第二節 ― 次の港を知らない人々
その違和感は、夕食の席で見つかった。
ミラ=セレイの中央区に取った宿は、海上都市らしく細長い造りをしていた。一階が食堂、二階から上が客室になっている。以前は街の揺れを逃がすため、建物全体を太い潮索で周囲の柱へ繋いでいたらしい。その名残なのか、壁際には使われなくなった固定具が何本も垂れている。
今は、そのどれも働いていない。
床は揺れず、卓の上の魚汁にも波紋ひとつ立たなかった。
ルカは木匙で白身魚を崩しながら、窓の外を眺めていた。
夕暮れのミラ=セレイは綺麗だった。街区と街区を結ぶ吊り橋に灯が入り、白い建物の壁が薄い橙色へ染まっている。さらに向こうには港湾区の帆柱が並び、その隙間から海が見えた。水平線へ沈みかけた太陽が、水面へ長い光の道を作っている。
その光だけは流れていた。
街は、動いていない。
「まだ気になる?」
向かいでエルンが訊いた。
「何が?」
「揺れないの」
「ちょっとね」
ルカは匙を置き、椀を指先で軽く押した。魚汁は縁まで揺れただけで、一滴もこぼれない。
「最初は変だと思ったけど、半日いると慣れるんだなって」
「いいこと?」
「それが分からない」
昼間から、ずっと同じ答えだった。
橋から子どもが落ちない。病人を安全に運べる。荷物が壊れない。住所も決められる。
それらを見たあとで、ただ「動かない街はおかしい」と言うことはできなくなっていた。
隣の卓では、カイラがネームレス・ガルの船員二人と補給の相談をしている。
「水は朝までに積める。干し肉も買っときな。ここの南香草は日持ちするから、多めでいい」
「酒は?」
「船賃から引くなら」
「船長、そこは必要経費で」
「必要なら水飲みな」
即答だった。
船員が肩を落とす。
ルカは少し笑い、再び窓へ目を向けた。
明日も、ここにいるのだろうか。
ふと、そんな疑問が浮かんだ。
普通の港なら、何でもない問いだ。
けれど、ここは浮上都市だ。
ミラ=セレイは一年をかけて南方海域を巡る。今日ここにいるなら、明日は少しだけ違う海にいる。明後日はさらに先へ進み、そうして街そのものが旅を続ける。
なら――。
「そういえば」
ルカは食堂を見回した。
夕食時だけあって客は多い。交易商人。船乗り。宿の常連らしい老人。家族連れ。浮上核の整備工らしい、油染みのついた服の男たち。
この街で暮らしている者なら、誰か知っているだろう。
「次はどっちへ行くんですか?」
何気なく訊いた。
返事がない。
ルカは首を傾げた。聞こえなかったのかと思い、今度は少し声を張る。
「ミラ=セレイです。ここから次、どっちの潮へ行くんですか?」
何人かがこちらを見た。
それでも、すぐに答える者はいなかった。
妙な沈黙だった。
知らない質問をされた時とは違う。
答えを知っているはずなのに、その答えをしまった場所だけ見つからない。そんな顔が、食堂のあちこちに並んでいる。
「……南東だったはずだ」
やがて、壁際に座っていた老人が言った。
白髪を後ろへ撫でつけ、古い潮布を肩へ掛けている。
「南東?」
「ああ」
老人は頷いた。ところが、すぐに眉を寄せる。
「いや……待て」
卓の上へ指を置き、何かの形を描く。
「今の潮を抜けて、そのまま……」
指が止まった。
「南東だ。たぶん」
「たぶん?」
「毎年少し違うからな」
老人はそう言って笑おうとした。
けれど、その笑みは妙に弱かった。
「何年この街に?」
「生まれてからずっとだよ」
「じゃあ、今年の巡路も知ってますよね?」
「もちろんだ」
答えは早かった。
そこでルカは、もう一度訊いた。
「次は?」
老人は黙った。
「南東だと言っただろ」
先ほどより、少しだけ声が強い。
その時、別の卓から声が上がった。
「違うよ」
中年の商人だった。胸元には交易組合の貝札を下げている。
「次は西だ。西の巡礼潮へ乗る」
「西?」
ルカが振り向く。
「そうだ。毎年この時期は西へ回る。そこから……」
商人も止まった。
「そこから?」
「……いや」
自分で首を振る。
「違ったか?」
老人が言った。
