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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第7話 鯨の歌は、沈んだ航路を覚えていた
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第二節 ― 歌の下にある道

 その夜、ルカは浜へ降りなかった。


 ナミル=レイを湾の中央近くまで出し、帆を落とす。錨は使わない。流されすぎない程度に舵だけを当て、船そのものを海へ浮かべておいた。


 昨日と同じ浜から、昨日と同じように聞いていても、きっと同じものしか見つからない。だから今夜は、少しだけ歌の中へ近づいてみるつもりだった。


「私も行く」


 出航する直前、そう言ったのはミレアだった。


 ルカが振り返ると、少女は小さな布袋を肩へ掛けて桟橋に立っていた。昼間と同じ白い布衣に紺色の腰布。首には鯨骨の笛が下がっている。その後ろにはハオルもいた。


「行くって、船に?」


「そう」


「今夜は港の外まで出るよ」


「分かってる」


「鯨のそばまで行くかもしれない」


「それも分かってる」


「ナミル、初めて乗る人にはちょっと人見知りするけど」


 船首の名灯が一度だけ明滅した。


「ほら」


「それは今いる?」


 真顔で訊かれ、ルカは咳払いした。


「たぶんいらなかった」


 それからハオルを見る。


「ハオルさんは?」


「俺は行かん」


 老人は桟橋の杭へ片手を置いたまま、湾を見ていた。


「今夜も浜で歌う」


「なら私も、そっちにいた方が――」


 ミレアが言いかけたところで、ハオルが遮った。


「何しに行くんだ」


 ミレアは口を閉じる。


「続きを探す」


「どこに?」


「それが分からないから見に行くんでしょ」


「なら、歌を拾って帰ってくるつもりで行くな」


 ミレアの眉が寄った。


「どういう意味?」


「俺にも分からん」


「またそれ」


「分からんものを、分かった顔で教えるよりましだ」


 ハオルは孫をまっすぐ見た。


「何がなくなったのかじゃない。何が残ってるのか見てこい」


「……見えるの?」


「俺に聞くな」


「おじいちゃんが行けって言ったんでしょ」


「だから、自分で見ろと言ってる」


 ミレアはしばらく老人を睨んでいたが、やがて小さく息を吐いた。


「分かった」


「本当に?」


「たぶん」


 その返事に、ルカは思わず口元を緩めた。


「その言葉、便利でしょ」


「あなたたちが使ってたから」


「悪いところ覚えたね」


「誰のせい?」


「エルンかな」


「ルカだと思う」


 すぐ後ろからエルンが言った。


「裏切った」


 そんなやり取りをしている間にも、ハオルはもう浜へ歩き始めていた。


「おじいちゃん」


 ミレアが呼ぶ。


 老人は足を止めない。


「何」


「……ちゃんと歌ってよ」


 その背中が、ほんのわずかに止まった。


「そのつもりだ」


 それだけを残し、ハオルは浜へ向かった。


 ミレアはしばらくその背中を見つめていたが、やがてナミル=レイへ乗り込んだ。船霊は最初だけ帆を小さく震わせたものの、ミレアがきちんと船縁へ手を置いて「よろしく」と言うと、名灯が一度だけ淡く光った。


「気に入ったみたい」


 ルカが言う。


「本当?」


「たぶん」


「やっぱり便利に使ってる」


 ナミル=レイは、ゆっくりと桟橋を離れた。


 島の灯が船尾の向こうへ並んでいる。浜には今夜も人々が集まり始めていたが、そこにあるのは祭りの灯ではなかった。鯨骨の柱に掛けられた貝灯も必要最低限で、海を照らすというより、戻る場所だけを示すように淡く灯っている。


