第五節 ― 書けない一音
ナミル=レイがオルカ=ナハトへ戻った時、祭りはもう始まっていた。
数日前まで畳まれていた祭布が湾を渡る風の中で大きく揺れ、鯨骨の柱には貝灯が吊られている。まだ空は明るいのに、殻の奥には淡い光が宿っていた。浜では子どもたちが走り回り、漁師たちはようやく出航できるようになった船の帆を張り直しながら、大きな声で互いを呼び合っている。
沖からは鯨の歌が届いていた。
もう、途中では止まらない。一頭の声を別の一頭が受け取り、それをさらに遠くの鯨へ渡していく。その響きへ、島の人々の歌声も重なっていた。
「……うるさい」
ミレアが呟いた。けれど、その口元は笑っている。
「お祭りなんだから、これでいいんじゃない?」
ルカが言うと、ミレアは肩をすくめた。
「始まったら本当にうるさいんだよ」
「来る時は静かすぎるって思ってたのに」
「静かすぎるのと、うるさすぎるのは別」
「難しいね、オルカ=ナハト」
「海よりは簡単」
「それはそうかも」
ナミル=レイを桟橋へ寄せ、ルカが係留綱を投げようとした時、今度は向こうから一本の綱が飛んできた。
ミレアが反射的に受け取る。
浜に立っていたのはハオルだった。
「遅い」
「迎えに来た人の最初の言葉がそれ?」
「日が暮れる前には帰ると思ってた」
「海の真ん中で、何もないところをずっと待ってたの」
「それは暇だったな」
「おじいちゃんの歌を探しに行ったんだけど」
「俺のじゃない」
ハオルは綱を杭へ巻きつけた。
ミレアの手が止まる。
「……そうだった」
老人は孫を見る。
「歌えたか」
ミレアの表情がわずかに硬くなった。けれど、少し間を置いて、
「うん」
とだけ答えた。
続きを覚えたとも、最後まで歌えるとも言わなかった。ハオルも、それ以上は訊かなかった。
「なら降りろ」
「それだけ?」
「船の上でいつまで話してる」
「もっと何かないの?」
「腹減ってる」
「私も」
「なら飯だ」
いつも通りのやり取りだった。だからこそ、ミレアは少し安心したように笑った。
ルカたちが船を降りると、島の人々が次々に声を掛けてきた。航路が戻った。羅針が動いた。何度出航しても同じ湾へ戻ってきた漁船が、ようやく隣の島へ辿り着けた。交易船も正しい潮へ乗れた。
誰かがルカの肩を叩き、誰かがエルンへ魚の干物を押しつけ、ナミル=レイの船首には勝手に祭り用の貝飾りまで括りつけられた。
「ちょっと! ナミル嫌がってる!」
船首の名灯が高速で明滅している。
「嬉しいんじゃない?」
ミレアが言う。
「絶対違う!」
浜に笑いが起こった。
その賑わいの少し外で、ハオルだけは沖の鯨を見ていた。
*
祭りの喧騒が少し落ち着いた頃、ハオルは一人で波打ち際へ歩いていった。
何かを始めると宣言したわけではない。島の者たちを呼び集めもしなかった。それでもミレアは祖父の背中に気づき、自然にあとへ続いた。ルカとエルンも、少し距離を空けてついていく。
ハオルは裸足になり、寄せてくる波へ足を浸した。
海へ向かって立ち、胸を開く。ゆっくりと息を吸い、歌い始めた。
低く、少し掠れた声だった。
鯨の低音と長い年月を過ごしてきた、ハオル自身の声。
最初の一節から次の一節へ。身体を右へ向け、息を沈める。足を一歩運び、誰かの声を待ち、また歌う。
これまで何度も聞いた古い鯨歌だった。
ミレアは隣に立ちながら、自分から声を重ねなかった。祖父の呼吸も、足の運びも、声がわずかに揺れる場所も、一つずつ最後まで見ていた。
やがて、あの場所へ来る。
数日前まで、ハオルの喉から続きを失わせていたところ。
老人が息を吸った。
ミレアの肩が、かすかに上がる。
今ならハオルも歌える。海から戻った続きを、老人はもう知っている。
