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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第5話 浮かぶ都市は、帰る場所を忘れた
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第二節 ― 次の港を知らない人々

 その違和感は、夕食の席で見つかった。


 ミラ=セレイの中央区に取った宿は、海上都市らしく細長い造りをしていた。一階が食堂、二階から上が客室になっている。以前は街の揺れを逃がすため、建物全体を太い潮索で周囲の柱へ繋いでいたらしい。その名残なのか、壁際には使われなくなった固定具が何本も垂れている。


 今は、そのどれも働いていない。


 床は揺れず、卓の上の魚汁にも波紋ひとつ立たなかった。


 ルカは木匙で白身魚を崩しながら、窓の外を眺めていた。


 夕暮れのミラ=セレイは綺麗だった。街区と街区を結ぶ吊り橋に灯が入り、白い建物の壁が薄い橙色へ染まっている。さらに向こうには港湾区の帆柱が並び、その隙間から海が見えた。水平線へ沈みかけた太陽が、水面へ長い光の道を作っている。


 その光だけは流れていた。


 街は、動いていない。


「まだ気になる?」


 向かいでエルンが訊いた。


「何が?」


「揺れないの」


「ちょっとね」


 ルカは匙を置き、椀を指先で軽く押した。魚汁は縁まで揺れただけで、一滴もこぼれない。


「最初は変だと思ったけど、半日いると慣れるんだなって」


「いいこと?」


「それが分からない」


 昼間から、ずっと同じ答えだった。


 橋から子どもが落ちない。病人を安全に運べる。荷物が壊れない。住所も決められる。


 それらを見たあとで、ただ「動かない街はおかしい」と言うことはできなくなっていた。


 隣の卓では、カイラがネームレス・ガルの船員二人と補給の相談をしている。


「水は朝までに積める。干し肉も買っときな。ここの南香草は日持ちするから、多めでいい」


「酒は?」


「船賃から引くなら」


「船長、そこは必要経費で」


「必要なら水飲みな」


 即答だった。


 船員が肩を落とす。


 ルカは少し笑い、再び窓へ目を向けた。


 明日も、ここにいるのだろうか。


 ふと、そんな疑問が浮かんだ。


 普通の港なら、何でもない問いだ。


 けれど、ここは浮上都市だ。


 ミラ=セレイは一年をかけて南方海域を巡る。今日ここにいるなら、明日は少しだけ違う海にいる。明後日はさらに先へ進み、そうして街そのものが旅を続ける。


 なら――。


「そういえば」


 ルカは食堂を見回した。


 夕食時だけあって客は多い。交易商人。船乗り。宿の常連らしい老人。家族連れ。浮上核の整備工らしい、油染みのついた服の男たち。


 この街で暮らしている者なら、誰か知っているだろう。


「次はどっちへ行くんですか?」


 何気なく訊いた。


 返事がない。


 ルカは首を傾げた。聞こえなかったのかと思い、今度は少し声を張る。


「ミラ=セレイです。ここから次、どっちの潮へ行くんですか?」


 何人かがこちらを見た。


 それでも、すぐに答える者はいなかった。


 妙な沈黙だった。


 知らない質問をされた時とは違う。


 答えを知っているはずなのに、その答えをしまった場所だけ見つからない。そんな顔が、食堂のあちこちに並んでいる。


「……南東だったはずだ」


 やがて、壁際に座っていた老人が言った。


 白髪を後ろへ撫でつけ、古い潮布を肩へ掛けている。


「南東?」


「ああ」


 老人は頷いた。ところが、すぐに眉を寄せる。


「いや……待て」


 卓の上へ指を置き、何かの形を描く。


「今の潮を抜けて、そのまま……」


 指が止まった。


「南東だ。たぶん」


「たぶん?」


「毎年少し違うからな」


 老人はそう言って笑おうとした。


 けれど、その笑みは妙に弱かった。


「何年この街に?」


「生まれてからずっとだよ」


「じゃあ、今年の巡路も知ってますよね?」


「もちろんだ」


 答えは早かった。


 そこでルカは、もう一度訊いた。


「次は?」


 老人は黙った。


「南東だと言っただろ」


 先ほどより、少しだけ声が強い。


 その時、別の卓から声が上がった。


「違うよ」


 中年の商人だった。胸元には交易組合の貝札を下げている。


「次は西だ。西の巡礼潮へ乗る」


「西?」


 ルカが振り向く。


「そうだ。毎年この時期は西へ回る。そこから……」


 商人も止まった。


