音になる。音の上下を線へ変えても違う。息を吸う長さ、喉の開き、胸骨の震えまで、覚えていることを何種類もの記号へしてみたが、それでも紙の上に残ったものは第二の一音そのものにはならなかった。


 だから調べようとするたび、ルカ自身がここへ座るしかない。


「では、始めよう」


 老神官が手を上げると、周囲の神官たちがそれぞれの記録を開いた。一人は貝板、一人は巻かれた古い潮紙、もう一人は薄く削った鯨骨板を膝へ載せている。


 ルカは目を閉じた。


 最初は、第一の音。


 胸の奥へ意識を沈める。もう探すというほどでもなかった。これは、すでにいる。身体の深いところで普段は静かにしているだけで、意識を向ければ、そこから自分へ返事をしてくれる。


 その響きをなるべく変えないように、短く声へ出した。


 一音。


 水盤へ小さな波紋が生まれ、神官たちの視線が一斉に水面へ落ちる。


「次」


 老神官に促され、ルカは息を吸った。


 二つ目は、思い出すのではない。身体に思い出してもらう。


 オルカ=ナハト。老鯨ハルガの歌。長い航路を通り、人から鯨へ、鯨から人へ渡っていった声。


 胸骨。喉。肺。


 あの時と同じように、潮風を身体の奥まで入れるつもりで深く吸い、ゆっくりと吐く。


 息の最も深い場所から、第二の一音が浮かび上がった。


 ほとんど人の耳で拾える音にはならない。それでも、水盤が震えた。


 第一の時とは違う。波紋が表面へ広がるより先に、水そのものが底から一度押し上げられたように揺れた。


 一人の神官が、素早く貝板へ印を刻む。


「もう一度、第二だけを」


 別の神官が言った。


「はい」


 ルカは繰り返そうとした。


 けれど今度は、さっきと同じにしようと考えすぎた。息を吸うより先に喉が動く。


「違う」


 ルカは自分から止めた。


 神官も頷く。


「今のは違う」


「分かるんですか?」


「水の動きが違う」


「私も違うって分かるんですけど、何が違うかって訊かれると説明できないんですよ」


 ルカは喉を撫でた。


「もう一度」


「はい」


 三度目。目を閉じたまま、ルカは一瞬だけ眉を寄せる。


 また、もう一度。


 ここへ来てから、何度も言われた言葉だった。


 もちろん必要なのは分かっている。調べてほしいと頼んだのも自分だし、神官たちが悪いわけでもない。


 それでも、胸の奥にあるものを、何度も机の上へ出すよう求められている気がした。


 ――これ、私の中にある音なんだけどな。


 そう思った途端、第二の一音が遠ざかった。


「……駄目」


 ルカは目を開けた。


「考えすぎた」


 老神官が彼女を見る。


「少し休むか」


「いえ。もう一回だけ」


「無理に出すな」


「大丈夫です」


 今度は神官も、記録も、水盤もいったん忘れた。


 海。


 鯨。


 ナミル=レイ。


 あの時、身体へ入り込んだ潮風。


 それだけを思い出す。


 息を吸い、ゆっくり吐く。


 水盤が深く揺れた。


「それだ」


 老神官の低い声が落ちる。


 ルカは最後まで息を吐ききり、椅子へ背中を預けた。


「これ、何回もやってたら、そのうち自分でもどれが本物か分からなくなりそう」


 胸を撫でながら言うと、老神官は首を振った。


「だから今日はここまでだ」


「……助かります」


 それ以上求められなかったことに、ルカは少しだけ救われた。


 第一の音は、何度確かめても同じ場所から鳴る。第二は違う。自分が覚えていなければならない。


 エルンも呼吸までは覚えてくれている。それでも最後に、この音を自分のものとして確かめられるのは、やはり自分自身だった。


     *


 調査は記録の照合へ移った。


 最初に開かれたのは、現在でも還名儀式へ使われているネリュエへの祈りだった。そこからさらに古い形式へ遡り、島ごとに発声の変わった潮語、死者を送る祭文、漂着者を迎える祈り、船出の前に唱える短い神名句、海底神殿跡から引き揚げられた意味の半分ほど失われた祈唱まで、一つずつ声に出して確かめていく。