けれど、ハオルは歌わなかった。
息を吸ったまま止まり、横にいる孫を見た。
失ったからではない。声が出ないからでもない。
ただ、待っている。
「……私?」
ミレアが目を見開いた。
ハオルは何も言わない。
今までは老人から少女へ歌が渡されてきた。ハオルが歌い、ミレアが受け取り、間違えれば老人が直して、正しい歌へ戻していく。
けれど今は、続きを知っているハオル自身が止まり、次の声を待っていた。
ミレアはゆっくり息を吸った。
一度目は浅かった。自分で分かったのか、小さく首を振る。
もう一度。
今度は胸の奥まで、身体が覚えているところまで深く吸う。足を一歩前へ出し、喉を開く。
そして、歌った。
ナミル=レイの上で初めて声を出した時より、ずっと安定していた。
それでも、ハオルと同じ歌ではない。
老人の声より高く、息の切り替えも少し早い。老鯨ハルガの声とも違う。
ミレア自身の身体を通った歌だった。
自分の呼吸で、最後まで続けていく。
ハオルは口を挟まなかった。直しもせず、「違う」とも言わない。ただ、孫の声を聞いている。
ミレアが最後の一節へ入る。その終わりへ残った一音に、ようやく老人が声を重ねた。
低い声と、若い声。
二つは一瞬だけ重なり、そのまま一緒に歌を終えた。
波が二人の足元へ寄せ、遠くで鯨が応えた。
ハオルはしばらく海を見つめていた。
「俺の歌じゃなくなるな」
やがて、ぽつりと言った。
ミレアが老人を見る。
寂しさを含んだ声だった。けれど、それを嫌がっているわけではない。
長いあいだ、自分が完全な形で渡さなければならないと思っていた歌。それがもう、自分と同じ姿のままでは残らない。
ハオルは、そのことを初めて受け入れたのだ。
ミレアも少し考え、
「うん」
と、あっさり答えた。
老人の眉が上がる。
「そこで否定しないのか」
「だって違うし」
「……そうか」
「おじいちゃんの声、低すぎる」
「昔はもっと出た」
「今の話」
「お前、帰ってきて急に生意気になったな」
「前から」
ミレアは笑った。それから、もう一度だけ海を見る。
「じゃあ」
少し照れたように言う。
「私の歌にもなる」
ハオルは何も答えなかった。
ただ、ほんの少しだけ笑った。
ルカはそのやり取りを、少し離れたところから見ていた。
「同じじゃないね」
隣でエルンが言う。
「うん」
「でも、同じ歌」
「うん」
不思議だった。
声は違う。息も違う。これから年月が経てば、ミレアの歌はさらに変わるだろう。次の誰かへ渡れば、また少し違う歌になるかもしれない。
それでも、今日まで通ってきた道が消えるわけではない。ハオルの歌が失われたわけでもない。
同じ形のままではなくても、確かにミレアへ渡ったのだ。
*
その夜、ナミル=レイの船室で、ルカは突然息を詰めた。
「……っ」
祭りから戻り、遅い夕食を終えたあとだった。エルンがもらった干物を「塩辛すぎる」と言いながら二人で半分ずつ食べ、ミレアたちともいったん別れた。
本当に何でもない時間だった。
だから最初は、船が揺れたのだと思った。
違った。
震えたのは、胸骨だった。
胸の中央、硬い骨の裏側を、内側から指先でなぞられたような感覚が走る。
「ルカ?」
向かいにいたエルンが顔を上げた。
ルカはすぐには答えられなかった。振動が喉へ上がってくる。
痛くはない。息苦しさもない。
それなのに喉が、自分の知らない形を、身体だけで覚えようとしている。
次に肺が震えた。
大きく息を吸う。
潮の匂い。湿った船材。灯油。祭りの料理が残した香り。それらが肺へ入り、ゆっくり息を吐いた時、普通なら呼吸が終わるはずの場所より、もう一段深いところへ何かが沈んだ。
そこに、一音がいた。
短い。
