第二節 ― 歌の下にある道
その夜、ルカは浜へ降りなかった。
ナミル=レイを湾の中央近くまで出し、帆を落とす。錨は使わない。流されすぎない程度に舵だけを当て、船そのものを海へ浮かべておいた。
昨日と同じ浜から、昨日と同じように聞いていても、きっと同じものしか見つからない。だから今夜は、少しだけ歌の中へ近づいてみるつもりだった。
「私も行く」
出航する直前、そう言ったのはミレアだった。
ルカが振り返ると、少女は小さな布袋を肩へ掛けて桟橋に立っていた。昼間と同じ白い布衣に紺色の腰布。首には鯨骨の笛が下がっている。その後ろにはハオルもいた。
「行くって、船に?」
「そう」
「今夜は港の外まで出るよ」
「分かってる」
「鯨のそばまで行くかもしれない」
「それも分かってる」
「ナミル、初めて乗る人にはちょっと人見知りするけど」
船首の名灯が一度だけ明滅した。
「ほら」
「それは今いる?」
真顔で訊かれ、ルカは咳払いした。
「たぶんいらなかった」
それからハオルを見る。
「ハオルさんは?」
「俺は行かん」
老人は桟橋の杭へ片手を置いたまま、湾を見ていた。
「今夜も浜で歌う」
「なら私も、そっちにいた方が――」
ミレアが言いかけたところで、ハオルが遮った。
「何しに行くんだ」
ミレアは口を閉じる。
「続きを探す」
「どこに?」
「それが分からないから見に行くんでしょ」
「なら、歌を拾って帰ってくるつもりで行くな」
ミレアの眉が寄った。
「どういう意味?」
「俺にも分からん」
「またそれ」
「分からんものを、分かった顔で教えるよりましだ」
ハオルは孫をまっすぐ見た。
「何がなくなったのかじゃない。何が残ってるのか見てこい」
「……見えるの?」
「俺に聞くな」
「おじいちゃんが行けって言ったんでしょ」
「だから、自分で見ろと言ってる」
ミレアはしばらく老人を睨んでいたが、やがて小さく息を吐いた。
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
その返事に、ルカは思わず口元を緩めた。
「その言葉、便利でしょ」
「あなたたちが使ってたから」
「悪いところ覚えたね」
「誰のせい?」
「エルンかな」
「ルカだと思う」
すぐ後ろからエルンが言った。
「裏切った」
そんなやり取りをしている間にも、ハオルはもう浜へ歩き始めていた。
「おじいちゃん」
ミレアが呼ぶ。
老人は足を止めない。
「何」
「……ちゃんと歌ってよ」
その背中が、ほんのわずかに止まった。
「そのつもりだ」
それだけを残し、ハオルは浜へ向かった。
ミレアはしばらくその背中を見つめていたが、やがてナミル=レイへ乗り込んだ。船霊は最初だけ帆を小さく震わせたものの、ミレアがきちんと船縁へ手を置いて「よろしく」と言うと、名灯が一度だけ淡く光った。
「気に入ったみたい」
ルカが言う。
「本当?」
「たぶん」
「やっぱり便利に使ってる」
ナミル=レイは、ゆっくりと桟橋を離れた。
島の灯が船尾の向こうへ並んでいる。浜には今夜も人々が集まり始めていたが、そこにあるのは祭りの灯ではなかった。鯨骨の柱に掛けられた貝灯も必要最低限で、海を照らすというより、戻る場所だけを示すように淡く灯っている。
沖には鯨たちがいた。黒い背が、月の下で浮かんでは沈んでいる。その中でもひときわ大きな老鯨が、湾の外側に姿を見せた。白い傷が背を横切っている。
ハルガ。
昨日、最初に歌い始めた鯨だった。
ルカは星潮羅針盤をしまい、潮鏡も出さなかった。
「聞くんじゃなくて、読む」
自分へ言い聞かせるように呟くと、ミレアが首を傾げる。
「歌を読むの?」
「たぶん」
「また」
「今回は本当にたぶんだから」
「どう違うの?」
「分かんない」
