第一節 ― 最後まで歌わない鯨
オルカ=ナハトが見え始めるより先に、鯨が見えた。
朝焼けの名残を映した海面が大きく盛り上がり、黒い背がゆっくりと水を割る。一頭ではない。その向こうにも、さらに沖にも、濡れた岩のような背が浮かんでは消えていた。白い潮吹きが空へ立ち上がり、斜めから差す朝日を受けて淡い虹を作る。
ルカは船首に立ったまま、しばらく瞬きを忘れていた。
「……多い」
「うん」
隣でエルンも海を見ている。
「これ、全部?」
「全部じゃないと思う。年に一度、もっと集まるって聞いたことある。オルカ=ナハトは、鯨が帰ってくる島だから」
少し離れたところで巨大な尾が水面を叩いた。低い衝撃が海を伝い、ナミル=レイの船腹まで震わせる。驚いた船霊が帆を一度だけ強く鳴らし、両舷の名札が一斉に乾いた音を返した。
ルカは思わず笑う。
「大丈夫だよ。食べられないから」
「ナミル、鯨が怖いの?」
「たぶん、大きいものがだいたい怖い」
そう答えながら、ルカは再び前方へ目を凝らした。
鯨群の向こう、海から突き出した黒い岩肌の奥に、ようやく島影が見え始める。
オルカ=ナハト。
ル=マリナ潮流に寄り添うように浮かぶ、鯨歌の島。
島の民は、鯨を神の使いとは呼ばない。人よりもはるかに長く海を渡るものが、人よりも長く海を覚えている。だから鯨は歌う。見たものを、通った場所を、失ったものを。そして、それを人が受け取る。
オルカ=ナハトの古い歴史は、石碑や本よりも歌として渡されてきたという。ルカも話としては知っていたが、これほど多くの鯨が一つの湾へ集まる光景を見るのは初めてだった。
「お祭り、やってるかな」
「お祭り?」
「鯨が帰ってくる時期は、島中で歌うんだって。夜になったら人も鯨も一緒に歌って、浜には灯りがいっぱい出て、寝ようとしても眠れないくらいうるさいって」
「ルカ、来たことないんだよね?」
「ないけど、船乗りの話は聞いてる。メルナ=レイの酒場だと、同じ人が三回くらい同じ話するから詳しくなるんだよ」
「三回とも同じ話?」
「だいたい二回目から鯨が大きくなる」
「三回目は?」
「島より大きくなる」
エルンが実際の鯨と島影を見比べた。
「嘘だね」
「そこは分かるんだ」
そんな話をしているうちに、ナミル=レイは湾の入口へ入った。
そこで、ルカの笑みが消えた。
静かだった。
波の音はある。鯨の潮吹きも聞こえる。港には船がいて、漁船も、小型交易船も、鯨を見るために来たらしい巡礼船も停泊していた。桟橋では人が綱を運び、魚籠を積み、濡れた帆を干している。
島は動いている。人も働いている。
それなのに、誰も歌っていなかった。
本来なら浜へ張られているはずの祭布も、半分ほど畳まれたまま積まれている。湾沿いには鯨骨を組んだ白い飾り柱が並んでいたが、その間へ渡された綱にも貝灯はほとんど吊られていない。
祭りを待っている島ではなかった。
何かを始められないまま、立ち止まっている島だった。
「……間違えた?」
ルカは海図を確認した。
「オルカ=ナハトだよね」
「合ってる」
エルンが答える。彼は島ではなく、湾の奥を見ていた。
「鯨もいる」
「いるね」
「でも、昨日の夜に聞こえたのと違う」
ルカは振り返った。
「歌が?」
「うん」
それ以上を訊く前に、桟橋から腕が上がった。空いている係留場所へ入れという合図だ。
ルカは舵を切り、ナミル=レイをゆっくり港へ寄せた。船首側の綱を投げる。
受け取ったのは、ルカより少し年上に見える少女だった。
潮風に焼けた褐色の肌に、黒に近い藍色の髪を太く編み、背中へ垂らしている。服装は島の漁師たちと大きく変わらない。袖を肘までまくった白い布衣に、紺色の腰布。首には小さな鯨骨の笛らしきものが下がっていた。
少女は綱を手早く杭へ巻きつける。動きに迷いはないが、視線は何度も沖へ向いていた。
