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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第5話 浮かぶ都市は、帰る場所を忘れた
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第三節 ― 都市が忘れ始めている

 翌朝、老人は島の色を覚えていた。形も、匂いさえ覚えている。


 ただ、その島がどこにあったのかだけが分からなかった。


「赤かったんだ」


 老人は宿の窓辺に座り、両手で椀を包んでいた。昨夜、《潮構文刻盤》まで一緒に来た老人だ。夜が明けても気になったらしく、朝食が始まるより先に食堂へ降りてきたという。


「何がです?」


「島だよ。昨日、お嬢ちゃんに訊かれただろ。ミラ=セレイが昔どんな海を通ったかって」


「私はそこまで訊いてないですけど」


「そうだったか?」


 老人は首を傾げたが、すぐに気を取り直した。


「まあいい。とにかく思い出したんだ。若い頃に見た島がある」


 ルカはパンをちぎる手を止めた。


 向かいではエルンが、焼いた魚を器用に骨から外している。少し離れた卓ではカイラが朝の潮報を眺めていたが、老人の話が始まってからは紙をめくる手を止めていた。


「赤い島?」


「ああ。岩肌が赤い。朝日を浴びると火みたいに見えるんだ。島の西側だけ黒い砂浜でな。風が強くて、低い木しか育たない」


 老人の目が懐かしそうに細くなる。


「十五の頃だった。初めて外縁の帆仕事を任された年だ。あの島が見えると、みんな甲板へ出た。前の晩から賭けをするんだよ。最初に赤い岩を見つけた奴が、次の港で一杯奢ってもらえる」