 ルカにも意味の取れるものはあったが、ほとんど理解できないものも多かった。


 それでも何度も聞くうち、一つの共通点に気づいた。


「あ」


 老神官が顔を上げる。


「どうした」


「今の。また戻った」


「何がだ」


 ルカは指先で空中へ円を描いた。


「最初に呼んで、一回遠くへ行った感じがして……最後に戻ってくる」


 老神官は頷いた。


「ネリュエの古い祈りは、そういう潮律を持つ」


「潮律?」


「言葉の意味そのものではない」


 老人は潮紙の一節を指先でなぞった。


「巡る。還る。そして、もう一度巡る」


 別の神官が水盤の縁へ三つの貝片を置いた。


 最初の一つ。その位置から遠くへ二つ目を置き、最後に一つ目の近くへ三つ目を戻す。


「預ける。巡る。還る」


 老神官は続けた。


「時代や地域で言葉は変わる。だが、ネリュエをネリュエとして呼ぶ祈りには、ほぼ必ず《返し》がある」


 ルカは自分の胸へ触れた。


 第一。


 第二。


 二つの一音を心の中で続ける。


 オルカ=ナハトを離れた夜、初めて二音を並べた時、それはただの異質な音ではなくなった。誰かを呼ぶような、一つの名前らしい形を持ち始めた。


 けれど――。


「戻ってこない」


 ルカが言った。


「そうだ」


 老神官の返事は早かった。


「現在確認できる二音を聞く限りではな」


「でも、まだ二つしかないですよ」


「無論だ。残る音が《返し》を作る可能性はある」


「ですよね」


「だが、今ある二音だけを材料にするなら、ネリュエの神名構文とは一致しない」


 断定しすぎない。ただ、今分かる範囲だけを言う。


 その言い方が、ルカには信用できた。


 同時に、胸のどこかが少しだけ落ち着かなくなった。


 そのあとも古い潮語、マルメリアの発声、ネレイオンへ残った祈りの断片、島々の祭文、失われた船名を呼び返す古唱まで照らし合わせたが、二つの音と完全に重なるものはなかった。


