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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第5話 浮かぶ都市は、帰る場所を忘れた
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第一節 ― 安全になった街

 ミラ=セレイへ上がって、ルカが最初に驚いたのは、街の大きさではなかった。


 揺れないことだった。


 港湾区の船着き場へ足を下ろした瞬間、身体が勝手に次の揺れを待った。ナミル=レイから陸へ上がる時には、いつもそうなる。小さな船ほど波に素直だ。甲板が持ち上がれば膝を緩め、沈めば足裏へ力を入れる。船乗りなら考えなくても身体がやる。


 だからルカは、ミラ=セレイの桟橋へ移ったあとも、一歩目でわずかに膝を曲げた。


 次の波を待つ。


 来ない。


「あれ?」


 足元を見る。白灰色の板材で組まれた桟橋。その隙間から海が見えていた。細かな波が立ち、係留された交易船の船腹を叩いている。


 船は揺れている。だが、桟橋は動かない。


「変な歩き方」


 後ろからエルンに言われた。


「船から下りたら普通こうならない?」


「ならない」


「エルンは海の底から来たからでしょ」


「関係ある?」


「たぶん」


「便利だね、その言い方」


 最近、覚えなくてもいいところから言葉を覚えている。


 ルカは少しだけ睨んだが、エルンはもう別のところを見ていた。彼も足元の桟橋を気にしている。


 その先には、何本もの係留橋が扇状に広がっていた。


 遠くから眺めた時には、都市全体の巨大さばかりが目についた。けれど中へ入れば、その一つ一つに人の暮らしが詰まっていることが分かる。


 荷揚げ場では南方の果実を積んだ籠が次々と運ばれ、別の船からは青い塩樽、香辛料、帆布、干した祈魚、磨かれた浮上核の部品が降ろされていた。荷車が行き交い、人々の声が飛び交う。


