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第六節 ― 海を信じる必要はない

 答えは、まだ出なかった。


 七本の巨大な錨が低く鳴り、黒銀の光が構文管を走る。そのたびに格納区の床がわずかに震え、ルカの足裏から骨の奥へ、重い響きが染み込んでくる。


 ルカはその中央で、何も言えずに立っていた。


 ヴァルカの言葉が、胸の奥に残っている。


 ――君自身の名すら返さなかった海を、まだ信じるのか。


 痛いところを突かれただけではなかった。ずっと考えないようにしていた問いだった。


 自分は名拾いだ。流された名を拾い、沈んだ名を追い、混ざった名をほどく。持ち主がいるなら返し、還るべきものなら潮へ戻す。そうやって、いくつもの名と向き合ってきた。


 なのに、自分自身の名だけはどこにもない。


 名のない小舟。割れた貝殻護符。分からない出航地。分からない家族。そして、分からない本当の名。


 何年待っても、海は何も返してくれなかった。


「協力しろ」


 ヴァルカが、もう一度言った。


「君たちなら古層構文へ接続できる。七錨を完全な形で安定させられる可能性がある」


 ルカは顔を上げなかった。


「流れによる喪失を減らせる。沈む前に保護し、漂流する前に固定できる」


 返事はできない。


 七錨が低く鳴る。


「待たなくて済む海になる」


 その言葉で、ルカの指が動いた。


 胸元の貝殻護符を握る。


 待たなくて済む。


 ヴァルカにとって、それはきっと一番欲しかったものだった。


 妹が海へ落ちた日から、名札を流した日から、次の潮を待ち、季節を待ち、年を待って、それでも何も還らなかった時間。そのすべてを、二度と誰にも渡したくない。


 だから止める。


 間違っている、と言いたかった。


 けれど、そう断じるなら、こちらには何があるのだろう。


「ルカ」


 隣から、小さな声がした。


 いつの間にか、エルンがルカの袖を掴んでいる。強く引くわけでもない。ただ、そこにいることを知らせる程度の力だった。


 ルカはその手を見た。


「……エルン」


「うん」


「私、負けたかも」


 少し間を置いて、エルンが訊く。


「話?」


「うん」


「ヴァルカに?」


「うん」


「じゃあ、もう終わり?」


 ルカは顔を上げた。


「え?」


「負けたら終わり?」


 あまりにも普通に訊かれたので、ルカは一瞬答えに詰まった。


「……いや」


「じゃあ、まだ?」


「まだって」


「考える」


 エルンはそう言った。


「ルカ、さっき考えてた。答えないなら、まだ考えてる」


 胸の奥へ、少しだけ空気が戻った。


「そうだね」


「うん」


 ヴァルカは二人の会話へ口を挟まず、ただ待っていた。


 そのことが少し腹立たしかった。どれだけ考えても、最後には同じ場所へ辿り着くと知っているように見えたからだ。


「ヴァルカさん」


 ルカが呼ぶ。


「何だ」


「さっきの質問」


「どれだ」


「海を信じるのかってやつ」


 ヴァルカの目がわずかに細くなる。


「答えが出たのか」


「ううん」


 ルカは首を振った。


「分からない」


 ヴァルカが黙る。


 ルカはもう一度、今度は逃げずにはっきりと言った。


「分かりません。海が名を必ず還すのか。ネリュエが本当に全部の名を拾ってくれるのか。あなたの妹さんの名前がどこかに残っているのか、いつか還るのか。何も約束できません」


