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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第7話 鯨の歌は、沈んだ航路を覚えていた
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第三節 ― 名を渡していく海

 夜明け前、最初に動いたのは鯨だった。


 オルカ=ナハトの湾を満たしていた黒い影が、一頭ずつ沖へ向きを変えていく。誰かが号令をかけたわけではない。先頭の老鯨ハルガが低く息を吐き、大きな背を水面へ持ち上げると、その動きを見た次の一頭が身体を返し、さらに後ろの鯨が続いた。


 昨夜まで、歌の途中で何度も立ち止まっていた群れが、今朝は自分たちから海へ出ようとしている。


「来た」


 ルカは帆綱を引いた。真珠色の帆が朝の風を受け、大きく膨らむ。


「ナミル、出るよ」


 船首の名灯が小さく明滅した。昨夜から何度も説明したせいか、幼い船霊も覚悟だけは決めたらしい。帆は少し震えたものの、嫌がるように畳まれることはなかった。


「大丈夫かな」


 ミレアが船首を見る。


「ナミル?」


「うん」


「大丈夫。たぶん」


「その言葉、もう信用しないことにした」


「覚えるの早いね」


「この船に乗って一晩で学んだ」


 エルンまで真面目な顔で頷いた。


「僕もそう思う」


「なんで二人ともそっち側なの?」


 そんなやり取りをしている間にも、ナミル=レイは桟橋を離れていった。


 岸では島の人々が見送っている。昨日、航路を失って戻ってきた漁師たち。古い歌を知る老人たち。子どもたち。その少し後ろには、ハオルも立っていた。


 ミレアは祖父を探していたらしい。姿を見つけると、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。


 ハオルは手を振らない。ただ一度、顎を上げた。


 行け。


 それだけの仕草だった。


「無理に追うなよ!」


 浜から別の老人の声が飛ぶ。


「鯨が潜ったら、お前らまで潜るんじゃないぞ!」


「船だから無理です!」


 ルカが返すと、浜に笑いが起こった。この島へ来てから初めて聞く、まとまった笑い声だった。


 ミレアも少しだけ笑い、その笑みを残したまま、ナミル=レイは湾を出た。


 エルンは船首近くへ座り、両手を船縁へ置いている。


「見える?」


 ルカが訊く。


「まだ」


「昨日の道は?」


「ある。でも、どれを今から通るのか分からない」


「じゃあ鯨頼みだね」


「うん」


 ミレアが首を傾げた。


「私は?」


「歌頼み」


「役に立ってる?」


「昨日、エルンと私が同じ場所を読んでるって確かめられたでしょ」


「それだけ?」


「それだけって言わないの」


 ルカは先頭のハルガへ目を向けた。


 白い傷の走る大きな背。老鯨は湾口を抜けると、そのまま沖へは向かわず、右へ曲がった。


「……そっち?」


 ルカは海図を見る。湾の右手には島の岬が長く伸びている。普通の船なら、その外側を大きく回り込んで南東へ抜けるところだ。


 けれど鯨たちは逆に島へ近づき、黒い岩壁ぎりぎりを沿うように進み始めた。


「浅くなるよ」


「鯨は行ってる」


 エルンが言う。


「見れば分かる」


 ルカは舵を切り、ナミル=レイも鯨群のあとへ続いた。


 岸壁が近づく。朝の潮に濡れた黒い岩肌が、手を伸ばせば届きそうなところまで迫り、崖の割れ目から驚いた海鳥が一斉に飛び立った。白い羽が何十枚も舞い上がる中、鯨たちは速度を落とさない。一頭ずつ身体を傾け、岩壁に沿って湾の裏側へ回り込んでいく。