「そこから?」


「……いや」


 自分で首を振る。


「違ったか?」


 老人が言った。


「南東だ」


「西だよ」


「何を言ってる。俺は七十年この街にいるんだぞ」


「こっちは毎年、この時期に荷を積みに来てる」


「じゃあ、お前が間違ってる」


「そっちこそ」


 喧嘩になりそうな声だった。


 けれど、どちらにも確信がない。


 怒っているというより、自分自身の記憶へ苛立っているように見えた。


「南東から巡礼潮へ入るんじゃないですか?」


 別の女が口を挟む。


「いや、巡礼潮はもっと後だろ」


「今年は逆回りだったんじゃ?」


「逆回りなんてしたら北環潮へ戻れないぞ」


「北環潮って今年通った?」


「通っただろ」


「いつ?」


「いつって……」


 そこで会話が途切れた。


 ルカは椅子から少し身を起こし、エルンを見る。


 彼ももう食事をしていなかった。


「変だね」


 小さな声だった。


「うん」


 ルカも頷く。


 厨房から宿の主人が出てきた。


「どうしたんだい。騒がしいね」


「ちょうどよかった」


 ルカはすぐに尋ねる。


「この街、次はどこへ行くんですか?」


「次?」


「はい」


 主人は口を開いた。


 当然、すぐ答えるものだと思った。


 けれど声が出ない。


「……次は」


 目がわずかに泳ぎ、窓の外へ向く。


 海。


 夕暮れの水平線。


「次は……」


 そのまま止まった。


「分からない?」


「いや」


 主人が笑った。


 さっきの老人と、同じ笑い方だった。


「分からないわけないだろう。ここで生まれて、ずっと暮らしてるんだ」


「じゃあ」


「ちょっと待ってくれ」


 主人は額へ手を当てた。


「今年の潮順は……春に北寄りへ回って、そのあと……」


 また、そこで止まる。


 ルカの胸の奥へ、昼間とは違う違和感が沈んだ。


 知らないのではない。


 忘れた、とも少し違う。


 忘れたのなら、自分が思い出せないことくらいは分かるはずだ。


 けれど彼らは、答えようとする直前まで、自分が知っていることを疑っていない。


 そして言葉にしようとした瞬間だけ、その先がなくなる。


「カイラ」


 ルカが呼ぶ。


 返事がない。


 顔を向けると、カイラもこちらの会話を聞いていた。


 もう笑っていない。


「何です?」


「……あたしに聞くなよ」


「カイラなら航路を知ってるかと思って」


「外から追ってくる側は、正確な巡路なんざ持たない」


 カイラは椅子へ深く座り直した。


「浮上都市は毎年ずれる。こっちが持ってるのは、だいたいどの時期にどの海域へ来るかって程度さ」


「でも、この街の人たちは知ってるはずですよね」


「ああ」


 カイラは老人たちを見る。


「普通ならね」


 その一言で、食堂の空気が変わった。


 さっきまで自分たちの記憶違いだと思っていた者たちが、互いの顔を見始める。


「待ってくれ」


 商人が立ち上がった。


「今年の巡回予定なら、港務所にある」


「中央の刻盤にも出てるだろ」


 老人が言う。


 宿の主人も頷いた。


「《潮構文刻盤》を見りゃ早い」


 ルカは食べかけの椀へ目を落とした。


「今から見られます?」


「中央盤なら夜でも記録士がいる」


「行こう」


 すぐに立ち上がる。


「今?」


 カイラが訊いた。


「気になるから」


「飯は?」


「戻ってきて食べます」


「冷めるよ」


「じゃあカイラ、食べないで待っててください」


「なんであたしが」


 文句を言いながらも、カイラは立ち上がった。


 エルンは何も言わず、ルカについてくる。


 結局、宿にいた老人と交易商人まで同行することになった。


 本人たちも、確かめずにはいられなかったのだろう。


 外へ出ると、夜のミラ=セレイは昼間以上に美しかった。


 橋の縁に取り付けられた潮灯が青白く輝き、その光が幾重にも重なる街区を繋いでいる。遠くには港の灯、そのさらに向こうには夜の海。


 橋は、やはり揺れない。


 そのおかげで夜でも歩きやすく、杖をつく老人の足取りにも不安はなかった。


「昔は夜の橋なんて嫌いだった」


 歩きながら老人が言った。


「暗いところで街区が動くと、自分が上がってるのか、向こうが下がってるのか分からなくなる」


「今は安心?」


「ああ」


 老人はすぐに答えた。


「こんなに楽なのは初めてだ」


 そこで少し黙り、


「だから、別に急いで動かなくてもいいとは思ってる」


 と続けた。


「でも、次へ行く場所を忘れるのは違う?」


