第四節 ― 都市にも潮名がある
《潮構文刻盤》は、昼の光の下で見ると、昨夜よりもずっと大きく感じられた。
中央区の広場いっぱいに広がる巨大な円盤。その中心には真珠色の記録核が埋め込まれ、そこから幾重もの環が波紋のように外側へ続いている。
昨夜、ルカが見ていたのは消えた航路だった。過去から現在まで伸びる青緑色の線と、現在位置で突然途切れた先の空白。
だが、今日は違う。
見ようとしているのは、《ミラ=セレイ》という都市そのものだった。
「街の名を読む?」
記録士が聞き返した。昨夜から対応してくれている男で、眠っていないのか目の下には薄い隈ができている。
「できるかどうかは分かりません」
ルカは正直に答えた。
「人の名や、漂着名札なら?」
「読めます。でも、何でも読めるわけじゃないです。潮に触れた名の残り方を見るだけなので」
「都市は人間ではない」
「ですよね」
「船でもない」
「それも分かってます」
「では、なぜ読めると思う?」
ルカは盤面へ目を落とした。
「潮が通ってるから」
記録士が黙る。
ルカは中心部を指した。
「この刻盤、海図じゃないですよね。潮と星と浮上核と、街が通ってきた航路を全部重ねて記録してる」
「ああ」
「だったら、ここには場所だけじゃなくて、ミラ=セレイが海に残してきたものもあるはずです」
自信があるわけではなかった。
ただ、昨日からずっと引っかかっている。
人々の記憶から、場所と場所を繋ぐ道が失われている。《潮構文刻盤》からも、次の座標だけが消えていた。
それなら一人ずつ人の記憶を調べるより、街そのものが何を覚えているのかを確かめた方が早い。
「危なくない?」
エルンが訊いた。
ルカは彼を見る。
「たぶん」
「たぶん?」
「何でも読もうとはしない」
エルンはまだ納得していない顔だった。
当然だ。名を読みすぎれば、自分の輪郭まで薄くなる。それはルカ自身が何度も経験している。
しかも今回触れようとしているのは、一人の人間ではない。何千、何万という人間が暮らしてきた都市だ。
もし本当に都市にも名があるなら、その重さがどれほどなのか想像もつかなかった。
「無理そうだったら、すぐ離す」
ルカが言う。
「呼ぶ?」
「何を?」
「ルカを」
一瞬、意味が分からなかった。
すぐに気づく。
自分が深く入りすぎたら、エルンが今の名を呼んで引き戻すということだ。
「うん」
ルカは少し笑った。
「お願い」
少し離れた場所では、カイラが腕を組んでいた。
「なんなら紐でも付けとくかい?」
「犬じゃないです」
「魚よりは引き上げやすいだろ」
「余計です」
いつもの調子で返しただけで、少し肩の力が抜けた。
ルカは盤の縁を越える。
靴底の下で、淡い光がゆっくりと流れていた。中心へ近づくにつれ、潮の匂いが強くなる。
海から吹いてくる風の匂いではない。
古い船底。長い航海のあとに開けた潮紙箱。何年も水を含み続けた貝殻。
時間そのものが混じったような、古い潮の匂いだった。
中心の記録核へ手を伸ばす。
「触ります」
記録士が頷いた。
「異常があれば、すぐに構文を切る」
「お願いします」
指先が真珠色の盤面へ触れた。
冷たい。
最初の一呼吸では、それだけだった。
二呼吸目。指の下で、細い線がかすかに震える。
三呼吸目。
潮が来た。
実際に海水が流れ込んできたわけではない。けれど耳の奥で、ざあ、と波が崩れた。
視界の端が青く滲む。広場に立っているはずなのに、足元だけが浅い海へ沈んだような感覚がした。
ルカは目を閉じた。
文字は読まない。刻まれた構文も追わない。
その下に残っている、呼ばれた痕だけを探す。
都市が誰かに呼ばれた時。
都市が自分を名乗った時。
人が街へ帰ってきた時。
水平線の向こうから船が現れ、その名を見つけた時。
そこには必ず、名の揺れが残る。
遠くで、誰かが呼んだ。