 ハルガが短く歌った。


 昨夜聞いた、最初の音。


「ここ」


 エルンが言い、指を右へ動かす。


「昨日の道と重なった」


「なら合ってる。ミレアは?」


 少女は少し考えるように息を吸った。右肩が自然に後ろへ引かれる。


「ここで向きを変える」


「よし」


 三つとも合った。


 ルカは舵を握り直し、島の裏側へ出る。


 そこで待っていたのは、二本の黒い岩礁だった。岩と岩の間を、白い波が勢いよく抜けている。


「狭いなあ……」


 ナミル=レイなら通れる。けれど、わざわざそこを選ぶ必要はない。西へ少し回り込めば、もっと広く安全な水路がある。


 それでもハルガは迷わず岩礁の間へ入った。


 ルカは大きく息を吐く。


「本当にそこ通るんだ」


「ここ」


 今度はミレアが先に言った。


「何?」


「息を止めない。ここだけ、歌いながら息を細く吐き続ける。止めると、次へ入りにくくなる」


「それ航海に関係ある?」


「知らない」


「だよね」


「でも身体はそう覚えてる」


 エルンが左の海を見た。


「昔もここで少し左に寄った」


「もっと早く言って」


「今見えた」


「なら仕方ない!」


 ルカは帆を少し落とした。


 波が横から船腹を叩き、船体が傾く。名札が一斉に鳴り、ナミル=レイが怯えたように帆柱を軋ませた。


「大丈夫、大丈夫!」


「ルカ、左!」


「分かってる!」


「もう少し!」


「それは航海士向けの指示!」


 黒い岩が右舷のすぐ横を流れ、次の瞬間、ナミル=レイは岩礁帯を抜けた。


「ほら、通れた!」


 ルカが船縁を叩くと、帆が一度だけ強く鳴った。


「怒ってる?」


 ミレアが訊く。


「たぶん」


「褒めたのに?」


「怖かったんだと思う」


 エルンが言う。


「私だって怖かったよ」


「じゃあ同じ」


「ナミルと同列なんだ」


「仲良いってこと?」


「そういうことにしとく」


 鯨群はさらに進んでいく。


 海図へ線を引いていたルカは、ほどなく眉を寄せた。


「これ……」


「どうしたの?」


「戻ってない?」


「どこへ?」


「さっきの岩」


 前方に、見覚えのある二本の黒い岩があった。角度は違い、今度は反対側から近づいている。それでも間違いない。


「さっき通ったよね」


「うん」


「なんで二回目?」


「道だから」


 エルンが答える。


「それ、説明になってない」


「跡も二回通ってる」


 ミレアは目を閉じ、歌はまだ短いのに身体を確かめるように足を動かした。


「二回目は、反対の足」


「本当に?」


「うん」


「同じ場所なのに?」


「同じ場所じゃないのかも」


 自分で口にしてから、ミレアは少し驚いたようだった。


「どういう意味?」


「分からない」


「そこまでエルンに似なくていいよ」


「でも、歌う身体には違う場所」


 ルカは二本の岩を見る。


 一度目は島側から。二度目は沖側から。同じ岩でも、そこへ至るまでに通ったものが違う。


「なるほど」


 海図に二本目の線を引くと、線同士が交差した。航海図として見れば、とても褒められたものではない。


「酔っ払いが描いた航路みたい」


「鯨、お酒飲む?」


「飲まないと思う」


「じゃあ違うね」


「エルン、その検証いらない」


 二度目の岩礁を抜けると、鯨たちは真っ直ぐ沖へ向かった。


 ルカは帆を上げる。風が強くなり、オルカ=ナハトが少しずつ遠ざかっていく。海の色も深い青へ変わった。


「ようやく普通の航海っぽくなってきた」


 そう言った直後、ハルガが大きく身体を返した。


「……え?」


 鯨群が曲がる。


 来た方向へ。


「戻るの?」


「跡も戻ってる」


「なんで!」


 ルカは海図を広げ直した。


 今いる場所から南へ抜ければ、次の海域へそのまま出られる。戻れば単純に距離が増え、向こうにはさっき離れたはずの島がまた近づいてくる。


「これ、絶対いらない往復だよ」


「昔は必要だったのかも」


 エルンが言う。


「昔の海に文句言っても仕方ないけど……」


 ナミル=レイも島へ戻った。ただし港には入らず、南側の浅瀬、白い石灰岩の崖の近くを横切る。潮が満ちれば半分ほど海へ沈む、小さな崖だった。


 ハルガが歌う。


 昨夜、ルカが「島の近く」と感じた音だった。


「ここ」


 ミレアの左足が前へ出て、そのまま止まる。


「ここで待つ?」


「ううん。ここは通るだけ」


「何もないのに?」


「歌う身体には、ここがある」


 目的地になるようなものは何もない。港も、湧き水も、目印になる建物もない。


 それでも鯨はこの場所を通り、そして再び沖へ向かう。


 ルカは海図を見る。線はますます奇妙になっていた。


「……もし、この先へ行くだけなら」


 指を南東へ滑らせる。


 島の南には大きな潮筋が走っている。そこへ直接乗れば、鯨が進んでいる方向へ先回りできる。海図上では、どう考えてもその方が近い。


「この辺じゃない?」


 ミレアが指を差した。


「うん。たぶん次に行くのはこっち」


「じゃあ、先に行けば?」


 ルカが彼女を見る。


 ミレアは海図から顔を上げた。


「そこへ続きを取りに行くんでしょ」


「昨日、最後だけじゃ駄目かもって言ったよ」


「分かってる。でも……もし行けるなら、早い方がいい」


 その焦りの理由を、ルカは知っている。


 島に残してきたハオル。昨日より弱くなっていた歌声。今夜も、明日も、いつまでも同じように歌えるとは限らない。


「……そうだね」


 ルカも海図へ目を落とした。


 周辺海域では今も船が進路を失っている。できるだけ早く終わらせたい。それに、ルカ自身も知りたかった。この先に第二の音があるのなら、胸へ戻った一音の続きを、一刻でも早く。