「七番桟橋、午前便入ったぞ!」


「ラウ=マリカ便、帳簿は港務所へ!」


「そっちの荷は十二番倉庫! 昨日と同じだ!」


 昨日と同じ。


 その言葉にルカは少しだけ引っかかったが、すぐに別のものへ目を奪われた。


 大きな荷車が、一人で押されている。


 木箱が六段も積み上げられていた。


「危なくない?」


 思わず口にすると、荷車を押していた男がこちらを向いた。


「何がだ?」


「あ、いえ。そんなに高く積んで」


 男は自分の荷車を見上げた。


「これか?」


「橋、渡るんですよね」


「ああ」


「落ちません?」


 今度は男が不思議そうな顔をした。


「今は落ちんよ」


 笑って、そのまま荷車を押していく。


 ルカもその先を見る。


 港湾区と商業区を繋ぐ長い吊り橋だった。太い潮索が両側へ張られ、橋板の下には浮力を補助する小型の潮嚢がいくつも連なっている。


 遠くから見た時には、それが街の揺れに合わせて上下するものだと思っていた。


 だが、ほとんど動かない。


 荷車が橋へ入っても、六段積みの木箱は一つも傾かなかった。


「前はね」


 別の声がした。


 港の端で貝を売っていた老婆だった。白い天幕の下に小さな卓を出し、その上へ色とりどりの貝殻を並べている。


「橋を渡る時は、あんな積み方できなかったよ」


 老婆は皺だらけの手で、空中へ波の形を描いた。


「街が上がるだろ。橋が下がるだろ。そこへ横波が来る。荷車を押す奴が一人、後ろから押さえる奴が二人。それでも荒い日には三つに一つは箱が落ちた」


「三つに一つ?」


「大げさだよ」


 隣の干物屋から男が口を挟む。


「五つに一つだ」


「変わらないじゃないですか」


 ルカが言うと、二人とも笑った。


 悪い話をしているようには見えない。昔の不便さを、もう笑って話せる人たちの顔だった。


「お嬢ちゃん、よそから来たね?」


「メルナ=レイです」


「そりゃ揺れに慣れてるだろうけど、街ごと揺れるのはまた別さ」


 老婆は並べた貝殻を一つ持ち上げた。裏には小さな紐と鉤がついている。


「前なんて、店の棚に全部これを付けてたんだよ」


「何ですか、それ」


「棚止め。揺れたら商品ごと棚へ縛るのさ」


 老婆は笑いながら卓の下を指した。使われていない鉤が、いくつも束になって吊るされている。


「もういらない?」


「この三週間、一度も使ってないね。いやあ、楽になったよ。ほんとに」


 干物屋の男も頷いた。


「夜中に街区が傾いて叩き起こされることもない。朝起きたら皿が全部床、なんてこともなくなった」


「それ、よくあったんですか?」


「潮の荒い年はね。夫婦喧嘩より皿が割れる」


「うちは夫婦喧嘩の方が多かったよ」


「婆さんとこは亭主が先に割れたからな」


「埋めるぞ」


 軽口が飛び、周りの商人たちまで笑った。


 ルカもつられて笑う。


 けれど、胸のどこかには引っかかりが残った。


 ここへ来る前、自分はもっと違う光景を想像していた。


 錨記庁によって止められた街。


 ならば住民は困っているはずだと思っていた。動きたいのに動けない。どこかへ行きたいのに留められている。そんな顔をした人々がいるのだろう、と。


 実際には、港で笑っている。


 荷物は落ちない。商人は喜び、橋を渡る人々の足取りも軽い。


「思ってたのと違う?」


 隣へ来たカイラが言った。


 ネームレス・ガルの船員たちは、少し離れた別桟橋で係留作業をしている。海賊船が堂々と入っていいのかとルカは心配したが、今のところ誰も騒いでいなかった。船籍より荷と用件を見る土地なのか、それともカイラが以前から顔を利かせているのか。


「……ちょっと」


「止められて泣いてる連中でも並んでると思った?」


「そこまでじゃないですけど」


「顔に書いてある」


「書いてません」


「読名できるんだから、自分の顔くらい読めるようになりな」


「それ、関係ないですよね?」


「ないね」


 カイラは笑った。それから周囲を見回し、少し声を落とす。


「でも、ちゃんと見ときな」


「何を?」


「止めるってのは、悪いことばっかりじゃない」


 ルカは黙った。


 カイラはそれ以上説明せず、歩き出した。


「街へ入るよ。港だけ見て帰る気じゃないだろ?」


「もちろん」


 ルカとエルンも後を追った。


 港湾区から中心街へ向かう道は、いくつもの橋で繋がっている。


 浮上都市の道は、普通の街とは違う。建物と建物の間に道があるのではなく、街区そのものが分かれていて、それらを橋が結んでいた。


 ある区画には市場。


 ある区画には住宅。


 少し高いところには白い神殿。


 さらに奥には浮上核の整備塔が立ち、その周囲を太い潮索が幾重にも巡っている。


 橋の下には何十尋もの空間があり、そのさらに下で海が光っていた。


 ルカは最初の橋へ足を踏み出し、思わず欄干を握った。


「高い……」


 船の帆柱へ登ることはある。だが、それとは違う。


 足元が道なのに、そのすぐ下に何もない。遥か下で海面が揺れている。


「怖い?」


 エルンが訊いた。


「怖くない」


「握ってる」


「風が強いだけ」


「風、弱いよ」


「うるさい」


 橋の中央まで来て、ルカはようやく欄干から手を離した。


 そこを子どもたちが追い越していく。


 五、六歳くらいの子どもが三人。一人は木でできた小さな帆船を持ち、残る二人がそれを追いかけていた。


「待って!」


「こっち!」


 走る。


 欄干から腕を出す。


 また走る。


「危ない!」


 ルカは思わず声を上げた。


 子どもたちが止まり、三人揃ってぽかんとこちらを見る。


「何が?」


 ルカは言葉に詰まった。


「いや、その……走ったら」


「落ちないよ」


 一番大きい少年が、当然のことのように答えた。


 その向こうから母親らしい女性が歩いてくる。


「すみません、騒がしくて」


「いえ、でも橋の上ですよ」


「ああ」


 女性はルカの心配を理解したらしく、小さく笑った。


「前なら、私も叱ってました」


「前なら?」


「揺れてましたから」


 女性は欄干へ手を置く。


「風がなくても、下の街区が引かれると橋が急に沈むんです。子どもは軽いから、足を取られると危なくて」


「事故も?」


 尋ねてから、少し踏み込みすぎたかと思った。


 女性の表情がわずかに曇る。


「ありましたよ」


 それだけだったが、子どもたちへ向けた目で十分だった。


「外縁区の子が落ちたこともあります。命綱をつけてても、潮索が切れれば間に合わないこともあるから」


 ルカは橋の下を見た。


 青い海。


 ここから水面まで、どれほどあるのか見当もつかない。


 海へ落ちるだけなら、泳げる者もいるだろう。だが浮上都市の下には、巨大な潮帆と索具、浮上核から伸びる柱が幾重にも張り巡らされている。運が悪ければ、それへ叩きつけられる。