――ラウ=ミレナ。
ルカは眉を寄せた。
違う。
聞き間違いかと思い、もう一度耳を澄ませる。
――ラウ=ミレナ。
知らない名だった。
少なくとも、《ミラ=セレイ》ではない。
「……誰?」
思わず呟く。
「ルカ?」
エルンの声が遠く聞こえた。
「大丈夫」
そう答えながら、もう少しだけ触れる。
次の声が来た。
――セレ=ナウラ。
若い女の声だった。
その向こうから、また別の声。
――ミレイ=サル。
さらに。
――ラ=セレナ。
次。
また次。
一つではない。
「待って」
ルカは目を開けかけた。
だが、声は止まらなかった。
古い男の声。
子どもの声。
祈りの声。
船乗りの叫び。
港から見送る声。
帰ってきた者が、泣きながら呼ぶ声。
違う名。
また違う名。
似た響きもあれば、まるで共通点のないものもある。
何十。
いや、もっと多い。
「なに、これ……」
ルカの手が震えた。
自分の名ではないものを読み込んだ時とは、感覚が違う。
一つの名へ別人の名が混ざっているのなら分かる。
それは侵食だ。
誰かの名が、本来そこにあるべき名を押し退けようとしている状態。
オルカ=ベルでも見た。偽造潮名証でも見た。
名と名が争う時には、必ず濁りがある。
けれど、これは違った。
どの名も、ほかの名を押し退けていない。
ただ、重なっている。
一番上に《ミラ=セレイ》。
そのすぐ下に、別の名。
さらにその下に、また別の名。
透明な潮紙を何百枚も重ねたように、いくつもの呼び名が同じ場所へ存在していた。
「……多すぎる」
ルカが呟く。
「何が?」
エルンの声がする。
「名前」
「ミラ=セレイの?」
「違う」
そう口にした途端、自分でも混乱した。
「違う……けど」
本当に、違うのだろうか。
もう一度、目を閉じる。
もっとも表面にある名へ意識を向けた。
《ミラ=セレイ》。
今、街の人々が呼んでいる名。
港務所にもそう記され、交易船もそう呼ぶ。子どもたちも、自分の故郷をそう呼んでいる。
間違いなく現在の都市名だ。
その下。
《ラウ=ミレナ》。
さらに下。
《セレ=ナウラ》。
どれも薄く、古い。
けれど、死んでいない。
失われた名なら、もっと冷たい。
もう誰にも呼ばれなくなった名には、沈んでいく方向がある。
これは違った。
今も、ミラ=セレイの内側にいる。
ルカは、ほんの少しだけ深く触れた。
瞬間、景色が流れ込んだ。
白い塔ではない。
低い木造の家々。
都市核が、まだ小さかった時代。
潮帆の数も少なく、いくつもの船を繋いだような姿をしている。
誰かが、違う名を呼ぶ。
次の瞬間には景色が変わった。
石造りの神殿。
大きくなった外縁区。
別の帆。
また、別の名前。
さらに変わる。
橋が増え、建物が増える。
壊れ、作り直される。
潮帆の形が変わる。
祈りの言葉も変わる。
そのたびに、呼ばれる名も変わっていった。
「っ……」
ルカは手を離した。
一歩、後ろへよろめく。
すぐにエルンが腕を掴んだ。
「ルカ」
「大丈夫」
「顔、白い」
「ちょっと一気に来ただけ」
息を整える。
頭の中には、まだいくつもの名前が残っていた。
「何を見た?」
カイラが訊く。
ルカはすぐには答えられなかった。
説明するには、まず自分が理解しなければならない。
「記録士さん」
「何だ」
「ミラ=セレイって、昔からミラ=セレイだったんですか?」
記録士が目を瞬かせる。
「何を言っている?」
「都市名です。ずっと同じ?」
「いや」
予想外にあっさりとした答えだった。
「違うの?」
今度はカイラが訊く。
「ああ。古い記録には別名がある」
ルカは記録士へ一歩近づいた。
「どのくらい?」
「正確な数は分からない。都市構文そのものが何度か大きく改修されている。国家名が変わった時代もあるし、巡礼組織の呼称を都市名としていた時代もある」
「じゃあ、《ラウ=ミレナ》っていう名前、あります?」
