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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第7話 鯨の歌は、沈んだ航路を覚えていた
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終節 ― 二つの音

 夜の海から、鯨の声が遠ざかっていく。


 オルカ=ナハトの湾口を、一頭、また一頭と黒い背が越えていった。島へ帰ってきたばかりの群れが、もう次の海へ向かっている。ずっとここに留まるために帰ってきたのではないのだろう。歌うべき歌を歌い、受け取るべきものを受け取り、長いあいだ途切れていた航路をもう一度海へ繋ぐ。それが終われば、鯨たちはまた泳ぎ出す。


 月明かりの下で白い潮吹きが上がり、少し遅れて低い声が届いた。今度の歌は途中で途切れない。長く、深く、最後まで伸びた声を別の鯨が受け取り、さらに遠くからまた別の声が応える。一頭で最初から最後まで歌っているわけではない。それでも歌は切れず、海の向こうへ運ばれていった。


 やがて声は一つずつ小さくなり、波音との区別がつかなくなる。


「行っちゃったね」


 ルカはナミル=レイの船尾から、暗い水平線を見つめていた。


「うん」


 エルンが答える。


「来年も戻ってくるかな」


「戻るんじゃない?」


「何十年も?」


「鯨が覚えてたら」


「何百年も?」


 エルンは少し考えた。


「誰かが覚えてたら」


 ルカは振り返った。その答えが少し嬉しくて、自然に笑みがこぼれる。


「そっか」


 鯨だけでなくてもいい。人でも、歌でも、身体でも、海に残った道でもいい。全部を一人が覚えている必要はない。誰かから誰かへ渡りながら、それでも次へ続いていくのなら、きっとまた帰ってこられる。


 オルカ=ナハトの浜には、まだ祭りの灯が残っていた。鯨骨の柱に吊られた貝灯、焚き火、家々の窓。昼まで静かだった島が、今では遠くからでも分かるほど明るい。


 ナミル=レイは、すでに桟橋を離れていた。真珠色の帆が夜風を受け、両舷の名札も穏やかに揺れている。船首の名灯は、淡い光を絶やさず灯していた。


 ルカは一度、浜を振り返った。人影はもう小さく、顔を見分けることなどできない。それでも、歌は届いた。


「あ」


 ルカが船縁へ寄り、エルンも振り向く。


 最初に聞こえたのは、ハオルの声だった。低く、少し掠れた、長い年月を海と一緒に歌ってきた老人の声。古い鯨歌が夜風に乗り、最初の一節から次へ、ゆっくりと続いていく。


 そして、途中で声が消えた。


 ルカの身体が一瞬だけ強張る。


 けれど、今度は違った。


 歌が失われたのではない。続きを忘れたのでもない。ハオルが、自分からそこで歌うのをやめたのだ。


 次の瞬間、別の声が続いた。


 ミレアだった。


 ハオルより高く、呼吸も少し短い。同じ旋律を、同じ声ではないまま受け取り、その先へ運んでいく。さらに途中から別の島民の声が重なり、またハオルへ戻る。ミレアが受け、最後の一音では二人の声が重なった。


 一つの歌が終わる。


「一人で全部歌わないんだ」


 エルンが言った。


「うん」


 ルカは浜を見たまま答える。


「前は、一人で最後まで残さなきゃいけないって思ってたのかもね」


「ハオルが?」


「ミレアも」


 そして、たぶん自分も。


 そこまでは口にしなかった。


 ハオルの声だけではない。ミレアの声だけでもない。二つは違う。それでも、違う声が互いに受け渡すことで、一つの歌は最後まで続いていた。


 ルカは自分の胸へ手を置く。


 第一の一音は、七つの錨が眠った夜から、ずっとそこにある。耳から聞こえるというより、胸の内側から自分を呼ぶように鳴る音だった。


 次に、そっと喉へ触れる。


 第二の一音はこちらにある。胸骨から喉、肺へと続く呼吸の中。身体が正しい順番を辿った時にだけ戻ってくる。


 同じところから来たように感じるのに、残り方はまるで違っていた。


 オルカ=ナハトへ来た時には、一音しかなかった。今は二つある。


 それでも、残りがどこにあるのかは分からない。どんな形で残されているのかも分からない。海図に記された場所なのか、誰かの記憶なのか、沈んだ都市なのか、それとも歌なのか。