 ルカが訊く。


「忘れてない」


 老人の返事は強かった。


「俺は覚えてる」


「南東?」


「……そうだ」


 少し遅れて答える。


「南東だ」


 後ろの商人が鼻を鳴らした。


「西だっての」


「まだ言うか」


「刻盤を見れば分かる」


 二人とも、その時まではそう信じていた。


 中央区のさらに高い場所に、《潮構文刻盤》はあった。


 ルカが想像していたより、ずっと大きい。


 建物の中へ収められた機械ではない。


 円形の広場そのものが、巨大な盤になっている。


 中心には真珠色の円盤があり、その周囲を幾重もの環が取り巻いていた。


 潮位。


 星潮。


 浮上核の出力。


 風向。


 祈りの周期。


 そして、一年を巡る航路。


 青緑色に発光する細い線が、円周へ沿って幾重にも伸びている。


「これ全部、街の航路?」


 ルカは思わず声を落とした。


「そうだ」


 夜番の記録士が答えた。


 老人たちから事情を聞くと、盤の外周へ案内してくれる。


「ミラ=セレイの位置は、単純な経度や距離だけでは記録できない。どの潮へ入り、どの星潮を横切り、浮上核がどの祈り周期にあるか。それらを合わせて一つの座標とする」


 ルカは盤面を覗き込んだ。


 海図とは違う。


 むしろ、何重もの輪でできた楽譜に近かった。


 一本の青い光が、過去から現在まで途切れず続いている。


「今いる場所は?」


「ここだ」


 記録士が指を差す。


 ひときわ明るい一点。


 ルカが星潮羅針盤で測った位置と、ほぼ一致している。


「正常なんですか?」


「位置情報そのものは正常だ。誤差もない。むしろ静潮固定が始まってから、これほど安定したことはない」


 記録士は即答した。


「じゃあ、その先は?」


 ルカが訊く。


 記録士の指が止まった。


「その先?」


「次の座標です」


 盤上には、これまでミラ=セレイが通ってきた航跡がある。いくつもの潮を繋ぎ、現在位置へ至る青い線。


 なら、その先にも続きがあるはずだった。


 ルカは目を細めた。


 ない。


「……ここで終わってる」


 現在位置を示す光点。


 そこまでは、綺麗に繋がっている。


 線の乱れもない。


 欠損もない。


 その一点から先だけが、何もない。


「次は?」


 ルカが訊いた。


 記録士は答えなかった。


「刻まれてないんですか?」


「そんなはずは……」


 彼は盤へ近づき、外周にある補助環を操作した。


 淡い光が増す。


 過去の航跡が薄れ、現在年度の巡回予定だけが浮かび上がった。


 それでも、結果は同じだった。


 現在位置。


 そこで終わっている。


「待て」


 記録士の声が低くなる。


「おかしい」


「何が?」


「ここは予定終点ではない」


 老人が言った。


「当然だ。まだ一年の途中だぞ」


 商人も盤へ身を乗り出す。


「ほら見ろ。西へ行くはずだったんだ」


「どこに西と書いてある」


「だから……」


 二人とも言葉を失った。


 どちらの説も、盤にはない。


 南東も。


 西の巡礼潮も。


 それどころか、次へ進むという記録そのものが存在していなかった。


「故障じゃないんですか?」


 ルカが訊く。


「それなら異常線が出る」


 記録士が答える。


 声には、先ほどまでの落ち着きがなかった。


「書かれていた座標が失われれば、刻盤は欠損を残す。外から削れば削除痕が出る。潮焼けでも、改竄でも同じだ」


「これは?」


「何もない」


「何も?」


「空白だ」


 ルカは盤面を見つめた。


 たしかに、壊れたようには見えない。


 文字が剥がれた跡もない。


 線を消した痕もない。


 最初からここまでしか刻まれていなかったように、現在位置で綺麗に完結している。


「でも……」


 記録士が呟く。


 自分に言い聞かせるような声だった。


「そんなはずはない」


 彼は盤の脇にある記録棚へ向かった。そこには薄い潮紙が、日付順に重ねられている。


「毎朝、刻盤の状態を写してる」


 何枚かを取り出し、机へ並べる。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 ルカたちも覗き込んだ。


 今日の写し。


 現在位置で線が終わっている。


 昨日。


 同じ。


 一昨日。


 同じ。


 記録士の手が速くなる。


「もっと前は?」


 ルカが訊く。


「待ってくれ」


 さらに紙をめくる。


 三日前。


 四日前。


 そこで。