「ありがとう」
ルカが声をかけると、少女は一度だけ頷いた。
「メルナ=レイから?」
「うん。ルカ=ネリス。こっちはエルン=カイオ」
「名拾い」
「分かる?」
「その船なら」
少女は両舷に並んだ名札へ目をやり、それからまた沖を見る。
湾の中央へ、一頭の鯨がゆっくり浮上していた。背中には白い傷が何本も走っている。若い鯨ではない。皮膚は海に削られた岩のように荒れ、浮上する動きもゆっくりしている。
それでも周囲の鯨は、その老いた個体の近くに一定の距離を保っていた。
「あの鯨、ずいぶん年寄りだね」
ルカが言う。
「ハルガ」
「名前?」
「島でそう呼んでる」
少女の目が少し細くなった。
「私が生まれる前から、毎年帰ってきてる」
「じゃあ、今年も祭りの時期なんだ」
ルカは浜を見回す。
「お祭り、始めないの?」
少女はすぐには答えなかった。係留綱の結び目を確かめる。十分きつく締まっているのに、もう一度引いた。
「今年は、まだ」
「まだ?」
「始められない」
短い答えだった。
ルカが何か訊く前に、少女は綱から手を離した。
「夜になれば分かる」
「夜?」
「聴けば」
それだけ言うと、次の桟橋へ向かおうとする。
「あ、待って」
ルカが呼び止めた。
「名前は?」
少女は少しだけ振り返る。
「ミレア=ハウ」
そして今度こそ歩いていった。
ルカはその背中を見送りながら、首を傾げる。
「忙しい人だね」
「違うと思う」
エルンが言った。
「何が?」
「ずっと鯨見てた」
ルカも沖を見る。
老鯨ハルガの黒い背が、静かに水へ沈んでいく。
「心配してるのかな」
「たぶん」
「何を?」
「それは分からない」
「そこはいつも通りだね」
日が沈むころになると、湾沿いの家々から人が出てきた。
老人も、漁師も、女たちも、子どもたちまで。けれど誰も大声では話さなかった。
浜には鯨骨を削って作られた長椅子が並び、白い貝石の階段へ腰を下ろす者もいる。何人かは裸足になって波打ち際へ立ち、足裏だけを海水へ触れさせていた。
ルカとエルンも、ナミル=レイの甲板から湾を見ていた。
「あれ」
ルカが浜の一角を指す。
昼間の少女、ミレアがいた。その隣に一人の老人が立っている。
背は高いが、身体は細く、肩が少し前へ落ちていた。白い髪は短く切られ、日焼けした顔には深い皺が刻まれている。老人もミレアと同じように、首から鯨骨の笛を下げていた。
「おじいさん?」
エルンが訊く。
「似てる?」
「目が」
「よく見てるね」
やがて月が昇った。
満月には少し足りない。それでも海面を照らすには十分な明るさだった。
一頭目の鯨が浮かぶ。
二頭、三頭と、沖にいた群れがゆっくり湾内へ集まってくる。誰も合図を出していないのに、鯨たちは一定の距離を保ち、半円を描くように並んだ。
中心近くに、老鯨ハルガがいる。
長い呼吸。
白い潮吹き。
そして、海が震えた。
最初の一声で、ルカの胸骨まで揺れた。
昨夜、遠い海から聞いた声よりはるかに近い。近すぎて、耳で聞いている感覚が薄かった。足元の甲板から船腹へ、船腹から肋骨へ。喉の奥まで振動が届き、身体の内側を通ったあとで、ようやく音になる。
別の鯨が応える。最初より少し高い。
三頭目が、その続きを長く受け取る。
ばらばらに鳴いているようで、違った。一頭の声が消える場所を、次の鯨が拾う。そしてまた、別の鯨へ渡していく。
「歌ってる……」
ルカは小さく呟いた。
その鯨歌へ、人の声が重なった。
浜に立つ老人だった。
低く、掠れた声。若くはない。それでも鯨の低音へ呑まれない、芯のある声だった。
言葉としては聞き取れない。潮語とも違う。ただ、どこで息を吸い、どこで声を沈め、どこで次へ渡すのか。それだけが身体へ直接伝わってくる。
老人が一つの音を長く伸ばした。