ミレアが呆れた顔をする。
ルカは船縁へ手を置いた。
「昨日は歌そのものを聞いてた。今日は、何が残ってるのか探す」
ハオルがミレアへ言った言葉と似ていた。ミレアも気づいたのか、一瞬だけ目を伏せる。
「ルカ」
船縁に座っていたエルンが言った。
「うん?」
「昨日より、少し沖にいる」
「鯨が?」
「違う。僕たちが」
「それは私が船を動かしたからね」
「そうじゃなくて」
エルンは海面を見つめた。
「歌の中で」
ルカは黙った。
ミレアもエルンを見る。
「まだ歌ってないよ」
「うん」
「じゃあ、何が見えるの?」
「昨日の跡」
エルンが指した海面には、月光の揺れしか見えない。
「昨日、ここを何かが通った」
「鯨?」
ミレアが訊く。
「分からない」
「でも跡がある?」
「うん」
「どんな?」
エルンは少し考えてから答えた。
「沈んでる」
ミレアがルカを見る。
「いつもこんな感じ?」
「だいたい」
「よく分かるね」
「慣れた」
「褒められてる?」
エルンが訊く。
「たぶん」
「ほら、便利でしょ」
「もういい」
やがて海が震えた。
最初の声。ハルガだった。
低い音が水を伝い、ナミル=レイの船底へ触れる。ルカは目を閉じた。昨日はただ、その大きさに圧倒されていた。今日は一つずつ分けてみる。
長い音が沈み、わずかに高さを変える。短い間を置いて別の鯨が応え、さらに低い声が重なった。遠い浜からは人の歌も加わる。
ハオルの声が分かった。老いて少し掠れている。それでも、鯨の低音に埋もれない芯があった。
その声を別の島民が受け、また鯨へ渡していく。
ルカには、それらがただの旋律には聞こえなかった。
音の中に、潮名とよく似た揺れがある。誰かが呼ばれたあとに残る響き。何かが海へ渡された時の、ごく小さな震え。
名前そのものではない。
けれど、名のそばにあったもの。
ルカは耳ではなく、胸の奥へ意識を寄せた。
最初の長い声。途中で何かが横へ逸れる。次の声では深く沈み、また浮かぶ。そのあとには、島の近くをかすめるような浅い響きがある。
「……変」
思わず呟く。
「何が?」
エルンは目を閉じたまま訊いた。
「歌なのに、前へ進んでない」
「歌は前に進むものなの?」
ミレアが訊く。
「普通は次の音へ行くでしょ」
「音はね」
「これは違う。横へ行ったり、下へ行ったり、戻ったりする」
ルカは指で空中へ線を描いた。
「ここの音は、右」
右手の海を指す。
「次は下」
今度は海面。
「そのあと……島の近く」
船尾の向こうにあるオルカ=ナハトへ目を向ける。
ミレアは黙って聞いていたが、やがてぽつりと呟いた。
「今のところ」
「分かる?」
「右とか下とかは分からない」
ミレアは胸元へ手を当てた。
「でも、ここで身体を右へ向ける」
ルカが振り返る。
「身体?」
「歌う時」
ミレアは足を少し開いた。船上なので大きくは動けない。それでも昨日浜で見せたように、右足へ重心を移す。
「最初の長い音のあと、右肩を少し引く」
次の低い声が響く。
ミレアの身体が自然に沈み、膝がわずかに曲がった。
「ここは下」
ルカの目が大きくなる。
「同じ」
「何が?」
「私には音が下に聞こえた」
エルンが目を開いた。
「僕には跡が下へ行った」
三人が顔を見合わせる。
ミレアは自分の身体を見る。
「私は……そう教わっただけ」
「誰に?」
「おじいちゃん」
「理由は?」
「知らない」
「ハオルさんは?」
「たぶん知らない」
ミレアは少し苦く笑った。
「こういうのばっかり」
次の鯨歌が来る。
ルカには、島をかすめるような浅い音に聞こえた。エルンの指が船縁の上を横へ動き、ミレアは左足を半歩だけ出す。
「ここで前へ出る」
「なんで?」
「知らない」
「でも身体が覚えてる?」
「うん」
ルカは言葉を失った。
