第五節 ― 還らなかった名
七本の錨が、ほとんど同時に鳴った。
ごおおん――と。
音は上から落ちてきたのではない。床の下、そのさらに深い海の底から、巨大な金属を叩いたような振動が立ち上がり、ルカの足裏から骨へ入り込んでくる。
黒銀の構文管を光が走った。一つ、二つ、そして七本すべてへ。暗い格納区の中で巨大な錨の輪郭が一瞬だけ浮かび上がり、そのたびにエルンの肩がわずかに震えた。
「エルン」
「平気」
「まだ何も聞いてない」
「聞こうとしてた」
「顔に出てた?」
「うん」
ルカは少しだけ眉を寄せた。
「最近、みんなそれ言うなあ」
冗談めかしたつもりだったが、自分でも声が乾いているのが分かった。
七錨を壊してはいけない。
その事実だけで、頭の中がいっぱいになっていた。人工の七錨は、《七つの潮鍵》と呼ばれていたらしい古い構造の上へ重ねられている。ここで力任せに破壊すれば、海を止めているものだけでなく、本来そこにあった古い流れまで傷つけてしまう。
「外すしかない」
ルカはもう一度呟いた。
けれど、どうやって外すのかはまだ分からない。
ミラ=セレイでは一つだけだった。街の表層からルカが《次》を呼び、底からエルンが古層を本来の流れへ押し戻した。二人でようやく、一つ。
今は七つ。そのすべてが中枢へ繋がり、同時に動いている。
「まず、仕組みを――」
「理解したか」
声がした。
ルカとエルンが同時に振り返る。
格納区の奥、七本の錨を見下ろす上部回廊。黒銀の手摺の向こうに、一人の男が立っていた。
軍装。直線的な外套。腰に剣はなく、手には黒真珠色の静潮指揮杖。
「ヴァルカさん」
ルカの声が硬くなる。
ヴァルカ=ドレインは驚いていなかった。侵入者を見つけた者の顔でもなければ、怒っている様子もない。兵を呼ぶ気配すらなく、二人がここへ来ることを初めから予定していたように見える。
「やはり、そこまで届くか」
その視線はルカではなく、エルンへ向いた。
エルンが無意識に一歩、ルカの近くへ寄る。
「やはりって」
ルカはヴァルカを見上げた。
「私たちが来るって知ってたんですか」
「軍港へ侵入した船を把握できないほど、錨記庁の監視網は粗くない」
「じゃあ、どうして止めなかったんです」
「止める必要がなかった」
背中に冷たいものが走る。
「……どういう意味」
「そのままの意味だ」
ヴァルカは回廊から階段を下りてきた。一段ずつ、急がない。静潮指揮杖の石突きが金属床へ触れるたび、こつ、こつ、と硬い音が響き、七錨の低い振動と一定の歩調で重なっていく。
「君たちは、ミラ=セレイで古層構文へ干渉した」
ルカは答えない。
「表層から名を呼ぶ者と、深層から構文へ触れる者。二つの干渉が重なった瞬間だけ、人工七錨より下の構文が応答した」
ヴァルカの視線がルカからエルンへ移り、エルンの顔がわずかに強張った。
「見てたんだ」
「ああ」
「全部?」
「観測可能な範囲は」
ルカは七錨を見る。
「それで、七つ全部動かした?」
「そうだ」
「私たちが古い構文を開けるって分かったから?」
「可能性が確認されたからだ」
「それで海全部を実験に使ったんですか」
「実験ではない」
「じゃあ何なんです」
「運用だ」
即答だった。
ルカは一瞬、言葉に詰まった。
「……運用?」
「七錨静潮機は、すでに必要な作動条件を満たしている」
「海がおかしくなってる!」
「海難件数は減少した」
「それだけじゃない!」
「主要航路の逸脱率も下がった。浮上都市群の位置偏差も抑制されている。港湾事故、外縁区落下、航路喪失、漂流、沈没、遭難。すべて減少している」
ヴァルカの声は少しも大きくならない。
ルカは歯を食いしばった。反論したい。けれど、自分の目で見てきたものがある。
世界で一番安全な海。
道から外れない船。
迷わない航路。
揺れない浮上都市。
事故のない朝。
ヴァルカの示す数字は、少なくとも嘘ではない。
「代わりに、新しい名前が馴染めなくなってる」
「把握している」
「昨日と同じ祈りを繰り返してる街もある」
「ああ」
「船霊が昔の航跡へ戻ろうとしてる」
「報告は受けた」
「じゃあ分かってるじゃないですか!」
ルカの声が、初めて格納区へ強く響いた。
