第三節 ― 都市が忘れ始めている
翌朝、老人は島の色を覚えていた。形も、匂いさえ覚えている。
ただ、その島がどこにあったのかだけが分からなかった。
「赤かったんだ」
老人は宿の窓辺に座り、両手で椀を包んでいた。昨夜、《潮構文刻盤》まで一緒に来た老人だ。夜が明けても気になったらしく、朝食が始まるより先に食堂へ降りてきたという。
「何がです?」
「島だよ。昨日、お嬢ちゃんに訊かれただろ。ミラ=セレイが昔どんな海を通ったかって」
「私はそこまで訊いてないですけど」
「そうだったか?」
老人は首を傾げたが、すぐに気を取り直した。
「まあいい。とにかく思い出したんだ。若い頃に見た島がある」
ルカはパンをちぎる手を止めた。
向かいではエルンが、焼いた魚を器用に骨から外している。少し離れた卓ではカイラが朝の潮報を眺めていたが、老人の話が始まってからは紙をめくる手を止めていた。
「赤い島?」
「ああ。岩肌が赤い。朝日を浴びると火みたいに見えるんだ。島の西側だけ黒い砂浜でな。風が強くて、低い木しか育たない」
老人の目が懐かしそうに細くなる。
「十五の頃だった。初めて外縁の帆仕事を任された年だ。あの島が見えると、みんな甲板へ出た。前の晩から賭けをするんだよ。最初に赤い岩を見つけた奴が、次の港で一杯奢ってもらえる」
話す声に淀みはなかった。
潮の匂い。帆仕事。若い船乗りたちの笑い声。
その光景まで、老人の中には確かに残っているようだった。
「その島、どこにあるんです?」
ルカが訊いた。
老人の口が閉じた。
「どこって」
「ミラ=セレイの巡回路のどの辺りですか?」
「どの辺り……」
「名前は?」
老人は眉を寄せた。
「名前?」
「島の」
「そりゃ、名前くらいある」
「何ていう島です?」
沈黙が落ちた。
ルカは急かさず待った。老人の指が、椀の縁をゆっくりと撫でている。
「赤い……」
そこまで言って、止まった。
「赤い島だ」
「それは見た目ですよね」
「分かってる」
声に苛立ちが混じる。
「名前があった。知ってたんだ。十五の時だけじゃない。そのあと何度も見た。二十の年にも、三十を越えてからも通った」
「毎年?」
「毎年じゃない。潮によって近くを通る年と、通らない年が……」
老人はまた黙った。
「どの潮?」
エルンが尋ねた。
老人が彼を見る。
「何だ?」
「その島へ行く潮」
「だから、それは……」
声が弱くなる。
「なんだったかな」
ルカはカイラと目を合わせた。
昨夜と同じだ。
記憶そのものが消えているわけではない。老人は島を覚えている。そこで何をしたかも、誰と見たかも覚えている。
ただ、その場所へ続いていた道だけがない。
「昨日までは思い出せました?」
ルカが訊いた。
「昨日?」
「いえ、もっと前でも。ミラ=セレイが止まる前なら」
「当たり前だろう」
老人は即答した。
「自分が何十年も通った海だぞ」
「じゃあ、今はどうして」
「知らん!」
強い声が食堂へ響いた。
何人かが振り向く。
老人も自分で驚いたらしく、すぐに肩を落とした。
「……すまん」
「いえ」
「分からんのだ」
椀へ目を落とす。
「目を閉じれば島は見える。波の色も分かる。あそこで鳥が鳴いていたのも覚えてる」
皺の刻まれた手が、わずかに震えた。
「なのに、その前に何があって、そのあとどこへ行ったのかが出てこない」
老人は顔を上げた。
「島だけが、海から切り取られちまったみたいだ」
ルカは何も言えなかった。
その言葉が、昨夜見た《潮構文刻盤》と重なる。
現在位置で途切れた青い線。そこから先だけが、最初から存在しなかったようになっていた。
けれど、老人の記憶に起きていることは、それよりさらに奇妙だった。