紙には書かれていない。ミレア自身も意味を知らない。それでも、音と、沈んだ跡と、身体の動きが同じ場所を指していた。
鯨歌は続く。
長い声。短い応答。人の歌。そしてまた鯨。
エルンの指は、見えない一本の線をなぞるように船縁の上をゆっくり動いていた。
「道」
やがて彼が言った。
「道?」
ミレアが聞き返す。
「うん」
「どこに?」
「下」
ルカは海面を見る。
「海底?」
「海底にあるんじゃない」
エルンは眉を寄せた。
「海底へ沈んでる」
「同じじゃないの?」
ミレアが訊く。
「違う」
エルンは目を開いた。その瞳の奥には、月光とは違う暗い青が残っている。
「ずっと昔に通った道が、沈んでる」
ルカは息を止めた。ミレアも黙る。
「誰の?」
ルカが訊く。
エルンはハルガを見る。
「あの鯨じゃない」
「じゃあ?」
「もっと前」
歌が一段低くなった。
その瞬間、エルンの指が右へ動く。
「ここで曲がった」
「今の?」
「うん」
ルカにも、音そのものが横へ移ったように聞こえていた。
そしてミレアの右肩も動く。
「ここ」
三人が同時に言った。
ルカは思わず笑いそうになったが、それどころではない。
次の声は大きく沈んだ。エルンの指も下へ動き、ルカには音そのものが深く落ちるように聞こえる。ミレアは膝を曲げ、身体を低くした。
「潜った」
エルンが言う。
「私にも下に聞こえた」
ルカが続ける。
「私は、ここで息を一回深くする」
ミレアが胸へ手を当てた。
三つの読み方は同じではない。それでも、同じ順番を辿っている。
「エルンには何が見える?」
ミレアが訊いた。
「跡」
「どんな?」
「水の中に線がある」
エルンは言葉を探す。
「今の海にはない線。でも、昔そこを何かが通った」
ハルガが歌い、別の鯨が受ける。その途中に、少しだけ明るい響きが混じった。
ルカは胸元へ手を当てた。
「これ……」
名だ。
ほんの一瞬だけ、誰かの名の残響が鯨歌へ混ざった。
はっきり読めるほど強くはない。それでも、名であることだけは分かる。
「今、誰かを拾った」
ルカが言う。
「誰を?」
ミレアがすぐに訊いた。
「分からない。名前までは読めない」
「でも、名だって分かる?」
「うん」
エルンも頷いた。
「道の途中に、小さい跡が入った」
「別の道?」
「たぶん。横から来た」
ミレアが身体を止める。
「ここ、おじいちゃんから『待て』って教わってる」
「待つ?」
「歌わない。次の声が来るまで」
実際に、鯨歌の中へ短い空白が入った。
誰も歌わない。
そのあと、別の鯨が応える。
ルカの中で、先ほどの名の残響が移った。
「あ」
「どうしたの?」
「渡した」
ルカは別の鯨を指した。
「今、あっちへ渡った」
「名が?」
「名前そのものじゃないと思う。でも、名に触れてたものが」
エルンが頷く。
「線も繋がった」
ミレアは海を見た。
「だから待つんだ」
「何が?」
「歌」
彼女は胸へ手を置いた。
「この場所だけ、おじいちゃんは絶対に急ぐなって言ってた。声が来る前に歌ったら、最初からやり直せって」
「理由は?」
「知らなかった」
ミレアは遠い浜を見る。
「今なら……少し分かる」
歌を渡すため。
誰かの声を受けるため。
自分だけで先へ進まないため。
それを説明する言葉が失われても、身体だけは待つことを覚えていた。
ルカは歌を聞く。
右へ曲がる。沈む。島の脇を通る。待つ。何かを拾い、誰かへ渡し、また進む。
昨日までは旋律の変化にしか聞こえなかったものが、今は違って見える。
「これ……歌ってるんじゃない」
ルカは呟いた。
「歌ってるよ」
ミレアが即座に返す。
「分かってる。そうじゃなくて」
「じゃあ何?」
「歌ってるものが、歌じゃない」
ミレアが眉を寄せ、エルンも首を傾げる。