最後まで自分で歌い切らない。声を細くし、あえて途中で手放す。
その先を、ミレアが受け取った。
ルカの目が少し大きくなる。
「そういう歌なんだ」
「何が?」
「一人で歌わない」
老人からミレアへ。ミレアから別の島民へ。さらに、浜の別の場所から低い声が返る。
鯨たちと同じだった。
一つの声が歌を所有するのではない。渡し、受け、また渡す。
人から人へ。鯨から人へ。人から鯨へ。
オルカ=ナハトの夜全体が、一つの長い歌になっていく。
これが島の歴史なのだ。
ルカは無意識に胸元の護符へ触れていた。かすかに熱を持っている。
第一潮真名が、胸の奥で身じろぎした。
まだ音にはならない。それでも確かに、今の歌へ何かを感じている。
鯨歌は長く続いた。
聞いているうちに、海そのものが少しずつ深くなっていくようだった。実際の水深ではない。今いる湾から、もっと前の夜へ、さらに昔の海へ。少しずつ沈んでいく。
鯨が覚えていたものを、人の身体が辿っている。
そんな感覚があった。
老人の声が、もう一度前へ出た。今度は最初より弱く、途中で一度、息が揺れた。
ミレアがわずかに顔を向ける。
老人は気づかないふりをして歌を続ける。
ルカにも分かった。
昼間から見ていたミレアの視線は、鯨だけに向けられていたわけではない。この老人も見ていたのだ。
歌は続く。
老人が一節を渡し、ミレアが受ける。足が砂を踏み、身体がわずかに前へ出て、声が沈む。そして再び老人へ戻る。
その瞬間だった。
老人が口を開いた。
息を吸う。
次の音へ入る。
そのはずだった。
声が出なかった。
老人自身が、一瞬目を見開く。
それでも身体は止まっていない。右足が砂の上をわずかに擦り、胸が膨らむ。喉が次の音を作ろうとする。
けれど、何も出ない。
ミレアが反射的に息を吸った。
老人が渡せなかった先を受け取ろうとする。肩が上がり、左足が一歩前へ出て、喉が開く。
「――」
ミレアの口からも、音は出なかった。
ルカの背筋に冷たいものが走る。
鯨たちも、同時に黙った。
あまりにも突然だった。
旋律の終わりではない。歌い終えた静けさでもない。
誰かが途中で糸を切ったように、次へ渡るはずだったものだけが海から抜け落ちた。
波だけが岸へ寄せる。
老鯨ハルガは、しばらく海面に浮いたまま動かなかった。やがてゆっくり沈み、別の鯨もそれへ続く。
ミレアは動かなかった。老人も同じだった。
二人だけが、歌のなくなった場所へ取り残されたように立っている。
「……終わり?」
ルカが呟く。
「違う」
エルンの声が硬かった。船縁を握っている。
「まだ、続く」
ルカにも分かった。
身体が次を待っている。
浜にいる人々も、鯨も、そしてルカ自身でさえ、何かが来るはずだと知っている。
なのに、来ない。
やがて老人が長く息を吐いた。
「……今夜も、ここか」
その言葉をきっかけに、浜の人々が少しずつ動き始めた。
誰も歌わない。
祭りも始まらなかった。
*
翌朝、ルカは浜へ降りた。
昨日の老人は、海辺の小さな作業小屋の前で貝殻を削っていた。ミレアも一緒だった。
老人が削り、ミレアが穴を開け、貝殻へ紐を通す。互いにほとんど口を利かないが、喧嘩をしている空気でもない。長く一緒にいる者同士の沈黙だった。
ルカが近づくと、ミレアが先に顔を上げた。
「昨日の名拾い」
「覚えてた」
「名前も覚えてる」
「じゃあ言ってみて」
「ルカ=ネリス」
「よし」
「何の確認?」
「なんとなく」
ミレアが少しだけ呆れた顔をする。
老人は貝殻を削る手を止めた。
「孫が世話になったか?」
「係留綱を取ってもらっただけです」
「なら、こっちの世話だな」
「祖父のハオル=ハウ」
ミレアが言った。
「島の鯨歌い」
「余計な肩書きはいらん」
「でも、そうでしょ」
「今は歌えてない」