 やがて、神殿記録とは少し違う束が机へ置かれた。


 厚い灰色の紙。


 その端へ刻まれた印を見た瞬間、ルカの表情が少し硬くなる。


 七本の錨を重ねた紋。


「錨記庁?」


「押収記録の写しだ」


 老神官が答えた。


「七錨静潮機停止後、公開対象となった資料の一部が神殿にも回された」


 ルカは紙へ身を寄せる。


 ヴァルカたちが研究していた古い七潮構文。流れるための構造を読み、それを逆向きに用い、止めるための七つの錨へ変えた記録。


 その中には、最後まで完全には解読できなかった古層の図も混ざっていた。


 中心から伸びる線。途中で分岐する潮路。重なり合う波紋。文字というより、航路そのものを無理に平面へ押し込めたような形だった。


「これ」


 ルカが一枚を指した。


「オルカ=ナハトで見たのに似てる」


 壁際にいたエルンが近づいてくる。


「鯨の道?」


「うん。真っ直ぐ目的地へ行ってない。途中を通って、どこかへ渡して、それから次へ行ってる」


 エルンも紙を覗き込む。文字ではなく、その下へ沈んでいるものを見るように目を細めた。


「閉じてない」


「やっぱり?」


「うん」


「どこかへ行こうとしてる?」


「そう見える」


 二つの潮真名も、完全に無関係ではなかった。


 第一の音へ古い図の一部が微かに反応し、第二の呼吸を再現すると水盤の底へ似た震えが走る。


 けれど、そこから先へは繋がらない。


     *


 昼を過ぎた頃、神官たちはようやく記録を閉じた。


 古い潮紙。海水。貝板。潮墨。祈唱室には、長い時間そのものを閉じ込めたような匂いが残っている。


 ルカは机へ肘をつき、両手で頬を挟んだ。


「つまり」


 誰も言わないので、自分から口にする。


「ネリュエじゃない」


 老神官はゆっくり頷いた。


「少なくとも、我々の知るネリュエ神名構文とは一致しない」


「やっぱり」


 するりと声が出た。


 落胆より、納得の方が先だった。


 いや。納得しようとしたのかもしれない。


 第一潮真名を得た頃から考えていた。ネリュエでなければ、もっと古い海の名なのではないか。


 ネル=エル。


 七つに分けられた、古く、大きな何か。


「じゃあ、もっと古い方なのかな」


 エルンがルカを見る。


「ネル=エル?」


「うん」


 返事が、少しだけ早かった。


 老神官はしばらくルカを見つめてから言った。


「ネル=エルだという証拠もない」


「分かってます」


 今度も返答は早かった。


 ルカ自身は、そのことに気づかない。


 エルンも何も言わなかった。


 ルカは水盤を見つめる。


 ネル=エル。


 古い海。沈んだ名。


 神なのか、海域なのか、それさえ曖昧な存在。


 もしこの二つの音がネル=エルの名なら、自分はただ、古い神の名前を探しているだけなのだろうか。


 そこまで考えたところで、胸の奥に何かが沈んだ。


 まだ、言葉にはしなかった。


「ネル=エルの神殿って、ないんですよね?」


 ルカが訊く。


「ネリュエ神殿のような中央神殿はない」


「古い祠とかは?」


「ある。地誌にも、海域名にも、船乗りの口伝にも残っている」


「神として祀られてない?」


「祀られていた土地はある。だが、一つの信仰体系としては残っていない」


「どうして?」


「古すぎるからだとも言われる」


 老人は少し考え、続けた。


「あるいは、海に近すぎるからとも」


「海に?」


「神として祈られるより前から、深い海、沈んだ名、戻らない記憶。そうしたものを指す言葉として《ネル=エル》が存在していた可能性もある」


「神名と地名の区別がない?」


「古記録ではな」


 ルカは顔をしかめた。


「じゃあ、記録がない名前を記録と比べて確かめるの、無理じゃないですか」


「そうなる」


「認めるんだ」


「無理なものは無理だ」


「じゃあ、どうするんです?」


 老神官は棚の奥へ視線を向けた。


「記録の残っている場所ではなく――古い記憶そのものが集まる場所へ行く」


 別の神官が一枚の海図を持ってきた。


 普通の海図ではなかった。島の位置よりも、潮流の重なり、深度の変化、古い海路、祈りの流れといったものが細かく描き込まれている。


 その一角だけが、点線で曖昧に囲まれていた。


 固定座標はない。


 そこには名だけが記されている。


《ウェル=メリア》


 ルカが読み上げる。


「聞いたことある」


「幻海域の一つだ」


「祈魚が集まる海」


「それも、全海域からな」


「全海域?」


 老神官は海図を広げた。


「北の氷海にしかいない祈魚と、南の暖海を巡るもの。深海からほとんど上がらないものと、浅瀬から離れないもの。それらが同じ海で見られると伝わる」