「……自分で言ってて分からなくなった」
ルカが額を押さえると、その横でエルンがぽつりと言った。
「泳いでる」
ルカの手が止まる。
「何が?」
「歌」
エルンは沖を見る。
「あの鯨が、昔泳いだところを、歌の中でもう一回泳いでる」
ミレアが息を呑んだ。
「歌の中で?」
「うん」
エルンは見えない線を追う。
「最初に右へ曲がった。深く潜った。島の横を通った。そこで何かを拾った。それを別の誰かへ渡した」
ミレアが自分の足元を見る。
「だから、身体も同じように動く……?」
「たぶん」
今度は誰も、その言葉へ突っ込まなかった。
ルカは船室へ走り、海図を持って戻った。甲板へ広げる。
「右ってどっち?」
「分からない」
「え」
「今の右と、昔の右が同じか分からない」
「ああ……そうだった」
潮は変わる。島の形も削られる。長い年月があれば、浅瀬が深くなり、岩礁が沈み、海底そのものが動くことだってある。
ルカは海図を睨んだ。ミレアが横から覗く。
「書けない?」
「場所としてはね」
「歌と同じだ」
「うん」
昼間、ハオルが言っていた。
歌詞を書いても、音の高さを残しても、息を吸う場所を記しても、それだけでは歌にはならない。
「場所を歌ってるんじゃない」
ルカはゆっくり言った。
「通ったことを歌ってるんだ」
エルンが頷く。
「道の記憶」
ミレアが小さく繰り返す。
「道の……記憶」
「うん」
ルカの胸の奥が熱くなった。
第一潮真名ではない。気づきが形になり始めた時の熱だった。
ルカには、今そこにあるものが聞こえる。現在の潮に残り、鯨から鯨へ渡っていく音や、名の残響。
けれど、その音がどこから来たのかまで深く追うことはできない。古すぎるもの。完全に沈んでしまったもの。そこまでは届かない。
エルンは逆だった。
今ある名を、ルカのようには読めない。その代わり、名が消えたあとも残る道を見つけられる。呼ぶ声がなくなり、誰のものだったか分からなくなっても、かつて何かがそこを通った跡なら拾える。
そしてミレアは、何が通ったのかも、何年前なのかも知らない。ただ、人の身体へ渡され続けた動きだけを覚えている。
「私が聞いてるのは、今の歌」
ルカが言った。
「エルンが見てるのは、その下にある昔の道」
ミレアが自分の胸へ触れる。
「私は?」
「身体に残った方」
「それだけ?」
「それだけって、結構すごくない?」
ミレアは黙った。
右へ曲がる。沈む。待つ。受け取る。渡す。
なぜそうするのか知らなくても、彼女の身体は順番を覚えている。
「……紙にはない」
ミレアが呟いた。
「うん」
「おじいちゃんも、全部は知らない」
「うん」
「でも、私にはある」
ルカは頷いた。
「あるね」
ミレアは自分の手を見つめた。どこか戸惑っていたが、昼間ほど苛立ってはいなかった。
その時、歌が変わった。
浜から聞こえる人の声が少しずつ減り、鯨たちの声も少なくなっていく。
ハルガの歌だけが残った。
昨日と同じ場所へ近づいている。
ミレアの表情が強張った。
「来る」
ルカが彼女を見る。
「分かる?」
「ここから」
ミレアは立ち上がり、足を船板の上へ置いた。
「次に、深く吸う」
ハルガの長い声が沈み、また浮かぶ。
「そのあと、左足」
ミレアの足が自然に前へ出る。
短い応答。
「次で――」
声が止まった。
海が静かになる。
まただ。
続きを待つ空白だけが残った。
けれど、ミレアの身体は止まっていなかった。
胸が膨らみ、息を吸う。左足がもう半歩前へ出て、肩が開き、喉が次の音を作ろうとする。
それでも、音だけが出ない。
ミレアの目が見開かれた。彼女自身、無意識に動いたらしい。
ルカはすぐエルンを見る。彼の顔は青ざめていた。
「エルン?」
「ない」
「何が?」