 沖には鯨たちがいた。黒い背が、月の下で浮かんでは沈んでいる。その中でもひときわ大きな老鯨が、湾の外側に姿を見せた。白い傷が背を横切っている。


 ハルガ。


 昨日、最初に歌い始めた鯨だった。


 ルカは星潮羅針盤をしまい、潮鏡も出さなかった。


「聞くんじゃなくて、読む」


 自分へ言い聞かせるように呟くと、ミレアが首を傾げる。


「歌を読むの?」


「たぶん」


「また」


「今回は本当にたぶんだから」


「どう違うの?」


「分かんない」


 ミレアが呆れた顔をする。


 ルカは船縁へ手を置いた。


「昨日は歌そのものを聞いてた。今日は、何が残ってるのか探す」


 ハオルがミレアへ言った言葉と似ていた。ミレアも気づいたのか、一瞬だけ目を伏せる。


「ルカ」


 船縁に座っていたエルンが言った。


「うん?」


「昨日より、少し沖にいる」


「鯨が?」


「違う。僕たちが」


「それは私が船を動かしたからね」


「そうじゃなくて」


 エルンは海面を見つめた。


「歌の中で」


 ルカは黙った。


 ミレアもエルンを見る。


「まだ歌ってないよ」


「うん」


「じゃあ、何が見えるの?」


「昨日の跡」


 エルンが指した海面には、月光の揺れしか見えない。


「昨日、ここを何かが通った」


「鯨?」


 ミレアが訊く。


「分からない」


「でも跡がある?」


「うん」


「どんな?」


 エルンは少し考えてから答えた。


「沈んでる」


 ミレアがルカを見る。


「いつもこんな感じ?」


「だいたい」


「よく分かるね」


「慣れた」


「褒められてる?」


 エルンが訊く。


「たぶん」


「ほら、便利でしょ」


「もういい」


 やがて海が震えた。


 最初の声。ハルガだった。


 低い音が水を伝い、ナミル=レイの船底へ触れる。ルカは目を閉じた。昨日はただ、その大きさに圧倒されていた。今日は一つずつ分けてみる。


 長い音が沈み、わずかに高さを変える。短い間を置いて別の鯨が応え、さらに低い声が重なった。遠い浜からは人の歌も加わる。


 ハオルの声が分かった。老いて少し掠れている。それでも、鯨の低音に埋もれない芯があった。


 その声を別の島民が受け、また鯨へ渡していく。


 ルカには、それらがただの旋律には聞こえなかった。


 音の中に、潮名とよく似た揺れがある。誰かが呼ばれたあとに残る響き。何かが海へ渡された時の、ごく小さな震え。


 名前そのものではない。


 けれど、名のそばにあったもの。


 ルカは耳ではなく、胸の奥へ意識を寄せた。


 最初の長い声。途中で何かが横へ逸れる。次の声では深く沈み、また浮かぶ。そのあとには、島の近くをかすめるような浅い響きがある。


「……変」


 思わず呟く。


「何が?」


 エルンは目を閉じたまま訊いた。


「歌なのに、前へ進んでない」


「歌は前に進むものなの?」


 ミレアが訊く。


「普通は次の音へ行くでしょ」


「音はね」


「これは違う。横へ行ったり、下へ行ったり、戻ったりする」


 ルカは指で空中へ線を描いた。


「ここの音は、右」


 右手の海を指す。


「次は下」


 今度は海面。


「そのあと……島の近く」


 船尾の向こうにあるオルカ=ナハトへ目を向ける。


 ミレアは黙って聞いていたが、やがてぽつりと呟いた。


「今のところ」


「分かる?」


「右とか下とかは分からない」


 ミレアは胸元へ手を当てた。


「でも、ここで身体を右へ向ける」


 ルカが振り返る。


「身体?」


「歌う時」


