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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第5話 浮かぶ都市は、帰る場所を忘れた
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第五節 ― 一年ごとに名前を返す都市

 ミラ=セレイでは、古い名を捨てない。


 返すのだという。


「捨てるのと、返すのは違うんですか?」


 ルカが尋ねると、老人は皺の深い目元を細めた。


「名拾いが、それを聞くのかい」


「名拾いだから聞いてるんです」


「なるほど」


 老人は喉の奥で笑った。


 《潮構文刻盤》から少し離れた場所に、小さな記録堂があった。


 都市の公的な航路記録を扱う中央記録所とは違う。古い潮紙、祭具、使われなくなった航路札、歴代の都市名を書き残した貝板などを保管する場所らしい。


 外から見れば、白い石造りの小さな建物にすぎない。けれど中へ入ると、壁一面を棚が埋め尽くし、数え切れないほどの札が収められていた。


 どれも名前だった。


 人の名前だけではない。


 街区名。橋の名。航路の呼び名。かつて存在した市場。沈んだ船着き場。もう使われなくなった浮上核。年によって呼び方が変わった潮。


 ルカが《潮構文刻盤》の奥で聞いた古い都市名も、そのどこかに記録されているのだろう。


 案内してくれたのは、昨日から協力している記録士と、一人の古老だった。


 古老は小柄な女性だった。白い髪を太く編み、青緑の布を肩から掛けている。年齢は、赤い島の行き先を思い出せなくなっていた老人より、さらに上に見えた。


 杖は持っていない。代わりに、腰から小さな貝札の束を下げている。


「アラ婆は、還名巡路を覚えている最後の古式記録士の一人だ」


 記録士が紹介すると、古老――アラ婆が鼻を鳴らした。


「最後って言うんじゃないよ。まだ三人いる」


「三人しかいないだろう」


「三人もいる。若いのが紙ばかり見るから、こういうことになるんだ」


「昨日から何度目だ、その話は」


「覚えるまで言う」


 どうやら普段からこの調子らしい。


 ルカは少しだけ肩の力を抜いた。


「それで」


 アラ婆がルカを見る。


「街の名を聞いたんだって?」


「はい」


「いくつ?」


「分かりません」


「十?」


「もっと」


「五十?」


「たぶん」


「百?」


「……たぶん、それより」


 古老の目が細くなった。


「なるほどね」


 驚いたようには見えない。むしろ、ようやく何かが腑に落ちたような顔だった。


「やっぱり、残ってるんだ」


「知ってたんですか?」


「知らなきゃ、毎年返したりしないさ」


 アラ婆は棚の奥へ歩き、古い木箱を一つ引き出して卓へ置いた。


 蓋を開ける。


 中には、小さな札が何百枚も重ねて入っていた。貝殻、木片、潮紙。素材はばらばらだが、どれも手のひらに収まるほど小さい。


「これ、名前?」


 エルンが覗き込む。


「そうだよ」


「誰の?」


「いろんなものの」


 アラ婆は一枚を取り出した。文字は褪せている。


「これは、二十二年前に使われていた南外縁第三橋の呼び名」


 次。


「こっちは、昔あった魚市場の名」


 さらに次。


「これは、もう沈んだ祈り桟橋」


 もう一枚を取ったところで、古老の手つきが少しだけ丁寧になった。


「これは人の潮名だ」


 ルカは札を見る。


「亡くなった人?」


「ああ」


「どうして都市の記録と一緒に?」


「同じものだからさ」


「同じ?」


 アラ婆は札を箱へ戻した。


「街ってのは、建物だけでできてると思うかい?」


「思いませんけど」


「橋かい?」


「違います」


「浮上核?」


「それも違う」


「なら、人間を外して何が残る」


 ルカは答えなかった。


 古老は満足そうに頷く。