「エルン」


「うん?」


「ちょっと試したい」


「先回り?」


「聞いてた?」


「二人とも顔に出てた」


「そんなに?」


「うん」


 ルカは苦笑した。


「道とは違うと思う」


 エルンが言う。


「分かってる。でも、次に向かう場所が分かるなら、そこへ先に行って待つだけ。別に何かを壊すわけじゃない」


「……いいの?」


「分からないから試す」


 ミレアが頷いた。


「行こう」


 二人とも、答えだけを先に取りに行こうとしていた。


 ルカは舵を切り、鯨群の道から外れる。ナミル=レイが南東の潮を拾い、帆が大きく膨らんで速度が上がった。


「ほら。こっちの方がずっと速い」


 遠回りする鯨を横目に、斜めに海を横切る。島影が後ろへ流れ始めた。


 その時、鯨歌が止まった。


「え?」


 ルカが振り返る。


 群れは止まっていない。泳いでいるのに、歌わない。


 数呼吸の沈黙のあと、ハルガが低く鳴いた。


 聞き覚えがある。


 最初の音だった。


 ミレアの顔が変わる。


「これ」


「うん」


「最初」


 エルンも顔を上げた。


「戻った」


「何が?」


「道。最初からになった」


 次の鯨が応える。


 右へ曲がる音。沈む前の音。昨夜から何度も聞いてきた始まり。


 鯨群全体が、ゆっくりオルカ=ナハトへ向きを変え始めた。


「待って待って!」


 ルカは慌てて舵を切る。


「ごめん! 今のなし!」


「鯨に謝って届くの?」


 ミレアが訊く。


「気持ちの問題!」


「戻ってる!」


「見れば分かる!」


 ナミル=レイが大きく回頭し、帆がばたつき、名札が激しく鳴った。


 再び鯨群へ追いつくまで、かなり時間がかかった。


「……全部やり直し?」


 ルカが訊く。


「たぶん」


 エルンが答える。


「私たちのせい?」


 ミレアが訊く。


「たぶん」


「そこだけ二人とも迷わないんだ」


「見えるから」


 ルカは舵輪へ額をつけた。


「しょうがない……」


 島の裏へ入り、同じ岩礁を一度通り、回って二度目。沖へ出て、また岸へ戻る。先ほど通ったばかりの場所を、最初から辿り直した。


 二度目ともなれば操船は楽だったが、船上の空気は少し重い。


 やがてミレアが口を開く。


「ごめん」


 ルカは舵を握ったまま彼女を見た。


「何が?」


「私が早く行こうって言ったから」


「私もそのつもりだった」


「でも」


「どっちが言い出したかなんて同じだよ」


 ルカは海図へ目を落とす。


「私も、最後だけ分かればいいって思った」


 ミレアの顔が僅かに強張った。


「歌の?」


「私の方」


 ルカは胸元の護符へ触れる。


「七つあるって分かってから、残り六つを見つければいいって思ってた」


「音を?」


「うん」


「全部揃えたら名前になる?」


「たぶん」


「また」


「今は本当に分からないから」


 ルカは少し笑ったが、すぐ真面目な顔へ戻った。


「一個目が戻った。じゃあ二個目、三個目って、全部集めて並べれば、それで答えになるんだって思ってた」


「違うの?」


「今の見たら、ちょっと自信なくなった」


 同じ岩礁へ船を入れながら、ルカは続ける。


「だって、最後の場所へ行くだけじゃ駄目だった」


「うん」


「ここを通ること自体に、何かある」


 ミレアも岩を見る。