 話す声に淀みはなかった。


 潮の匂い。帆仕事。若い船乗りたちの笑い声。


 その光景まで、老人の中には確かに残っているようだった。


「その島、どこにあるんです?」


 ルカが訊いた。


 老人の口が閉じた。


「どこって」


「ミラ=セレイの巡回路のどの辺りですか?」


「どの辺り……」


「名前は?」


 老人は眉を寄せた。


「名前?」


「島の」


「そりゃ、名前くらいある」


「何ていう島です?」


 沈黙が落ちた。


 ルカは急かさず待った。老人の指が、椀の縁をゆっくりと撫でている。


「赤い……」


 そこまで言って、止まった。


「赤い島だ」


「それは見た目ですよね」


「分かってる」


 声に苛立ちが混じる。


「名前があった。知ってたんだ。十五の時だけじゃない。そのあと何度も見た。二十の年にも、三十を越えてからも通った」


「毎年?」


「毎年じゃない。潮によって近くを通る年と、通らない年が……」


 老人はまた黙った。


「どの潮?」


 エルンが尋ねた。


 老人が彼を見る。


「何だ?」


「その島へ行く潮」


「だから、それは……」


 声が弱くなる。


「なんだったかな」


 ルカはカイラと目を合わせた。


 昨夜と同じだ。


 記憶そのものが消えているわけではない。老人は島を覚えている。そこで何をしたかも、誰と見たかも覚えている。


 ただ、その場所へ続いていた道だけがない。


「昨日までは思い出せました?」


 ルカが訊いた。


「昨日?」


「いえ、もっと前でも。ミラ=セレイが止まる前なら」


「当たり前だろう」


 老人は即答した。


「自分が何十年も通った海だぞ」


「じゃあ、今はどうして」


「知らん!」


 強い声が食堂へ響いた。


 何人かが振り向く。


 老人も自分で驚いたらしく、すぐに肩を落とした。


「……すまん」


「いえ」


「分からんのだ」


 椀へ目を落とす。


「目を閉じれば島は見える。波の色も分かる。あそこで鳥が鳴いていたのも覚えてる」


 皺の刻まれた手が、わずかに震えた。


「なのに、その前に何があって、そのあとどこへ行ったのかが出てこない」


 老人は顔を上げた。


「島だけが、海から切り取られちまったみたいだ」


 ルカは何も言えなかった。


 その言葉が、昨夜見た《潮構文刻盤》と重なる。


 現在位置で途切れた青い線。そこから先だけが、最初から存在しなかったようになっていた。


 けれど、老人の記憶に起きていることは、それよりさらに奇妙だった。


 失われているのは次の場所だけではない。過去に実際に通った土地さえ、そこへ至る航路を失い始めている。


「ルカ」


 カイラが立ち上がった。


「昨日の商人、まだ街にいるはずだ」


「西だって言ってた人?」


「ああ。毎年ここへ来るって言ってたろ」


 ルカも席を立つ。


 老人が顔を上げた。


「俺も行く」


「無理しなくても」


「俺の街だ」


 老人は杖を取った。


「自分の街がどこを通ってきたかくらい、確かめさせろ」


 その声音を聞いて、ルカは止められなかった。


 宿を出る。


 朝のミラ=セレイは、昨日と変わらず穏やかだった。


 橋は揺れていない。港では決まった桟橋へ交易船が入り、市場の商人たちは商品を棚へ並べている。子どもたちが学校へ向かって橋を渡っていく。


 何も壊れていない。


 だからこそ、老人の言葉だけが街から浮いて聞こえた。


 ――島だけが、海から切り取られちまった。


 昨夜の商人は港湾区で見つかった。大きな荷箱を前に、二人の船員へ指示を出しているところだった。


「昨日のお嬢ちゃんか」


 ルカを見るなり、商人は苦笑した。


「悪いが、今朝は西だ南だの話をしてる暇は――」


「毎年取引してる港があるって言ってましたよね」


 ルカは言葉を遮った。


「港?」


「ミラ=セレイを追って、毎年何か所も回ってるって」


「ああ」


 商人は頷く。


「この仕事も二十年近いからな」


「去年、ここから次にどこへ行きました?」


「去年?」


「はい」


「去年なら……」


 商人の表情が変わった。


 ルカは黙って待つ。


「ちょっと待て」


 彼は腰から分厚い交易帳を取り出し、何枚も紙をめくった。


「去年は、ミラ=セレイをここで捕まえて、それから……」


 指が止まる。


「ほら」


 帳面には、文字が残っていた。


 荷の数。


 売値。


 仕入れ値。


 入港日。


 取引先。


「この港です」


 ルカが一行を指した。


 地名が書いてある。


 商人もそこを見る。


「ああ」


「毎年行ってる?」


「行ってる」


「何ていう港です?」


「そこに書いてあるだろ」


「読んでみてください」