「普通なら絶対会わないじゃないですか」


「普通の海ではないからな」


 祈魚は、名や祈り、声の残響へ寄り、それを運ぶ。


 死者の名。昔の祈り。沈んだ都市の鐘。忘れられた船。もう誰にも呼ばれなくなった声。


 そうしたものが、海域を越えてそこへ集まるという。


「もしネル=エルが、沈んだ名前とか、古い記憶とか、そういうものに近いなら」


 ルカは海図を見つめた。


「今の神殿記録を漁るよりは、痕跡へ触れられる可能性がある」


 老神官が答える。


 エルンが海図へ顔を近づけた。


「場所、ない」


「幻海域だからな」


「ほんとだ」


 ルカも覗き込む。


《ウェル=メリア》。


 名前だけ。


 緯度も経度もなく、どこから何日という目安さえない。


「また海図にない道かあ……」


 ルカは額を押さえた。


「今度は海図に名前だけある」


 エルンが言う。


「余計困るやつだよ、それ」


 それでも、前とは違う。


 行き先そのものがないのではない。


 行き方が分からないだけだ。


 なら、名が通った道を読めばいい。


 神官たちが記録を片づけ始めるなか、ルカも潮紙を重ねていった。


 その横で、エルンがぽつりと訊く。


「ウェル=メリアには」


「うん?」


「世界中の祈魚が来るんだよね」


「そうみたい」


「世界中の名も?」


 ルカの手が止まった。


「……たぶん」


 そして、ほんの少しだけ笑う。


「だったら、私のもあるかな」


 言ってから、自分で驚いた。


 神の名前を確かめに行く。


 そのつもりだったはずなのに、口から出たのは自分の名前だった。


 エルンはすぐには答えなかった。


「あるかもしれない」


 それだけ言う。


 ルカはしばらく黙り、


「……そっか」


 と小さく返した。


 嬉しい。


 怖い。


 どちらか一つを選ぶより先に、二つの感情がほとんど同じ大きさで胸へ入ってきた。


     *


 翌朝、ナミル=レイはメルナ=レイを出た。


 真珠港の白い家々が、朝の光の向こうで少しずつ小さくなっていく。ルカは何度か港を振り返り、三度目でエルンに気づかれた。


「忘れ物?」


「してない」


「じゃあ?」


「何でもない」


 ルカは前を向いた。


 海図の上には《ウェル=メリア》という名前だけがある。そこへ続く線は一本も引かれていない。


 最初の半日は普通の海を走った。青い水。穏やかな波。南から吹く風。遠くを一隻の漁船が横切り、その姿が見えなくなる頃、ルカは船首へ立った。


「ここまでは来たけど」


 海図を閉じる。


「ここから、どうする?」


 エルンは少し考えた。


「第二の音」


「やっぱり?」


「鯨の歌から来たから。ただ出すんじゃなくて、あの時と同じ方がいいと思う」


 ルカは頷いた。


 潮紙には残せなかった一音を、今も身体が覚えている。


「じゃあ、私は上」


「上?」


「今、流れてる方を見る」


 続いてエルンを指す。


「エルンは下」


「沈んでる方?」


「うん」


「ナミルは?」


 二人は同時に船を見た。


 真珠色の帆が小さく震える。


「真ん中」


 ルカが言った。


 海面を流れる名。その下へ沈んだ残響。そして、その間を進む船。


 オルカ=ナハトで知った。


 名は、一つの場所だけにあるものではない。人から物へ、海へ、祈魚へ、鯨へ。形を変え、渡りながら残っていく。


「やってみよう」


 ルカは船首へ両手を置いた。


 ナミル=レイの名灯が淡く光る。


 エルンは甲板へ片膝をつき、掌を船板へ当てた。


「聞こえる?」


「まだ」


「じゃあ、いくよ」


 まず第一。


 胸の奥にある一音を短く海へ落とす。


 水面へ小さな波紋が広がった。


 続いて第二。


 ルカは肺の奥まで潮風を吸い込む。喉へ力を入れず、胸骨と呼吸に残ったあの海の感覚を辿りながら、ゆっくり息を吐く。


 音になりきらない響きが海へ落ちた。


 しばらく、何も起こらない。


「……失敗?」


「待って」


 エルンの声が低かった。目は閉じたまま。


「下に落ちてる」


「音が?」


「うん」


「どこまで?」


「深い。でも、沈みきってない」


 エルンの眉が動く。


「何かある?」


「……拾ってる」


「誰が?」


「いっぱい」


 その瞬間、ナミル=レイの名灯が強く光った。


 船腹の下から、こつ、と小さな音がする。


「何?」


 今度は反対側から、こつ。


 ルカは船縁から海を覗き込んだ。


 一匹の銀色の小魚がいた。


「祈魚?」