「最後だけ分かればいいと思った。おじいちゃんが歌えないところだけ、持って帰ればいいって」


 ルカは何も言わなかった。説教できる立場でもない。


 二人とも同じことをした。


 途中を飛ばして、欲しい答えだけを先に受け取ろうとした。


「今度は飛ばさない」


 ルカが言う。


「うん」


 それだけでよかった。


     *


 鯨歌は続いた。


 島を離れると、海の色が変わった。青の中に緑が混じり、ところどころ細かな泡が水面へ浮かんでいる。


「水、温かくなってきた」


 ルカは舷側から指先を浸し、すぐ引き上げた。はっきり分かるほど温度が違う。


 海図には小さな火山印があった。


 海底火山帯。


 水深は十分あるが底の地形は複雑で、ときおり硫黄臭を含んだ泡が上がる。普通の船なら避ける場所だった。


 ハルガたちは迷わず進む。


「行くんだよね」


「跡も行ってる」


 エルンが答える。


「身体も」


 ミレアは短く息を吸った。


「知ってた」


 ルカは舵を握る。


 海面の下で、ごう、と低い音がした。噴火ではない。地熱で温められた海水が、底から大きく湧き上がっている。


 ナミル=レイの船体が持ち上げられた。


「うわっ!」


 ルカは帆綱を掴む。船が大きく傾き、ミレアも船縁へしがみついた。


「鯨歌って、こんな危ない歌なの!?」


「私に聞かないで!」


「左!」


 エルンが言う。


「どのくらい!」


「いっぱい!」


「航海士にその指示はやめて!」


 それでも左へ切る。


 直後、右舷側から熱い泡が大量に浮かび上がった。


「危なっ……!」


 ナミル=レイの帆が抗議するようにばたつく。


「ごめんって!」


「今の誰に言ったの?」


 ミレアが訊く。


「ナミル!」


「船に謝るの?」


「怒るから!」


 火山帯を抜ける。


 鯨たちは何事もなかったように進んでいた。


「ずるい」


 ルカが呟く。


「鯨だから」


 エルンの返事は相変わらずだった。


 その先で、海が急に静かになった。


 漂っているものが見え始める。最初は流木かと思った。近づくにつれ、それが船材だと分かる。


 折れた帆柱。砕けた船縁。海藻に覆われた舵。半分沈んだ船首像。


「難破船……」


 ミレアの声が低くなる。


 一隻ではない。何十年、あるいは何百年。別々の時代に沈んだ船の残骸が、潮の癖によって同じ海域へ集められていた。古いものは珊瑚礁と区別がつかず、新しいものでも船名板までは残っていない。


 ルカは無意識に速度を落とした。


 名が多すぎる。


 正確には、残り方が多すぎた。


 木片に染みついた古い船名。誰かの潮名。最後に呼ばれた港。沈む直前に誰かが叫んだ名。もう読めないほど薄くなった声。


 全部を拾おうとすれば、こちらまで引きずり込まれそうになる。


 ルカは一度、深く息を吸った。


「読まない」


「いいの?」


 ミレアが訊く。


「今は全部読まなくていい」


 以前なら気になったかもしれない。拾えるものなら拾いたいと思ったかもしれない。


 けれど今日は違う。


 必要なのは、この海を通っているものだ。


 その時、左舷の名札が一枚鳴った。


 ちりん。


 ほかの札とは少し違う音。


 ルカが振り返ると、そこには古びた名札があった。いつナミル=レイへ吊るしたのか、すぐには思い出せないほど長く船にある。潮に文字を削られ、表面には最初の一字らしき痕跡しか残っていなかった。