 商人は顔をしかめた。


「何を馬鹿なことを」


 文字へ目を戻し、口を開く。


 声が出なかった。


「……これは」


 もう一度、文字を見る。


「読めない?」


 ルカが訊く。


「読める」


「じゃあ、名前は?」


「だから……」


 商人の額に汗が浮かんだ。まだ朝は涼しいというのに。


「知ってる港だ」


「どんなところ?」


「大きな港だ。南香草と白塩が安い。外港に青い屋根の倉庫があって、その裏の酒場の煮込みがうまい。主人は片目で……名前は忘れたが、毎年会う」


「港の名前は?」


「……」


「そこへどうやって行くんです?」


 商人は帳面を強く握った。


「ミラ=セレイの……」


 そこで止まる。


「ミラ=セレイの?」


「次の……」


 その先が続かなかった。


 カイラが商人の肩越しから帳面を覗く。


「文字そのものは消えてないね」


「ああ」


 商人は不機嫌そうに答えた。


「そこにある。俺の字だ」


「なのに呼べない?」


「……そうだ」


 昨夜の《潮構文刻盤》とは違う。


 刻盤からは、次の座標そのものが消えていた。


 こちらには記録が残っている。それなのに、人間の側が記録へ辿り着けない。


 ルカは交易帳へ指を置いた。


 潮名を読もうとはしなかった。


 紙に残された文字を読むことと、名そのものへ触れることは違う。今、何が起きているのかも分からないまま、深く触れるべきではない。


「前の港は?」


 ルカが訊いた。


「前?」


「ここへ来る前に寄ったところ」


「それなら――」


 また止まった。


「その前は?」


「……」


「もっと前」


「待ってくれ」


 商人が帳面をめくり始める。


 紙の上には、いくつもの港名が残っていた。取引の数字も、誰に何を売ったかまで書いてある。


 けれど商人は、一つずつ見ても、まるで知らない土地の記録を読んでいるような顔をした。


「俺は」


 かすれた声が出た。


「本当に、ここへ行ったのか?」


「自分で書いてるんでしょう?」


「そうだ」


「じゃあ」


「覚えてるんだよ!」


 商人が声を荒らげた。


「店も、人も、飯も覚えてる! 青い倉庫も、潮が臭い港も、馬鹿みたいに高い宿も!」


 帳面を叩く。


「なのに、全部がどこにあるのか分からない!」


 周囲の港湾労働者たちが仕事の手を止めていた。


 その中の一人が、不安そうに口を開く。


「俺もだ」


 商人が振り返る。


「何が?」


「去年、北の……」


 男は顔をしかめた。


「北のどこだ?」


 別の者が呟く。


「北って、行ったか?」


「行っただろ」


「いつ?」


「だから去年……」


「去年の今頃、この街ここにいなかったか?」


 ルカの背筋を冷たいものが走った。


「違う」


 老人が言った。


 杖を突きながら前へ出る。


「去年ここにはいなかった」


「どこに?」


 港湾労働者が訊く。


 老人の顔が固まった。


「それは……」


「どこにいたんだ?」


「……」


 答えられない。


 なのに。


「ここじゃない」


 それだけは、分かるらしい。


 港の空気が重くなる。


 遠くで入港鐘が鳴った。


 定刻を知らせる澄んだ音。


 昨日なら、その規則正しさを便利だと思えた。


 今は、まるで街そのものへ「ここにいればいい」と繰り返し聞かせているように聞こえた。


「少し歩こう」


 カイラが言った。


「どこへ?」


「街を見ろ」


 短い答えだった。


 老人には宿へ戻るよう勧めたが、やはり聞かなかった。商人も交易帳を胸へ抱えたままついてくる。


 港湾区から住宅区へ。


 昨日も通った道だった。


 住所札。


 動かない橋。


 窓辺の植木鉢。


 何も変わっていない。


 それなのに、ルカには街の見え方が昨日とは違っていた。


 変わらないことばかりが目につく。


 昨日と同じ位置にある家。


 昨日と同じ高さの橋。


 昨日と同じ方向から来る船。


 昨日と同じ景色。


 ひとつひとつが、別の場所へ続いていた可能性を薄く塗り潰しているように思えた。


「ねえ」


 子どもの声がした。


 昨日、橋の上を走っていた三人だ。今日も木の小船を持っている。


 一番年長の少年がエルンを見つけ、少し警戒した顔になった。


「昨日の嘘つきだ」


「嘘ついてない」


 エルンがすぐ答える。


「走ってないって言ったのに」


「君たちが言った」


「違うよ」


「違わない」


「エルン」


 ルカは袖を引いた。


「そこは昨日決着したから」


「してない」


「いいから」


 少年たちの母親も近くにいた。昨日話した女性だ。腕には洗濯籠を抱えている。


