序節 ― 行き先のない航海
潮は、道を残さない。
船が通り過ぎれば波は消え、
足跡も、
海図にない航路も、
いつか見えなくなる。
けれど、忘れないものもいる。
名そのものではなく、
その名がどこを通り、
誰のそばを過ぎたのかを。
もし遠い海から歌が聞こえたなら、
どうか、呼ばれていると決めつけないでほしい。
それはただ、
あなたと同じ道を覚えている声かもしれない。
海は、もう止まっていなかった。
風を受けた波がナミル=レイの船腹を軽やかに叩き、砕けた白い泡を船尾へ置き去りにしていく。両舷に吊られた名札は、それぞれ違う拍子で揺れていた。ときおり潮に晒され続けた紐がほどけ、一枚の札が海へ落ちることもある。
落ちた名札は、すぐには沈まない。波に持ち上げられ、船から離れ、しばらく迷うように漂ったあと、やがてどこかの潮を掴んで流れていく。
その行き先を、ルカ=ネリスは追わなかった。
追わなくてもいい。あれはもうナミル=レイのものではなく、ましてルカのものでもない。海へ預け直された名には、その先を自分で流れていく時間がある。
ほんの数日前まで、そんな当たり前のことさえ許されていなかった。潮は動いているのに名だけが流れず、星は空を巡っているのに明日の航路へ繋がらない。船も、人も、浮かぶ都市さえ、昨日と同じ場所へ縫い止められようとしていた。
七本の錨が外れた今、ネル=エル諸海域には騒がしいほど多くの流れが戻っている。行きたい者が行き、帰りたい者が帰る。名札は海へ落ち、船は別々の潮へ分かれ、都市は次の空へ向かって動き始めていた。
それを見ているだけなら、満足していてもよかった。
「……分かんない」
船尾の星見台で、ルカは海図へ突っ伏した。紙の端が鼻先へ当たって少し痛かったが、顔を上げる気にはならない。
机には三枚の海図が広げられていた。一枚はメルナ=レイで一般的に使われる通常海図。もう一枚は星潮航路を重ねた夜航海用。そして最後の一枚は、カイラの船員から半ば押しつけられるように渡された海賊海図だ。公式には存在しない入り江や、通れば面倒な役人に船籍を聞かれる海域、何も知らずに入れば身ぐるみを剥がされる港まで、妙に丁寧に書き込まれている。
どれも役に立たなかった。
正しく言えば、海図は悪くない。島もある。港もある。潮流も岩礁も避けるべき浅瀬も、明日の天候を読むための目印さえ記されている。
ただ、ルカが探しているものだけが、どこにもなかった。
「また見てる」
声がして、海図の向こう側からエルンの顔が覗いた。
「見てるんじゃないよ」
「じゃあ、何してるの?」
「海図に答えを吐かせようとしてる」
「吐きそう?」
「ぜんぜん」
額を紙につけたまま答えると、エルンは少し考えてから向かいの椅子へ腰を下ろした。
最初の頃に比べれば、彼もずいぶん船に慣れた。もう船縁ばかりを気にすることもなく、ナミル=レイの船霊も、エルンが甲板を歩くたび怯えたように帆を震わせることはない。むしろ最近では、エルンが船室から出てこないと、船首の名灯が妙に落ち着かなく明滅することさえある。
エルンは机の端に置かれた潮鏡へ目をやった。
「それも駄目だった?」
「三回やった」
「三回も?」
「最初は普通に。二回目は潮を替えて。三回目は、念のため向きを逆にして」
「何か出た?」
「私の顔」
「うん」
「三回とも」
「鏡だからね」
「そういうことを聞いてない」
顔を上げると、エルンがほんの少しだけ笑っていた。
ルカは唇を尖らせたが、怒る気力も長くは続かなかった。潮鏡へ指先を伸ばすと、浅い銀皿に張った海水は昼の光を揺らしているだけだった。帆柱の影と空の青、覗き込めばルカ自身の顔が映る。