軽く言ったように聞こえたが、ミレアは何も返さなかった。ルカも、その言葉だけは冗談だと思えなかった。
「昨日の歌」
ルカは二人の近くへ腰を下ろした。
「いつから、あそこで止まるんですか?」
ハオルの手が止まる。
「七本の錨が眠ってからだ」
ルカの表情が変わった。
「静潮機が止まってから?」
「ああ。その直後から、あの古い歌が戻った」
「戻った?」
「ずっと歌われていなかった歌だ」
老人は貝殻を膝へ置く。
「俺が子どもの頃にも聞いたことはない。親父も知らん。そのまた親から、そういう歌があったと教わっただけだ」
「なのに、歌えるんですか?」
「途中まではな」
ハオルは指先を宙へ持ち上げた。昨日の歌をなぞるように、ゆっくり下げ、上げる。
その指が途中で止まった。
「毎晩、同じところだ。若い鯨も、ハルガたちの真似をして歌う。俺たちも同じだ」
「続きを忘れた?」
ルカが訊く。
ハオルは首を横に振った。
「忘れたなら、まだ楽だった」
老人は胸へ手を置く。
「身体は覚えてる」
隣でミレアの指が止まった。
「次に息を吸う場所も知っている。声をどこへ沈めるかも、どの足を前へ出すかも分かる」
ハオルは立ち上がり、砂の上へ一歩出た。
息を吸う。
喉が動く。
昨日と同じだ。その先へ声が続くはずだった。
けれど、何も出ない。
老人はゆっくり息を吐いた。
「ここから先だけが、ない」
エルンが老人を見る。
「でも、身体は覚えてる」
「ああ」
「鯨も?」
「たぶんな」
ハオルは湾へ視線を向けた。沖では、老鯨ハルガが静かに浮かんでいる。
「だから、あいつも毎晩同じところまで来る」
ルカは昨夜の光景を思い出した。
老人の身体。ミレアの身体。鯨。みんなが同じところで次を待った。
「それを」
ミレアが言った。声が低かった。
「覚えてるって言うの?」
ハオルが孫を見る。
ミレアは貝殻を握ったまま続けた。
「身体が覚えてる。喉が覚えてる。足が覚えてる。ずっとそう言ってる」
「嘘じゃない」
「でも歌えない」
「それも嘘じゃない」
「じゃあ、何が残ってるの?」
ミレアの声が少しだけ強くなる。
「私も同じところまで歌える。おじいちゃんから教わったから。でも、その先はない」
ハオルは黙った。
「残ってるって言うなら、最後まで残してよ」
「ミレア」
「だって、そうでしょ」
怒っているようで、それだけではなかった。
ルカには、その声の底にあるものが少し分かった。
「書いておけばよかったのに」
ミレアが言う。
「歌える人がいるうちに、全部」
ハオルの眉が動く。
「書こうとした奴なら、昔から山ほどいる」
「なら、なんで残ってないの」
「残ってる」
老人は作業小屋の奥へ入り、一枚の古い潮紙を持ってきた。
紙は黄色く変色し、端が何度も補修されている。文字がびっしり並んでいた。
「読んでみろ」
ルカへ渡す。
「ええと……『海より来たりて、夜の底に――』」
数行読んだところで、ルカは眉を寄せた。
「これ」
「何だ」
「歌じゃない」
読める。意味も分かる。物語にもなっている。
けれど、昨夜聞いたものとはまるで違った。
「そうなる」
ハオルは紙を受け取った。
「音の高さも書いた。息を吸う場所も書いた。どこで誰が受けるかも書いた。それでも、歌ったものを紙へ移した瞬間、別物になる」
「じゃあ、紙が悪いってこと?」
ミレアが訊く。
「違う」
「だったら?」
「分からん」
老人はあっさり言った。
ミレアが顔を上げる。ルカも少し驚いた。もっと頑固に言い切るかと思っていた。
「分からんよ」
ハオルは潮紙を見る。
「何百年もそうしてきたから、それで残るんだと思ってた。俺もそう教わった」
指が紙の端を撫でる。
「歌えるうちに渡せばいいってな」
「じゃあ」
ミレアの声が小さくなる。
「おじいちゃんが歌えなくなったら?」
老人は答えなかった。