「昨日はどうも」


 軽く頭を下げる。


「何かありました?」


「少し、この街の昔のことを聞いていて」


「昔?」


 女性は不思議そうな顔をした。


 その横で、小さな女の子が言う。


「昔もここにいたよ」


 ルカは彼女を見る。


「ここ?」


「うん」


 女の子は橋の向こうの海を指した。


「ミラ=セレイ、ずっとここにあるんでしょ?」


 時間が止まったように感じた。


 母親が笑う。


「何言ってるの。この街は――」


 そこで言葉が途切れた。


「お母さん?」


「この街は……」


 女性は子どもを見る。


「動くのよ」


「動いてないよ」


「今はね」


「じゃあ前は?」


「前は……」


 答えが出ない。


 女の子が首を傾げる。


「どこにいたの?」


「それは」


 母親の目が泳ぐ。


「いろんなところ」


「どこ?」


「海よ」


「ここも海だよ」


「そうじゃなくて……」


 言葉が続かない。


 母親の顔から、ゆっくりと笑みが消えていく。


 ルカは胸が痛くなった。


 女性は昨日、自分の子どもを安心して橋で遊ばせられると言った。固定された街を、このままでもいいと思うとも言った。


 その気持ちは今も間違っていない。


 だからこそ、残酷だった。


「ミラ=セレイって、ずっとここにあるんでしょ?」


 女の子がもう一度言う。


 それは疑問ではなかった。


 この子にとっては、当たり前の事実なのだ。


 母親は否定しようとした。


「違うわ」


 今度は言えた。


「この街は、ずっと旅をしてきたの」


「どこへ?」


「……」


「どこから来たの?」


 母親の唇が震える。


「……分からない」


 女の子は少し考えた。


「じゃあ、ずっとここだったんじゃない?」


 母親は返せなかった。


 ルカの隣で、老人が杖を強く握った。


「違う」


 低い声だった。


 子どもたちが彼を見る。


「この街は動いてた」


「おじいちゃん、見たの?」


「見た」


「どこを?」


「たくさんだ」


「どこ?」


 老人の顔が歪む。


「……たくさんだ」


 同じことしか言えない。


 女の子は納得していない様子だったが、大人たちの空気を感じたのか、それ以上は訊かなかった。


 母親が子どもたちを連れて去っていく。


 その背中を見送りながら、ルカは気づいた。


「子どもたちは、忘れたんじゃない」


 カイラがこちらを見る。


「何?」


「あの子たち」


 ルカは言った。


「昔のミラ=セレイを知らないだけです」


「そりゃそうだろ。小さいんだから」


「違う」


 ルカは首を振る。


「普通なら、大人から聞くはずなんです」


 この街は旅をする。


 去年はあの海にいた。


 お前が生まれた時には、あの潮を渡っていた。


 次はあの島へ行く。


 そうして、子どもは自分がまだ見ていない街の歴史を受け取る。


 ミラ=セレイなら、なおさらだった。


 場所そのものが故郷なのではない。


 一年かけて海を巡り、また同じ潮へ帰ってくる。その航路そのものを故郷としてきた都市なのだ。


 なのに。


「大人が話せなくなってる」


 ルカは呟いた。


「だから、あの子たちには最初からこの景色しかない」


 商人が交易帳を胸へ抱いた。


「待てよ」


 顔が青ざめている。


「じゃあ、あと何年かしたら」


 誰も続きを聞きたくなかった。


 それでも、言葉は落ちた。


「この街が動いてたことを知ってる奴が、いなくなるのか?」


 ルカは答えられなかった。


 いなくなる、とは少し違う。


 もっと早いかもしれない。


 老人は島を覚えている。


 商人は港を覚えている。


 母親は、街が動いていたこと自体は知っている。


 けれど、その記憶を繋ぐ道が切れ始めている。


 島はあった。


 港もあった。


 旅もした。


 それでも、それらがミラ=セレイという一つの都市の歴史として繋がらなくなっていく。


 断片だけが残り、いつかは、今ここにある街だけが「ずっとそうだったもの」になる。


「《潮構文刻盤》だけじゃない」


 ルカが言った。


 昨夜から胸の中にあったものが、ようやく輪郭を持ち始めていた。


「人も同じなんだ」


 エルンが彼女を見る。


「何が?」


「刻盤から次の座標が消えた。みんなも次の場所を言えない。でも、それだけじゃない」


 ルカは老人を見る。


「昔行った場所も、今の街から繋げられなくなってる」


 次に、商人を見る。


「記録を見ても、その港が自分の航路だったって思い出せない」


 最後に、子どもたちが消えた橋の向こうへ視線を向ける。


「それを知らない子たちは、最初からミラ=セレイはここにあったって思い始めてる」