「南東だ」
「西だよ」
「何を言ってる。俺は七十年この街にいるんだぞ」
「こっちは毎年、この時期に荷を積みに来てる」
「じゃあ、お前が間違ってる」
「そっちこそ」
喧嘩になりそうな声だった。
けれど、どちらにも確信がない。
怒っているというより、自分自身の記憶へ苛立っているように見えた。
「南東から巡礼潮へ入るんじゃないですか?」
別の女が口を挟む。
「いや、巡礼潮はもっと後だろ」
「今年は逆回りだったんじゃ?」
「逆回りなんてしたら北環潮へ戻れないぞ」
「北環潮って今年通った?」
「通っただろ」
「いつ?」
「いつって……」
そこで会話が途切れた。
ルカは椅子から少し身を起こし、エルンを見る。
彼ももう食事をしていなかった。
「変だね」
小さな声だった。
「うん」
ルカも頷く。
厨房から宿の主人が出てきた。
「どうしたんだい。騒がしいね」
「ちょうどよかった」
ルカはすぐに尋ねる。
「この街、次はどこへ行くんですか?」
「次?」
「はい」
主人は口を開いた。
当然、すぐ答えるものだと思った。
けれど声が出ない。
「……次は」
目がわずかに泳ぎ、窓の外へ向く。
海。
夕暮れの水平線。
「次は……」
そのまま止まった。
「分からない?」
「いや」
主人が笑った。
さっきの老人と、同じ笑い方だった。
「分からないわけないだろう。ここで生まれて、ずっと暮らしてるんだ」
「じゃあ」
「ちょっと待ってくれ」
主人は額へ手を当てた。
「今年の潮順は……春に北寄りへ回って、そのあと……」
また、そこで止まる。
ルカの胸の奥へ、昼間とは違う違和感が沈んだ。
知らないのではない。
忘れた、とも少し違う。
忘れたのなら、自分が思い出せないことくらいは分かるはずだ。
けれど彼らは、答えようとする直前まで、自分が知っていることを疑っていない。
そして言葉にしようとした瞬間だけ、その先がなくなる。
「カイラ」
ルカが呼ぶ。
返事がない。
顔を向けると、カイラもこちらの会話を聞いていた。
もう笑っていない。
「何です?」
「……あたしに聞くなよ」
「カイラなら航路を知ってるかと思って」
「外から追ってくる側は、正確な巡路なんざ持たない」
カイラは椅子へ深く座り直した。
「浮上都市は毎年ずれる。こっちが持ってるのは、だいたいどの時期にどの海域へ来るかって程度さ」
「でも、この街の人たちは知ってるはずですよね」
「ああ」
カイラは老人たちを見る。
「普通ならね」
その一言で、食堂の空気が変わった。
さっきまで自分たちの記憶違いだと思っていた者たちが、互いの顔を見始める。
「待ってくれ」
商人が立ち上がった。
「今年の巡回予定なら、港務所にある」
「中央の刻盤にも出てるだろ」
老人が言う。
宿の主人も頷いた。
「《潮構文刻盤》を見りゃ早い」
ルカは食べかけの椀へ目を落とした。
「今から見られます?」
「中央盤なら夜でも記録士がいる」
「行こう」
すぐに立ち上がる。
「今?」
カイラが訊いた。
「気になるから」
「飯は?」
「戻ってきて食べます」
「冷めるよ」
「じゃあカイラ、食べないで待っててください」
「なんであたしが」
文句を言いながらも、カイラは立ち上がった。
エルンは何も言わず、ルカについてくる。
結局、宿にいた老人と交易商人まで同行することになった。
本人たちも、確かめずにはいられなかったのだろう。
外へ出ると、夜のミラ=セレイは昼間以上に美しかった。
橋の縁に取り付けられた潮灯が青白く輝き、その光が幾重にも重なる街区を繋いでいる。遠くには港の灯、そのさらに向こうには夜の海。
橋は、やはり揺れない。
そのおかげで夜でも歩きやすく、杖をつく老人の足取りにも不安はなかった。
「昔は夜の橋なんて嫌いだった」
歩きながら老人が言った。
「暗いところで街区が動くと、自分が上がってるのか、向こうが下がってるのか分からなくなる」
「今は安心?」
「ああ」
老人はすぐに答えた。
「こんなに楽なのは初めてだ」
そこで少し黙り、
「だから、別に急いで動かなくてもいいとは思ってる」