失われているのは次の場所だけではない。過去に実際に通った土地さえ、そこへ至る航路を失い始めている。
「ルカ」
カイラが立ち上がった。
「昨日の商人、まだ街にいるはずだ」
「西だって言ってた人?」
「ああ。毎年ここへ来るって言ってたろ」
ルカも席を立つ。
老人が顔を上げた。
「俺も行く」
「無理しなくても」
「俺の街だ」
老人は杖を取った。
「自分の街がどこを通ってきたかくらい、確かめさせろ」
その声音を聞いて、ルカは止められなかった。
宿を出る。
朝のミラ=セレイは、昨日と変わらず穏やかだった。
橋は揺れていない。港では決まった桟橋へ交易船が入り、市場の商人たちは商品を棚へ並べている。子どもたちが学校へ向かって橋を渡っていく。
何も壊れていない。
だからこそ、老人の言葉だけが街から浮いて聞こえた。
――島だけが、海から切り取られちまった。
昨夜の商人は港湾区で見つかった。大きな荷箱を前に、二人の船員へ指示を出しているところだった。
「昨日のお嬢ちゃんか」
ルカを見るなり、商人は苦笑した。
「悪いが、今朝は西だ南だの話をしてる暇は――」
「毎年取引してる港があるって言ってましたよね」
ルカは言葉を遮った。
「港?」
「ミラ=セレイを追って、毎年何か所も回ってるって」
「ああ」
商人は頷く。
「この仕事も二十年近いからな」
「去年、ここから次にどこへ行きました?」
「去年?」
「はい」
「去年なら……」
商人の表情が変わった。
ルカは黙って待つ。
「ちょっと待て」
彼は腰から分厚い交易帳を取り出し、何枚も紙をめくった。
「去年は、ミラ=セレイをここで捕まえて、それから……」
指が止まる。
「ほら」
帳面には、文字が残っていた。
荷の数。
売値。
仕入れ値。
入港日。
取引先。
「この港です」
ルカが一行を指した。
地名が書いてある。
商人もそこを見る。
「ああ」
「毎年行ってる?」
「行ってる」
「何ていう港です?」
「そこに書いてあるだろ」
「読んでみてください」
商人は顔をしかめた。
「何を馬鹿なことを」
文字へ目を戻し、口を開く。
声が出なかった。
「……これは」
もう一度、文字を見る。
「読めない?」
ルカが訊く。
「読める」
「じゃあ、名前は?」
「だから……」
商人の額に汗が浮かんだ。まだ朝は涼しいというのに。
「知ってる港だ」
「どんなところ?」
「大きな港だ。南香草と白塩が安い。外港に青い屋根の倉庫があって、その裏の酒場の煮込みがうまい。主人は片目で……名前は忘れたが、毎年会う」
「港の名前は?」
「……」
「そこへどうやって行くんです?」
商人は帳面を強く握った。
「ミラ=セレイの……」
そこで止まる。
「ミラ=セレイの?」
「次の……」
その先が続かなかった。
カイラが商人の肩越しから帳面を覗く。
「文字そのものは消えてないね」
「ああ」
商人は不機嫌そうに答えた。
「そこにある。俺の字だ」
「なのに呼べない?」
「……そうだ」
昨夜の《潮構文刻盤》とは違う。
刻盤からは、次の座標そのものが消えていた。
こちらには記録が残っている。それなのに、人間の側が記録へ辿り着けない。
ルカは交易帳へ指を置いた。
潮名を読もうとはしなかった。
紙に残された文字を読むことと、名そのものへ触れることは違う。今、何が起きているのかも分からないまま、深く触れるべきではない。
「前の港は?」
ルカが訊いた。
「前?」
「ここへ来る前に寄ったところ」
「それなら――」
また止まった。
「その前は?」
「……」
「もっと前」
「待ってくれ」
商人が帳面をめくり始める。
紙の上には、いくつもの港名が残っていた。取引の数字も、誰に何を売ったかまで書いてある。