「この先」
彼は海面を睨んでいる。
「道がない」
「歌と同じ?」
「うん」
「切れてる?」
エルンは首を横に振った。
「切れた跡もない」
「じゃあ、消えた?」
「……たぶん」
そこだけだった。
沈んだ航跡が存在しない。
途中までは確かにある。ずっと昔から続いてきた道が、歌と、ミレアの身体と同じところまで来ている。
けれど最後の一歩だけが、海から抜け落ちていた。
「私、今」
ミレアが掠れた声で言った。
「次に行こうとした」
「うん」
「何を歌うか分からないのに」
「身体が覚えてるんだと思う」
ルカが言う。
「……でも出ない」
ミレアは喉へ手を当てた。
「おじいちゃんと同じ」
遠い浜を見る。人々は今夜も立ち上がり始めていた。鯨たちも静かに沈んでいく。
その中にいるはずのハオルの姿は、ここからでは小さすぎて見えない。
「このまま」
ミレアが呟く。
ルカは黙って待った。
「このまま、おじいちゃんの声が出なくなったら」
少女の指が喉元の鯨骨へ触れる。
「私、ここまでしか受け取れない」
昼間より小さな声だった。
怒りではない。
ようやく外へ出た恐怖だった。
「昔の歌だけじゃない。今歌える歌も。おじいちゃんが知ってる息の取り方も、待つ場所も」
ミレアは唇を噛む。
「全部、途中になるかもしれない」
ルカは慰めなかった。
大丈夫とも言えない。
ハオルがいつまで歌えるのか、ルカには分からない。この歌が必ず戻る保証もない。
だからこそ、自分のことを話した。
「私も」
ミレアが顔を向ける。
「前の名前、誰からもらったのか分からない」
「……ルカの?」
「うん」
胸元の護符へ触れる。
「海に流れ着く前、誰かが私を呼んでたはずなんだけど」
「覚えてないの?」
「ぜんぜん」
「全部?」
「全部」
ミレアが黙る。
「だから、探してる」
ルカは海を見る。
「でも、その人がどういう声で呼んでたのかも、どんな顔だったのかも、もしかしたら全部は戻らないかもしれない」
言葉にすると、少し胸が痛んだ。それでも続ける。
「全部受け取れなかったからって、なかったことにはしたくないけどね」
ミレアは何も言わなかった。
ただ、胸元の鯨骨を握っていた手から、少しだけ力が抜ける。
「七本の錨が外れる前は、この歌自体なかったんだよね」
ルカが話を戻す。
「うん」
ミレアが答える。
「古い歌は沈んでた」
「止められてた」
ルカは考えた。
長い年月、古い歌そのものが深い場所へ押し込められていた。七本の錨が外れ、潮が再び動き始めると、歌は浮かび上がった。
けれど、完全には戻らなかった。
最後だけ。
終わるために必要な道だけがない。
「だから繰り返す」
ルカが言う。
「終われないから」
エルンが、ハルガの沈んだ海を見る。
「毎晩、同じところまで来る」
「そこまでしか覚えてないから?」
ミレアが訊く。
エルンは首を横に振った。
「違うと思う」
「どうして?」
「覚えてるから、来る」
ミレアの顔が上がる。
「最後も?」
「たぶん。身体には」
ルカは、さっきのミレアを見る。
次の音を知らないのに、身体は息を吸った。足も前へ出た。何かがある。そこへ行くはずだと覚えている。
だから毎晩、同じところまで来る。
鯨も。
人も。
その先へ進めないのに、そこに続きがあることだけは忘れていない。
「昨日、東へ進んだ漁船」
ルカが言った。
「歌と同じことしてたんだ」
「ちゃんと進んだ。でも次へ行けなかった」
ミレアが続ける。
「三日走った船も」
歌が終わらない。
だから航路も終われない。
海域そのものが、古い記憶の途中へ引き込まれている。
ルカはしばらく何も言わなかった。
波が船腹を叩き、島の人々が浜から消えていく。空には星があり、潮も動き、風も吹いている。