「安全になったんじゃない! 今日が終わらなくなってるんです!」
黒い空間へ、自分の声が返ってくる。
ヴァルカはしばらくルカを見ていた。
「それが君の評価か」
「評価って……」
「ならば、私の評価も示そう」
静潮指揮杖がわずかに上がると、壁面の記録盤がいくつか光った。
数値。図。海域。
ルカには全部を読むことはできない。それでも、示されている意味だけは分かった。
減っている。
事故も、損失も、遭難も。七錨同時起動前より明らかに少ない。
「今日が昨日と同じなら、昨日生きていた者は今日も生きている可能性が高い」
「でも――」
「変わることで救われる者がいることは否定しない」
ヴァルカはルカの言葉を静かに遮った。
「だが、変わることで失われる者もいる」
ミラ=セレイが脳裏に浮かぶ。揺れる外縁区。固定された故郷を見て、ほんの少しだけ安堵を見せたヴァルカの横顔。
『これでいい』
「私は、後者を減らすための制度を作った」
「制度で全部止めたら」
「全部ではない」
「海全部じゃないですか」
「水は流れている」
「そういう話じゃない!」
「分かっている」
また静かな答えが返ってきた。それが余計にルカを苛立たせる。
「名も、流れなきゃ還れない」
拳を握りながら言うと、ヴァルカの声がほんの少し低くなった。
「その言葉を、私は何度も聞いた」
ルカが止まる。
「何度も?」
「還る」
ヴァルカは七錨ではなく、その向こうの暗闇へ目を向けた。
「潮へ預ければ、いつか還る。名は消えない。潮は忘れない。祈れば届く」
一つずつ、誰かに言われた言葉を確かめるように並べていく。
「還ると言った」
格納区が静かになった。
遠く低く、七錨の振動だけが続いている。
ルカは何も言わなかった。もう何の話をしているのか分かっていた。
「ミラ=セレイで」
ルカは小さく言う。
「妹さんのこと、聞きました」
「ああ」
ヴァルカはルカを見る。
「なら、続きを聞け」
*
彼が幼かった頃、ミラ=セレイは航路を外れた。
そこまでの話ならルカも知っている。複数の潮が重なり、浮上都市は本来通るはずのない海へ入り、位置を戻すためさらに強い潮へ乗った。その結果、浮上核へ負荷がかかり、外縁区が崩れ、年下の妹が海へ落ちた。
遺体は見つからなかった。
ヴァルカは、その先を話し始めた。
「事故の翌日、捜索船が出た」
声は変わらない。
「二日目も」
具体的な日数を延々と重ねることはしなかった。ただ、
「潮が変わっても、探した」
とだけ言った。
それだけで十分だった。
「浮上核の破片、外壁材、衣服、家具、玩具」
海から、いろいろなものが戻ってきた。
「妹さんのものは?」
ルカが訊く。
「名札だけだ」
胸が痛む。
「見つかった?」
「違う」
ヴァルカは首を振った。
「流した」
ルカは息を止めた。
「……そうでしたね」
「遺体が見つからなかった」
「ああいう時は」
「知っている」
先に言われた。
行方不明。死亡確認なし。それでも戻らない者。
この海には、そういう別れのための儀式がある。名札へ名前を書き、祈りを捧げ、潮へ流す。還るべき時に、還るべき形で、その名が帰ってくるように。
「私は反対した」
ルカが顔を上げる。
「子どもだったからではない。名札まで海へ渡せば、本当に何も残らないと思った」
そこで初めて、ルカには当時のヴァルカが少しだけ見えた気がした。
提督でもない。管理者でもない。
ただ、妹が落ちた海を見ていた少年。
「それでも、周囲は言った。潮へ返すべきだ。名を留めてはいけない。還る道を閉ざしてはいけない」
名札は流され、祈りも行われた。
「ネリュエへの?」
「ああ」
《還名の儀》。
潮と還流の神へ名を預け、いつか還ることを願う祈り。
「待った」
ヴァルカは言った。
「私は、待った」
一度、間が空いた。
二度目のその言葉の方が、ずっと重かった。
ルカは胸元へ手を置く。そこにはいつも、割れた貝殻護符がある。
「潮が変われば、次の潮で還ると言われた。季節が変われば、その次。年を越せば、また次だ」
名札そのものが返らなくても、声かもしれない。夢かもしれない。漂着物かもしれない。誰かの口から、偶然その名前が聞こえるのかもしれない。