「そろそろだったんだ」


 名札を留めた紐が、一本ずつほどけていく。


「落ちるよ」


 ミレアが手を伸ばそうとした。


「そのままでいい」


 ルカが止める。


「いいの?」


「うん」


 ナミル=レイの名札は、いつか自分で落ちる。その時が、もう一度海へ預ける時だ。


 最後の糸が切れた。


 名札は水面へ落ち、一度浮かび上がったあと、ナミル=レイの船腹から少しずつ離れていく。


 ルカはいつものように見送った。


 そこで、違和感があった。


「……あれ?」


「どうしたの?」


 エルンが訊く。


「まだ聞こえる」


「名札?」


「うん」


 落ちた直後なら、名の残響が残っていること自体は珍しくない。けれど、いつもと違う。


 これまでルカには、名は「そこにある」と聞こえていた。名札なら名札に。遺品なら遺品に。人なら人に。潮へ落ちれば少しずつ薄くなり、やがて読めなくなる。


 今は、名札から離れたあとも、その音が細い糸のように海へ続いていた。


「何これ……」


 名札が波へ持ち上げられる。


 次の瞬間、銀色の小さな魚が水面へ現れた。


「祈魚」


 ミレアが言う。


 ルカの掌ほどの大きさだった。半透明の鰭が朝の光を受け、身体の横には文字にも鱗模様にも見える淡い線が走っている。


 祈魚は名札の周囲を一周した。


 口を触れたわけではない。咥えもしない。ただ、名札の上を通り過ぎた。


 その瞬間、ルカの耳の奥で音の場所が変わった。


「え?」


 身を乗り出す。


 さっきまで名札から聞こえていた残響が、今は祈魚から聞こえている。


「拾った」


 エルンが言った。


「見える?」


「少し。名札から線が出て、魚へ入った」


 ミレアが目を凝らす。


「私は何も見えない」


「私も目には見えないよ」


「でも分かる?」


「うん」


 祈魚が泳ぎ始める。


 名札そのものは後ろへ残る。それでも、名の響きの一部だけが魚と一緒に先へ進んでいく。


「待って」


 ルカは船を動かそうとして、やめた。


 追う必要はない。


 祈魚は鯨たちと同じ方向へ進んでいる。


 海底火山帯を越えたところで、ハルガが浮上した。大きな背が水を割り、白い潮吹きが上がる。


 祈魚がその脇を通った。


 ハルガが歌う。


 低い声。


 その中に、さっきの名が混じった。


「……入った」


 ルカの声が震える。


「鯨に?」


 ミレアが訊く。


「うん」


 ほんの少しだった。名そのものではない。文字にすれば、もう同じ名とは呼べないほど薄い残響。


 それでも確かに、ナミル=レイへ吊られていた名札の音だった。


 船から海へ。


 海から祈魚へ。


 祈魚から鯨へ。


 その順番が、分かる。


 視界へ線が現れたわけではない。海面が光ったわけでもない。


 けれど、三つの場所が一つの流れとして繋がった。


「ここから……」


 ルカは船縁へ手を置く。


 いつもなら、そこに何があるのかを読む。


 今度は少しだけ問い方を変えた。


 どこにある、ではなく。


 どこから来た。


 胸の奥で、何かがほどけた。


 名札は誰かに書かれ、誰かの手へ渡り、船へ乗せられ、潮風に晒され、ナミル=レイへ吊るされた。そして今、船から海へ。海から祈魚へ。祈魚から鯨へ。


「……分かる」


 ルカは息を呑んだ。


「何が?」


 ミレアとエルンの声が重なる。


 答える前に、別の残響がルカへ触れた。


 難破船の木片。


 古い名。


 これまでは、その木片の中に「ある」としか分からなかった。


「この木……」


 ルカは海面を指した。


「最初から、あそこにあったんじゃない」


「船だから?」


 ミレアが訊く。


「そうじゃなくて」


 ルカは目を閉じ、残響を追う。


「向こうから来た。船から外れて、潮に流されて、ここへ来た」


 次に折れた櫂へ触れる。


「これは別」


 誰かの手。海。別の船。そこで一度拾われ、また失われた。


「……すごい」


 ルカ自身が、自分の言葉に驚いていた。


 今まで読めなかったものが、急に読めるようになった――それとは少し違う。


 今まで読もうと思っていなかったものが、最初からそこにあったのだと気づいた。


 名は、物に宿っている。


 そう思っていた。