「最近、前より声出なくなってるでしょ」
「年寄りだからな」
「そういう話じゃない」
ミレアの指が強く貝殻を握る。
「私、知ってるよ」
ハオルが黙る。
「前はもっと長く歌えた。今は一節歌ったあと、息を戻すのに時間がかかる」
「よく見てるな」
「見てるよ」
その一言だけが、ひどく幼く聞こえた。
ルカは黙って二人を見る。
ミレアは伝統を嫌っているわけではない。老人のやり方を馬鹿にしているのでもない。
怖いのだ。
完全に受け取れないまま、いつか受け取る相手だけがいなくなることが。
「歌えないなら、残ってないのと同じだよ」
ミレアが言う。
「私が受け取れなかったら、それで終わる」
ハオルはしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに口を開く。
「そうかもしれんな」
ミレアが顔を上げた。
「否定しないの?」
「できん」
老人は自分の喉へ触れた。
「俺も怖い」
初めて、ハオルの声が少しだけ揺れた。
「俺の中で止まったまま、渡せなくなるのがな」
ミレアは何も言えなかった。
ルカも口を挟まない。
どちらが正しいわけでもない。文字へ残したいミレアも、身体で渡してきたハオルも、どちらも失いたくないだけなのだ。
*
その日の昼、一隻の漁船が港へ戻ってきた。
甲板にいる男たちは疲れ切っていた。
「またか!」
桟橋から声が上がる。
「まただ!」
船長らしい男が悪態をついた。
「夜明けまで東へ走ったんだぞ!」
ルカたちも桟橋へ出た。
「東へ?」
「ああ。潮も悪くなかった。風もあった。星だって見えてた」
男は湾口の黒い岩礁を指さす。
「なのに朝になったら、あそこだ」
「出る時も通る岩ですね」
「そうだよ!」
「潮に戻されたとか?」
「だったら分かる。船首はずっと東向きだった。羅針も狂ってない」
別の船員が青い顔で言う。
「進んでたんだ。絶対に」
「なのに」
ミレアが低く言った。
「次へ行けない」
ルカが彼女を見る。
ミレアは漁船を見つめたままだった。
「歌が止まってから、ずっとこう」
「ずっと?」
「漁船だけじゃない」
さらにその日の午後、三日ぶりに戻ってきた交易船が入港した。
三日分の食料は減っている。二度夜を越えている。航海記録にも、それだけの距離を進んだ印が残っている。
ところが船底へ付着した潮泥や貝を見ると、ずっとオルカ=ナハト近海を巡っていた形跡しかなかった。
ルカは桟橋へしゃがみ、交易船の船腹へ手を置いた。
木材には新しい潮の匂いが残っている。航跡もある。
船は動いていた。
止まってはいない。
「ちゃんと航海してる」
ルカは眉を寄せる。
「なのに……次へ繋がってない」
「歌と同じ」
エルンが言った。
「そう」
ミレアの声も重なる。
ルカは二人を見る。
昨夜の歌。途中まではある。そこまでなら歌える。身体も覚えている。
でも、次がない。
船も同じだった。風があり、潮があり、星も動いている。航海そのものは続いている。
それでも、次の港だけへ届かない。
「歌が止まったせいで、航路まで止まってる……?」
「止まってない」
エルンが首を振る。
「なくなる」
「何が?」
「次」
その言葉に、ミレアがわずかに身体を固くした。
ルカも背筋が冷たくなる。
次がない。
歌にも、船にも。
そしてミレアにも。
祖父から途中までは受け取っている。けれど、その先へ行けない。
島全体が、同じところで立ち止まっていた。
*
午後、ハオルは三人を作業小屋の奥へ招いた。
棚には奇妙なものがいくつも並んでいる。鯨骨を薄く削った板。貝殻へ刻まれた波形。結び目の位置を変えた長い紐。足運びを示すための小さな砂盤。
文字の本ではない。
歌詞を記録したものでもなかった。
「これ全部、歌を覚えるためのもの?」
ルカが訊く。
「ああ」
ハオルは一本の紐を手に取った。