「戻る形は名札とは限らないと言われた」
ヴァルカは、わずかに息を吸った。
「ならば、何でもよかった。名札でなくても、声でなくても、私が妹だと分かる何かであれば」
ルカは視線を落とした。
訊かなくても分かる。
「でも……」
「何も還らなかった」
「ああ」
短い返事だった。
それですべてが終わっていた。
七錨がまた鳴る。
ごおおん、と黒銀の光が走った。
止められた海。流れない名。その巨大な装置の前で、ヴァルカは還らなかった一つの名について話している。
「ルカ=ネリス」
名前を呼ばれ、ルカは顔を上げた。
「君は、還るために流すと言った」
止められた海の上で、名札を巡ってヴァルカと対峙した時のことを思い出す。確かに、自分はそう言った。
「はい」
かろうじて答える。
「ならば、還らなかった名の責任は誰が取る?」
胸の奥へ刃が入ったようだった。
「それは……」
声が続かない。
「ネリュエか。還名を執り行った者か。名札を流した家族か」
「違う」
そこだけはすぐに言えた。
「ならば誰だ」
「……」
「海か」
喉が詰まる。
「潮は自然だから責任を取れない、と言うなら、人は何度でも同じ喪失を受け入れろということになる」
「そんなこと……」
「違うか」
「私は……」
ルカは言葉を探した。
「全部が還るなんて――」
そこまで言って止まる。
その問いを真正面から考えたことは、まだなかった。
本当に、すべての名は還るのか。
最初の島では、別人の中に残っていた名をほどくことができた。沈んだ名にも、エルンと一緒なら届くことがあった。ミラ=セレイも、自分の《次》を取り戻した。
けれど、それでも戻らなかった名はある。
何も残さず、海の底へ消えてしまったように見える名を、ルカは知っている。
「君は、還った名を見てきた」
「……はい」
「だから還ると信じられる」
「違う」
「何が違う」
「還らない名も……見てきた」
声が弱くなる。
「ならばなおさらだ」
逃げ道が消えていく。
「還った名を救済の証拠にし、還らなかった名を潮の都合として片付ける」
「片付けてない!」
ルカが叫ぶ。
「だったらどうする」
「探します」
「いつまで」
「見つかるまで」
「見つからなければ」
「それでも――」
「誰も待っていなくなっても?」
ルカが止まる。
「その名を知る者が全員死んでも、還る場所そのものが失われても?」
ミラ=セレイで知った。
帰る場所は、必ずしも同じ場所ではない。
それでも、受け取る誰か、呼ぶ誰か、繋がる何か。そのどれもがなくなった時、名はどこへ還るのか。
「祈りは、待てる者にしか許されない」
「そんな……」
「待てなかった者を責めるのか」
「責めません」
「待っている間に壊れた者は?」
答えられない。
「還らないことを受け入れられず、何年も海から離れられなかった者は?」
ルカは何も言えなかった。
「祈りは、戻った者のための言葉だ」
その言葉に、ルカは反射的に顔を上げた。
「違う」
「では、戻らなかった者に何を渡す」
答えが出ない。
「私は法を渡す。記録を残し、所在を固定し、失われる前に保護する」
聞いたことのある言葉だった。
エルンを《保護》すると言った時、ルカが最も恐ろしいと思った言葉。
「流さなければ、少なくとも流したあとで失うことはない」
ヴァルカは七錨を見上げた。
「でも、届かない」
ルカはようやく声を出す。
「どこへ」
「誰かへ」
「誰だ」
「それは……」
「誰へ届くか分からないから、流すのか」
「違う」
「では、誰へ届くか確定できるのか」
「できません」
認めた瞬間、自分の言葉がひどく弱く聞こえた。
ヴァルカは勝ち誇らない。そのことが、かえって苦しかった。
「私は、確定できない救済より、確定できる損失防止を選んだ」
七本の巨大な人工錨が、黒銀の光を脈打たせている。
「間違っているか」
すぐに「間違っている」と言いたかった。
今日が終わらなくなっている。
名が変われない。船が道を選べない。祈りが昨日を繰り返している。
それは全部、間違っている。
その一方で、事故は減った。人が落ちず、船も沈まず、誰も迷わない。
それもまた、本当だった。
「間違ってる」
やっと言えた。
ただし、声は自分でも分かるほど弱かった。