「そういうことだよ」


 彼女は箱の札を指先でならした。乾いた音が、小さな記録堂へ重なる。


「その年に呼ばれた街区。その年に使った橋。その年に流れた航路。その年に生きて、その年に死んだ者。その年に誰かが捨てた呼び名。その年だけ使われた仮名」


 アラ婆は、札の山へ視線を落とした。


「全部で、その年のミラ=セレイになる」


 ルカは《潮構文刻盤》の中で聞いた、何百もの名前を思い出した。


 一つを消して次へ変わったのではない。


 古い名は、今の名の下に重なっていた。


「それを毎年、返すんですか?」


「ああ」


「全部?」


「全部じゃない」


 古老は首を振った。


「返すべきものだけ」


 その言葉に、ルカの表情がわずかに変わった。


 名拾いとして、よく知っている感覚だった。


 名は、見つければ何でも還せばいいわけではない。


 まだ沈んでいたい名もある。呼ばれたくない名もある。誰かの中に残ることで役目を果たす名もある。


「どうやって決めるんです?」


「人が全部決めるわけじゃない」


 アラ婆は窓の外を指した。


「潮が選ぶ」


「潮?」


「正確には、潮と街と、そこにいる人間だね」


 古老が記録堂を出る。


 ルカたちもあとへ続いた。


 外は午後の光に満ちていた。揺れない橋。真っ直ぐに並ぶ家々。その向こうには海が広がっている。


 いつ見ても、今のミラ=セレイは美しく、安定していた。


「この街は一年で一周する」


 アラ婆が歩きながら言った。


「同じ道を寸分違わず通るわけじゃない。潮は毎年違うからね。嵐があれば避ける。祈り潮が弱ければ遠回りする。別の浮上都市と巡路が重なれば、どちらかが道を譲る」


「でも、一年後には同じ潮へ戻ってくる」


 ルカが言う。


「そう」


 アラ婆が振り返った。


「よく調べてるじゃないか」


「来る前に聞きました」


「じゃあ、“同じ潮”って何だと思う?」


 ルカは少し考えた。


「同じ場所じゃないんですよね」


「違う」


「同じ時期に、同じ潮流へ入る?」


「半分」


「半分?」


「海を陸みたいに考えると、いつまで経っても分からんよ」


 また難しいことを言われた。


 アラ婆は楽しそうだった。


「去年と同じ水なんか、どこにもない」


 それはそうだ。


 潮は流れる。一年前にそこにあった海水は、とっくに別の場所へ行っている。


「星も同じじゃない」


「一年なら、だいたい戻るんじゃ?」


「だいたい、だ」


 古老は空を見上げた。


「風も違う。祈る人間も違う。去年生きていた者が今年は死に、去年いなかった子どもが今年は歩いている」


 ルカは黙って聞く。


「それでも、同じ潮へ帰ってくる」


 アラ婆は言った。


「分かるかい?」


「……分からないです」


「素直でよろしい」


「褒められてる気がしない」


「褒めてないからね」


「アラ婆」


 記録士が呆れた声を出す。


 古老は笑った。


「同じ潮っていうのは、同じ場所じゃない」


 今度は少しだけ声が柔らかくなる。


「一年前に置いていった自分へ、もう一度会える潮だよ」


 ルカは瞬きをした。


「自分へ?」


「この街のね」


 ミラ=セレイは旅をする。


 一年をかけて南の海を巡り、その間に変わる。


 人が生まれる。誰かが死ぬ。家が建つ。橋が壊れる。別の橋ができる。街区の名が変わり、新しい祈りを覚える。


 去年とまったく同じ都市ではない。


「一年経って帰ってきた時、街は去年ここを通った自分と向かい合う」


 アラ婆は続ける。


「それが……同じ潮」


「そうさ」


「じゃあ、そこで何をするんです?」


 古老が海の南東を指した。


 何も見えない。水平線だけだ。


「《海の燈台礁》を通る」


 ルカはその名を知っていた。


「燈台礁……」


 ネル=エル諸海域の中部島嶼帯に残る古い遺構。還名儀式の跡であり、今では普通の航海灯としては使われていない廃灯台。