冷たい。
ただの海水だった。
これまでなら、何かを探さなければならない時には、たいてい海の方から先に異変を寄こしてきた。
知らない声が、別人へ還った。三度の潮にも流れない黒い箱が浜へ残った。名を売る偽造潮名証が霧の港へ流れ込んだ。名だけが動かなくなった海が、ナミル=レイの前へ現れた。浮かぶ都市が、次に行く場所を失った。
どれもルカが望んで見つけたものではない。
誰かが困っていた。誰かの名が泣いていた。誰かが帰れなかった。
だから首を突っ込んだ。放っておけなかっただけだと自分では思っているうちに、もっと大きな流れへ巻き込まれていた。
けれど今回は違う。
誰かが待っているわけではない。助けを求める名札もない。泣いている家族も、沈みかけた少年も、止められた都市もいない。
探したいのは、自分だった。
ルカはゆっくり身体を起こすと、首元の貝殻護符を摘まんだ。欠けた縁を指でなぞる。昔から何度となく触れてきた、割れた貝殻。
七本の錨が外れた夜から、ときおりその内側へ淡い白光が宿るようになっていた。目を凝らさなければ見落とすほどの光で、手を離せばすぐ消えてしまう。
夜になると、それより確かなものが現れる。
一音。
言葉になるほど長くはなく、名乗りにもならない。それでも、ただの物音ではないことだけは分かった。
胸の奥。心臓より、もう少し深いところから鳴る。
他人の名を読む時とはまるで違う。耳の奥へ入り込んでくるのでも、潮に残った誰かの声でもない。自分の中から、自分へ向けて鳴っている。
初めて聞いた夜、ルカはしばらく呼吸の仕方を忘れた。
これが何なのか、まだ分からない。ネル=エルの名なのかもしれない。それより古い潮の名かもしれない。どこか遠い海へ沈んだ、まったく別の誰かの名かもしれない。
それでも、その一音が自分へ還ってきたことだけは確かだった。
「続きはどこなんだろう」
ぽつりと漏らすと、エルンが護符からルカの顔へ視線を上げた。
「六つ?」
「たぶん」
ルカは片手の指を開き、六本目がないことに気づいて少し苛立ちながら、もう片方の手の人差し指を立てた。
「あなたが言ったんでしょ。同じくらい深いところに、あと六つあるって」
「うん」
「だったら、その六つがどっちにあるかも分かったりしない?」
エルンはすぐには答えなかった。海図ではなく、甲板の下へ目を向ける。そこにあるのは船室ではない。もっと下、船底を隔てた向こう側に広がる海を見ていた。
やがて、小さく首を振る。
「深いのは分かる」
「うん」
「でも、場所が分からない」
「エルンでも?」
「沈んでる場所と、いる場所は違うことがあるから」
ルカは眉を寄せた。
「どういうこと?」
「……うまく言えない」
エルンは自分の胸元へ触れた。
「下にあるからって、ここから真下とは限らない。遠いところがすぐ下になることもあるし、近いのに、ずっと遠いこともある」
「海って、たまにすごく面倒くさいね」
「たまに?」
「訂正。かなり」
ルカは椅子の背へ身体を預けた。
空は晴れている。海も穏やかだった。星潮羅針盤の針も問題なく現在地を示している。
北西へ進めばメルナ=レイ。南へ取れば浮上都市群。潮を替えれば、イシュラ=マレへ戻ることだってできる。
行ける場所なら、いくらでもある。
だからこそ困る。
行きたい場所だけが分からない。
「どこへ行けば、自分の名前に会えるんだろう」
口にすると、思っていたより情けない言葉に聞こえた。
ルカは頬杖をつく。
「自分の名前なのに、待ち合わせ場所も教えてくれないんだよ」
「自分の名前って決まったの?」
エルンの問いに、ルカは口を閉じた。
