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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第5話 浮かぶ都市は、帰る場所を忘れた
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第四節 ― 都市にも潮名がある

 《潮構文刻盤》は、昼の光の下で見ると、昨夜よりもずっと大きく感じられた。


 中央区の広場いっぱいに広がる巨大な円盤。その中心には真珠色の記録核が埋め込まれ、そこから幾重もの環が波紋のように外側へ続いている。


 昨夜、ルカが見ていたのは消えた航路だった。過去から現在まで伸びる青緑色の線と、現在位置で突然途切れた先の空白。


 だが、今日は違う。


 見ようとしているのは、《ミラ=セレイ》という都市そのものだった。


「街の名を読む?」


 記録士が聞き返した。昨夜から対応してくれている男で、眠っていないのか目の下には薄い隈ができている。


「できるかどうかは分かりません」


 ルカは正直に答えた。


「人の名や、漂着名札なら?」


「読めます。でも、何でも読めるわけじゃないです。潮に触れた名の残り方を見るだけなので」


「都市は人間ではない」


「ですよね」


「船でもない」


「それも分かってます」


「では、なぜ読めると思う?」


 ルカは盤面へ目を落とした。


「潮が通ってるから」


 記録士が黙る。


 ルカは中心部を指した。


「この刻盤、海図じゃないですよね。潮と星と浮上核と、街が通ってきた航路を全部重ねて記録してる」


「ああ」


「だったら、ここには場所だけじゃなくて、ミラ=セレイが海に残してきたものもあるはずです」


 自信があるわけではなかった。


 ただ、昨日からずっと引っかかっている。


 人々の記憶から、場所と場所を繋ぐ道が失われている。《潮構文刻盤》からも、次の座標だけが消えていた。


 それなら一人ずつ人の記憶を調べるより、街そのものが何を覚えているのかを確かめた方が早い。


「危なくない?」


 エルンが訊いた。


 ルカは彼を見る。


「たぶん」


「たぶん?」


「何でも読もうとはしない」


 エルンはまだ納得していない顔だった。


 当然だ。名を読みすぎれば、自分の輪郭まで薄くなる。それはルカ自身が何度も経験している。


 しかも今回触れようとしているのは、一人の人間ではない。何千、何万という人間が暮らしてきた都市だ。


 もし本当に都市にも名があるなら、その重さがどれほどなのか想像もつかなかった。


「無理そうだったら、すぐ離す」


 ルカが言う。


「呼ぶ?」


「何を?」


「ルカを」


 一瞬、意味が分からなかった。


 すぐに気づく。


 自分が深く入りすぎたら、エルンが今の名を呼んで引き戻すということだ。


「うん」


 ルカは少し笑った。


「お願い」


 少し離れた場所では、カイラが腕を組んでいた。


「なんなら紐でも付けとくかい?」


「犬じゃないです」


「魚よりは引き上げやすいだろ」


「余計です」


 いつもの調子で返しただけで、少し肩の力が抜けた。


 ルカは盤の縁を越える。


 靴底の下で、淡い光がゆっくりと流れていた。中心へ近づくにつれ、潮の匂いが強くなる。


 海から吹いてくる風の匂いではない。


 古い船底。長い航海のあとに開けた潮紙箱。何年も水を含み続けた貝殻。


 時間そのものが混じったような、古い潮の匂いだった。


 中心の記録核へ手を伸ばす。


「触ります」


 記録士が頷いた。


「異常があれば、すぐに構文を切る」


「お願いします」


 指先が真珠色の盤面へ触れた。


 冷たい。


 最初の一呼吸では、それだけだった。


 二呼吸目。指の下で、細い線がかすかに震える。


 三呼吸目。


 潮が来た。


 実際に海水が流れ込んできたわけではない。けれど耳の奥で、ざあ、と波が崩れた。


 視界の端が青く滲む。広場に立っているはずなのに、足元だけが浅い海へ沈んだような感覚がした。


 ルカは目を閉じた。


 文字は読まない。刻まれた構文も追わない。


 その下に残っている、呼ばれた痕だけを探す。


 都市が誰かに呼ばれた時。


 都市が自分を名乗った時。


 人が街へ帰ってきた時。