「なぜ」
「だって……止めたら、変われない。人も、街も、船も、次へ――」
「次へ進むことで失う者がいる」
またヴァルカの声が返る。
「でも!」
「ミラ=セレイで見ただろう。橋は揺れず、子どもは落ちず、外縁は崩れなかった。そして動いた後に、危険が戻ったことも」
商品が落ち、悲鳴が上がり、橋が揺れた。
ルカは全部見ている。
「君は流れを選んだ者が、その危険を引き受けることを認めた」
「言ってません」
「街の者に選ばせた」
「それは――」
「正しい」
予想していなかった言葉に、ルカは黙った。
「私は、その判断自体を否定していない」
「じゃあ」
「だが、選べない者はどうする」
「選べない?」
「子ども。病人。漂流者。死者。そして名札」
自分では何も選べないもの。
「流される側が、流れることを選んだと誰が証明する」
ルカは答えられない。
「私は、選べない者ほど保護すべきだと考える」
隣で、エルンがわずかに動いた。
ルカは横を見る。少年の顔が固い。
「エルンも?」
ルカの声が低くなる。
ヴァルカの視線が彼へ移った。
「彼は特に」
ルカは一歩、エルンの前へ出た。
「それは駄目」
「理由は」
「本人が嫌って言ってるから」
「彼は、自分の状態を理解しているか」
「だからって」
「七錨の第七深層が閉じた時、彼だけが他の六層とは異なる共鳴を示した」
エルンの身体がわずかに震えた。
ルカは反射的に、さらに彼の前へ出る。
「それ以上、言わないで」
「なぜ」
「まだ本人も分からないから」
「だから調べる」
「物みたいに?」
「人だからだ」
昔と同じ答えだった。
「人である以上、失われる可能性を放置することはできない」
「本人が望まなくても?」
「危険を理解した上での選択なら尊重する」
「じゃあ本人に決めさせて」
「理解しているのか」
ルカが止まった。
エルン自身が何者なのか、まだ分からない。
七つ目の深層。古い構文。沈んだもの。鐘片。
全部、謎のままだ。
「私たちが調べます」
「調べた結果が、ミラ=セレイだ」
反論できなかった。
二人は古層を開いた。その結果を見て、ヴァルカは全七錨を動かした。
「君たちは古層構文へ接続できる」
ヴァルカはまずルカを見た。
「君は表層から名の流れを呼ぶ」
次にエルンへ視線を移す。
「彼は深層から、沈んだ構文を動かす」
そして七本の錨を見る。
「私にはできない」
ルカは目を瞬かせた。
「……認めるんですか」
「事実だからな」
「じゃあ、七錨は完成してない?」
「人工構文としては作動している。だが、古層との接続は受動的だ」
黒銀の構文管。その下。目には見えない、本来の古い構造。
「現在の七錨は、古い構造を押さえ込んでいるにすぎない」
ルカの背中に冷たいものが走った。
「あなた……もっと閉じるつもり?」
「安定させる」
「同じでしょ!」
「違う」
「何が!」
「今は、海へ一方的に命令している」
ヴァルカは指揮杖を床へ軽く触れさせた。
固定せよ。
止まれ。
戻れ。
「古層側の開閉構造を理解できれば、七錨は表層だけを押さえる装置ではなくなる」
ルカはもう聞きたくなかった。
「やめて」
「海域の深部まで」
「やめて」
「安定させられる」
「やめて!」
叫びが格納区へ響いた。
ヴァルカは黙った。
ルカは息を切らしていた。
「私たちを使うつもりなんだ」
「ああ」
あまりにも素直な肯定だった。
「殺す気は?」
「ない」
「捕まえる?」
「必要なら保護する」
「同じことだよ!」
「違う」
「本人が帰りたいって言っても?」
「帰還先が安全なら」
「航路を自分で選びたいって言っても?」
「その航路が他者を害さないなら」
ルカの指が震えた。
「全部……あなたが決めるんだ」
「制度が決める」
「制度を作ったのは誰ですか!」
ヴァルカは答えなかった。
答える必要もなかった。
「協力しろ」
彼は言った。
命令だった。
けれど、剣は抜かない。錨名鎖も出さない。
「嫌です」
「理由は」
「海をこれ以上止めたくない」
「それは理由ではない」
「理由です!」
「感情だ」
「感情じゃ駄目なんですか」
「海域全体の運命を決めるなら、不十分だ」
また、言葉を失った。
悔しかった。ひどく悔しい。