記録士の表情が変わった。
「……どこでそれを?」
「聞こえました」
「刻盤から?」
「はい」
彼はしばらく黙ったあと、盤の外周にある記録棚へ向かった。古い潮紙の束を何冊か引き出し、紙をめくっていく。
「相当古い名だ。現行の巡回記録には使われていない」
「でも、あった?」
「あった」
記録士の指が、一枚の褪せた潮紙で止まる。
古い文字とともに、現在語へ移された名が記されていた。
《ラウ=ミレナ》
ルカは息を呑んだ。
「じゃあ、《セレ=ナウラ》は?」
記録士がさらに別の帳面を取る。
「それも聞こえたのか」
「はい」
「待て」
今度は時間がかかった。
別の棚。
さらに古い写し。
「……ある」
「《ミレイ=サル》」
「それは……」
また探す。
「あった」
カイラが眉を上げた。
「全部、この街の昔の名かい?」
「少なくとも、今挙がった三つはそうだ」
記録士が答える。
ルカは再び刻盤へ目を向けた。
分からない。
いや。
自分がこれまで名前について考えてきたことと、どうにも合わない。
「でも」
ルカは言った。
「名前が変わったなら、前の名前はもう使わないんですよね?」
「日常ではな」
「じゃあ、どうして残ってるんです?」
「記録に残っているのは当然だろう」
「記録じゃなくて」
ルカは首を振った。
「街の中に」
記録士が黙る。
「私は古い記録を読んだんじゃないです。潮名として聞こえた」
自分でも確認するように続ける。
「古い名前が、まだこの街の名前として残ってる」
「旧名の残響では?」
「違います」
それだけは、はっきりと言えた。
遺品に残る名の残響とは違う。
過去の持ち主が去ったあとに残る、薄い匂いでもない。
「全部、生きてます」
「生きている?」
「うまく言えないけど……」
ルカは胸元へ手を当てる。
「昔の名前が、そのまま今の名前の下にいる」
カイラが刻盤を見る。
「亡霊みたいに?」
「違う」
「じゃあ、入れ替わった?」
「それも違う」
名が変わること。
それはルカにとって、これまで怖さと結びつくことが多かった。
本名。
仮名。
潮名。
偽名。
奪われた名前。
混ざった名前。
誰かに上書きされた名前。
名前が違えば、本人も違う。
どこかで、そんなふうに感じていた。
自分自身が、そうだからだ。
《ルカ=ネリス》。
今、自分が使っている名。
幼い頃に漂着してから与えられた、今の自分の名前。
けれど、その前には別の名があったはずだ。
いつか、それが還ってきたら。
その時、《ルカ=ネリス》はどうなるのだろう。
消えるのか。
間違いになるのか。
本当ではなかった名前として、捨てることになるのか。
考えないようにしてきた問いだった。
けれど、目の前の都市は違う。
何度も名前を変えてきた。
そのたびに、前の名前を捨てたわけではない。
古い名は新しい名の下へ沈み、消えることなく重なっている。
ラウ=ミレナだった街。
セレ=ナウラだった街。
ミレイ=サルだった街。
その全部を通って、今は《ミラ=セレイ》と呼ばれている。
「ルカ?」
エルンに呼ばれた。
ルカはすぐには返事をせず、一歩だけ刻盤へ近づいた。
今度は触れずに、表面を流れる光を見る。
《ミラ=セレイ》。
現在の名前。
たしかに一番強い。
その下には、何百という古い呼び名がある。
どれか一つだけを本物と呼べば、それ以外は偽物になる。
けれど、潮はそんな分け方をしていなかった。
どの名前も、この街がその時代を生きた証として残っている。
「名前って……」
ルカは小さく呟いた。
カイラも、エルンも何も言わない。
「変わってもいいんだ」
口にしてから、自分で驚いた。
あまりにも当たり前のことのようなのに、自分には一度もそう思えなかった。
「変わったら、別のものになると思ってた」
エルンが首を傾げる。
「違うの?」
「分からない」