「ここから遠いですか?」


「今の場所からならね」


 記録士が答えた。


「本来の巡路を維持していれば、もう通過していた」


 ルカの顔から少し笑みが消えた。


「今年?」


「ああ」


「いつ?」


「十二日前だ」


 アラ婆が答える。


 十二日前。


 ミラ=セレイが現在地へ固定されてから、すでにしばらく経っている。


「じゃあ、今年は行ってない?」


「行ってない」


「初めてですか?」


 古老はすぐには答えなかった。


「記録に残っている範囲ではね」


 その言葉が、妙に重かった。


 橋を渡った先に、小さな祈り場があった。


 神殿というほど大きくはない。海へ向かって半円形に開かれ、中央に青白い石皿が置かれている。


 石皿には何も燃えていなかった。


 周囲には、たくさんの小さな穴が空いている。


「ここで札を書く」


 アラ婆が言う。


「燈台礁を通る前の七日間、街中の祈り場に札を置くんだ」


「何を書くんです?」


「返したい名」


 古老は指を折った。


「今年使わなくなった呼び名」


「橋とか市場?」


「ああ。役目を終えた航路名も」


「人の名も?」


「亡くなった者の潮名。本人が生前、海へ返してくれと言っていた呼び名。子どもの頃だけ使った愛称なんかを書く者もいる」


「本名は?」


「書かない」


 即答だった。


 海の文化では当然のことだ。


「ほかには?」


「喧嘩別れした相手の悪口を書いた奴もいる」


「それ、名前なんですか?」


「十年も同じ悪口で呼んでりゃ立派な名だ」


「返した方がよさそうですね」


「だろう?」


 古老が笑う。


「要するに、その一年で街に増えたもののうち、次の一年まで抱えなくていい呼び名を海へ預ける」


 エルンが石皿を覗き込んだ。


「燃やすの?」


「燃やさない」


「じゃあ、これ何?」


「火を映す皿さ」


 エルンが首を傾げる。


「火?」


「《還名の火》」


 ルカの注意がそちらへ向いた。


「燈台礁の?」


「ああ」


 アラ婆は海へ向き直った。


「昔は燈台だったそうだが、今じゃ塔そのものはほとんど崩れてる。屋根もない。灯油を入れる槽も空。灯守もいない」


「なのに火が灯る?」


「一年に一度、ミラ=セレイが近くを通る夜だけね」


「どうやって?」


「知らん」


 あっさり言われた。


「知らないんですか」


「古いものを何でも説明できると思うな」


 アラ婆が睨む。


「潮と祈りが合った時だけ灯る。それで十分だ」


 記録士が補足する。


「記録上、燃料を使った痕跡はない。火そのものを採取しようとした例もあるが、礁から離すと消える」


「色は?」


「青白い」


 ルカは名灯の光を思い出した。


 失われた名に反応する、淡い光。


「街から見えるんですか?」


「見える年もある」


 アラ婆が答える。


「霧が深ければ見えない。それでも灯ったことは分かる」


「どうして?」


 古老は石皿を指した。


「こっちにも映る」


「全部の祈り場に?」


「ああ」


「そんな遠くから?」


「だから古い構文なんだろう」


 また説明を放棄された。


 けれどルカは、嫌いではなかった。


 分からないものを無理に理屈へ押し込めないのは、この海ではむしろ正しい態度なのかもしれない。


「火が灯ったら、札を海へ?」


「そう」


 アラ婆は両手で札を流す仕草をした。


「都市中の祈り場から札を落とす。橋の下。港。外縁。神殿の水路。どこから流してもいい」


「それが、海へ返る」


「ああ」


「それで終わり?」


「人間はね」


「人間は?」


 ルカが聞き返す。


 古老の目が、少しだけ笑った。


「街も返すんだよ」


 ルカは口を閉じた。


 それを聞くために、ここへ来た。


「都市が、何を?」


「自分の名を」


 アラ婆は、ごく普通のことのように言った。


「《ミラ=セレイ》を?」