 カイラが腕を組んだ。


「街の過去が消えてる?」


「過去そのものじゃない」


 ルカはすぐに否定した。


 そこは大事だった。


「島の記憶は残ってる。港の記録も残ってる。全部なくなったわけじゃない」


「じゃあ何がなくなってる?」


 ルカは答えようとして、言葉を探した。


 指先が、胸元の割れた貝殻へ触れる。


 自分にも、本当の名前の記憶はない。


 それでも、メルナ=レイで生きてきた日々は繋がっている。


 ナミル=レイに乗り。


 オルカ=ベルへ行き。


 ナラ=オルテでエルンと出会い。


 イシュラ=マレでカイラと出会った。


 場所と場所のあいだに道があるから、自分の昨日と今日が続いている。


 もし、その道だけがなくなったら。


「……移動したこと」


 ルカが言った。


「何?」


「ミラ=セレイは、場所を忘れてるんじゃない」


 口にした瞬間、ようやく見えた。


 赤い島も覚えている。


 港も覚えている。


 そこで笑ったことも、食べたものも、出会った人も残っている。


 海は、それらをまだ手放してはいない。


 ただ、その間を結んでいた潮だけが抜け落ちている。


「赤い島も覚えてる。港も覚えてる。でも、そこからここへ来たことが繋がらない」


 老人が息を呑む。


「昨夜、次の座標が消えてたのも同じです」


 現在地までは残っている。


 今ここにいることだけは、異常なほど正確に刻まれている。


 なのに、その先がない。


「この街が忘れ始めてるのは、行き先じゃない」


 ルカは揺れない橋を見た。


 昨日と同じ位置。


 同じ高さ。


 同じ景色。


「『次へ行く』ってこと、そのものなんだ」


 誰もすぐには答えなかった。


 海から風が吹き抜ける。


 洗濯物が揺れる。


 旗が揺れる。


 人の髪が揺れる。


 動かないのは、街だけだった。


 エルンが静かに口を開く。


「ここにいるのが、強くなってる」


「強く?」


「うん」


 彼は足元を見る。


「前の場所より。次の場所より。今ここにいるっていうのだけが、重い」


 ルカには、エルンと同じ深さまで読むことはできない。


 それでも、その言葉なら理解できた。


 現在だけが重くなっている。


 昨日も。


 明日も。


 すべてが「今ここ」へ引き寄せられている。


「このまま止まってたら」


 商人が言う。


「どうなる?」


 ルカは答えなかった。


 分からないことを、分かったふりはできない。


 ただ、想像ならできる。


 次の港が消える。


 過去の島が繋がらなくなる。


 子どもたちは、街が旅をしていたことを知らなくなる。


 そして、それがもっと進めば。


 ミラ=セレイにとって、今いるこの海だけが唯一の正しい場所になる。


 他の場所にいたという歴史さえ、いつか間違いのように見えてしまうかもしれない。


「確かめたい」


 ルカが言った。


「何を?」


 カイラが訊く。


「この街そのものを」


「街?」


「人の記憶だけじゃなくて」


 ルカは、昨夜の《潮構文刻盤》がある中央区を見上げた。


「ミラ=セレイが、自分をどう覚えてるのか」


 カイラの目が少し細くなる。


「読める?」


「分かりません」


 ルカは正直に答えた。


「人や名札と同じかどうかも分からない。でも、刻盤には街の潮が通ってる」


 そこまで言ったところで、エルンが小さく頷いた。


「上に、たくさんある」


「何が?」


「まだ分からない」


 彼は中央区の方を見る。


「でも、一つじゃない」


 ルカはその言葉に引っかかった。


 一つではない。


 何が。


 今は、まだ分からない。


 ならば読むしかない。


「もう一度、《潮構文刻盤》へ行きます」


 ルカは歩き出した。


 今度は、昨夜のように消えた座標を見るためではない。


 現在位置のさらに内側。


 そこに残っているはずの、ミラ=セレイそのものへ触れるために。


 背後では、老人が赤い島のことをまだ呟いていた。


「確かにあったんだ」


 誰に言うでもなく。


「赤い島だった。俺は見た。あったんだよ」


 その声を聞きながら、ルカは振り返らなかった。


 存在していた場所を覚えているだけでは、旅の記憶にはならない。


 どこから来て、そこを通り、どこへ向かったのか。


 それが繋がって初めて、航路になる。


 そしてミラ=セレイは今、その繋がりを失おうとしていた。


 この街は、帰る場所を忘れたのではない。


 まだ帰る場所のことすら、問題にできていない。


 その前にまず、次へ進むということを忘れ始めていた。

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