ルカは少し笑った。
「でも、この街は違うみたい」
刻盤を指す。
「名前が変わっても、前の街が消えたわけじゃない」
記録士が古い潮紙を見下ろした。
「建物も変わっている。人口も、信仰の形式も、都市核の構造も、過去とはまるで違う」
「それでもミラ=セレイ?」
「我々はそう思っている」
「ですよね」
そこで、一つのことに気づいた。
「だったら」
ルカは刻盤へ目を戻す。
「今の異変、もっとまずいかもしれない」
カイラの表情が引き締まった。
「どういう意味だい?」
「この街は、変わってきたから今のミラ=セレイになったんです」
昔の名。
昔の航路。
昔の姿。
それらを消すことなく、次の姿を重ね続けてきた。
「でも今は、その次へ行けなくなってる」
現在位置で途切れた線。
住民から失われていく次の港。
過去の島と現在を結んでいた航路。
子どもたちが信じ始めている、「この街はずっとここにある」という感覚。
「今のミラ=セレイだけを残そうとしてるんだ」
ルカは言った。
「変わる前の名前もある。昔いた場所もある。でも、それが今に繋がらなくなってる」
「固定されたから?」
記録士が尋ねる。
「まだ分かりません」
そこは断定しなかった。
「でも、もし街の名前がこうやって重なってできてるなら、次へ行けないってことは、新しい名前も重ねられないってことかもしれない」
今ある形のまま。
今いる場所のまま。
今呼ばれている名前のまま。
それだけが、正しいものになっていく。
安全になった街。
揺れなくなった街。
住所を持った街。
子どもが落ちなくなった街。
それはたしかに、今のミラ=セレイの一部だった。
けれど、それだけを永遠に残せばいいのだろうか。
昨日より便利になった自分だけを残し、明日、違う自分になることを許さない。
それは守ることなのか。
それとも――。
「ルカ」
エルンがまた呼んだ。
「うん?」
「笑ってる」
「え?」
ルカは自分の頬へ触れた。
たしかに、少しだけ口元が緩んでいた。
「何でだろ」
今起きていることは、笑えるような事件ではない。
それでも胸の奥には、小さな灯がともっていた。
自分の失った名は、まだ分からない。
いつか戻るのかも分からない。
戻った時、自分がどうなるのかも分からない。
けれど。
名前が変わったからといって、それまで生きてきたものまで消えるとは限らない。
ミラ=セレイがそうなら、人にも少しくらい、同じことが許されてもいいのかもしれない。
ルカはまだ、その考えを自分自身へ最後まで当てはめることはしなかった。
ただ、覚えておこうと思った。
何百もの名前を抱えながら、それでも今、一つの街として海に浮かんでいる都市のことを。
「記録士さん」
「何だ」
「どうして、こんなに名前が残ってるんです?」
記録士は少し考えた。
「それを説明するなら、私より適任がいる」
「誰です?」
「古い都市儀礼を預かっている者だ」
彼は刻盤の外周へ目を向けた。
「ミラ=セレイでは、都市の名をただ改名するわけではない」
「じゃあ?」
「古い名を返してから、次へ進む」
ルカの目が細くなる。
「返す?」
その言葉に応えるように、刻盤の奥で何かがかすかに鳴った。
ちり、と。
遠い灯籠の縁へ、貝殻が触れたような音。
ルカはもう一度、真珠色の盤面を見た。
何百もの名。
どれも消えていない。
けれど、どれも今の名を邪魔していない。
古い名前を抱いたまま、新しい名前で生きている都市。
潮は、そのすべてを一つの街として覚えていた。
その仕組みを知れば、今起きている異変の意味も、もう少し分かるかもしれない。
「聞きたいです」
ルカは言った。
「この街が、どうやって名前を変えてきたのか」
記録士は静かに頷いた。
盤の上では、《ミラ=セレイ》という現在の名が淡く光っていた。
その下に重なる、何百もの声と一緒に。