「……そこも、まだ」
「じゃあ、名前じゃないかもしれない」
「分かってる」
少し強く返してしまった。
エルンは何も言わない。
ルカはすぐに息を吐いた。
「分かってるけど」
護符を握る。掌の中で、欠けた貝殻がかすかに温かい。
「そうだったらいいなって、思ってる」
今度の声は小さかった。
エルンは慰めなかった。否定もしなかった。ただルカの手の中へ隠れた護符をしばらく見て、それから海へ目を戻した。
その沈黙がありがたかった。
ルカ=ネリスという名前が嫌いなわけではない。拾われたあとに与えられ、港の人たちに呼ばれた。怒られる時にも、笑われる時にも、仕事を頼まれる時にも使われてきた。
その名で返事をし、その名で船へ乗り、その名でここまで生きてきた。
大事な名前だ。
けれど、それとは別に知りたかった。
自分は海へ流れ着く前、何と呼ばれていたのか。誰がその名を呼んでいたのか。どうして自分だけが、それを覚えていないのか。
海が全部知っているのなら、今度こそ自分から訊きに行きたい。
そう思ったあとで、胸のどこかが引っかかった。
「ねえ、エルン」
「うん?」
ルカは海図の上に置いた指を動かした。
「これって、いいのかな」
「何が?」
「船、出してて」
エルンが瞬いた。
「もう出てる」
「そうじゃなくて」
ルカは少し言葉を探した。
「今まではさ、誰かが困ってたじゃない」
「うん」
「ミナの名も、あなたの箱も、イシュラ=マレの偽名も、止まった潮も。行かなきゃって理由があった」
「うん」
「今回は、別に誰も困ってない」
エルンは黙って聞いている。
「私が知りたいだけ」
言ってしまうと、急に恥ずかしくなった。
「自分の名前かもしれないものが一個戻ってきたから、続きが欲しいって。それだけで船を走らせてる」
「駄目なの?」
「だから、それを訊いてる」
エルンはしばらく考えた。本当に考えている時の顔だった。
それから、海図の端へ指を置く。
「ルカはずっと、他の人の名前を探してた」
「仕事だからね」
「仕事じゃない時もやってた」
「……まあ」
「戻らなくていいのに戻したり、読まなくていい名前を読もうとして怒られたり」
「最後のは失敗の話だよ」
「でも、探してた」
「うん」
エルンはルカを見る。
「じゃあ今度は、ルカのでいいんじゃない」
あまりにも簡単に言った。慰めようとした声でもなく、特別なことを言ったつもりもないらしい。
だから余計に、ルカはすぐ返事ができなかった。
「……そんなもん?」
「たぶん」
「そこは自信持ってよ」
「ルカが決めることだから」
エルンはそう言って海へ目を戻した。
ルカはしばらく彼の横顔を見ていた。やがて、少しだけ笑う。
「そっか」
自分の本当の名。
それを欲しいと思うことくらいは、許してもいいのかもしれない。
誰かを助けた代わりにもらう必要もない。困っている人を見つけて、自分の願いを正当化する必要もない。
これは自分の航海だ。
その言葉をまだ声にはできなかったけれど、胸の中で一度だけ転がしてみた。
*
その日の午後、水平線の向こうに黒い帆が見えた。
ナミル=レイよりずっと大きな船体。黒褐色の木肌。珊瑚赤の縫い跡が走る帆。船首には、海鳥と獣の牙を無理やり一つにしたような奇妙な船首像。
潮牙帆船。
向こうもナミル=レイへ気づいていたらしい。帆の一部が落とされ、黒い船が潮を横切るように近づいてきた。
「よお、名拾い!」
大声が飛んでくる。
カイラ=マレイスが船縁へ片足をかけていた。銅赤の髪は風に好き勝手に乱れ、いつもの帆布の外套を肩へ引っかけている。片手には干し肉。もう片方には酒瓶――ではなく、水の瓶が握られていた。