「ここが息を吸うところ。次が相手の声を待つところ。これは足を動かす場所」
「文字より細かい」
「書けばいいってだけでもないんだよ」
ミレアが言った。声には、まだ納得できていない響きが残っている。
「分かってる。でも、何も残らないよりはまし」
ハオルは反論しなかった。
「昔の歌のことが分かるもの、ほかにありませんか?」
ルカが訊く。
「何を探してる?」
老人が見る。
ルカは少し考えた。
まだ自分にも上手く説明できない。
「この歌と、同じところを通ったもの」
ハオルの目が細くなる。
「同じところ?」
「場所かどうかは分からない。でも、昨日の夜、私の中の音と鯨の歌が、同じところを覚えてるってエルンが言った」
エルンが頷く。
「だから、昔の歌が何を歌ってたのかじゃなくて、どういう順番を通ってたのか分かるものがあれば」
ハオルはしばらく黙っていた。
やがて、棚の一番下へ手を伸ばし、小さな木箱を取り出した。
「これかもしれん」
蓋を開ける。
中には、鯨骨を細長く削った四枚の板が入っていた。
一枚目には、浜へ打ち上げられたような形。
二枚目には、人の手。
三枚目には、沈んでいく渦。
四枚目には、海へ流れていく細い線。
文字はない。
「これ、初めて見る」
ミレアが言った。
「見せてなかったからな」
「なんで?」
「まだ早いと思ってた」
「そうやって――」
ミレアが言いかけて、止まる。
ハオルも目を逸らさなかった。
「俺も先代から渡された」
老人は一枚目を机へ置く。
「意味を全部教えられたわけじゃない」
ミレアが眉を寄せた。
「分からないの?」
「全部はな」
「なのに、私に渡すつもりだったの?」
「そのつもりだった」
「分からないものを?」
ハオルは答えなかった。
それが答えでもあった。
ルカは二人を見てから、四枚の鯨骨へ視線を落とす。
「この順番は?」
「昔の歌を覚えるための順札だ」
ハオルが一枚ずつ並べる。
「言葉にするなら――」
一枚目。
「浜へ残されたもの」
二枚目。
「拾われたもの」
三枚目。
「沈んだもの」
そして最後の一枚。
「もう一度、流されたもの」
ルカの指が止まった。
隣でエルンも、同時に四枚を見る。
部屋の中から音が消えたように感じた。
浜へ残されたもの。
拾われたもの。
沈んだもの。
もう一度流されたもの。
白い浜が脳裏へ浮かぶ。
三度の潮にも動かなかった、黒い箱。
誰にも読めないほど深いところから現れた少年。
砂浜へ残された父親の名。
幼い娘。
名札へ触れた時に見えた、海の底。
名前を取り戻そうとして、危うく自分まで沈みかけたこと。
そして最後に、ルカは名札を持ち帰らなかった。
ミリカの父の名を、娘の所有物へ戻さなかった。
もう一度、海へ流した。
「……ナラ=オルテ」
声が漏れた。
エルンが頷く。
「同じ」
「黒い箱が浜に残った」
「うん」
「私たちが拾った。あなたも」
「うん」
「沈んだ名があった」
「ルカが呼んだ」
「最後に、返した」
ルカの口の中が乾く。
四枚の板を見る。
偶然にしては似すぎている。
あの浜で起きたことから、人の顔も、地名も、事情もすべて取り除き、ただ順番だけを残したようだった。
「この歌、何の歌なんですか?」
ハオルへ訊く。
「知らん」
「知らない?」
「名前が残ってない」
「オルカ=ナハトなのに?」
「歌に名前なんぞなくても、歌えれば困らなかったんだろう」
ハオルは四枚を見下ろした。
「少なくとも、この島で文字を使って記録を残すようになるより前からある」
ミレアが小さく息を吐いた。
「やっぱり分からないものなんだ」
責める声ではなかった。それでも、寂しさは残っていた。
ルカは四枚目へ触れた。
その瞬間、胸の奥で一音が鳴った。
「……っ」
護符が熱を持つ。
ルカは反射的に胸を押さえた。