けれど商人は、一つずつ見ても、まるで知らない土地の記録を読んでいるような顔をした。
「俺は」
かすれた声が出た。
「本当に、ここへ行ったのか?」
「自分で書いてるんでしょう?」
「そうだ」
「じゃあ」
「覚えてるんだよ!」
商人が声を荒らげた。
「店も、人も、飯も覚えてる! 青い倉庫も、潮が臭い港も、馬鹿みたいに高い宿も!」
帳面を叩く。
「なのに、全部がどこにあるのか分からない!」
周囲の港湾労働者たちが仕事の手を止めていた。
その中の一人が、不安そうに口を開く。
「俺もだ」
商人が振り返る。
「何が?」
「去年、北の……」
男は顔をしかめた。
「北のどこだ?」
別の者が呟く。
「北って、行ったか?」
「行っただろ」
「いつ?」
「だから去年……」
「去年の今頃、この街ここにいなかったか?」
ルカの背筋を冷たいものが走った。
「違う」
老人が言った。
杖を突きながら前へ出る。
「去年ここにはいなかった」
「どこに?」
港湾労働者が訊く。
老人の顔が固まった。
「それは……」
「どこにいたんだ?」
「……」
答えられない。
なのに。
「ここじゃない」
それだけは、分かるらしい。
港の空気が重くなる。
遠くで入港鐘が鳴った。
定刻を知らせる澄んだ音。
昨日なら、その規則正しさを便利だと思えた。
今は、まるで街そのものへ「ここにいればいい」と繰り返し聞かせているように聞こえた。
「少し歩こう」
カイラが言った。
「どこへ?」
「街を見ろ」
短い答えだった。
老人には宿へ戻るよう勧めたが、やはり聞かなかった。商人も交易帳を胸へ抱えたままついてくる。
港湾区から住宅区へ。
昨日も通った道だった。
住所札。
動かない橋。
窓辺の植木鉢。
何も変わっていない。
それなのに、ルカには街の見え方が昨日とは違っていた。
変わらないことばかりが目につく。
昨日と同じ位置にある家。
昨日と同じ高さの橋。
昨日と同じ方向から来る船。
昨日と同じ景色。
ひとつひとつが、別の場所へ続いていた可能性を薄く塗り潰しているように思えた。
「ねえ」
子どもの声がした。
昨日、橋の上を走っていた三人だ。今日も木の小船を持っている。
一番年長の少年がエルンを見つけ、少し警戒した顔になった。
「昨日の嘘つきだ」
「嘘ついてない」
エルンがすぐ答える。
「走ってないって言ったのに」
「君たちが言った」
「違うよ」
「違わない」
「エルン」
ルカは袖を引いた。
「そこは昨日決着したから」
「してない」
「いいから」
少年たちの母親も近くにいた。昨日話した女性だ。腕には洗濯籠を抱えている。
「昨日はどうも」
軽く頭を下げる。
「何かありました?」
「少し、この街の昔のことを聞いていて」
「昔?」
女性は不思議そうな顔をした。
その横で、小さな女の子が言う。
「昔もここにいたよ」
ルカは彼女を見る。
「ここ?」
「うん」
女の子は橋の向こうの海を指した。
「ミラ=セレイ、ずっとここにあるんでしょ?」
時間が止まったように感じた。
母親が笑う。
「何言ってるの。この街は――」
そこで言葉が途切れた。
「お母さん?」
「この街は……」
女性は子どもを見る。
「動くのよ」
「動いてないよ」
「今はね」
「じゃあ前は?」
「前は……」
答えが出ない。
女の子が首を傾げる。
「どこにいたの?」
「それは」
母親の目が泳ぐ。
「いろんなところ」
「どこ?」
「海よ」
「ここも海だよ」
「そうじゃなくて……」
言葉が続かない。
母親の顔から、ゆっくりと笑みが消えていく。
ルカは胸が痛くなった。
女性は昨日、自分の子どもを安心して橋で遊ばせられると言った。固定された街を、このままでもいいと思うとも言った。
その気持ちは今も間違っていない。
だからこそ、残酷だった。