 ヴァルカの表情は変わらない。


「ならば――」


「私の名前も」


 ルカは言葉を重ねた。


 口にすると、少し怖かった。


「まだ戻ってない」


 貝殻護符を握る手に、わずかに力が入る。


「自分の名がどこにあるのかも分からない。海が持ってるのか、それとも、そもそも残ってるのかも分からない」


 声が少し震えた。


 名を拾う者でありながら、自分の名については何一つ知らない。その事実を、初めて真正面から認めた気がした。


「だから」


 ヴァルカが言った。


「止めるべきだ」


「違う」


 今度のルカは、すぐに答えた。


「何が違う」


「分からないから、止めるにはならない」


「なぜだ」


 また問われる。


 けれど今度は、逃げなかった。


「流れたら、失うかもしれない」


 一度、自分の中で言葉を確かめる。


「流れたら、失うかもしれません。還らないこともある。途中で沈むことも、誰にも拾われないこともある」


 名札も、声も、人も、船も、街も、記憶も。潮に乗せれば、必ず届くわけではない。


 ヴァルカは否定しなかった。


「でも、止めたら絶対に届かない」


 七本の錨を見ながら言うと、格納区が一瞬だけ静かになったように感じられた。


「何に」


 ヴァルカが訊く。


「還る先に」


「還る先が存在する保証はない」


「ないです」


 ルカは即答した。


「持ち主がいないかもしれない」


「はい」


「家族も」


「はい」


「故郷そのものが消えている可能性もある」


「あります」


「なら――」


「それでも、止めたら探すこともできない」


 今度は、ルカの方が言葉を被せた。


 ヴァルカが黙る。


「あるかどうか分からない。だから探すんです」


「存在しないものを?」


「ないって分かるまで」


「永遠に分からなければ」


 痛い問いだった。それでも、今度のルカは止まらなかった。


「その時は、その時に考えます」


 エルンがこちらを見る。ヴァルカも、わずかに目を細めた。


「無責任だな」


「はい」


 ルカは認めた。


「責任取れません。全部の名を還せるなんて言えないし、全部を救うこともできません」


 言葉にしてしまえば、それは当たり前のことだった。


 最初に訪れた島でも、戻った名もあれば戻らなかった名もあった。誰かの中へ混ざった名。欠けた名。別の人間の中へ残った名。海底へ沈んだまま、まだ触れられない名。


「私が読めない名前だってあるし、届かない場所もあります」


 自分自身の名も。エルンの奥に沈む何かも。神の名も、もっと深い海も。


「でも、還る道なら探せる」


 そう言った瞬間、その言葉が自分の中へすとんと落ちた。


 ヴァルカもエルンも、何も言わない。


 ルカは自分のために、もう一度繰り返した。


「還る道なら、探せる」


 潮鏡が何も示さなくても、星潮羅針盤が昨日しか指さなくても、ナミル=レイの名札から、名が行こうとしている方角を読んだ。


 一つずつ。


 違う方向を向く小さな名の流れを繋いで、地図にない航路をここまで来た。


「名がどこへ還るか、分からない時もあります」


「それを航路と呼ぶのか」


 ヴァルカが問う。


「うん」


「行き先も確定していない」


「はい」


「到着の保証もない」


「ないです」


「遭難する可能性もある」


「あります」


「それでも?」


 ルカは、ほんの少し笑った。


「航海って、そういうものじゃないですか」


 ヴァルカの目が細くなる。


「安全な航海もある」


「ある」


「定刻に着く航路も」


「あります」


「ならば、それを選べばいい」


「選べるなら、選べばいいと思います」


 ミラ=セレイを思い出す。


 止まった方がいいと願った人たちもいた。それは間違いではなかった。安全を選ぶこと自体を、ルカももう否定する気はない。


「でも、最初からそれしか選べなくするのは違う」


 ヴァルカの指が、静潮指揮杖を握り直す。


「流れる者の選択が、他者を危険へ巻き込む場合は」


「止めることも、誰かを巻き込んでます」


 ルカは七錨を指した。