「今は?」


「揺れませんから」


 女性は子どもたちを見た。


「前よりは、ずっと安心して外へ出せます」


「母さん、行っていい?」


「走らないならね」


「さっき走ってた」


 エルンが言った。


 子どもたちが一斉に彼を見る。


 母親が吹き出した。


「ほら、見られてるわよ」


「走ってない!」


「走ってたよ」


「走ってない!」


 エルンは首を傾げる。


「走ってた」


「エルン」


 ルカは小声で袖を引いた。


「子ども相手に本気で勝たなくていいから」


「嘘だったから」


「そうだけど」


 子どもたちは口々に抗議しながら走って――母親に睨まれ、慌てて歩き始めた。


 その背中を見送りながら、ルカは何も言えなくなった。


 揺れる都市。


 流れる都市。


 それはさっきまで、とても美しいものに思えていた。


 街ごと旅をする。


 昨日と違う海を見て、来月には別の潮へ行く。


 けれど、その美しさの下には当然、危険もある。


 動くということは、何かがずれるということだ。


 橋も。


 荷物も。


 人も。


 時には、命さえ。


 橋を渡りきると、街はさらに賑やかになった。


 中央市場らしい。


 色鮮やかな天幕が何十枚も張られ、その下には食料、衣服、潮具、香辛料、貝細工、祈祷布が並んでいる。


 ここでも違和感は、危険なものではなかった。


 整っている。


 商品棚が真っ直ぐ並び、瓶は机の端まで置かれている。陶器を積んだ店ですら、棚止めを使っていない。


「これ、前だったら全部固定してたんでしょうね」


「ああ」


 カイラは市場を眺めながら答える。


「吊り棚が多かった。揺れに合わせて棚そのものが動くようになってたよ」


「今は普通の棚ばっかり」


「三週間で商売人は変わるもんさ」


「そんなに早く?」


「楽な方にはね」


 たしかに、店主たちは不満そうではなかった。むしろ活気がある。


「今日は定刻だよ!」


 魚屋の男が叫んでいた。


「セルカ=トゥラ便、朝三刻に入った! 鮮魚は昼前まで!」


 別の商人は客へ説明している。


「次のラウ=マリカ便も明日の朝だ。今度は探し回らなくていい。こっちはここにいるからな」


「前は違ったんですか?」


 ルカが尋ねると、男は笑った。


「お嬢ちゃん、浮上都市相手の商売したことないだろ?」


「ないです」


「こっちの予定通りに街がいると思うな、ってのが最初に教わることだったんだ」


「でも航路は決まってるんですよね?」


「大まかにはな。だが風も潮も祈りも毎年違う」


 男は帳面を広げた。何本もの線が引かれている。


「一昨年なんか、ミラ=セレイを追って三日南へ行ったら、夜のうちに東の潮へ乗りやがった。積み荷抱えて六日追いかけたよ」


「六日……」


「生魚だったら全部腐ってる」


 男は笑う。


「今は場所が決まってる。入港の時刻まで読める。商人にとっちゃ夢みたいな話だ」


 隣の店から声が飛ぶ。


「夢ならずっと寝てたいね!」


「違いない!」


 また笑いが起こる。


 ルカは、今度は笑えなかった。


 悪い意味ではない。


 何と返せばいいのか分からない。


 彼らの言っていることが、普通に理解できるからだ。


 交易船が都市を探さなくていい。


 運んだものが傷まない。


 港が毎日同じ位置にある。


 約束した日に、約束した場所へ行けば、相手がいる。


 陸の人間にとっては当たり前のことなのかもしれない。


 そして今、ミラ=セレイの人々も、その当たり前を手に入れている。


「おい、通してくれ!」


 市場の奥から声が上がった。


 人々が左右へ退く。


 白い布を掛けた担架が運ばれてきた。上には年老いた男が横たわり、苦しそうに目を閉じて胸元へ手を当てている。


 四人の担ぎ手が速足で進む。


「治療所だ!」


「中央橋を空けろ!」


 ルカも道を空けた。