「ミラ=セレイって、ずっとここにあるんでしょ?」
女の子がもう一度言う。
それは疑問ではなかった。
この子にとっては、当たり前の事実なのだ。
母親は否定しようとした。
「違うわ」
今度は言えた。
「この街は、ずっと旅をしてきたの」
「どこへ?」
「……」
「どこから来たの?」
母親の唇が震える。
「……分からない」
女の子は少し考えた。
「じゃあ、ずっとここだったんじゃない?」
母親は返せなかった。
ルカの隣で、老人が杖を強く握った。
「違う」
低い声だった。
子どもたちが彼を見る。
「この街は動いてた」
「おじいちゃん、見たの?」
「見た」
「どこを?」
「たくさんだ」
「どこ?」
老人の顔が歪む。
「……たくさんだ」
同じことしか言えない。
女の子は納得していない様子だったが、大人たちの空気を感じたのか、それ以上は訊かなかった。
母親が子どもたちを連れて去っていく。
その背中を見送りながら、ルカは気づいた。
「子どもたちは、忘れたんじゃない」
カイラがこちらを見る。
「何?」
「あの子たち」
ルカは言った。
「昔のミラ=セレイを知らないだけです」
「そりゃそうだろ。小さいんだから」
「違う」
ルカは首を振る。
「普通なら、大人から聞くはずなんです」
この街は旅をする。
去年はあの海にいた。
お前が生まれた時には、あの潮を渡っていた。
次はあの島へ行く。
そうして、子どもは自分がまだ見ていない街の歴史を受け取る。
ミラ=セレイなら、なおさらだった。
場所そのものが故郷なのではない。
一年かけて海を巡り、また同じ潮へ帰ってくる。その航路そのものを故郷としてきた都市なのだ。
なのに。
「大人が話せなくなってる」
ルカは呟いた。
「だから、あの子たちには最初からこの景色しかない」
商人が交易帳を胸へ抱いた。
「待てよ」
顔が青ざめている。
「じゃあ、あと何年かしたら」
誰も続きを聞きたくなかった。
それでも、言葉は落ちた。
「この街が動いてたことを知ってる奴が、いなくなるのか?」
ルカは答えられなかった。
いなくなる、とは少し違う。
もっと早いかもしれない。
老人は島を覚えている。
商人は港を覚えている。
母親は、街が動いていたこと自体は知っている。
けれど、その記憶を繋ぐ道が切れ始めている。
島はあった。
港もあった。
旅もした。
それでも、それらがミラ=セレイという一つの都市の歴史として繋がらなくなっていく。
断片だけが残り、いつかは、今ここにある街だけが「ずっとそうだったもの」になる。
「《潮構文刻盤》だけじゃない」
ルカが言った。
昨夜から胸の中にあったものが、ようやく輪郭を持ち始めていた。
「人も同じなんだ」
エルンが彼女を見る。
「何が?」
「刻盤から次の座標が消えた。みんなも次の場所を言えない。でも、それだけじゃない」
ルカは老人を見る。
「昔行った場所も、今の街から繋げられなくなってる」
次に、商人を見る。
「記録を見ても、その港が自分の航路だったって思い出せない」
最後に、子どもたちが消えた橋の向こうへ視線を向ける。
「それを知らない子たちは、最初からミラ=セレイはここにあったって思い始めてる」
カイラが腕を組んだ。
「街の過去が消えてる?」
「過去そのものじゃない」
ルカはすぐに否定した。
そこは大事だった。
「島の記憶は残ってる。港の記録も残ってる。全部なくなったわけじゃない」
「じゃあ何がなくなってる?」
ルカは答えようとして、言葉を探した。
指先が、胸元の割れた貝殻へ触れる。
自分にも、本当の名前の記憶はない。
それでも、メルナ=レイで生きてきた日々は繋がっている。
ナミル=レイに乗り。
オルカ=ベルへ行き。