けれど、第一潮真名と同じ深さまで沈んでいる。
ルカは目を見開いた。
胸の奥で最初の一音が応える。
二つは同じ音ではなかった。それでも同じ場所へ続いている。それだけは、理屈より先に身体が知っていた。
「来た」
ルカは小さく言った。
「何が?」
「もう一つ」
エルンが立ち上がる。
「音?」
「たぶん」
ルカは胸へ手を押し当てた。
「第二の……たぶん、潮真名」
言い終えるより早く、船室の机へ走る。
「潮紙!」
「ルカ」
「忘れる前に書く!」
潮紙箱を引き寄せ、蓋を開ける。濡れても破れにくい白い紙を一枚取り出し、筆を掴んだ。
手が震えている。
「落ち着いて」
「落ち着いてる」
「震えてる」
「急いでるだけ!」
筆先を潮墨へ浸し、紙の上へ持っていく。
そこで止まった。
「……何て書けばいいの」
胸に残った音に一番近いものを、声へ出してみる。
「違う」
ルカはすぐ顔をしかめた。
「今のじゃない?」
「違う」
もう一度、胸骨から喉、肺へ残る感覚を辿る。陸の言葉の文字から、一番近いと思った一字を紙へ置く。
じっと見つめる。
「……違う」
線を引いて消した。
別の文字を書く。
「これも違う」
さらにもう一つ。
「違う」
潮紙の上には、消された文字だけが増えていった。
エルンは黙ってそれを見ている。
「第一のは?」
「最初の潮真名?」
「うん」
「あれも完全には書けないけど、胸の中で勝手に鳴るから忘れない」
ルカは答えながら、第二の一音をもう一度声にしようとした。
やはり違う。
「でも、これは……」
紙を裏返した。
「音じゃ駄目なら、形」
ハオルが見せてくれた鯨歌の補助記録を思い出す。
音の高さ。呼吸。間。上がるところ。沈むところ。
線を引く。
長く伸ばし、さらに深く沈め、一度閉じる。書いている途中は少し近づいた気がした。
けれど、完成した線を見た瞬間、ルカは首を振った。
「違う」
「それも?」
「うん」
「どう違う?」
「分かんない」
苛立ったように筆を置く。
「分かんないけど、違うの!」
線そのものは間違っていないはずだった。呼吸の長さも、喉の開き方も、かなり近い。
それなのに、書いた通り再現しても、胸の中にある一音にはならない。
ハオルが見せた潮紙を思い出した。
鯨歌は言葉へ置き換えられる。音の高さも、息を吸う場所も、足の動きも書き留められる。
それでも、書かれたものだけでは歌そのものにはならなかった。
「……まさか」
ルカはもう一枚、潮紙を取った。
今度は文字を書かない。
息を吸った回数。吐いた長さ。胸骨が震えた場所。喉が動いた瞬間。それらを、覚えている限り一つずつ記号へ変えていく。
書き終え、その通りに呼吸する。
何も起きなかった。
「違う!」
紙を机へ置く。
胸の一音はまだある。
だからこそ、怖くなった。
今はある。
けれど明日、一月後、一年後。もし忘れてしまったら。
「これ、なくなる」
ルカは胸へ手を当てた。
「書いて残せないなら……私が忘れたら、なくなる」
その言葉を口にした瞬間、昼間のミレアの顔が浮かんだ。
歌えないなら、残っていないのと同じ。
祖父がいなくなったら、自分は何を受け取ればいいのか。
「……あ」
ルカの手が止まる。
自分も、同じ場所に立っている。
文字へできない。完全な形で残せない。だから失うのだと思っている。
「ルカ」
エルンが呼んだ。
「待って」
ルカはもう一度息を吸った。
今度はゆっくりと。喉を締めず、声にしようともせず、胸骨の奥まで深く吸い込む。
そして吐く。
第二の一音が戻った。
「まだある」
自分へ確かめるように言う。
「うん」
エルンも答えた。
「でも――」
「もう一回やって」
「書くの?」
「違う。今の」
エルンは自分の胸へ手を当てた。