 水平線の向こうから船が現れ、その名を見つけた時。


 そこには必ず、名の揺れが残る。


 遠くで、誰かが呼んだ。


 ――ラウ=ミレナ。


 ルカは眉を寄せた。


 違う。


 聞き間違いかと思い、もう一度耳を澄ませる。


 ――ラウ=ミレナ。


 知らない名だった。


 少なくとも、《ミラ=セレイ》ではない。


「……誰?」


 思わず呟く。


「ルカ?」


 エルンの声が遠く聞こえた。


「大丈夫」


 そう答えながら、もう少しだけ触れる。


 次の声が来た。


 ――セレ=ナウラ。


 若い女の声だった。


 その向こうから、また別の声。


 ――ミレイ=サル。


 さらに。


 ――ラ=セレナ。


 次。


 また次。


 一つではない。


「待って」


 ルカは目を開けかけた。


 だが、声は止まらなかった。


 古い男の声。


 子どもの声。


 祈りの声。


 船乗りの叫び。


 港から見送る声。


 帰ってきた者が、泣きながら呼ぶ声。


 違う名。


 また違う名。


 似た響きもあれば、まるで共通点のないものもある。


 何十。


 いや、もっと多い。


「なに、これ……」


 ルカの手が震えた。


 自分の名ではないものを読み込んだ時とは、感覚が違う。


 一つの名へ別人の名が混ざっているのなら分かる。


 それは侵食だ。


 誰かの名が、本来そこにあるべき名を押し退けようとしている状態。


 オルカ=ベルでも見た。偽造潮名証でも見た。


 名と名が争う時には、必ず濁りがある。


 けれど、これは違った。


 どの名も、ほかの名を押し退けていない。


 ただ、重なっている。


 一番上に《ミラ=セレイ》。


 そのすぐ下に、別の名。


 さらにその下に、また別の名。


 透明な潮紙を何百枚も重ねたように、いくつもの呼び名が同じ場所へ存在していた。


「……多すぎる」


 ルカが呟く。


「何が?」


 エルンの声がする。


「名前」


「ミラ=セレイの?」


「違う」


 そう口にした途端、自分でも混乱した。


「違う……けど」


 本当に、違うのだろうか。


 もう一度、目を閉じる。


 もっとも表面にある名へ意識を向けた。


《ミラ=セレイ》。


 今、街の人々が呼んでいる名。


 港務所にもそう記され、交易船もそう呼ぶ。子どもたちも、自分の故郷をそう呼んでいる。


 間違いなく現在の都市名だ。


 その下。


《ラウ=ミレナ》。


 さらに下。


《セレ=ナウラ》。


 どれも薄く、古い。


 けれど、死んでいない。


 失われた名なら、もっと冷たい。


 もう誰にも呼ばれなくなった名には、沈んでいく方向がある。


 これは違った。


 今も、ミラ=セレイの内側にいる。


 ルカは、ほんの少しだけ深く触れた。


 瞬間、景色が流れ込んだ。


 白い塔ではない。


 低い木造の家々。


 都市核が、まだ小さかった時代。


 潮帆の数も少なく、いくつもの船を繋いだような姿をしている。


 誰かが、違う名を呼ぶ。


 次の瞬間には景色が変わった。


 石造りの神殿。


 大きくなった外縁区。


 別の帆。


 また、別の名前。


 さらに変わる。


 橋が増え、建物が増える。


 壊れ、作り直される。


 潮帆の形が変わる。


 祈りの言葉も変わる。


 そのたびに、呼ばれる名も変わっていった。


「っ……」


 ルカは手を離した。


 一歩、後ろへよろめく。


 すぐにエルンが腕を掴んだ。


「ルカ」


「大丈夫」


「顔、白い」


「ちょっと一気に来ただけ」


 息を整える。


 頭の中には、まだいくつもの名前が残っていた。


「何を見た?」


 カイラが訊く。


 ルカはすぐには答えられなかった。


 説明するには、まず自分が理解しなければならない。


「記録士さん」


「何だ」


「ミラ=セレイって、昔からミラ=セレイだったんですか?」


 記録士が目を瞬かせる。


「何を言っている?」


「都市名です。ずっと同じ?」


「いや」


 予想外にあっさりとした答えだった。


「違うの?」


 今度はカイラが訊く。


「ああ。古い記録には別名がある」


 ルカは記録士へ一歩近づいた。


「どのくらい?」