「顔が腐ってるね!」
「会って最初に言うことですか、それ!」
「海図と喧嘩して負けた顔してる」
図星だったので、ルカは一瞬黙った。
ネームレス・ガルの船員たちが笑う。
「なんで分かるんですか!」
「航海士が海より紙ばっか睨んでりゃ、遠目でも分かるよ」
カイラは干し肉を噛み切った。甲板では数人の船員が積荷を締め直している。いつもより船上はすっきりしていて、漂流者を匿っている様子もない。
どうやらネームレス・ガルも、どこかへ向かう途中らしい。
ルカは少し迷ったあと、星潮羅針盤を手に船縁へ寄った。
「カイラ」
「何だい」
「海図にない道って、どうやって探すんですか?」
カイラはすぐには答えなかった。ルカの持つ羅針盤を見る。星見台に広げっぱなしの海図を見る。潮鏡を見る。
最後に、ルカ本人を見る。
「海図にないなら、海図ばっか見てんじゃないよ」
「……それだけ?」
「それだけ」
「もうちょっとないんですか。昔の海賊に伝わる秘伝とか。月の裏を読めとか。海鳥の羽を七枚集めるとか」
「ない」
「即答」
「だいたい、そんな便利なもんがあったら海図に描いて売ってるよ」
もっともだった。
ルカが肩を落とすと、カイラは喉の奥で笑った。
「何だい。答えを教えてほしかったのか?」
「ちょっとくらい」
「嫌だね」
「けち」
「海賊だからね」
悪びれる様子もない。
それからカイラは、ほんの少しだけ表情を変えた。
「ルカ」
名前を呼ばれ、ルカは顔を上げる。こういう声を出す時のカイラは、だいたいふざけていない。
「ここまでは、同じ海を走ってきた。あたしが連れてった場所もある。あんたらだけじゃ抜けられないところじゃ、道も開けた」
風が黒い帆を膨らませる。ネームレス・ガルは少しずつ、ナミル=レイから離れ始めていた。
「でも、今度はあんたの航海だ」
ルカは何も言わず聞いた。
さっき胸の中で転がしたばかりの言葉を、カイラが先に口にした。
「あたしについて来るんじゃないよ」
突き放す声ではなかった。だから余計に、胸へ残った。
「……どこ行くんですか?」
「仕事」
「海賊の?」
「海賊の」
「危ないやつ?」
「金になるやつ」
「じゃあ危ないやつじゃないですか」
「世の中、金になることはだいたい危ない」
カイラは笑った。
「そっちは?」
訊き返され、ルカは少し詰まった。
どこへ行くのか。
それが分からないから困っている。
けれど、もう何も答えられないわけではなかった。
胸元へ手を置く。
「探します」
「何を?」
「続き」
カイラの眉が少し上がった。
「この中に戻ってきた音の、その先を」
「そうかい」
それ以上、彼女は訊かなかった。
本当にルカの名前なのか。ネル=エルの名なのか。どこへ向かうのか。
何も。
ルカ自身にもまだ分からないから。
ただ干し肉の残りを口へ放り込み、空いた手をひらひら振る。
「沈むんじゃないよ」
「そっちこそ」
「誰に言ってんだい」
「何回も沈んだことになってる船の船長に」
ネームレス・ガルの甲板から笑い声が上がった。
カイラは一瞬きょとんとしてから、腹を抱えて笑う。
「言うようになったじゃないか!」
黒潮帆が大きく張られた。
風を掴んだネームレス・ガルが加速し、黒い船体は白い飛沫を上げながらナミル=レイとは別の潮筋へ入っていく。
ルカは船縁から手を振った。
カイラも一度だけ手を上げた。
それきりだった。
黒い帆は夕方の光の中で少しずつ小さくなり、やがて濃い青の水平線へ溶けていった。
あとに残ったのはナミル=レイ。白い小さな船と、ルカとエルン。そして言葉を持たない幼い船霊だけだった。
「行っちゃったね」
エルンが言った。