 ミレアは足を少し開いた。船上なので大きくは動けない。それでも昨日浜で見せたように、右足へ重心を移す。


「最初の長い音のあと、右肩を少し引く」


 次の低い声が響く。


 ミレアの身体が自然に沈み、膝がわずかに曲がった。


「ここは下」


 ルカの目が大きくなる。


「同じ」


「何が?」


「私には音が下に聞こえた」


 エルンが目を開いた。


「僕には跡が下へ行った」


 三人が顔を見合わせる。


 ミレアは自分の身体を見る。


「私は……そう教わっただけ」


「誰に?」


「おじいちゃん」


「理由は?」


「知らない」


「ハオルさんは?」


「たぶん知らない」


 ミレアは少し苦く笑った。


「こういうのばっかり」


 次の鯨歌が来る。


 ルカには、島をかすめるような浅い音に聞こえた。エルンの指が船縁の上を横へ動き、ミレアは左足を半歩だけ出す。


「ここで前へ出る」


「なんで?」


「知らない」


「でも身体が覚えてる?」


「うん」


 ルカは言葉を失った。


 紙には書かれていない。ミレア自身も意味を知らない。それでも、音と、沈んだ跡と、身体の動きが同じ場所を指していた。


 鯨歌は続く。


 長い声。短い応答。人の歌。そしてまた鯨。


 エルンの指は、見えない一本の線をなぞるように船縁の上をゆっくり動いていた。


「道」


 やがて彼が言った。


「道?」


 ミレアが聞き返す。


「うん」


「どこに?」


「下」


 ルカは海面を見る。


「海底?」


「海底にあるんじゃない」


 エルンは眉を寄せた。


「海底へ沈んでる」


「同じじゃないの?」


 ミレアが訊く。


「違う」


 エルンは目を開いた。その瞳の奥には、月光とは違う暗い青が残っている。


「ずっと昔に通った道が、沈んでる」


 ルカは息を止めた。ミレアも黙る。


「誰の?」


 ルカが訊く。


 エルンはハルガを見る。


「あの鯨じゃない」


「じゃあ?」


「もっと前」


 歌が一段低くなった。


 その瞬間、エルンの指が右へ動く。


「ここで曲がった」


「今の?」


「うん」


 ルカにも、音そのものが横へ移ったように聞こえていた。


 そしてミレアの右肩も動く。


「ここ」


 三人が同時に言った。


 ルカは思わず笑いそうになったが、それどころではない。


 次の声は大きく沈んだ。エルンの指も下へ動き、ルカには音そのものが深く落ちるように聞こえる。ミレアは膝を曲げ、身体を低くした。


「潜った」


 エルンが言う。


「私にも下に聞こえた」


 ルカが続ける。


「私は、ここで息を一回深くする」


 ミレアが胸へ手を当てた。


 三つの読み方は同じではない。それでも、同じ順番を辿っている。


「エルンには何が見える?」


 ミレアが訊いた。


「跡」


「どんな?」


「水の中に線がある」


 エルンは言葉を探す。


「今の海にはない線。でも、昔そこを何かが通った」


 ハルガが歌い、別の鯨が受ける。その途中に、少しだけ明るい響きが混じった。


 ルカは胸元へ手を当てた。


「これ……」


 名だ。


 ほんの一瞬だけ、誰かの名の残響が鯨歌へ混ざった。


 はっきり読めるほど強くはない。それでも、名であることだけは分かる。


「今、誰かを拾った」


 ルカが言う。


「誰を?」


 ミレアがすぐに訊いた。


「分からない。名前までは読めない」


「でも、名だって分かる?」


「うん」


 エルンも頷いた。


「道の途中に、小さい跡が入った」


「別の道?」


「たぶん。横から来た」


 ミレアが身体を止める。


「ここ、おじいちゃんから『待て』って教わってる」