 分からないことは、まだいくらでもある。


 けれど、何を探せばいいのかは少し変わった。


 どこにあるのかだけではない。どこを通ったのか。誰に受け取られ、誰へ渡され、どこで沈み、どこからまた流れ始めたのか。


 名には、道がある。


 そこまで見なければ、きっと次へは届かない。


 ルカは船尾の星見台へ腰を下ろした。机には潮鏡と星潮羅針盤、それから何枚もの潮紙が置かれている。


 第二の一音を書き留めようとして失敗した紙。消した文字。音の高低を示そうとした線。呼吸の長さや、喉の形を忘れないために付けた記号。


 どれも間違いではない。けれど、どれも第二の一音そのものではなかった。


 ルカはそのうち一枚を手に取り、月明かりへ透かす。


「変なの」


「何が?」


 エルンが隣から覗き込んだ。


「これだけいっぱい書いたのに、肝心の音はここにない」


「でも、残ってる」


「紙には残ってないよ」


「ルカに」


「分かってる」


 ルカは潮紙を机へ戻した。


「それに、エルンも覚えてるんでしょ」


「呼吸は」


「そこだけ強調しないでよ」


「音はルカの中にあるから」


 ルカは一度、エルンを見る。その言い方が妙に真面目で、少しだけ胸が温かくなった。


「……うん」


 自分の名前なら、自分が覚える。


 けれど、自分しか覚えてはいけないわけではない。


 ハオルとミレアのように、一人の身体から別の身体へ、完全に同じ形ではなくても、何かを渡すことはできる。


「ねえ、エルン」


「うん?」


「二つ、続けたことなかったよね」


 エルンが少し考える。


「ないと思う」


「だよね」


 第一の一音を受け取った時には、まだ第二は存在していなかった。第二が来てからは、それをどうにか記録することばかり考えていた。


 一つ目と二つ目を、続けてみようとはしていない。


 ルカは椅子から立ち上がった。


「ちょっと聞いてて」


「何を?」


「分かんない」


 エルンが首を傾げる。


「……分かんないものを聞くの?」


「とりあえず」


「うん」


 ルカは目を閉じた。


 すぐには声を出さない。胸の奥へ意識を沈め、自分の中でずっと鳴っている第一の一音を探す。


 心臓ではない。もっと深いところ。


 そこに、あった。


 短く息を吸い、その響きを喉へ上げる。最初に受け取った時の深さを崩さないように、小さく声へした。


 一音が、夜の海へ落ちる。


 ルカは呼吸を止めず、そのまま次へ移った。


 今度は大きく息を吸う。


 第二の一音は、同じやり方では出てこない。胸を開き、喉には力を入れず、肺の底まで潮風を入れる。そして、ゆっくりと吐く。


 呼吸の最も深いところから、二つ目を海へ渡す。


 低く、声と呼んでいいのか分からないほど薄い響きだった。


 それでも、確かに二音が続いた。


 ただ、それだけだった。


 長い言葉ではない。意味も分からない。


 けれどルカは、すぐには目を開かなかった。


「……あれ?」


 胸の奥で、何かが違っている。


 一つずつ聞けば、どちらも異質な音だった。第一は、言葉になる前に胸へ沈む響き。第二は、声よりも呼吸に近い音。それぞれ違う形で残り、違う方法でしか呼び出せない。


 なのに二つを続けると、その間に初めて意味のある空白が生まれた。


 第一の音は、そこで終わっていない。


 二つ目を待っている。


 そして第二の音は、最初から存在していた一音の続きを受け取るように、そこへ収まる。


 ただ二つ並んだのではなかった。


 最初の声が次へ渡り、二つ目がそれを受け取った。


 さっき聞いた浜の歌と同じように。


 ハオルからミレアへ。


 二つの違う声で、一つの歌になるように。


「もう一回」


 ルカは小さく呟いた。


 第一。


 続いて、第二。


 短い二音。まだ名前と呼ぶには足りない。


 それでも、今までとは違った。


「……名前みたい」


 ルカは目を開けた。


 エルンは黙っている。


「ね?」


 ルカが振り向く。


「今、名前っぽくなかった?」


「……うん」


「やっぱり?」


 表情がぱっと明るくなる。


「一つずつだと、何なのか全然分からなかったけど」


 もう一度、二音を続ける。


「こうすると……誰かの名前みたい」


 偶然に二つの音を並べただけではない。そこには、一つのまとまりがあった。


 誰かを示すための形。


 呼べば、その先にいる何者かが振り向きそうな響き。


「これ……やっぱり、ネル=エルの名前なのかな」


 期待が声に滲んだ。


 エルンは答えなかった。


 ルカは海を見ていて、彼の表情には気づかない。


 エルンは、今の二音を頭の中でもう一度繋げていた。


 神の真名がどんな響きを持つのか、彼に知識があるわけではない。ネリュエの完全な神名も知らない。そもそもネル=エルというものが、一柱の神として、人が一つの名で呼べる存在なのかさえ分からない。


