終節 ― 二つの音
夜の海から、鯨の声が遠ざかっていく。
オルカ=ナハトの湾口を、一頭、また一頭と黒い背が越えていった。島へ帰ってきたばかりの群れが、もう次の海へ向かっている。ずっとここに留まるために帰ってきたのではないのだろう。歌うべき歌を歌い、受け取るべきものを受け取り、長いあいだ途切れていた航路をもう一度海へ繋ぐ。それが終われば、鯨たちはまた泳ぎ出す。
月明かりの下で白い潮吹きが上がり、少し遅れて低い声が届いた。今度の歌は途中で途切れない。長く、深く、最後まで伸びた声を別の鯨が受け取り、さらに遠くからまた別の声が応える。一頭で最初から最後まで歌っているわけではない。それでも歌は切れず、海の向こうへ運ばれていった。
やがて声は一つずつ小さくなり、波音との区別がつかなくなる。
「行っちゃったね」
ルカはナミル=レイの船尾から、暗い水平線を見つめていた。
「うん」
エルンが答える。
「来年も戻ってくるかな」
「戻るんじゃない?」
「何十年も?」
「鯨が覚えてたら」
「何百年も?」
エルンは少し考えた。
「誰かが覚えてたら」
ルカは振り返った。その答えが少し嬉しくて、自然に笑みがこぼれる。
「そっか」
鯨だけでなくてもいい。人でも、歌でも、身体でも、海に残った道でもいい。全部を一人が覚えている必要はない。誰かから誰かへ渡りながら、それでも次へ続いていくのなら、きっとまた帰ってこられる。
オルカ=ナハトの浜には、まだ祭りの灯が残っていた。鯨骨の柱に吊られた貝灯、焚き火、家々の窓。昼まで静かだった島が、今では遠くからでも分かるほど明るい。
ナミル=レイは、すでに桟橋を離れていた。真珠色の帆が夜風を受け、両舷の名札も穏やかに揺れている。船首の名灯は、淡い光を絶やさず灯していた。
ルカは一度、浜を振り返った。人影はもう小さく、顔を見分けることなどできない。それでも、歌は届いた。
「あ」
ルカが船縁へ寄り、エルンも振り向く。
最初に聞こえたのは、ハオルの声だった。低く、少し掠れた、長い年月を海と一緒に歌ってきた老人の声。古い鯨歌が夜風に乗り、最初の一節から次へ、ゆっくりと続いていく。
そして、途中で声が消えた。
ルカの身体が一瞬だけ強張る。
けれど、今度は違った。
歌が失われたのではない。続きを忘れたのでもない。ハオルが、自分からそこで歌うのをやめたのだ。
次の瞬間、別の声が続いた。
ミレアだった。
ハオルより高く、呼吸も少し短い。同じ旋律を、同じ声ではないまま受け取り、その先へ運んでいく。さらに途中から別の島民の声が重なり、またハオルへ戻る。ミレアが受け、最後の一音では二人の声が重なった。
一つの歌が終わる。
「一人で全部歌わないんだ」
エルンが言った。
「うん」
ルカは浜を見たまま答える。
「前は、一人で最後まで残さなきゃいけないって思ってたのかもね」
「ハオルが?」
「ミレアも」
そして、たぶん自分も。
そこまでは口にしなかった。
ハオルの声だけではない。ミレアの声だけでもない。二つは違う。それでも、違う声が互いに受け渡すことで、一つの歌は最後まで続いていた。
ルカは自分の胸へ手を置く。
第一の一音は、七つの錨が眠った夜から、ずっとそこにある。耳から聞こえるというより、胸の内側から自分を呼ぶように鳴る音だった。
次に、そっと喉へ触れる。
第二の一音はこちらにある。胸骨から喉、肺へと続く呼吸の中。身体が正しい順番を辿った時にだけ戻ってくる。
同じところから来たように感じるのに、残り方はまるで違っていた。
オルカ=ナハトへ来た時には、一音しかなかった。今は二つある。
それでも、残りがどこにあるのかは分からない。どんな形で残されているのかも分からない。海図に記された場所なのか、誰かの記憶なのか、沈んだ都市なのか、それとも歌なのか。
分からないことは、まだいくらでもある。
けれど、何を探せばいいのかは少し変わった。
どこにあるのかだけではない。どこを通ったのか。誰に受け取られ、誰へ渡され、どこで沈み、どこからまた流れ始めたのか。
名には、道がある。
そこまで見なければ、きっと次へは届かない。