「待つ?」


「歌わない。次の声が来るまで」


 実際に、鯨歌の中へ短い空白が入った。


 誰も歌わない。


 そのあと、別の鯨が応える。


 ルカの中で、先ほどの名の残響が移った。


「あ」


「どうしたの?」


「渡した」


 ルカは別の鯨を指した。


「今、あっちへ渡った」


「名が?」


「名前そのものじゃないと思う。でも、名に触れてたものが」


 エルンが頷く。


「線も繋がった」


 ミレアは海を見た。


「だから待つんだ」


「何が?」


「歌」


 彼女は胸へ手を置いた。


「この場所だけ、おじいちゃんは絶対に急ぐなって言ってた。声が来る前に歌ったら、最初からやり直せって」


「理由は?」


「知らなかった」


 ミレアは遠い浜を見る。


「今なら……少し分かる」


 歌を渡すため。


 誰かの声を受けるため。


 自分だけで先へ進まないため。


 それを説明する言葉が失われても、身体だけは待つことを覚えていた。


 ルカは歌を聞く。


 右へ曲がる。沈む。島の脇を通る。待つ。何かを拾い、誰かへ渡し、また進む。


 昨日までは旋律の変化にしか聞こえなかったものが、今は違って見える。


「これ……歌ってるんじゃない」


 ルカは呟いた。


「歌ってるよ」


 ミレアが即座に返す。


「分かってる。そうじゃなくて」


「じゃあ何?」


「歌ってるものが、歌じゃない」


 ミレアが眉を寄せ、エルンも首を傾げる。


「……自分で言ってて分からなくなった」


 ルカが額を押さえると、その横でエルンがぽつりと言った。


「泳いでる」


 ルカの手が止まる。


「何が?」


「歌」


 エルンは沖を見る。


「あの鯨が、昔泳いだところを、歌の中でもう一回泳いでる」


 ミレアが息を呑んだ。


「歌の中で?」


「うん」


 エルンは見えない線を追う。


「最初に右へ曲がった。深く潜った。島の横を通った。そこで何かを拾った。それを別の誰かへ渡した」


 ミレアが自分の足元を見る。


「だから、身体も同じように動く……?」


「たぶん」


 今度は誰も、その言葉へ突っ込まなかった。


 ルカは船室へ走り、海図を持って戻った。甲板へ広げる。


「右ってどっち?」


「分からない」


「え」


「今の右と、昔の右が同じか分からない」


「ああ……そうだった」


 潮は変わる。島の形も削られる。長い年月があれば、浅瀬が深くなり、岩礁が沈み、海底そのものが動くことだってある。


 ルカは海図を睨んだ。ミレアが横から覗く。


「書けない?」


「場所としてはね」


「歌と同じだ」


「うん」


 昼間、ハオルが言っていた。


 歌詞を書いても、音の高さを残しても、息を吸う場所を記しても、それだけでは歌にはならない。


「場所を歌ってるんじゃない」


 ルカはゆっくり言った。


「通ったことを歌ってるんだ」


 エルンが頷く。


「道の記憶」


 ミレアが小さく繰り返す。


「道の……記憶」


「うん」


 ルカの胸の奥が熱くなった。


 第一潮真名ではない。気づきが形になり始めた時の熱だった。


 ルカには、今そこにあるものが聞こえる。現在の潮に残り、鯨から鯨へ渡っていく音や、名の残響。


 けれど、その音がどこから来たのかまで深く追うことはできない。古すぎるもの。完全に沈んでしまったもの。そこまでは届かない。


 エルンは逆だった。


 今ある名を、ルカのようには読めない。その代わり、名が消えたあとも残る道を見つけられる。呼ぶ声がなくなり、誰のものだったか分からなくなっても、かつて何かがそこを通った跡なら拾える。