と続けた。
「でも、次へ行く場所を忘れるのは違う?」
ルカが訊く。
「忘れてない」
老人の返事は強かった。
「俺は覚えてる」
「南東?」
「……そうだ」
少し遅れて答える。
「南東だ」
後ろの商人が鼻を鳴らした。
「西だっての」
「まだ言うか」
「刻盤を見れば分かる」
二人とも、その時まではそう信じていた。
中央区のさらに高い場所に、《潮構文刻盤》はあった。
ルカが想像していたより、ずっと大きい。
建物の中へ収められた機械ではない。
円形の広場そのものが、巨大な盤になっている。
中心には真珠色の円盤があり、その周囲を幾重もの環が取り巻いていた。
潮位。
星潮。
浮上核の出力。
風向。
祈りの周期。
そして、一年を巡る航路。
青緑色に発光する細い線が、円周へ沿って幾重にも伸びている。
「これ全部、街の航路?」
ルカは思わず声を落とした。
「そうだ」
夜番の記録士が答えた。
老人たちから事情を聞くと、盤の外周へ案内してくれる。
「ミラ=セレイの位置は、単純な経度や距離だけでは記録できない。どの潮へ入り、どの星潮を横切り、浮上核がどの祈り周期にあるか。それらを合わせて一つの座標とする」
ルカは盤面を覗き込んだ。
海図とは違う。
むしろ、何重もの輪でできた楽譜に近かった。
一本の青い光が、過去から現在まで途切れず続いている。
「今いる場所は?」
「ここだ」
記録士が指を差す。
ひときわ明るい一点。
ルカが星潮羅針盤で測った位置と、ほぼ一致している。
「正常なんですか?」
「位置情報そのものは正常だ。誤差もない。むしろ静潮固定が始まってから、これほど安定したことはない」
記録士は即答した。
「じゃあ、その先は?」
ルカが訊く。
記録士の指が止まった。
「その先?」
「次の座標です」
盤上には、これまでミラ=セレイが通ってきた航跡がある。いくつもの潮を繋ぎ、現在位置へ至る青い線。
なら、その先にも続きがあるはずだった。
ルカは目を細めた。
ない。
「……ここで終わってる」
現在位置を示す光点。
そこまでは、綺麗に繋がっている。
線の乱れもない。
欠損もない。
その一点から先だけが、何もない。
「次は?」
ルカが訊いた。
記録士は答えなかった。
「刻まれてないんですか?」
「そんなはずは……」
彼は盤へ近づき、外周にある補助環を操作した。
淡い光が増す。
過去の航跡が薄れ、現在年度の巡回予定だけが浮かび上がった。
それでも、結果は同じだった。
現在位置。
そこで終わっている。
「待て」
記録士の声が低くなる。
「おかしい」
「何が?」
「ここは予定終点ではない」
老人が言った。
「当然だ。まだ一年の途中だぞ」
商人も盤へ身を乗り出す。
「ほら見ろ。西へ行くはずだったんだ」
「どこに西と書いてある」
「だから……」
二人とも言葉を失った。
どちらの説も、盤にはない。
南東も。
西の巡礼潮も。
それどころか、次へ進むという記録そのものが存在していなかった。
「故障じゃないんですか?」
ルカが訊く。
「それなら異常線が出る」
記録士が答える。
声には、先ほどまでの落ち着きがなかった。
「書かれていた座標が失われれば、刻盤は欠損を残す。外から削れば削除痕が出る。潮焼けでも、改竄でも同じだ」
「これは?」
「何もない」
「何も?」
「空白だ」
ルカは盤面を見つめた。
たしかに、壊れたようには見えない。
文字が剥がれた跡もない。
線を消した痕もない。
最初からここまでしか刻まれていなかったように、現在位置で綺麗に完結している。
「でも……」
記録士が呟く。
自分に言い聞かせるような声だった。
「そんなはずはない」
彼は盤の脇にある記録棚へ向かった。そこには薄い潮紙が、日付順に重ねられている。
「毎朝、刻盤の状態を写してる」
何枚かを取り出し、机へ並べる。
一枚。
二枚。
三枚。
ルカたちも覗き込んだ。
今日の写し。
現在位置で線が終わっている。
昨日。
同じ。
一昨日。
同じ。
記録士の手が速くなる。
「もっと前は?」
ルカが訊く。
「待ってくれ」