 だから名札を見る。遺品を見る。人を見る。船を見る。そこに何が残っているのかを探してきた。


 けれど、名が渡ったあとにも道は残る。


 手から物へ。物から船へ。船から海へ。海から魚へ。魚から鯨へ。


 一つの名前が、いくつもの存在を通っていく。


「ルカ?」


 エルンに呼ばれて目を開ける。


「大丈夫?」


「大丈夫」


「ぼーっとしてた」


「見てた」


「何を?」


 ルカは少し笑った。


「道」


 エルンが目を見開く。


 これまで、その言葉は彼のものだった。


 沈んだ過去の航跡を見る少年。


 ルカは今そこにある名を読む。


 その違いは変わらない。ルカには何百年も前へ沈んだ道までは見えず、完全に沈んだ名にも届かない。


 けれど、今まさに渡っている名なら。


 誰かから誰かへ移る瞬間なら。


 その動きが読める。


「私にも見える」


 ルカが言った。


「僕と同じ?」


「ううん。たぶん違う」


 ハルガが歌う。


 祈魚から受け取った残響を運びながら。


「エルンには、昔通った跡が見える」


「うん」


「私に分かるのは、今渡ってる方」


「今?」


「この名が、ここからあそこへ行ったって分かる」


 ルカは海から鯨へ向けて手を伸ばし、見えない流れを指先で追った。


「この人から、この船へ」


 別の残響。


「この船から、海へ」


 波へ。


「海から、鯨へ」


 一つずつ、ばらばらだった音が道になっていく。


 ミレアは黙って、その指先を追っていた。


「歌も?」


 やがて訊いた。


「何が?」


「おじいちゃんから私に歌が渡るのも、今のと同じなのかな」


 ルカは彼女を見る。


 ミレアの視線の先には、海に残された名札があった。札そのものはまだそこにある。けれど名の一部は祈魚へ移り、さらに鯨へ渡った。


 紙そのものが魚の中へ入ったわけではない。


 魚そのものが鯨になったわけでもない。


 ルカはすぐには答えなかった。


「……たぶん」


「また」


「でも、そのまま移るわけじゃないんだと思う」


「そのまま?」


「名札が魚になったわけじゃないでしょ」


「うん」


「魚も鯨になってない」


「うん」


「でも、渡ってる」


 ミレアは黙る。


「歌も同じなのかも。ハオルさんの歌が、そのままミレアの中へ入るんじゃなくて」


「じゃあ、何が来るの?」


「それはまだ分からない」


 ミレアが少し不満そうな顔をする。


「でも」


 ルカは海を見る。


「ミレアの中を通ったら、もうハオルさんとまったく同じじゃないのかもしれない」


 その言葉に、ミレアはすぐ返事をしなかった。


 嫌そうな顔をするかと思った。


 けれど彼女は、自分の胸へ手を置いた。


「……それって、残ってないってこと?」


「分からない」


「また」


「本当に。今見えたばっかりだから」


 ルカは困ったように笑った。


 祈魚から受け取った残響を、ハルガが再び歌う。


 元の名札と同じ音ではない。


 それでも、消えてはいなかった。


 ミレアもそれを聞いている。少なくとも、何かを考え始めている顔だった。


     *


 ルカはふと、朝から辿ってきた航路を思い返した。


 島の裏。


 二度通った岩礁。


 沖。


 岸。


 火山帯。


 難破船。


 一見すれば、意味のない遠回り。


 けれど、名札から祈魚へ、祈魚から鯨へと今目の前で名が渡ったように、場所そのものではなく、順番と受け渡しに意味があるのだとしたら。


 だから途中を飛ばせなかった。


「そういうことか」


「何?」


 エルンが訊く。


 ルカは海図を開き、朝から引いてきた線を見る。相変わらず航海図としてはひどい。島の周囲をうろうろし、同じ岩礁を二度通り、沖へ出たかと思えば岸へ戻る。


 そこへ、今見えた《受け渡し》を重ねてみる。


「この島へ行くための道じゃない」


「うん」


「次の場所へ行くためでもない」


 ミレアが海図を覗く。


「じゃあ?」


「名が通った道」


 胸の奥で、第一潮真名が小さく鳴った。


 今までより近い。


 まるで、ようやく問い方が合ったと答えるように。


 ルカは海図を閉じる。


「だから、近道じゃ駄目だった」


 ミレアが小さく頷いた。


「うん」


「私たち、最後へ行こうとしたけど」


「最後だけじゃなかった」