ルカは少し迷ってから、もう一度同じように息を吸った。
胸骨。喉。肺。
ゆっくり吐く。
声は出さない。人間の耳には、たぶん何も聞こえない。
けれど、ルカの身体の中では一音が確かに戻る。
エルンが目を細めた。
「ある」
「分かる?」
「少し」
「じゃあ今のを、何かに――」
「紙にはない」
ルカは黙った。
エルンは机に並んだ潮紙を、一枚ずつ見た。文字。音の線。呼吸の記号。そのどれも完全な間違いではない。
「消えたんじゃない」
「え?」
「書いた方が、違うものになったんだと思う」
ルカは紙を見る。
「でも、ちゃんと覚えて書いた。音も、息も」
「うん」
「なのに違う」
「だから」
エルンは簡単に言った。
「書けないんじゃない?」
ルカは口を開いたまま止まった。
「……書けない?」
「うん」
「名前なのに?」
「名前なら、全部書けるの?」
問われて、ルカは答えようとした。
けれど、できなかった。
名札を思い出す。
祈魚を思い出す。
名札から祈魚へ、祈魚から鯨へと渡った名の残響。紙そのものが移ったわけではない。それでも、名は確かに渡った。
「でも、名札は――」
「ルカが言った」
「何を?」
「札の中だけに名前があるんじゃないって」
ルカの指が止まる。
そうだ。
自分で言った。
名は、物の中だけに閉じ込められているわけではない。通った道にも、誰かへ渡ったあとにも残る。
なら、名前のすべてが必ず一つの器へ収まっているとは限らない。
紙。
札。
声。
身体。
船。
歌。
道。
どれか一つだけが、名前の全部ではない。
「……そうか」
ルカは椅子へ座り、急に力が抜けたように息を吐いた。
「私、七つ集めるって思ってた」
「潮真名?」
「うん」
一つ目、二つ目、三つ目。七つ揃えて机へ並べるように、欠けた名札を繋ぎ直すように。全部集めれば元の名前が完成するのだと思っていた。
「でも、第一の一音は胸の奥にあって、取り出せない。第二の一音は呼吸の中にあって、紙に書けない」
箱へ入れることも、横に並べて確かめることもできない。
「欠片じゃないのかな」
「欠片じゃない?」
「ううん。欠けてるのは、たぶんそう」
ルカは胸元へ手を置いた。
第一の音が鳴る。そのあと、呼吸を整える。第二の一音を、身体が思い出す。
「でも、割れた貝殻みたいに七個並べるものじゃないのかも」
エルンはしばらく考えてから言った。
「一つ目は、勝手に鳴る」
「うん」
「二つ目は?」
「私が息をしないと戻らない」
「じゃあ、ルカが覚える」
「簡単に言わないでよ」
「難しい?」
「難しいよ!」
ルカは自分の胸を軽く叩いた。
「私の名前なのに、私が忘れたら終わりなんだよ?」
エルンはルカを見る。
「だからルカが覚える」
「……うん」
「僕も覚える」
ルカは瞬いた。
「エルンも?」
「今のルカを見てたから」
「音は聞こえないでしょ」
「全部は聞こえない」
「だったら――」
「でも、呼吸は分かる」
エルンは自分の胸へ手を当て、ルカの動きを真似した。
「最初に深く吸う。途中で肩が少し上がる」
「見すぎじゃない?」
「それから喉が動く」
「やっぱり見すぎ」
「最後に、ゆっくり吐く」
エルンは最後まで真面目だった。
「音そのものじゃないけど、そこまでなら僕も覚えられる」
ルカはしばらく何も言わなかった。
任せればいい、という話ではない。
これは、自分の名前かもしれない。
だから自分で覚える。自分の身体へ残す。
それでも、自分一人しか覚えてはいけないわけでもない。
ハオルからミレアへ歌が渡ったように。ミレアから海を越え、もう一度ハオルへ戻ったように。
「……じゃあ」
ルカはもう一度息を吸う。
「私が覚える」
「うん」