 担架は市場を抜け、そのまま次の橋へ向かう。


 走っている。


 なのに担架はほとんど揺れず、横たわる老人の身体も安定していた。


「前だったら」


 近くにいた薬売りの女性が呟いた。


「こうはいかなかったね」


 ルカはその女性を見る。


「病人を運べなかったんですか?」


「運ぶさ。命がかかってるんだから」


 女性は薬瓶を棚へ戻した。


「ただ、揺れの大きい日は街区を二つ越えるだけで大仕事だった。担架を橋へ固定して、潮が下がるのを待って、上がる前に次へ渡す」


「じゃあ、時間が」


「かかる」


 女性の顔から笑みが消えた。


「間に合わなかったこともあるよ」


 それ以上は聞けなかった。


 担架が遠ざかっていく。


 白い布が橋の向こうへ消えるまで、一度も大きく傾かなかった。


 ルカは足元を見た。


 街は止まっている。


 そのせいで、助かる命がある。


 その事実は、思っていたより重かった。


「ルカ」


 エルンが呼んだ。


「うん」


「嫌?」


「何が?」


「ここ」


 少し考えた。


「分からない」


 答えは自然に出た。


 エルンはそれ以上尋ねなかった。


 市場を抜け、住宅区へ入る。


 ここではさらに変化が分かりやすかった。


 家々の入口に、小さな札が付いている。


 文字と数字。


 潮名ではなく、区画番号らしい。


《南環三区・十二》


《南環三区・十三》


《南環三区・十四》


 きれいに順番に並んでいる。


「これ、何ですか?」


 ルカが一軒の家先で掃除をしていた老人へ尋ねた。


「ああ、住所だよ」


「住所?」


「見りゃ分かるだろ」


「いや、住所なのは分かりますけど……前からあったんですか?」


 老人は箒を止めた。


「こんな細かいのは最近だな」


「最近?」


「街が止まってから役所が振った」


 老人は札を指で叩く。


「便利なもんだ。今までは『青帆神殿から北へ二橋、赤い屋根の街区が上に来たら西へ』なんて説明してた」


「……毎回変わりません、それ?」


「変わるよ」


 老人は平然と答えた。


「だから最後に『分からなきゃその辺の奴に聞け』が付く」


「住所の意味ないじゃないですか」


「浮く街の住所なんてそんなもんだ」


 老人は笑った。


「先月生まれた孫なんか、初めて役所へ出した紙にちゃんと番地が書けた。うちの嫁はえらく喜んでたよ」


 ルカは札を見る。


 南環三区・十二。


 ただの数字。


 陸の街なら何でもないもの。


 けれど、ずっと移動し続ける都市では、それすら新しかった。


「郵便も届くようになったしな」


「前は?」


「船便所が街を探す」


「やっぱり探すんだ……」


「探してるうちに、こっちが先に次の潮へ行く」


「それ、手紙どうなるんです?」


「次の周回まで追いかける」


「一年?」


「早けりゃな」


「遅いと?」


「二年」


 ルカは絶句した。


 老人が声を上げて笑う。


「今じゃ翌日に届く。悪くないだろ?」


「……悪くないですね」


 それは認めるしかなかった。


 悪くない。


 便利だ。


 安全だ。


 分かりやすい。


 住宅区の奥では、洗濯物が長い竿へ普通に干され、水瓶が家の外へ置かれている。窓辺には小さな植木鉢まで並んでいた。


 どれも、揺れれば落ちるものばかりだ。


 ここに住む人々は、もう「落ちるかもしれない」という前提を、少しずつ手放し始めている。


 そのことにルカは不安を覚えた。


 同時に、羨ましいとも思った。


 落ちることを考えなくていい生活。


 明日も同じ場所に家がある生活。


 誰かに住所を教えれば、そこへ来てもらえる生活。


 ルカには、本当の故郷がない。


 メルナ=レイは大切な港だ。


 ナミル=レイは家だ。


 けれど、自分がどこから来たのかは知らない。


 もし幼い頃の自分に、動かない家と、変わらない住所があったなら。