 ミレアが言う。


「たぶん」


 ルカも頷く。


 今度は、その言葉を笑う者はいなかった。


 ハルガが鳴いた。


 それまでのどの声よりも深い。


 ナミル=レイの船底を抜け、ルカの身体の奥まで沈む。


 エルンが海の下を見る。


「道が濃くなった」


「私も」


「見える?」


 ミレアが訊く。


「エルンみたいには見えない。でも、繋がってるって分かる」


 どこかへ向かう一本の航路ではない。


 名を運ぶために、何度も姿を変えた道。


 鯨はそれを歌っていた。


 だから一音を抜かせない。


 一つの場所を飛ばせない。


 名は、そこを通ったから次へ渡った。


「エルン。まだ続いてる?」


「うん」


「どっち?」


 エルンは海の底へ視線を沈め、南西を指した。


「向こう」


 海図上には、細かな難破記号が続いているだけの、何もない海域だった。


「分かった」


 ルカは帆を調整する。


 鯨群も同じ方向へ向きを変えた。


 今度は先回りしない。意味が分からなくても飛ばさない。同じ場所へ戻れと言われれば戻る。鯨が潜っても、船にできるやり方でその順番をなぞる。


 必要なのは、鯨より早く最後へ着くことではない。


 この海が、何を、誰から誰へ、どう渡してきたのか。


 最後まで見届けることだった。


 ナミル=レイが進み始め、両舷の名札が風に揺れる。


 一枚ずつ、全部違う名前。


 違う場所から来て、違う手へ触れ、いつかまた別のどこかへ向かう。


 今までのルカには、それぞれ独立した名に見えていた。


 けれど、船へ来る前がある。


 船から落ちたあともある。


 そのすべてを含めて、一つの名が旅をしている。


 ミレアが一枚の名札を見た。


「これも、いつか落ちる?」


「うん」


「そのあと誰かが拾う?」


「拾わないかもしれない」


「じゃあ?」


「沈むかも」


 ルカは海を見る。


「魚が持ってくかもしれないし、ずっと流れるかもしれない」


「分からないんだ」


「うん」


 ミレアはしばらく名札を見つめ、やがてほんの少しだけ笑った。


「なんか、今日はそれでもいい気がする」


 ルカは彼女を見る。


「何が?」


「分からないって言われても」


「昨日は怒ってたのに」


「うるさい」


 完全に納得したわけではない。それでよかった。


 答えを出すには、まだ早い。


「ルカ」


 エルンが呼んだ。


 その声で前を見る。


 鯨たちが次々と海面から消えていた。


 潜っている。


 深海へ完全に沈んだわけではない。数十呼吸のあと、かなり離れた場所で一頭が浮上し、続いて別の一頭が海面へ姿を見せる。


 点々と現れる黒い背。


 その並びが、一つの道になっていた。


 エルンの表情が変わる。


「ここから、古い」


「どのくらい?」


「すごく」


 声が小さくなる。


「今までより、ずっと沈んでる」


 ミレアも無意識に胸へ手を置いた。


「歌も変わった」


「分かる?」


「息が長くなる」


 大きく吸い、ゆっくり吐く。


「ここから先、おじいちゃんが昔の歌を教える時、いつも声を低くしてた」


「理由は?」


「知らない」


 それでも、身体には残っている。


 エルンには沈んだ航跡。


 ルカには今を渡る名の道。


 ミレアには人の中へ残った歌の呼吸。


 三つがまた、同じ方向を指していた。


 前方には島影もない。灯台も浮標もなく、ただ青い海だけが続いている。


 ハルガが歌う。


 その声は、夜ごとに途切れていた場所へ少しずつ近づいていく。


 ルカの胸の奥で第一潮真名が震え、ナミル=レイの名灯も淡く灯った。


 ここまで通ってきたものは、間違っていない。


 だからこそ、この先にあるのは都合よく置かれた答えではない。


 誰かから誰かへ渡るはずだった、最後の受け渡し。


 終われなくなった航路の先。


「行こう」


 ルカは舵を握り直した。


 白い小船が鯨群のあとを追う。


 今度は海図を見なかった。


 エルンが海の底を読み、ミレアが身体へ残った歌を確かめる。


 そしてルカは、名が渡っていく、その道を読む。


 三人は違うものを見ながら、同じ先へ向かっていった。

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