「正確な数は分からない。都市構文そのものが何度か大きく改修されている。国家名が変わった時代もあるし、巡礼組織の呼称を都市名としていた時代もある」


「じゃあ、《ラウ=ミレナ》っていう名前、あります?」


 記録士の表情が変わった。


「……どこでそれを?」


「聞こえました」


「刻盤から?」


「はい」


 彼はしばらく黙ったあと、盤の外周にある記録棚へ向かった。古い潮紙の束を何冊か引き出し、紙をめくっていく。


「相当古い名だ。現行の巡回記録には使われていない」


「でも、あった?」


「あった」


 記録士の指が、一枚の褪せた潮紙で止まる。


 古い文字とともに、現在語へ移された名が記されていた。


《ラウ=ミレナ》


 ルカは息を呑んだ。


「じゃあ、《セレ=ナウラ》は?」


 記録士がさらに別の帳面を取る。


「それも聞こえたのか」


「はい」


「待て」


 今度は時間がかかった。


 別の棚。


 さらに古い写し。


「……ある」


「《ミレイ=サル》」


「それは……」


 また探す。


「あった」


 カイラが眉を上げた。


「全部、この街の昔の名かい?」


「少なくとも、今挙がった三つはそうだ」


 記録士が答える。


 ルカは再び刻盤へ目を向けた。


 分からない。


 いや。


 自分がこれまで名前について考えてきたことと、どうにも合わない。


「でも」


 ルカは言った。


「名前が変わったなら、前の名前はもう使わないんですよね?」


「日常ではな」


「じゃあ、どうして残ってるんです?」


「記録に残っているのは当然だろう」


「記録じゃなくて」


 ルカは首を振った。


「街の中に」


 記録士が黙る。


「私は古い記録を読んだんじゃないです。潮名として聞こえた」


 自分でも確認するように続ける。


「古い名前が、まだこの街の名前として残ってる」


「旧名の残響では?」


「違います」


 それだけは、はっきりと言えた。


 遺品に残る名の残響とは違う。


 過去の持ち主が去ったあとに残る、薄い匂いでもない。


「全部、生きてます」


「生きている?」


「うまく言えないけど……」


 ルカは胸元へ手を当てる。


「昔の名前が、そのまま今の名前の下にいる」


 カイラが刻盤を見る。


「亡霊みたいに?」


「違う」


「じゃあ、入れ替わった?」


「それも違う」


 名が変わること。


 それはルカにとって、これまで怖さと結びつくことが多かった。


 本名。


 仮名。


 潮名。


 偽名。


 奪われた名前。


 混ざった名前。


 誰かに上書きされた名前。


 名前が違えば、本人も違う。


 どこかで、そんなふうに感じていた。


 自分自身が、そうだからだ。


《ルカ=ネリス》。


 今、自分が使っている名。


 幼い頃に漂着してから与えられた、今の自分の名前。


 けれど、その前には別の名があったはずだ。


 いつか、それが還ってきたら。


 その時、《ルカ=ネリス》はどうなるのだろう。


 消えるのか。


 間違いになるのか。


 本当ではなかった名前として、捨てることになるのか。


 考えないようにしてきた問いだった。


 けれど、目の前の都市は違う。


 何度も名前を変えてきた。


 そのたびに、前の名前を捨てたわけではない。


 古い名は新しい名の下へ沈み、消えることなく重なっている。


 ラウ=ミレナだった街。


 セレ=ナウラだった街。


 ミレイ=サルだった街。


 その全部を通って、今は《ミラ=セレイ》と呼ばれている。


「ルカ?」


 エルンに呼ばれた。


 ルカはすぐには返事をせず、一歩だけ刻盤へ近づいた。


 今度は触れずに、表面を流れる光を見る。


《ミラ=セレイ》。


 現在の名前。


 たしかに一番強い。


 その下には、何百という古い呼び名がある。


 どれか一つだけを本物と呼べば、それ以外は偽物になる。


 けれど、潮はそんな分け方をしていなかった。


 どの名前も、この街がその時代を生きた証として残っている。


「名前って……」


 ルカは小さく呟いた。


 カイラも、エルンも何も言わない。


「変わってもいいんだ」


 口にしてから、自分で驚いた。


 あまりにも当たり前のことのようなのに、自分には一度もそう思えなかった。


「変わったら、別のものになると思ってた」