ルカは船尾の星見台へ腰を下ろした。机には潮鏡と星潮羅針盤、それから何枚もの潮紙が置かれている。
第二の一音を書き留めようとして失敗した紙。消した文字。音の高低を示そうとした線。呼吸の長さや、喉の形を忘れないために付けた記号。
どれも間違いではない。けれど、どれも第二の一音そのものではなかった。
ルカはそのうち一枚を手に取り、月明かりへ透かす。
「変なの」
「何が?」
エルンが隣から覗き込んだ。
「これだけいっぱい書いたのに、肝心の音はここにない」
「でも、残ってる」
「紙には残ってないよ」
「ルカに」
「分かってる」
ルカは潮紙を机へ戻した。
「それに、エルンも覚えてるんでしょ」
「呼吸は」
「そこだけ強調しないでよ」
「音はルカの中にあるから」
ルカは一度、エルンを見る。その言い方が妙に真面目で、少しだけ胸が温かくなった。
「……うん」
自分の名前なら、自分が覚える。
けれど、自分しか覚えてはいけないわけではない。
ハオルとミレアのように、一人の身体から別の身体へ、完全に同じ形ではなくても、何かを渡すことはできる。
「ねえ、エルン」
「うん?」
「二つ、続けたことなかったよね」
エルンが少し考える。
「ないと思う」
「だよね」
第一の一音を受け取った時には、まだ第二は存在していなかった。第二が来てからは、それをどうにか記録することばかり考えていた。
一つ目と二つ目を、続けてみようとはしていない。
ルカは椅子から立ち上がった。
「ちょっと聞いてて」
「何を?」
「分かんない」
エルンが首を傾げる。
「……分かんないものを聞くの?」
「とりあえず」
「うん」
ルカは目を閉じた。
すぐには声を出さない。胸の奥へ意識を沈め、自分の中でずっと鳴っている第一の一音を探す。
心臓ではない。もっと深いところ。
そこに、あった。
短く息を吸い、その響きを喉へ上げる。最初に受け取った時の深さを崩さないように、小さく声へした。
一音が、夜の海へ落ちる。
ルカは呼吸を止めず、そのまま次へ移った。
今度は大きく息を吸う。
第二の一音は、同じやり方では出てこない。胸を開き、喉には力を入れず、肺の底まで潮風を入れる。そして、ゆっくりと吐く。
呼吸の最も深いところから、二つ目を海へ渡す。
低く、声と呼んでいいのか分からないほど薄い響きだった。
それでも、確かに二音が続いた。
ただ、それだけだった。
長い言葉ではない。意味も分からない。
けれどルカは、すぐには目を開かなかった。
「……あれ?」
胸の奥で、何かが違っている。
一つずつ聞けば、どちらも異質な音だった。第一は、言葉になる前に胸へ沈む響き。第二は、声よりも呼吸に近い音。それぞれ違う形で残り、違う方法でしか呼び出せない。
なのに二つを続けると、その間に初めて意味のある空白が生まれた。
第一の音は、そこで終わっていない。
二つ目を待っている。
そして第二の音は、最初から存在していた一音の続きを受け取るように、そこへ収まる。
ただ二つ並んだのではなかった。
最初の声が次へ渡り、二つ目がそれを受け取った。
さっき聞いた浜の歌と同じように。
ハオルからミレアへ。
二つの違う声で、一つの歌になるように。
「もう一回」
ルカは小さく呟いた。
第一。
続いて、第二。
短い二音。まだ名前と呼ぶには足りない。
それでも、今までとは違った。
「……名前みたい」
ルカは目を開けた。
エルンは黙っている。
「ね?」
ルカが振り向く。
「今、名前っぽくなかった?」
「……うん」
「やっぱり?」
表情がぱっと明るくなる。
「一つずつだと、何なのか全然分からなかったけど」
もう一度、二音を続ける。
「こうすると……誰かの名前みたい」
偶然に二つの音を並べただけではない。そこには、一つのまとまりがあった。
誰かを示すための形。
呼べば、その先にいる何者かが振り向きそうな響き。
「これ……やっぱり、ネル=エルの名前なのかな」
期待が声に滲んだ。
エルンは答えなかった。
ルカは海を見ていて、彼の表情には気づかない。
エルンは、今の二音を頭の中でもう一度繋げていた。