「今年のね」


 ルカは眉を寄せる。


「今年のミラ=セレイ?」


「ああ」


 古老は腰の貝札を一枚外した。


 そこには《ミラ=セレイ》と刻まれている。


「これは今年の街の名」


「でも来年もミラ=セレイですよね?」


「たぶんね」


「たぶん?」


「変わる年もある」


 ルカの脳裏に、先ほど刻盤で聞いた名がよぎった。


 ラウ=ミレナ。


 セレ=ナウラ。


 ミレイ=サル。


 何百もの古い都市名。


「大きく名前を変えない年も多い」


 記録士が説明を引き継ぐ。


「発音の一部だけが変わる場合もある。表記だけが変わることもある。正式名が同じでも、その年の潮名だけが更新されることもある」


「それでも、前の名前を返す?」


「ああ」


「同じ《ミラ=セレイ》なのに?」


「同じ字でも、同じ名じゃないからさ」


 アラ婆の言葉に、ルカは目を向けた。


「今年呼ばれたミラ=セレイと、来年呼ばれるミラ=セレイは違う」


「……でも、同じ街ですよね」


「そうだよ」


 簡単に返された。


 ルカはしばらく黙った。


 名前が変わっても、同じものは存在できる。


 それだけではなかった。


 同じ名前で呼ばれていても、その中身は変わり続ける。


 去年のミラ=セレイ。


 今年のミラ=セレイ。


 来年のミラ=セレイ。


 同じ音。同じ都市。


 それでも、まったく同じではない。


「毎年、街の名札を作るんですか?」


「作る」


 アラ婆が頷く。


「一枚だけ?」


「一枚だけ」


「誰が書くんです?」


「その年の最年長の子どもと、最年少の記録士」


「変な組み合わせですね」


「古い奴だけじゃ次へ行けない。若い奴だけじゃ帰る場所が分からん」


 ルカは少し笑った。


「なるほど」


「火が灯ったら、その二人が札を海へ落とす」


「今年のミラ=セレイを?」


「ああ」


「返したら、街の名前がなくならないんですか?」


「なくならないよ」


「どうして?」


 古老は、さも不思議なことを聞かれたようにルカを見た。


「返した分だけ、次を名乗れるだろう」


 ルカの胸の奥で、何かが小さく鳴った。


「返した分だけ……」


「抱えたままじゃ、新しいものは入らない」


 アラ婆は貝札を掌で転がした。


「別に全部忘れるわけじゃない。あんたは昔の名前を聞いたんだろう?」


「はい」


「返した名前は消えない」


 古老は言った。


「海へ返して、街の中にも残る。矛盾してるように聞こえるだろうが、それでいいんだ」


「返したのに、残る?」


「人が死んだら、その人のことを全部忘れるかい?」


「忘れません」


「家を建て替えたら、前の家で暮らしたことがなくなる?」


「ならない」


「名前だって同じだよ」


 ルカは、自分の胸元へ指を伸ばしかけた。


 割れた貝殻護符。


 けれど途中で止める。


「その一年を終わらせるために、返す?」


「そう」


 アラ婆が頷いた。


「残すためにも、返す」


 海風が祈り場を抜けた。


 何も入っていない石皿の上を通り、低い音を鳴らす。


「還名の火が灯る夜はね」


 古老の声が、少し遠くなる。


「街中が騒がしい」


「祭り?」


「そうとも言える」


「ごちそう出ます?」


「そこかい」


「大事です」


「出るよ」


「じゃあ祭りですね」


「ルカ」


 エルンが少し呆れた顔をする。


 アラ婆は笑ったが、続く声は少し静かだった。


「でも、泣く人も多い」


 ルカの笑みが消える。


「亡くなった人の名を返すから?」


「それもある」


「ほかにも?」


「一年が終わるからさ」


 古老は海を見る。


「この街じゃ、同じ場所で季節を数えない」


 住民は、自分が生まれた時に都市がどの潮を通っていたかで季節を覚える。


 ルカは、その話を聞いていた。


 赤潮を抜けたら、あの子が生まれた。