 エルンが首を傾げる。


「違うの?」


「分からない」


 ルカは少し笑った。


「でも、この街は違うみたい」


 刻盤を指す。


「名前が変わっても、前の街が消えたわけじゃない」


 記録士が古い潮紙を見下ろした。


「建物も変わっている。人口も、信仰の形式も、都市核の構造も、過去とはまるで違う」


「それでもミラ=セレイ?」


「我々はそう思っている」


「ですよね」


 そこで、一つのことに気づいた。


「だったら」


 ルカは刻盤へ目を戻す。


「今の異変、もっとまずいかもしれない」


 カイラの表情が引き締まった。


「どういう意味だい?」


「この街は、変わってきたから今のミラ=セレイになったんです」


 昔の名。


 昔の航路。


 昔の姿。


 それらを消すことなく、次の姿を重ね続けてきた。


「でも今は、その次へ行けなくなってる」


 現在位置で途切れた線。


 住民から失われていく次の港。


 過去の島と現在を結んでいた航路。


 子どもたちが信じ始めている、「この街はずっとここにある」という感覚。


「今のミラ=セレイだけを残そうとしてるんだ」


 ルカは言った。


「変わる前の名前もある。昔いた場所もある。でも、それが今に繋がらなくなってる」


「固定されたから?」


 記録士が尋ねる。


「まだ分かりません」


 そこは断定しなかった。


「でも、もし街の名前がこうやって重なってできてるなら、次へ行けないってことは、新しい名前も重ねられないってことかもしれない」


 今ある形のまま。


 今いる場所のまま。


 今呼ばれている名前のまま。


 それだけが、正しいものになっていく。


 安全になった街。


 揺れなくなった街。


 住所を持った街。


 子どもが落ちなくなった街。


 それはたしかに、今のミラ=セレイの一部だった。


 けれど、それだけを永遠に残せばいいのだろうか。


 昨日より便利になった自分だけを残し、明日、違う自分になることを許さない。


 それは守ることなのか。


 それとも――。


「ルカ」


 エルンがまた呼んだ。


「うん?」


「笑ってる」


「え?」


 ルカは自分の頬へ触れた。


 たしかに、少しだけ口元が緩んでいた。


「何でだろ」


 今起きていることは、笑えるような事件ではない。


 それでも胸の奥には、小さな灯がともっていた。


 自分の失った名は、まだ分からない。


 いつか戻るのかも分からない。


 戻った時、自分がどうなるのかも分からない。


 けれど。


 名前が変わったからといって、それまで生きてきたものまで消えるとは限らない。


 ミラ=セレイがそうなら、人にも少しくらい、同じことが許されてもいいのかもしれない。


 ルカはまだ、その考えを自分自身へ最後まで当てはめることはしなかった。


 ただ、覚えておこうと思った。


 何百もの名前を抱えながら、それでも今、一つの街として海に浮かんでいる都市のことを。


「記録士さん」


「何だ」


「どうして、こんなに名前が残ってるんです?」


 記録士は少し考えた。


「それを説明するなら、私より適任がいる」


「誰です?」


「古い都市儀礼を預かっている者だ」


 彼は刻盤の外周へ目を向けた。


「ミラ=セレイでは、都市の名をただ改名するわけではない」


「じゃあ?」


「古い名を返してから、次へ進む」


 ルカの目が細くなる。


「返す?」


 その言葉に応えるように、刻盤の奥で何かがかすかに鳴った。


 ちり、と。


 遠い灯籠の縁へ、貝殻が触れたような音。


 ルカはもう一度、真珠色の盤面を見た。


 何百もの名。


 どれも消えていない。


 けれど、どれも今の名を邪魔していない。


 古い名前を抱いたまま、新しい名前で生きている都市。


 潮は、そのすべてを一つの街として覚えていた。


 その仕組みを知れば、今起きている異変の意味も、もう少し分かるかもしれない。


「聞きたいです」


 ルカは言った。


「この街が、どうやって名前を変えてきたのか」


 記録士は静かに頷いた。


 盤の上では、《ミラ=セレイ》という現在の名が淡く光っていた。


 その下に重なる、何百もの声と一緒に。

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