それなのに、この海には《次》だけがない。
ルカは甲板へ広げた海図を見つめ、ふと眉を寄せた。
「違う」
「何が?」
ミレアが訊く。
「みんな、歌の続きを探してる」
「それはそうでしょ」
「昔の歌を知ってる人を探したり、書こうとしたり、鯨が思い出すのを待ったり」
「だから私も――」
「でも、続きを思い出すんじゃない」
ミレアが口を閉じる。
ルカは海図を畳んだ。
「歌詞を作るんでもない。最後の音だけ見つけるんでもない」
「じゃあ、何?」
ルカはエルンを見る。
沈んだ道。途中までは確かに残っている。
次にミレアを見る。
身体も同じ順番を覚えている。
「この歌が通った道を、もう一回通る」
ミレアの眉が寄った。
「道を?」
「うん」
「船で?」
エルンが訊く。
「船で」
「ナミルで?」
「ナミルで」
船首の名灯がわずかに明滅した。
聞いていたらしい。帆も小さく震える。
「怖がってる」
エルンが言う。
「いつものこと」
ルカは船縁を軽く叩いた。
「大丈夫。鯨よりは小さい道だから」
帆がもう一度、さっきより強く鳴った。
「怒った」
「励ましたのに」
「何の励ましにもなってないと思う」
ミレアまで言う。
「二対一はずるい」
「船入れたら三対一」
「ナミルまで数えるの?」
少しだけ笑いが戻った。
けれどミレアはすぐ、途切れた海へ視線を戻す。
「ねえ」
「何?」
「その道を通るなら」
ミレアは海図を指した。
「最後だけ取ってくるんじゃないの?」
ルカは意味を考える。
「最後だけ?」
「なくなってるのは最後でしょ」
「うん」
「なら、そこへ行って、その先だけ見つければいいんじゃない?」
ミレアの声には焦りがあった。
当然だった。
欲しいのは、祖父が渡せなかった最後。自分が受け取れなかった続き。
そこさえ戻ればいい。
ルカも少し前まで、同じように考えていた。
七つの音。残りを見つけ、揃えて並べれば答えになる。
けれど、昼間に見た四枚の順札を思い出す。
残される。
拾われる。
沈む。
もう一度、流される。
どれか一つだけでは、同じものにはならない。
「たぶん」
ルカは答えた。
「それじゃ駄目」
「どうして?」
「まだ分からない」
ミレアが少し不満そうな顔をした。
それでもルカは、途切れた海から目を逸らさなかった。
「最後だけが鍵なら、ナラ=オルテで私は何かを拾って持って帰ってるはずだから」
「持って帰ってない?」
「うん」
黒い箱は、エルンとしてそこにいる。
沈んだ名札は海へ返した。
第一潮真名だけが、あとからルカへ還ってきた。
「私たちが通った順番に意味があったんだと思う」
ルカは舵輪へ手を置いた。
「だから最初から行く」
「全部?」
「全部」
ミレアはしばらく黙っていた。
やがて自分の胸へ触れる。
そこにも、最初から最後まで続く途中が残っている。
「……分かった」
「明日、鯨が動いたらついていく」
「歌いながら?」
ミレアが訊く。
「ううん」
ルカは暗い海を見つめた。
目には見えない。海図にもない。
それでも、歌の下には途中まで続く道がある。
右へ曲がり、深く沈み、島の脇を通る。誰かの声を待ち、何かを拾い、別の誰かへ渡し、最後の一歩だけを失った道。
「歌の中を走る」
エルンが小さく頷き、ミレアも少し遅れて同じように頷いた。
夜の湾には、もう鯨の声はなかった。
けれど海の下には道が残っている。
人の身体にも。
今を流れる歌にも。
それぞれ違う形で。
全部は残っていない。どれか一つだけでは足りない。
それでも、同じ場所へ向かう記憶はまだ消えていなかった。
ナミル=レイの名札が、夜風に細く鳴る。
白い小さな船は、明日、歌を拾いに行くのではない。
ずっと昔、誰かから誰かへ渡されてきたものが通った道を、最初から、もう一度辿る。