 そしてミレアは、何が通ったのかも、何年前なのかも知らない。ただ、人の身体へ渡され続けた動きだけを覚えている。


「私が聞いてるのは、今の歌」


 ルカが言った。


「エルンが見てるのは、その下にある昔の道」


 ミレアが自分の胸へ触れる。


「私は?」


「身体に残った方」


「それだけ?」


「それだけって、結構すごくない?」


 ミレアは黙った。


 右へ曲がる。沈む。待つ。受け取る。渡す。


 なぜそうするのか知らなくても、彼女の身体は順番を覚えている。


「……紙にはない」


 ミレアが呟いた。


「うん」


「おじいちゃんも、全部は知らない」


「うん」


「でも、私にはある」


 ルカは頷いた。


「あるね」


 ミレアは自分の手を見つめた。どこか戸惑っていたが、昼間ほど苛立ってはいなかった。


 その時、歌が変わった。


 浜から聞こえる人の声が少しずつ減り、鯨たちの声も少なくなっていく。


 ハルガの歌だけが残った。


 昨日と同じ場所へ近づいている。


 ミレアの表情が強張った。


「来る」


 ルカが彼女を見る。


「分かる?」


「ここから」


 ミレアは立ち上がり、足を船板の上へ置いた。


「次に、深く吸う」


 ハルガの長い声が沈み、また浮かぶ。


「そのあと、左足」


 ミレアの足が自然に前へ出る。


 短い応答。


「次で――」


 声が止まった。


 海が静かになる。


 まただ。


 続きを待つ空白だけが残った。


 けれど、ミレアの身体は止まっていなかった。


 胸が膨らみ、息を吸う。左足がもう半歩前へ出て、肩が開き、喉が次の音を作ろうとする。


 それでも、音だけが出ない。


 ミレアの目が見開かれた。彼女自身、無意識に動いたらしい。


 ルカはすぐエルンを見る。彼の顔は青ざめていた。


「エルン?」


「ない」


「何が?」


「この先」


 彼は海面を睨んでいる。


「道がない」


「歌と同じ?」


「うん」


「切れてる?」


 エルンは首を横に振った。


「切れた跡もない」


「じゃあ、消えた?」


「……たぶん」


 そこだけだった。


 沈んだ航跡が存在しない。


 途中までは確かにある。ずっと昔から続いてきた道が、歌と、ミレアの身体と同じところまで来ている。


 けれど最後の一歩だけが、海から抜け落ちていた。


「私、今」


 ミレアが掠れた声で言った。


「次に行こうとした」


「うん」


「何を歌うか分からないのに」


「身体が覚えてるんだと思う」


 ルカが言う。


「……でも出ない」


 ミレアは喉へ手を当てた。


「おじいちゃんと同じ」


 遠い浜を見る。人々は今夜も立ち上がり始めていた。鯨たちも静かに沈んでいく。


 その中にいるはずのハオルの姿は、ここからでは小さすぎて見えない。


「このまま」


 ミレアが呟く。


 ルカは黙って待った。


「このまま、おじいちゃんの声が出なくなったら」


 少女の指が喉元の鯨骨へ触れる。


「私、ここまでしか受け取れない」


 昼間より小さな声だった。


 怒りではない。


 ようやく外へ出た恐怖だった。


「昔の歌だけじゃない。今歌える歌も。おじいちゃんが知ってる息の取り方も、待つ場所も」


 ミレアは唇を噛む。


「全部、途中になるかもしれない」


 ルカは慰めなかった。


 大丈夫とも言えない。


 ハオルがいつまで歌えるのか、ルカには分からない。この歌が必ず戻る保証もない。


 だからこそ、自分のことを話した。


「私も」


 ミレアが顔を向ける。


「前の名前、誰からもらったのか分からない」


「……ルカの?」


「うん」


 胸元の護符へ触れる。


「海に流れ着く前、誰かが私を呼んでたはずなんだけど」


「覚えてないの?」


「ぜんぜん」


「全部?」


「全部」


 ミレアが黙る。


「だから、探してる」


 ルカは海を見る。


「でも、その人がどういう声で呼んでたのかも、どんな顔だったのかも、もしかしたら全部は戻らないかもしれない」


 言葉にすると、少し胸が痛んだ。それでも続ける。


「全部受け取れなかったからって、なかったことにはしたくないけどね」


 ミレアは何も言わなかった。


 ただ、胸元の鯨骨を握っていた手から、少しだけ力が抜ける。


「七本の錨が外れる前は、この歌自体なかったんだよね」


 ルカが話を戻す。


「うん」


 ミレアが答える。


「古い歌は沈んでた」


「止められてた」


 ルカは考えた。


 長い年月、古い歌そのものが深い場所へ押し込められていた。七本の錨が外れ、潮が再び動き始めると、歌は浮かび上がった。


 けれど、完全には戻らなかった。


 最後だけ。


 終わるために必要な道だけがない。


「だから繰り返す」


 ルカが言う。


「終われないから」


 エルンが、ハルガの沈んだ海を見る。


「毎晩、同じところまで来る」


「そこまでしか覚えてないから?」


 ミレアが訊く。


 エルンは首を横に振った。


「違うと思う」


「どうして?」


「覚えてるから、来る」