さらに紙をめくる。
三日前。
四日前。
そこで。
「……ある」
記録士の手が止まった。
ルカは身を乗り出す。
現在位置から先へ、細い線が続いていた。
一点だけではない。
さらに先。
複数の予定潮。
浮上核の調整値。
次の巡回座標。
その次まで。
ちゃんと記されている。
「これ」
商人が指を差した。
「やっぱり西じゃないか」
「違う」
記録士が低く言う。
「これは西そのものじゃない。ここで巡礼潮へ接続して、そのあと南へ……」
言いながら、顔が固まった。
「南へ?」
ルカが訊く。
記録士は紙を見た。
書いてある。
目の前に線がある。
読めるはずだ。
けれど、彼は答えなかった。
「……分からない」
ようやく絞り出した。
「書いてあるのに?」
「構文としては読める」
「じゃあ」
「でも」
記録士は顔を上げた。
「どうしてここへ行く予定だったのか、思い出せない」
誰も声を出さなかった。
ルカは古い写しと、現在の刻盤を見比べる。
四日前にはあった。
ミラ=セレイには、続きがあった。
次に入る潮。
その次に向かう海域。
都市が一年を巡るための道。
今は、それがない。
「誰かが消した?」
エルンが訊いた。
記録士は首を横に振る。
「消せば残る」
「何が?」
「消したという記録が」
彼は現在の盤面へ手を向けた。
「これは違う」
「じゃあ、どうなってるんです?」
ルカが訊く。
「分からない」
記録士はしばらく盤を見つめた。
「空白を作った形跡がない」
「なのに、空白になってる」
「ああ」
「最初から?」
ルカの問いに、記録士はすぐ答えなかった。
やがて、小さく頷く。
「今の刻盤だけを見れば、そうとしか読めない」
その言葉に、ルカの背中が冷えた。
現在位置までの記録は完璧だった。
どの潮を通ったか。
どの星を読んだか。
浮上核がどう動いたか。
すべて残っている。
過去はある。
今もある。
ないのは――。
「……次だけ」
ルカが呟いた。
エルンがこちらを見る。
「うん」
「止まってるから、次の場所へ行けないんじゃない」
口にしながら、自分でもまだ確信は持てなかった。
「次の場所そのものが……」
その先の言葉が出ない。
消えた、では足りない。
消した痕跡がない。
壊れたのでもない。
最初から存在していなかったように、そこだけが抜けている。
老人が不安そうに古い潮紙を見ていた。
「だが、ここにあるじゃないか」
四日前の写しを指す。
「俺たちは知ってたんだろ。次に行く場所を」
「そのはずです」
ルカが答える。
「なら、どうして思い出せない?」
今度は誰も答えられなかった。
広場の外では、夜の街が静かに灯っている。
橋は揺れない。
家も揺れない。
荷物も落ちない。
子どもたちは、安全に眠れる。
ミラ=セレイは、今いる場所をこれまでになく正確に保っている。
その代わりに。
ルカは、現在位置で途切れた青い線を見つめた。
この街は、次にどこへ行くのかを知らない。
いや、それだけなら、まだ航路を引き直せばいい。
問題は――。
「みんな」
ルカはゆっくりと口を開いた。
「次に行く場所を知らないことに、今まで気づかなかったんですか?」
老人が顔を上げた。
商人も。
記録士も。
誰も答えない。
その沈黙の方が、空白の刻盤よりも不気味だった。
街は三週間、同じ場所にいる。
これほど異常なことなのに。
橋が安全になった。
商売が楽になった。
病人を運べるようになった。
住所ができた。
その便利さの中で、誰も次の潮を確かめようとしなかった。
ルカは胸元の貝殻護符へ触れた。
流れないことと、忘れること。
まだ、二つがどう繋がっているのかは分からない。
それでも潮は、途切れた先を黙ったまま抱えていた。今ここにあるものだけが、あまりにも鮮明に残っている。
ミラ=セレイは、ただ動けなくなっているのではない。
何かが、街の先にあるはずのものを少しずつ失わせている。
盤上では、現在地を示す光だけが明るく輝いていた。
まるで、この海こそがミラ=セレイの唯一の居場所であるとでも言うように。