「うん」
「追う?」
ルカは彼を見る。
「聞いてたでしょ」
「聞いてた」
「追わないよ」
「うん」
「……たぶん」
「追いたそう」
「ちょっとだけ」
認めると、エルンが少し笑った。ルカも笑う。
寂しくないと言えば嘘だった。
カイラの黒い帆が近くにあるだけで、どこか安心していたのだと思う。大きな海で何が起きても、自分たちだけではどうにもならなくなっても、どこかであの船が走っている。
知らないうちに、それを当てにしていた。
けれど――今度はあんたの航海だ。
カイラの言葉は、さっきエルンから言われたこととも少し似ていた。
誰かを助けるためでなくても、誰かに命じられなくても、自分で行きたいと思ったなら、船首を向けていい。
*
夜が来た。
月は細く、星はよく見えた。ナミル=レイは帆を少し落とし、緩やかな潮へ船体を預けている。夕食を終えた甲板には静けさが戻り、船室の奥にはエルンが使った器が伏せられていた。
ルカはひとり、船首近くへ座っている。膝を抱え、胸元の護符を指で挟んだ。
待つ。
昼にはほとんど聞こえない。夜になると、海の音が少しずつほどけていく。
波。帆。縄。船腹を撫でる水。遠くを走る魚群。名札が貝殻輪へ触れる乾いた音。
一つずつ聞き分けていく。
やがて、そのどれでもないものだけが残った。
胸の奥で、一音が響く。
ルカは目を閉じた。
短い。ほんの一音。意味は分からない。
けれど胸の奥で鳴るたび、欠けた貝殻護符が淡く温かくなり、船首の名灯も呼吸を合わせるように一度だけ白く明滅した。
ルカは息を殺す。
「……ねえ」
誰へともなく呼びかけた。
返事はない。
一音が消え、波だけが戻ってくる。
「続き、どこにいるの」
今度は海へ訊いてみた。
答えなど期待していなかった。
昼間、海図に訊いても駄目だった。潮鏡も駄目だった。星潮羅針盤も、自分の仕事ではないと言わんばかりに普通の方角しか示してくれない。
なら、海へ直接訊いても同じだろう。
そう思っていた。
低い音がした。
ルカは目を開ける。
最初は、船底が鳴ったのだと思った。風向きが変われば船材は軋む。潮が斜めから当たれば、腹の底へ響くような音が出ることもある。
けれど違った。
長い。
低く、深く、遠い。
音というより、水そのものが震えていた。
水平線の向こうから届き、海面を伝い、ナミル=レイの船底へ触れ、そのままルカの足の裏から身体へ昇ってくる。
「……鯨?」
立ち上がり、暗い海を見回す。
月光の道が一本、水面へ伸びているだけだった。鯨の背も、潮吹きも見えない。
気のせいかと思った、その時。
胸の奥で、もう一度あの一音が鳴った。
護符が光る。
名灯が瞬く。
少し遅れて、遠い海から深い声が返った。
長く、低く、最後だけどこかへ沈むように細くなっていく。
ルカは息を呑んだ。
「エルン」
船室へ振り返る。
「エルン、起きて!」
「起きてる」
すぐ後ろから返事がした。
「わっ!」
肩を跳ねさせて振り向くと、眠そうな顔のエルンが立っていた。毛布を肩から引きずり、裸足のまま甲板へ出ている。
「いつからいたの?」
「今」
「声かけてよ」
「かけた」
「そうじゃなくて、後ろに立つ前に!」
いつもの調子で言い返しかけ、途中でルカは口を閉じた。
「聞こえた?」
エルンは頷いた。
二人で海を見る。
何も起きない。
ルカは胸へ手を当てた。
あの一音は、自分から鳴らせるものではない。呼ぼうと意識すればするほど遠ざかり、忘れかけた頃にふっと浮かび上がる。
だから待った。
ナミル=レイの揺れへ身体を任せながら、夜の冷たさが腕へ染みてくるのを感じていた。
やがて、来た。
胸の奥。
一音。