「新しい名前に進めない人がいる。昨日しか祈れなくなった街がある。過去の航跡へ戻ろうとする船霊もいる」


 そして、隣を見る。


「エルンも。深いところを閉じられて、苦しんでる」


 欠けた鐘片を握るエルンの手は、まだ少し強張っている。


「止まったことで救われた人がいる。それは認めます」


 ルカは真正面からヴァルカを見た。


「だから、止めることが全部間違いだとも言わない。でも、あなたの答えを海全部の答えにはできない」


 ヴァルカは少し長く黙った。


「君の答えならいいのか」


「よくない」


「では誰が決める」


「その人」


 ルカはエルンを見る。


「その街」


 ミラ=セレイを思い出す。


「その船」


 ナミル=レイ。


「その名」


 帆柱に揺れていた名札たち。


「選べない者は」


 ヴァルカが問う。


 子ども。病人。漂流者。死者。


 さっき突きつけられた問いだった。


 ルカは少し目を伏せた。


「分かりません。今は」


「答えを持たないまま、七錨を止めるのか」


「はい」


「矛盾している」


「そうかもしれない」


「海域全体を再び危険へ戻す」


「はい」


「死者が出るかもしれない」


 胸が痛む。


 ミラ=セレイが動き始めた時の揺れが蘇る。もし誰かが落ちていたら。その可能性は、今も消えていない。


「……はい」


「それでも」


「止めます」


 ヴァルカが静かに息を吐いた。


「なぜだ」


「私には、全部を安全にする力がないから」


 それは敗北ではなかった。


 ただの事実だった。


「全部を救う力もないし、誰かの代わりに正しい道を決める力もない」


 カイラならきっと笑うだろう。そんなもの、最初から誰にもない、と。


「私にできるのは、道を探すことだけです」


「道」


「うん。名も、船も、人も。還りたいものが、還れるかもしれない方へ行ける道を探す」


 全部を同じように読めるわけではない。人の人生も、街の未来も、ルカが決めていいものではない。


 けれど、道なら探せる。


 そこでルカは、自分の言葉に引っかかった。


 名拾い。


 ずっと、そう呼ばれてきた。


 海から名を拾う。それが自分の仕事だと思っていた。


 でも、ナミル=レイで名札を読んだ時、少し違っていた。


 拾ったのではない。


 名そのものが持っていた、行こうとする向きを読んだ。


 その先へ船を進めた。


「私、名を拾うだけじゃ足りないみたい」


 エルンがこちらを見る。


「足りない?」


「うん。拾ったあと、どこへ行くのか。どこなら還れるのか。還れないなら、どこで待つのか。その先も読まないと」


 まだ、ほとんど分からないことばかりだ。


 それでも、自分がしたいことの輪郭だけは見え始めていた。


「名の道を読む」


「航海士」


 エルンが小さく言った。


 ルカは彼を見る。


「この前も言ったね」


「カイラも言った」


「うん」


「違う?」


 少し考える。


 航海士という言葉は、まだ自分には大きいと思っていた。


 潮鏡を読み、星を読み、海図を読み、正しい道を知っている人。


 ずっと、そういうものだと思っていた。


 でも、もしかすると違うのかもしれない。


「正しい道を知ってる人じゃないのかも」


「じゃあ?」


「道がなくなった時に、探す人」


 エルンが少し笑った。


「ルカだ」


「そうかな」


「うん」


 ルカもほんの少し笑った。


「じゃあ、今はそれでいいや」


 ヴァルカは二人を見ていた。


「航海士を名乗るのか」


 ルカはすぐには頷かなかった。


「まだ」


「何の途中だ」


「私が、そうなる途中」


 名拾いを捨てるわけではない。それは自分がこれまでしてきたことで、これからも続けたいことだ。


 ただ、そこにもう一つ増えた。


「潮に残った名を読んで、その名が行ける道を探す。そういう航海士になれるかもしれない」


 言葉にするほど、その輪郭が少しずつ鮮明になる。


 完全な名乗りではない。


 自分の本当の名さえ、まだ分からない。