 北の星潮へ入った頃に、父親が死んだ。


 西の巡礼潮で、初めて店を持った。


 燈台礁が近づけば、今年も一周したと分かる。


 そういう時間の数え方。


「だから《還名の火》は」


 アラ婆が言う。


「帰ってきた火なんだよ」


 ルカは遠い水平線を見た。


「同じ潮へ」


「そう」


「一年かけて」


「そうだ」


「そこで、今年の名前を返す」


「そう」


「それから?」


 古老は笑った。


「また出ていく」


 その一言で、何かがきれいに繋がった。


 ルカは動かない街を見た。


 橋。家。市場。港。


 全部が同じ場所にある。


 ミラ=セレイは、一年をかけて同じ潮へ帰る街だ。


 だからルカは、どこかで「帰る場所」を失ったのだと思っていた。


 行き先をなくし、航路を忘れ、帰るべき潮へ辿り着けなくなったのだと。


 けれど。


「違う……」


 口から声が漏れた。


「何が?」


 エルンが訊く。


 ルカは答えず、アラ婆を見る。


「今年、還名の火は?」


 古老の表情が変わった。


 昔話をしていた目が、急に現在へ戻る。


「灯ってない」


「燈台礁を通ってないから」


「ああ」


「十二日前、本当なら灯るはずだった」


「そうだよ」


「じゃあ今年の《ミラ=セレイ》は?」


 アラ婆は腰から下げた貝札を見る。


 今も彼女の手にある。


《ミラ=セレイ》。


 本来なら十二日前、青白い火が灯る夜に海へ返されていたはずの、今年の都市名。


「まだ返してない」


「だから」


 ルカの声が少し早くなる。


「今年が終わってないんだ」


 記録士が息を止めた。


「何?」


「街が動かないから、次の港を忘れたんじゃない」


 いや、それも起きている。


 けれど、原因と結果はもっと深いところで繋がっている。


「燈台礁へ行けなかった」


「そうだ」


「一年前の自分へ帰る潮に、戻れなかった」


「……ああ」


「今年の名前を返せなかった」


 《潮構文刻盤》の中で聞いた、何百もの都市名。


 すべてが重なって、現在のミラ=セレイを作っている。


 それは、ただ積み上げてきたのではない。


 毎年いったん海へ返し、それでも残るものを抱えて、次の名を受け取ってきた。


 呼吸のように。


 吸うだけでもない。


 吐くだけでもない。


 返して、受け取る。


「だから、次の名前へ行けない」


 ルカは言った。


 《潮構文刻盤》から消えていた次の座標。


 人々の記憶から抜け落ち始めていた、「次へ行く」という感覚。


 そして、今も街の内側に重なっている何百もの都市名。


 ばらばらに見えていたものが、一つの流れへ繋がった。


「固定されたから、帰れなくなったんじゃない」


 ルカはゆっくり首を振る。


 ミラ=セレイにとって、帰るとはある場所へ着いて終わることではない。


「帰って」


 一年前の自分へ触れて。


 その一年の名を返して。


「それから、また出ていく」


 その繰り返しこそが、この都市の帰還だった。


「そこまでできて、初めて帰ったことになるんだ」


 アラ婆はしばらくルカを見ていた。


 やがて、小さく笑う。


「名拾いってのは、変なところまで拾うね」


「合ってます?」


「少なくとも、あたしより上手く言ったよ」


 ルカはもう一度、街を見る。


 橋は安全になった。


 荷物は落ちない。


 病人も運べる。


 子どもも転落しない。


 それは間違いなく良いことだった。今だって、その価値は消えていない。


 けれど、ミラ=セレイは安全になった代わりに、一年を終わらせることができなくなった。


 今の自分を手放せない。


 だから、次の自分へ進めない。


「でも」


 記録士が口を開いた。


「仮にそうだとしても、燈台礁へ行かずに還名を行う方法はないのか?」


 アラ婆が首を横に振る。


「少なくとも、あたしは知らない」


「火だけを呼ぶとか」