「エルンも覚える」
「うん」
「どっちかが忘れたら?」
「もう一回やる」
「二人とも忘れたら?」
エルンは少し考えた。
「その時は……ナミルも見てる」
ちょうどその瞬間、船首の名灯が一度だけ明滅した。
ルカはしばらく黙り、やがて吹き出した。
「増やせばいいって話じゃないでしょ」
「違う?」
「たぶん」
「ルカも言った」
「もういいよ」
張り詰めていたものが、ようやく緩んだ。
ルカは机の潮紙へ視線を戻す。
失敗した文字。違っていた音の線。呼吸の記号。
「これ、捨てる?」
エルンが訊く。
「捨てない」
「違うのに?」
「違うから残す」
ルカは最初の潮紙を持ち上げた。
「第二の一音そのものじゃない。でも、今日、私がこれを書こうとした記録ではある」
文字は歌にはならなかった。
だからといって、文字が無意味なのではない。
紙に残せるものは紙へ残す。身体にしか残らないものは身体で覚える。誰かが覚えられるものなら、その誰かにも渡す。
「全部、同じやり方で残さなくてもいいんだ」
ルカが呟く。
エルンは頷いた。
「たぶん」
「それ、私の真似?」
「うん」
「認めるんだ」
船室の外から鯨の歌が届いた。
今度は普通に耳へ聞こえる声で、長く、最後まで途切れない。
「外、行ってくる」
「書く?」
「もう書かない」
ルカは少し考えてから言い直す。
「いや、あとで書く」
「どっち?」
「音そのものじゃなくて、今日何があったか」
机に残された潮紙を指し、それから甲板へ出た。
*
夜の海は、祭りの灯を細かく揺らしていた。
鯨たちは少しずつ群れを分け、オルカ=ナハトに残るものと、外海へ向かうものに分かれ始めている。浜からは人の歌が届いていた。
ハオルの低い声が始まり、途中で別の声へ渡る。
ミレアだ。
今度は、最初から最後まで一人で歌ってはいない。老人が始め、少女が受け、別の誰かへ渡し、最後にまた二人の声が重なる。
ルカはその歌を聞きながら船首へ立った。
大きく息を吸う。
潮の匂い。濡れた帆。船材。遠い鯨の呼吸。祭りの煙。
全部を肺へ入れる。
第一潮真名が胸の奥で鳴った。
そして、声を出さずにゆっくりと息を吐く。
胸骨が震え、喉が覚えた形になる。
第二の一音が戻った。
今度は焦らない。文字へ閉じ込めようともしなかった。ただ、自分の身体へもう一度通す。
一度。
もう一度。
三度。
背後では、エルンも同じ呼吸の長さを確かめている。
「忘れない」
ルカは小さく言った。
誰かへ誓うためではない。
名前へ。
そして、自分自身へ向けた言葉だった。
第一の一音は胸の奥で鳴る。第二の一音は呼吸の中に残る。同じ一つの真名へ続いているはずなのに、存在の仕方はまるで違っていた。
なら、残りも同じとは限らない。
どこかに六個、五個と、物のように隠されているわけではないのかもしれない。歌かもしれない。航路かもしれない。誰かの記憶かもしれない。今の自分にはまだ想像もつかない形で、海のどこかを渡り続けているのかもしれない。
ルカは水平線を見つめた。
以前なら、その先に次の目的地を探していた。
今は少し違う。
探しているものが、必ずどこか一つの場所に置かれているとは限らない。
そのことをようやく、頭ではなく身体で知った。
遠くで鯨が歌っている。人に聞こえる音もあれば、ルカにしか分からない音もある。文字にはできない音さえある。
声が変わっても、器が変わっても、それぞれが別の何かへ渡りながら、海の中へ残っていく。
ナミル=レイの名札が静かに鳴った。
ルカはもう一度、深く息を吸う。第二の一音を、肺の底へ確かめるようにゆっくりと呼吸を通した。
今度は一人で抱え込むためではない。
自分の中を通し、忘れずに、次へ持っていくために。