 それでも、自分が何をする人間になりたいのか。それだけなら、少し分かってきた。


 ヴァルカはしばらく黙っていた。


「それで」


 やがて低い声で問う。


「妹の名を還せるのか」


 ルカの笑みが消えた。


 今度は逃げない。


「分かりません」


「探せるか」


「それも、分かりません」


 一度、息を吸う。


「何も約束できないです」


 ヴァルカの目が少し冷たくなる。


「希望を与えるだけではないか」


「違う」


 ルカは首を振った。


「見つかるって言ってないから」


「ならば何だ」


「選べるってだけ」


 ヴァルカが黙る。


「探すか、探さないか。名札を流すか、留めるか。待つか、手放すか」


 胸が少し痛んだ。


「それは、あなたが決めればいい」


 ヴァルカの視線がわずかに伏せられる。


 妹の名をまだ探したいのか。


 もう探したくないのか。


 それをルカが決めることではない。


「だから、海も同じ」


 ヴァルカが顔を上げる。


「海を信じる必要なんて、ないんだと思います」


 口にしてから、ルカ自身が少し驚いた。


「何?」


「海が優しいって思わなくていい」


 人を奪う。名を沈める。船を壊す。


「ちゃんと全部返してくれるって、信じなくていい」


 ヴァルカの妹は還っていない。


 ルカの名も戻っていない。


 海が正しいという証拠など、どこにもない。


「それでも流れてるなら、道を探せる」


 ルカは七錨を指した。


「でも、これで全部止めたら、探す道そのものがなくなる」


 ヴァルカは静潮指揮杖を握る。


 ルカは一歩、前へ出た。


「私は、海を信じるために七錨を止めるんじゃない。還るって約束を守らせるためでもない」


 もう一歩。


 今度は目を逸らさなかった。


「道を残すために、止めます」


 七錨が低く鳴る。


 黒銀の光が七本へ走り、その下で、もっと古い何かが押し潰されながらも残っている。


「ヴァルカさん」


 ルカは言った。


「私、あなたの妹さんを救えません。過去も変えられないし、還すって約束もできない」


 ヴァルカの目がわずかに動く。


「でも、もし妹さんの名がまだどこかへ還ろうとしているなら、私は道を探します」


 それは、自分自身へ向けた言葉でもあった。


「私の名前も探します」


 どこにあるのか分からない。残っているのかも、還るのかも分からない。


「見つからないかもしれない」


 怖い。


 その可能性を、初めてきちんと認めた。


「それでも、探しに行けるうちは、まだ終わってない」


 エルンがルカの隣へ一歩並んだ。


「僕も?」


「うん」


「僕の名も?」


 ルカは、海の底へ名前を置いてきた少年を見る。


「それも。道が見つかったらね」


「見つけて」


「自分でも探してよ」


「一緒に」


 ルカは一瞬黙り、それから頷いた。


「……うん。一緒に」


 その言葉が、今はしっくり来た。


 ヴァルカは二人を見ている。


「それが君の答えか」


 ルカは頷いた。


「はい」


「保証はない」


「はい」


「救済でもない」


「はい」


「失う可能性も残す」


「残ります」


「それでも?」


 今度は迷わなかった。


「それでも、道を閉じるよりいい」


 長い沈黙が落ちた。


 ヴァルカの妹が帰ってくるわけではない。七錨が勝手に止まるわけでもなく、海から危険が消えるわけでもない。


 何一つ解決したわけではなかった。


 それでも、ルカ自身の立つ場所だけは決まった。


 海が正しいからではない。


 神が約束してくれるからでもない。


 名は必ず還る――そんな言葉を、もう盾にはしない。


 還らない名がある。救えない名も、見つからない名もある。


 それでも、流れている限り道を探す。


 拾った名を抱えるだけではなく、その名がどこへ行こうとしているのかを読み、その先へ船を進める。


 七本の錨の下で、まだ名前の定まらない航海士は、初めて自分自身の進む方角を選んだ。

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