 だから、違うとは言えなかった。


 それでも、何かが引っかかった。


 二つの音は深い。確かに、海の古い層へ届きそうな重い響きを持っている。


 なのに、遠くない。


 世界へ向かって呼びかける音ではなかった。大勢の祈りを受け止める神殿で唱える名にも、エルンには聞こえない。


 もっと近い。


 すぐそこにいる誰かへ、「ねえ」と呼びかけるくらいの距離だった。


 こちらを向いてほしいと、たった一人へ届けばいい。


 そんな呼び方に聞こえた。


 誰か一人を、振り向かせるための音。


 エルンはルカを見る。


 月明かりが彼女の横顔を照らしていた。ルカは嬉しそうだった。二つ目まで見つけ、ばらばらだった音が初めて一つの名前らしい形を見せたのだから。


 なら、今はそれでいい。


「エルン?」


 ルカが振り向いた。


「どうしたの?」


「……何でもない」


「ほんと?」


「うん」


「変な顔してる」


「ルカもよくする」


「私はいいの」


「どうして?」


「船長だから」


 エルンが首を傾げる。


「潮名の航海士じゃなかった?」


「それも」


「二つある」


「いいでしょ。二つあっても」


 言ってから、ルカは少しだけ止まった。


 エルンも一瞬、黙る。


 二人とも、さっきの二音を思い出していた。


「……何?」


 ルカが訊く。


「何でもない」


「また?」


「うん」


「今日それ多くない?」


 エルンは少し笑った。


 それで話は終わった。


 違和感は、まだ答えではない。


 誰の名なのか。ネル=エルなのか。それとも、まったく別の何かなのか。残りの音まで繋がれば、今とはまた違って聞こえるのかもしれない。


 なら、確かめればいい。


 そのためにも、一度帰る。


 ルカは星潮羅針盤を取った。針は安定している。もう、どれだけ進んでも同じ海へ戻されることはない。


「帰ろうか」


「メルナ=レイ?」


「うん」


 ルカは海図を開く。


 今度は書かれていない道を探すためではない。帰るための航路なら、海図はちゃんと役に立つ。


「一回、調べたい」


「二つの音?」


「うん。ネリュエの神殿なら、古い潮語とか祈りの記録があるし、七本の錨から出てきたものとも、もう一度見比べたい」


 胸の奥で二音を確かめる。


「これが誰の名前なのか、知りたい」


 エルンは頷いた。


「分かった」


「ナミルもいい?」


 船首の名灯が淡く瞬き、帆も一度だけ小さく鳴った。


「いいって」


「本当に?」


「たぶん」


「便利に使ってるでしょ、それ」


「ルカが教えた」


「人のせいにした」


「違う?」


「違わないけど」


 ルカは笑いながら舵を取った。


 ナミル=レイがゆっくりと進路を変える。オルカ=ナハトはすでに船尾の向こうにあり、浜の灯も少しずつ小さくなっていく。


 それでも、最後まで歌は聞こえていた。


 ハオルの低い声。ミレアの若い声。途中で交代し、重なり、また誰かへ渡されていく。一人で最初から最後まで抱えていなくても、歌は途切れず、その先へ届いていく。


 ルカはその声を聞きながら、もう一度胸の奥で第一の一音を鳴らした。それから呼吸を整え、第二の一音を続ける。


 二つは、違う残り方をした音だった。違う方法でしか呼べない。それでも続ければ、一つの名になり始める。


 まだ短い。まだ欠けている。誰を呼ぶためのものなのかさえ分からない。


 けれど確かに、誰か一人へ向かうリズムを持っていた。


 やがて浜の歌が夜へ溶け、鯨歌も聞こえなくなる。


 それでもルカは、もう知っている。


 聞こえなくなったからといって、なくなったわけではない。


 ハオルの声はミレアの中に残り、ミレアの声は海を渡ってハオルへ返った。鯨が通った道は歌へ残り、名のない船が最後に向いた方角はナミル=レイが受け取った。


 そしてルカの中には、二つの音がある。


 何もかもを同じ形のまま保存する必要はない。それぞれの場所へ、それぞれの残り方で渡っていき、その先でまた誰かが受け取る。


 ナミル=レイは星を背負い、メルナ=レイへ向けて夜の潮を進んでいった。


 ルカの胸では、まだ誰のものとも知れない二つの音が離れずに寄り添い、少しずつ、一つの名前になろうとしていた。

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