「……ある」


 記録士の手が止まった。


 ルカは身を乗り出す。


 現在位置から先へ、細い線が続いていた。


 一点だけではない。


 さらに先。


 複数の予定潮。


 浮上核の調整値。


 次の巡回座標。


 その次まで。


 ちゃんと記されている。


「これ」


 商人が指を差した。


「やっぱり西じゃないか」


「違う」


 記録士が低く言う。


「これは西そのものじゃない。ここで巡礼潮へ接続して、そのあと南へ……」


 言いながら、顔が固まった。


「南へ?」


 ルカが訊く。


 記録士は紙を見た。


 書いてある。


 目の前に線がある。


 読めるはずだ。


 けれど、彼は答えなかった。


「……分からない」


 ようやく絞り出した。


「書いてあるのに?」


「構文としては読める」


「じゃあ」


「でも」


 記録士は顔を上げた。


「どうしてここへ行く予定だったのか、思い出せない」


 誰も声を出さなかった。


 ルカは古い写しと、現在の刻盤を見比べる。


 四日前にはあった。


 ミラ=セレイには、続きがあった。


 次に入る潮。


 その次に向かう海域。


 都市が一年を巡るための道。


 今は、それがない。


「誰かが消した?」


 エルンが訊いた。


 記録士は首を横に振る。


「消せば残る」


「何が?」


「消したという記録が」


 彼は現在の盤面へ手を向けた。


「これは違う」


「じゃあ、どうなってるんです?」


 ルカが訊く。


「分からない」


 記録士はしばらく盤を見つめた。


「空白を作った形跡がない」


「なのに、空白になってる」


「ああ」


「最初から?」


 ルカの問いに、記録士はすぐ答えなかった。


 やがて、小さく頷く。


「今の刻盤だけを見れば、そうとしか読めない」


 その言葉に、ルカの背中が冷えた。


 現在位置までの記録は完璧だった。


 どの潮を通ったか。


 どの星を読んだか。


 浮上核がどう動いたか。


 すべて残っている。


 過去はある。


 今もある。


 ないのは――。


「……次だけ」


 ルカが呟いた。


 エルンがこちらを見る。


「うん」


「止まってるから、次の場所へ行けないんじゃない」


 口にしながら、自分でもまだ確信は持てなかった。


「次の場所そのものが……」


 その先の言葉が出ない。


 消えた、では足りない。


 消した痕跡がない。


 壊れたのでもない。


 最初から存在していなかったように、そこだけが抜けている。


 老人が不安そうに古い潮紙を見ていた。


「だが、ここにあるじゃないか」


 四日前の写しを指す。


「俺たちは知ってたんだろ。次に行く場所を」


「そのはずです」


 ルカが答える。


「なら、どうして思い出せない?」


 今度は誰も答えられなかった。


 広場の外では、夜の街が静かに灯っている。


 橋は揺れない。


 家も揺れない。


 荷物も落ちない。


 子どもたちは、安全に眠れる。


 ミラ=セレイは、今いる場所をこれまでになく正確に保っている。


 その代わりに。


 ルカは、現在位置で途切れた青い線を見つめた。


 この街は、次にどこへ行くのかを知らない。


 いや、それだけなら、まだ航路を引き直せばいい。


 問題は――。


「みんな」


 ルカはゆっくりと口を開いた。


「次に行く場所を知らないことに、今まで気づかなかったんですか?」


 老人が顔を上げた。


 商人も。


 記録士も。


 誰も答えない。


 その沈黙の方が、空白の刻盤よりも不気味だった。


 街は三週間、同じ場所にいる。


 これほど異常なことなのに。


 橋が安全になった。


 商売が楽になった。


 病人を運べるようになった。


 住所ができた。


 その便利さの中で、誰も次の潮を確かめようとしなかった。


 ルカは胸元の貝殻護符へ触れた。


 流れないことと、忘れること。


 まだ、二つがどう繋がっているのかは分からない。


 それでも潮は、途切れた先を黙ったまま抱えていた。今ここにあるものだけが、あまりにも鮮明に残っている。


 ミラ=セレイは、ただ動けなくなっているのではない。


 何かが、街の先にあるはずのものを少しずつ失わせている。


 盤上では、現在地を示す光だけが明るく輝いていた。


 まるで、この海こそがミラ=セレイの唯一の居場所であるとでも言うように。

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