 魚はすぐ水中へ潜った。代わりに、真珠色の腹と星のような斑点を持つ尾が現れる。


 さらに一匹。


 二匹。


 五匹。


 十匹。


「増えてる……」


 ナミル=レイの周囲へ、次々と魚影が集まり始めた。


 最初は、この海域でも見かける種類なのだと思った。


 けれど、一匹の細長い魚を見た瞬間、ルカは目を凝らす。半透明の鰭を持つ、冷たい海の祈魚。


「それ、北の氷海にしかいないやつじゃない?」


 その隣を、南の珊瑚礁に棲む赤金色の祈魚が泳いでいく。さらに下からは、本来なら光の届かない深さにいるはずの魚が、青白い灯を身体へ宿しながら浮かび上がってきた。


「エルン」


「見えてる」


「おかしいよね」


「うん」


 浅瀬の魚。深海の魚。北の海。南の海。名前すら知らないもの。骨まで透けて見えるもの。鰭を翼のように広げるもの。


 本来なら同じ海を泳ぐことのない祈魚たちが、一つの船の周りへ集まっている。


 海の下が、もう一つの夜空になった。


「……すごい」


 ルカは一瞬、目的さえ忘れそうになった。


 その直後、祈魚たちが一斉に向きを変える。


「どれについてけばいいの?」


「全部」


「全部?」


「同じ方を見てる」


 種類も泳ぐ深さも大きさも違う。それでも、向いている先だけは同じだった。


 南でも東でもない。


 羅針盤で示せる方角でもない。


 一匹が泳ぎ始めると、次が続き、さらにその次も動く。数え切れないほどの祈魚が、一つの大きな流れになった。


「ナミル!」


 ルカは舵へ走った。


「行くよ!」


 帆を張り、ナミル=レイが祈魚の群れを追う。


 けれど、すぐにルカは速度を落とした。


「違う」


「何が?」


「追っちゃ駄目」


 オルカ=ナハトで、最後だけを先に取りに行こうとした。その結果、鯨歌の道は最初へ戻った。


 目的地へ誰より早く着けばいいわけではない。


「同じ道へ入る」


 ルカは魚群の速度へ船を合わせた。


「ナミル。追いつかなくていい」


 帆が一度だけ鳴った。


「一緒に行こう」


 祈魚と白い船が、水面の下と上で並ぶように進み始める。


 やがて海の色が変わった。


 青が薄くなったように見えたが、違う。水の内側から光が滲み出しているのだ。


 一つ。


 二つ。


 十。


 百。


 昼の海の中へ、空にはない星が浮かび上がっていく。


「空にない星が映ってる」


 ルカが呟く。


 エルンは海の下を見た。


「下にもある」


「祈魚?」


「魚だけじゃない」


 ナミル=レイの名灯が揺れる。


 ルカが星潮羅針盤を開くと、針は一周、二周と盤面を回った。北を探し、一度は掴みかけ、それを手放すようにまた回る。


 やがて、方角を示すことそのものを諦めたように止まった。


 それを見て、ルカは少し笑った。


「入ったんだ」


「うん」


「たぶん」


 今度は、その言葉にも以前ほど不安はなかった。


 海図には線がない。羅針盤も使えない。


 それでも、祈魚たちが通る道は確かにある。


 前方へ霧が現れた。


 白ではない。


 青、緑、真珠色。


 見る角度によって色を変えながら、海と空の境界を少しずつ曖昧にしていく。


 祈魚たちは迷わず、その霧の中へ入っていった。


 ルカは舵を握る。


「ウェル=メリア」


 その名を口にすると、霧の奥で何かが応えるように一度だけ光った。


 ナミル=レイも、祈魚たちに続いて霧へ入る。


 ルカは最後に後ろを振り返った。


 つい先ほどまで広がっていた普通の海は、もう見えない。


 前にも後ろにも、無数の祈魚がいた。


 北の魚。南の魚。浅い海の魚。深い海の魚。どの海のものとも分からない透明な魚たち。


 それぞれが名や祈り、声の残響を抱えながら、同じ場所へ集まっている。


 ルカは胸へ手を当てた。


 第一の一音。


 続いて呼吸を整え、第二の一音を身体の奥へ確かめる。


 二つは短く続き、やはり誰か一人を呼ぶような形になる。


 これがネル=エルの名なのか。それとも、まったく別の何かなのか。


 まだ分からない。


 そして、この海に自分が失った名前の記憶まで残っているのかどうかも、まだ何一つ分からない。


 それでも、知りたいと思った。


 同時に、知ってしまうことが怖いとも思った。


 その二つの感情が、初めてほとんど同じ大きさで胸の中へ並んでいる。


 ルカは逃げずに、その両方を抱えたまま霧の向こうを見た。


 ナミル=レイは無数の祈魚とともに、古い名と記憶が集まる海《ウェル=メリア》へ、静かに船首を進めていった。

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