「昔やった奴がいる」


「結果は?」


「何も灯らなかった」


「祈りを増やす?」


「火は願った分だけ燃えるものじゃない」


「では、札だけ流す?」


「ただの札流しになる」


 記録士の表情が険しくなる。


「つまり都市を動かさなければ、今年の還名は成立しない」


「今までのやり方ならね」


 アラ婆の声は淡々としていた。


 ルカはそこで、別の難しさに気づいた。


 動かす。


 言葉にすれば簡単だ。


 けれど、ここまで街を歩いて見たものがある。


 橋が揺れれば、子どもが落ちる可能性がある。


 病人を運ぶのも難しくなる。


 荷物も倒れる。


 商売も不安定になる。


 今ある安全を手放さなければ、ミラ=セレイは次へ進めない。


 その選択を、外から来たルカが勝手に決めていいわけではない。


「……やっぱり」


 ルカは小さく呟いた。


「何?」


 カイラが訊く。


「簡単じゃないですね」


「何が」


「止めるのが悪いって言うの」


 カイラは答えなかった。


 ただ、少しだけ口元を上げる。


「分かってきたじゃないか」


「嬉しくないです」


「考えるってのは、大抵そんなもんだ」


 ルカは石皿の前へしゃがんだ。


 空の皿。


 本来なら十二日前、遠く離れた《海の燈台礁》に灯った青白い炎を映していたはずの場所。


 指先で縁へ触れる。


 冷たい。


 何の残響もない。


 今年、火は来なかった。


 その時だった。


「ルカ」


 後ろでエルンが呼んだ。


「なに?」


 返事をしながら振り返る。


 エルンはルカを見ていなかった。


 足元。


 祈り場の床。


 そのさらに下へ、視線を落としている。


「どうしたの?」


「……変」


 声が低い。


 ルカは立ち上がった。


「何が?」


 エルンは少しだけ眉を寄せる。


「上は、返せなくなってる」


「うん」


「でも」


 彼はゆっくりと視線を落とした。


「下は、別の方へ引っ張ってる」


 ルカには何も聞こえない。


 足元には白い床石。その下には都市の構造体があり、さらに深くには巨大な浮上核と、海へ垂れた潮帆がある。


「深い?」


「うん」


「昨日から言ってたやつ?」


 エルンはすぐには頷かなかった。


 やがて、


「もっと近くなった」


 と答えた。


 ルカも街の底へ意識を向けてみる。


 けれど、自分には読めない。


 都市表層の名なら触れられる。それより深く沈んだものは、エルンの方がずっと近い。


 ミラ=セレイが一年ごとに名を返してきたのなら。


 それより昔。


 その習慣が始まるより前から、街の底にあるものは何なのか。


 アラ婆がエルンを見る。


「下へ行きたいのかい」


「行ける?」


「浮上核区画なら、許可がいる」


 記録士が答えた。


「取れる?」


 エルンが訊く。


 記録士はルカとカイラを見た。


 迷ったのは短かった。


「今さら、上だけ調べて終わりにはできないだろう」


 ルカは頷く。


「お願いします」


 もう一度、空の石皿を見る。


 今年の火は灯らなかった。


 都市は、帰ってこられなかった。


 いや。


 帰るとは、止まることではない。


 そこで何かを終え、また次へ向かうことだ。


 ミラ=セレイは今、その途中で立ち止まっている。


 安全に。


 穏やかに。


 何も失わないように。


 その代わり、次の一年を始めることもできずに。


 ルカは胸元の割れた貝殻を指で包んだ。


 まだ、自分の名のことへ結びつけるつもりはなかった。


 ただ一つだけ、覚えておこうと思った。


 帰る場所とは、そこでずっと止まっている場所ではないのかもしれない。


 もう一度、出ていくことのできる場所。


 潮は、そんな帰り方も覚えていた。


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