神の真名がどんな響きを持つのか、彼に知識があるわけではない。ネリュエの完全な神名も知らない。そもそもネル=エルというものが、一柱の神として、人が一つの名で呼べる存在なのかさえ分からない。
だから、違うとは言えなかった。
それでも、何かが引っかかった。
二つの音は深い。確かに、海の古い層へ届きそうな重い響きを持っている。
なのに、遠くない。
世界へ向かって呼びかける音ではなかった。大勢の祈りを受け止める神殿で唱える名にも、エルンには聞こえない。
もっと近い。
すぐそこにいる誰かへ、「ねえ」と呼びかけるくらいの距離だった。
こちらを向いてほしいと、たった一人へ届けばいい。
そんな呼び方に聞こえた。
誰か一人を、振り向かせるための音。
エルンはルカを見る。
月明かりが彼女の横顔を照らしていた。ルカは嬉しそうだった。二つ目まで見つけ、ばらばらだった音が初めて一つの名前らしい形を見せたのだから。
なら、今はそれでいい。
「エルン?」
ルカが振り向いた。
「どうしたの?」
「……何でもない」
「ほんと?」
「うん」
「変な顔してる」
「ルカもよくする」
「私はいいの」
「どうして?」
「船長だから」
エルンが首を傾げる。
「潮名の航海士じゃなかった?」
「それも」
「二つある」
「いいでしょ。二つあっても」
言ってから、ルカは少しだけ止まった。
エルンも一瞬、黙る。
二人とも、さっきの二音を思い出していた。
「……何?」
ルカが訊く。
「何でもない」
「また?」
「うん」
「今日それ多くない?」
エルンは少し笑った。
それで話は終わった。
違和感は、まだ答えではない。
誰の名なのか。ネル=エルなのか。それとも、まったく別の何かなのか。残りの音まで繋がれば、今とはまた違って聞こえるのかもしれない。
なら、確かめればいい。
そのためにも、一度帰る。
ルカは星潮羅針盤を取った。針は安定している。もう、どれだけ進んでも同じ海へ戻されることはない。
「帰ろうか」
「メルナ=レイ?」
「うん」
ルカは海図を開く。
今度は書かれていない道を探すためではない。帰るための航路なら、海図はちゃんと役に立つ。
「一回、調べたい」
「二つの音?」
「うん。ネリュエの神殿なら、古い潮語とか祈りの記録があるし、七本の錨から出てきたものとも、もう一度見比べたい」
胸の奥で二音を確かめる。
「これが誰の名前なのか、知りたい」
エルンは頷いた。
「分かった」
「ナミルもいい?」
船首の名灯が淡く瞬き、帆も一度だけ小さく鳴った。
「いいって」
「本当に?」
「たぶん」
「便利に使ってるでしょ、それ」
「ルカが教えた」
「人のせいにした」
「違う?」
「違わないけど」
ルカは笑いながら舵を取った。
ナミル=レイがゆっくりと進路を変える。オルカ=ナハトはすでに船尾の向こうにあり、浜の灯も少しずつ小さくなっていく。
それでも、最後まで歌は聞こえていた。
ハオルの低い声。ミレアの若い声。途中で交代し、重なり、また誰かへ渡されていく。一人で最初から最後まで抱えていなくても、歌は途切れず、その先へ届いていく。
ルカはその声を聞きながら、もう一度胸の奥で第一の一音を鳴らした。それから呼吸を整え、第二の一音を続ける。
二つは、違う残り方をした音だった。違う方法でしか呼べない。それでも続ければ、一つの名になり始める。
まだ短い。まだ欠けている。誰を呼ぶためのものなのかさえ分からない。
けれど確かに、誰か一人へ向かうリズムを持っていた。
やがて浜の歌が夜へ溶け、鯨歌も聞こえなくなる。
それでもルカは、もう知っている。
聞こえなくなったからといって、なくなったわけではない。
ハオルの声はミレアの中に残り、ミレアの声は海を渡ってハオルへ返った。鯨が通った道は歌へ残り、名のない船が最後に向いた方角はナミル=レイが受け取った。
そしてルカの中には、二つの音がある。
何もかもを同じ形のまま保存する必要はない。それぞれの場所へ、それぞれの残り方で渡っていき、その先でまた誰かが受け取る。
ナミル=レイは星を背負い、メルナ=レイへ向けて夜の潮を進んでいった。
ルカの胸では、まだ誰のものとも知れない二つの音が離れずに寄り添い、少しずつ、一つの名前になろうとしていた。