「ルカ?」
エルンが見る。
「どうしたの?」
ミレアもこちらを見る。
ハオルには聞こえていない。
ミレアにも。
けれどルカには分かった。
第一潮真名。
七本の錨が外れた夜、自分へ還ってきたあの一音。
それが四枚の順札を前にして、確かに応えた。
「これ……」
ルカは呼吸を整える。
「もしかして、逆だったんじゃないかな」
「何が?」
エルンが訊く。
「私、ずっと《七つの潮鍵》って、どこかにあるものだと思ってた」
貝殻。遺跡。船。扉。
何かを見つけ、手へ入れ、七つ揃えれば、その先が開く。鍵という言葉から、勝手にそう思い込んでいた。
「でも、ナラ=オルテでは何も拾ってない」
「黒い箱は?」
「残ってる。あれが鍵だったなら、第一潮真名だけ私のところへ来るのはおかしい」
「名札も返した」
「そう」
ルカは四枚の鯨骨を順番に指した。
「残されて、拾われて、沈んで、もう一度流れた」
黒い箱とエルンに出会った。
ミリカの父の沈んだ名を知った。
そして拾った名を、持ち主のもとへ固定せず、もう一度海へ返した。
あの一連の出来事そのものが、ここに残された古い歌と同じ形をしている。
「鍵を見つけたんじゃない」
ルカは呟いた。
「私たちが、通ったんだ」
エルンが四枚を見る。
「道?」
「たぶん」
まだ確信ではない。
けれど、胸の一音は反応している。
それだけは嘘ではなかった。
「ナラ=オルテで、この順番を全部通った。それで、七本の錨が外れた時に繋がったのかもしれない」
「だからルカに音が戻った」
「うん」
ハオルが腕を組む。
「七つの潮鍵、と言ったな」
「昔の構文で、そう呼ばれてたみたいです」
「鍵ねえ」
老人は一枚目の鯨骨を指で撫でた。
「島の者なら、これは鍵とは呼ばんな」
「じゃあ何て?」
「歌だ」
あまりにも当然のように言った。
「最初から最後まで歌って、初めて一つの歌になる」
ハオルはミレアを見る。
その顔に、ほんの一瞬だけ苦いものが浮かぶ。
「途中まで持ってたって、最後へ渡せなきゃ終われん」
ミレアの目が伏せられた。
ルカは昨夜の歌を思い出す。
途中で止まった鯨。息を吸ったハオル。続きを受けようとしたミレア。そして、帰る方向を失っている船たち。
何かが繋がりかけている。
まだ答えではない。
けれど、これまで考えていた「鍵」とはまったく別のものが、この海にはある。
「その道を」
ミレアが言った。
ルカが顔を上げる。
「その道を最後まで通れたら」
ミレアは四枚の順札を見ている。
「歌も戻る?」
声には期待があった。
同じくらい、怖さもあった。
ルカはすぐには答えなかった。
分からない。
だから、そのまま言う。
「分からない」
ミレアの表情がわずかに落ちる。
「でも、確かめに行く」
「どうやって?」
「今夜、もう一回ちゃんと聞く」
「昨日も聞いたんでしょ」
エルンが言う。
「今度は歌を探さない」
ルカは窓の向こうを見る。
昼の湾。その中央で、老鯨ハルガがゆっくり浮かんでは沈んでいる。
「あの鯨たちが、何を覚えてるのか聞く」
風が小屋の窓から入り込み、吊られていた貝殻を小さく鳴らした。
ハオルは何も言わなかった。
ミレアも、四枚の順札を見つめたままだった。
分からないものを、そのまま渡すのか。
その問いはまだ消えていない。たぶん、すぐに答えの出る問いでもない。
一つの音だけでは、歌ではない。
一つの場所だけでは、航路ではない。
そして鍵もまた、どこかから拾って持ち帰れば、それで終わるものではないのかもしれない。
ナラ=オルテでルカたちが通ったものと同じような何かが、今もこの海に残っている。
潮は、その道を忘れていない。
鯨も、人も、完全に分からなくても身体のどこかで次があることだけは覚えている。
ただ今は、その先を最後まで渡せなくなっているだけだった。