それが消れた直後、海の向こうで鯨が歌った。
同じ高さではない。同じ音でもない。
なのに、不思議なほど重なった。
問いと答え。呼び声と返事。
最初は、そう聞こえた。
「反応してる」
ルカは水平線を見つめた。
「私の音に」
もう一度、胸で鳴る。
遠くで歌う。
偶然ではない。
「呼んでるのかな」
ルカは護符を握った。
「この音が、鯨を?」
エルンは答えず、船縁へ歩いて両手を木肌へつけた。
目を閉じる。
海へ直接耳を近づけるのではない。ナミル=レイの船体を通して、その下へ沈んだ何かを聞こうとしている。
三度目の鯨歌が届いた。
今度は長かった。
低い声は途中で高さを変え、一度深く沈み、また浮かぶ。最後に細く伸びたところで、不自然に途切れた。
ルカは眉をひそめた。
歌の終わりにしては妙だった。
まだ次があるはずなのに、声だけが届かなかったような。言いかけた何かの先を、遠い海へ置き忘れたような。
エルンの眉間にも皺が寄る。
「どうしたの?」
返事はなかった。
ルカは待った。
やがて、エルンが目を開く。
「呼んでるんじゃない」
「え?」
「この音も、鯨も」
エルンは自分の胸へ触れ、それから暗い海の向こうを指した。
「同じところを、覚えてる」
ルカには、すぐ意味が分からなかった。
「同じところ?」
「うん」
「場所?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「場所じゃないかもしれない」
「どっち」
「分からない」
エルンは少し困ったように海を見る。
「でも、向こうにあるものと、ルカの中の音が……同じところを通った感じがする」
通った。
その言葉だけが、妙に耳へ残った。
呼ばれているのではない。向こうからこちらへ、何かが手を伸ばしているのでもない。
二つの別々のものが、昔どこかで同じ道に触れていた。
そんな響きだった。
ルカは星潮羅針盤を取りに走った。
盤面を月光の下へ置く。
針は北西を示している。メルナ=レイへ戻るなら正しい。
けれど、鯨の声がした方角とは違った。
海図を開く。
声のした先に大きな島はない。さらに指を滑らせ、ル=マリナ潮流へ入るあたりで手が止まった。
一つだけ、古い名が記されている。
鯨が年に一度帰る島。
文字ではなく、歌によって海の記憶を伝える島。
「オルカ=ナハト」
ルカが名を口にした。
胸の奥で一音が鳴る。
すぐあと、遠い海から鯨が応えた。
けれど今度のルカには、それが返事だとは思えなかった。
呼んだのでもない。
呼ばれたのでもない。
同じ場所を覚えている二つの音が、ほんの一瞬だけ重なった。
ルカとエルンは顔を見合わせる。
もう迷わなかった。
「行こう」
「うん」
ルカは海図を畳んだ。
昼間あれほど睨み続けていた紙を、今度はためらわずにしまう。星潮羅針盤も潮鏡も使う。どちらも大切な航海具だ。
けれど、海図へ描かれた線だけでは見つけられない道がある。
カイラの言葉が、少しだけ分かった気がした。
ルカは舵輪を握る。
「ナミル」
呼びかけると、船首の名灯が淡く灯り、帆が風を拾った。両舷の名札も一斉に鳴る。
「オルカ=ナハトへ」
白い船が、ゆっくりと向きを変えた。
誰かに頼まれた航海ではない。困っている誰かを助けに行くのでもない。
自分の胸に戻ってきた一音が、どこを通り、何を覚えているのか。
それを確かめに行く。
ルカが初めて、自分のために選んだ航路だった。
ナミル=レイが夜の海へ船首を向ける。
遠くでもう一度、鯨が歌った。
声は二人を呼んではいなかった。ただ、ずっと昔に通った何かを、最後まで届かなかった何かを、まだ忘れずにいた。