「名は……数字じゃない」
声を絞り出す。
「知っている」
「人が呼ぶものです。誰かが待って――」
「待った」
ヴァルカが言った。
たった一言で、ルカの言葉が止まる。
「私は待った。待てと言われ、還ると言われた。だから待った」
妹。
潮。
祈り。
「そして、還らなかった」
ルカの喉が動かない。
「君は、待つことの残酷さを知らないわけではないはずだ」
ルカの手が胸元へ伸びる。
割れた貝殻。
その動きを、ヴァルカは見逃さなかった。
「幼い頃、名のない小舟で漂着した」
手が止まる。
「船籍なし。出航地不明。同行者なし」
「やめて」
「所持品は、割れた貝殻護符のみ」
「やめてください」
「君自身の本来の名は、今も不明」
呼吸が浅くなった。
ルカ=ネリス。
今の名前。
大事な名前。
嘘ではない。
けれど、その前に何と呼ばれていたのか。誰が呼んだのか。どこから来たのか。
何も分からない。
「君は他者の名を還してきた」
ヴァルカの声が、低く静かに届く。
「流れた名を拾い、持ち主へ返し、沈んだ名へ手を伸ばし、止められた名を流した」
島。名札。エルン。ミラ=セレイ。
これまでの海が、言葉と一緒に胸の奥へ積み重なっていく。
「そして、君自身は還っていない」
何かが深く沈んだ。
「君自身の名すら返さなかった海を、まだ信じるのか」
ルカは答えられなかった。
海を信じているのか。
自分でも分からない。
ずっと、ネリュエが本当に名を還すなら、どうして自分の名だけ戻らないのだろうと思っていた。潮が知っているなら、なぜ教えてくれない。海が覚えているなら、どうして自分だけ知らない。
「私は……」
声は出た。
けれど、その先が続かなかった。
潮は必ず還す。
そんなことは言えない。
ヴァルカの妹は還っていない。
自分も還っていない。
「いつか」
その言葉さえ、口から出せなかった。
いつか。
何を根拠に。
何年、何十年、誰かが死ぬまで待てと言うのか。
「ルカ」
エルンの声が隣から届いた。
近い。
それでも、ルカは顔を上げられなかった。
ヴァルカは追い打ちをかけなかった。勝ち誇らず、笑いもしない。
だからこそ、この沈黙が敗北なのだと分かってしまった。
「私が海を憎んでいると思うか」
ヴァルカが言った。
ルカは答えない。
「違う。海は美しい。流れ、変わり、人を運び、名を運ぶ」
意外な言葉に、ルカはゆっくり顔を上げた。
「なら、奪う」
それだけだった。
「美しいから許されるのか。自由だから、自然だから、神の潮だからと、失われた者の側へその言葉を渡せるのか」
渡せない。
少なくとも、今のルカには。
「私は渡せなかった」
ヴァルカは最後まで妹の名を口にしなかった。
「だから止めた」
黒銀の光が七本の錨へ走る。
「流れるから失われる」
ごおおん、と格納区が鳴った。
ヴァルカは静潮指揮杖を握る。
「ならば、失われない場所まで止める」
ルカは七本の錨を見た。
間違っている。
そう思う。
それでも、なぜと問われた時、今の自分の言葉ではヴァルカの妹を救えない。自分自身さえ、まだ救えていない。
「協力しろ、ルカ=ネリス」
ヴァルカが言った。
「エルン=カイオ」
エルンがルカの隣で静かに顔を上げる。
「二人なら古層を開ける。開けるなら、閉じる位置も定められる」
ルカの拳が震えた。
「拒むなら?」
やっと、それだけを訊いた。
「理由を聞く」
「それだけ?」
「私を止めるに足る理由なら、聞く」
ヴァルカの目は真っ直ぐだった。
ルカは口を開いた。
何も出てこなかった。
海を流すべき理由。
失う可能性を、それでも受け入れる理由。
全部を救えないのに。還らない名があるのに。自分の名さえ戻っていないのに。
それでも、なぜ海を止めてはいけないのか。
答えがない。
少なくとも、まだ言葉にならない。
「……ルカ」
エルンが、もう一度呼んだ。
名前を。
今の名前を。
ルカ=ネリス。
その呼び声には、ちゃんと応えられた。
けれど、その奥に沈んでいるはずの、まだ知らない名は何も答えない。
七錨は低く鳴り続けていた。海を眠らせる音が、黒い格納区の底から絶えず身体へ伝わってくる。
ルカはその前で、初めて何も返せないまま立っていた。