ナラ=オルテでエルンと出会い。
イシュラ=マレでカイラと出会った。
場所と場所のあいだに道があるから、自分の昨日と今日が続いている。
もし、その道だけがなくなったら。
「……移動したこと」
ルカが言った。
「何?」
「ミラ=セレイは、場所を忘れてるんじゃない」
口にした瞬間、ようやく見えた。
赤い島も覚えている。
港も覚えている。
そこで笑ったことも、食べたものも、出会った人も残っている。
海は、それらをまだ手放してはいない。
ただ、その間を結んでいた潮だけが抜け落ちている。
「赤い島も覚えてる。港も覚えてる。でも、そこからここへ来たことが繋がらない」
老人が息を呑む。
「昨夜、次の座標が消えてたのも同じです」
現在地までは残っている。
今ここにいることだけは、異常なほど正確に刻まれている。
なのに、その先がない。
「この街が忘れ始めてるのは、行き先じゃない」
ルカは揺れない橋を見た。
昨日と同じ位置。
同じ高さ。
同じ景色。
「『次へ行く』ってこと、そのものなんだ」
誰もすぐには答えなかった。
海から風が吹き抜ける。
洗濯物が揺れる。
旗が揺れる。
人の髪が揺れる。
動かないのは、街だけだった。
エルンが静かに口を開く。
「ここにいるのが、強くなってる」
「強く?」
「うん」
彼は足元を見る。
「前の場所より。次の場所より。今ここにいるっていうのだけが、重い」
ルカには、エルンと同じ深さまで読むことはできない。
それでも、その言葉なら理解できた。
現在だけが重くなっている。
昨日も。
明日も。
すべてが「今ここ」へ引き寄せられている。
「このまま止まってたら」
商人が言う。
「どうなる?」
ルカは答えなかった。
分からないことを、分かったふりはできない。
ただ、想像ならできる。
次の港が消える。
過去の島が繋がらなくなる。
子どもたちは、街が旅をしていたことを知らなくなる。
そして、それがもっと進めば。
ミラ=セレイにとって、今いるこの海だけが唯一の正しい場所になる。
他の場所にいたという歴史さえ、いつか間違いのように見えてしまうかもしれない。
「確かめたい」
ルカが言った。
「何を?」
カイラが訊く。
「この街そのものを」
「街?」
「人の記憶だけじゃなくて」
ルカは、昨夜の《潮構文刻盤》がある中央区を見上げた。
「ミラ=セレイが、自分をどう覚えてるのか」
カイラの目が少し細くなる。
「読める?」
「分かりません」
ルカは正直に答えた。
「人や名札と同じかどうかも分からない。でも、刻盤には街の潮が通ってる」
そこまで言ったところで、エルンが小さく頷いた。
「上に、たくさんある」
「何が?」
「まだ分からない」
彼は中央区の方を見る。
「でも、一つじゃない」
ルカはその言葉に引っかかった。
一つではない。
何が。
今は、まだ分からない。
ならば読むしかない。
「もう一度、《潮構文刻盤》へ行きます」
ルカは歩き出した。
今度は、昨夜のように消えた座標を見るためではない。
現在位置のさらに内側。
そこに残っているはずの、ミラ=セレイそのものへ触れるために。
背後では、老人が赤い島のことをまだ呟いていた。
「確かにあったんだ」
誰に言うでもなく。
「赤い島だった。俺は見た。あったんだよ」
その声を聞きながら、ルカは振り返らなかった。
存在していた場所を覚えているだけでは、旅の記憶にはならない。
どこから来て、そこを通り、どこへ向かったのか。
それが繋がって初めて、航路になる。
そしてミラ=セレイは今、その繋がりを失おうとしていた。
この街は、帰る場所を忘れたのではない。
まだ帰る場所のことすら、問題にできていない。
その前にまず、次へ進むということを忘れ始めていた。