 ミレアの顔が上がる。


「最後も?」


「たぶん。身体には」


 ルカは、さっきのミレアを見る。


 次の音を知らないのに、身体は息を吸った。足も前へ出た。何かがある。そこへ行くはずだと覚えている。


 だから毎晩、同じところまで来る。


 鯨も。


 人も。


 その先へ進めないのに、そこに続きがあることだけは忘れていない。


「昨日、東へ進んだ漁船」


 ルカが言った。


「歌と同じことしてたんだ」


「ちゃんと進んだ。でも次へ行けなかった」


 ミレアが続ける。


「三日走った船も」


 歌が終わらない。


 だから航路も終われない。


 海域そのものが、古い記憶の途中へ引き込まれている。


 ルカはしばらく何も言わなかった。


 波が船腹を叩き、島の人々が浜から消えていく。空には星があり、潮も動き、風も吹いている。


 それなのに、この海には《次》だけがない。


 ルカは甲板へ広げた海図を見つめ、ふと眉を寄せた。


「違う」


「何が?」


 ミレアが訊く。


「みんな、歌の続きを探してる」


「それはそうでしょ」


「昔の歌を知ってる人を探したり、書こうとしたり、鯨が思い出すのを待ったり」


「だから私も――」


「でも、続きを思い出すんじゃない」


 ミレアが口を閉じる。


 ルカは海図を畳んだ。


「歌詞を作るんでもない。最後の音だけ見つけるんでもない」


「じゃあ、何?」


 ルカはエルンを見る。


 沈んだ道。途中までは確かに残っている。


 次にミレアを見る。


 身体も同じ順番を覚えている。


「この歌が通った道を、もう一回通る」


 ミレアの眉が寄った。


「道を?」


「うん」


「船で?」


 エルンが訊く。


「船で」


「ナミルで?」


「ナミルで」


 船首の名灯がわずかに明滅した。


 聞いていたらしい。帆も小さく震える。


「怖がってる」


 エルンが言う。


「いつものこと」


 ルカは船縁を軽く叩いた。


「大丈夫。鯨よりは小さい道だから」


 帆がもう一度、さっきより強く鳴った。


「怒った」


「励ましたのに」


「何の励ましにもなってないと思う」


 ミレアまで言う。


「二対一はずるい」


「船入れたら三対一」


「ナミルまで数えるの?」


 少しだけ笑いが戻った。


 けれどミレアはすぐ、途切れた海へ視線を戻す。


「ねえ」


「何?」


「その道を通るなら」


 ミレアは海図を指した。


「最後だけ取ってくるんじゃないの?」


 ルカは意味を考える。


「最後だけ?」


「なくなってるのは最後でしょ」


「うん」


「なら、そこへ行って、その先だけ見つければいいんじゃない?」


 ミレアの声には焦りがあった。


 当然だった。


 欲しいのは、祖父が渡せなかった最後。自分が受け取れなかった続き。


 そこさえ戻ればいい。


 ルカも少し前まで、同じように考えていた。


 七つの音。残りを見つけ、揃えて並べれば答えになる。


 けれど、昼間に見た四枚の順札を思い出す。


 残される。


 拾われる。


 沈む。


 もう一度、流される。


 どれか一つだけでは、同じものにはならない。


「たぶん」


 ルカは答えた。


「それじゃ駄目」


「どうして?」


「まだ分からない」


 ミレアが少し不満そうな顔をした。


 それでもルカは、途切れた海から目を逸らさなかった。


「最後だけが鍵なら、ナラ=オルテで私は何かを拾って持って帰ってるはずだから」


「持って帰ってない?」


「うん」


 黒い箱は、エルンとしてそこにいる。


 沈んだ名札は海へ返した。


 第一潮真名だけが、あとからルカへ還ってきた。


「私たちが通った順番に意味があったんだと思う」


 ルカは舵輪へ手を置いた。


「だから最初から行く」


「全部?」


「全部」


 ミレアはしばらく黙っていた。


 やがて自分の胸へ触れる。


 そこにも、最初から最後まで続く途中が残っている。


「……分かった」


「明日、鯨が動いたらついていく」


「歌いながら?」


 ミレアが訊く。


「ううん」


 ルカは暗い海を見つめた。


 目には見えない。海図にもない。


 それでも、歌の下には途中まで続く道がある。


 右へ曲がり、深く沈み、島の脇を通る。誰かの声を待ち、何かを拾い、別の誰かへ渡し、最後の一歩だけを失った道。


「歌の中を走る」


 エルンが小さく頷き、ミレアも少し遅れて同じように頷いた。


 夜の湾には、もう鯨の声はなかった。


 けれど海の下には道が残っている。


 人の身体にも。


 今を流れる歌にも。


 それぞれ違う形で。


 全部は残っていない。どれか一つだけでは足りない。


 それでも、同じ場所へ向かう記憶はまだ消えていなかった。


 ナミル=レイの名札が、夜風に細く鳴る。


 白い小さな船は、明日、歌を拾いに行くのではない。


 ずっと昔、誰かから誰かへ渡されてきたものが通った道を、最初から、もう一度辿る。

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