 そんな思いが胸へ触れた時、指先はいつの間にか首元の割れた貝殻護符へ伸びていた。


 自分の名を返してくれない海。


 流れてきたから、今ここにいる。


 けれど、流れてきたからこそ、どこから来たのかも分からない。


 潮は答えなかった。ただ、貝殻の欠けた縁だけが、指先にいつもの硬さを返した。


「ルカ」


 またエルンに呼ばれた。


「何?」


「止まってる」


 一瞬、心臓が跳ねた。


「何が?」


「ルカ」


「私?」


「歩いてない」


 気づけば、二人から数歩遅れていた。


 カイラが前方でこちらを見ている。


「置いてくよ」


「今行きます!」


 ルカは小走りで追いついた。


 その先には、少し広い広場があった。


 中央に掲示板が立っている。


 錨の紋章。


 ルカの足が止まりかけた。


 七本の錨を重ねた印。


 錨記庁。


 以前、あの止まった海で見たものと同じだった。


 掲示板には大きな潮紙が貼られている。


《浮上都市安定化試験区》


《係留構文正常》


《港湾変位・基準値内》


《外縁落下事故・試験期間中〇件》


《交易遅延・大幅減少》


 数字が並んでいる。


 海を読む言葉ではない。


 測るための言葉。


 ヴァルカの軍艦《オルヴァ=グレイヴ》で感じた、あの乾いた気配をルカは思い出した。


 反射的に、胸の奥へ嫌なものが湧く。


 けれど。


「ゼロなんだ」


 横で女性が言った。


 小さな子を抱いた、若い母親だった。


「え?」


「落下事故」


 彼女は掲示板を見ている。


「今年、この時期はもう三件あったの」


 腕の中の子どもは眠っていた。母親の肩へ頬を預け、規則正しく息をしている。


「一件は橋から。二件は外縁の作業区。去年はもっと多かった」


 女性は《〇件》という文字を指でなぞった。


「今は、ゼロ」


 その声には、政治も思想もなかった。


 ただ、安心があった。


 自分の子どもを抱いている人の安心。


「だから私は」


 女性は少し迷ってから言った。


「このままでもいいって思ってる」


 ルカは何も言えなかった。


「みんなじゃないよ」


 女性は付け加える。


「動かなきゃミラ=セレイじゃないって言う人もいる。年寄りは特にね。うちの父なんか毎日文句言ってる」


 少し笑う。


「でも私は、子どもを橋で遊ばせるたびに命綱を結ぶ街より、今の方がいい」


「……そうですよね」


 気づけば、そう答えていた。


 女性は軽く会釈して去っていく。


 ルカは掲示板を見た。


 錨の紋章。


 本来なら、自分にとっては嫌う理由の多い印だ。


 エルンを《黒箱漂着体》と呼んだ組織。


 名を測り、固定し、回収しようとする者たち。


 以前は、名を流さない海まで作った。


 ルカは、それを嫌った。


 今も嫌いだ。


 許されてもいない名を測ることも、誰かの名を勝手に固定することも、流れるべきものを止めることも。


 けれど、目の前にある《〇件》を嘘だとは言えなかった。


 橋を走る子ども。


 傾かない担架。


 倒れない商品棚。


 毎朝同じ場所へ来る交易船。


 住所を持った家。


 それらまで間違いだと言うことはできない。


「難しい顔してるね」


 カイラが隣に立った。


「そうですか?」


「眉間に錨が刺さってる」


「刺さってません」


「じゃあ何考えてる?」


 ルカは答えるまで少し時間がかかった。


「ヴァルカが、どうして止めたいのか」


 カイラは黙っている。


「前は」


 ルカは掲示板の文字を見たまま続けた。


「流れを止めたら駄目だって、それだけでよかったんです」


 止まった名は届かない。


 呼ばれても振り向けない。


 それは今でも間違っていないと思う。


「でも、ここを見たら……止めたから助かってるものもある」


「ああ」


 カイラは簡単に認めた。


「止めなかったら落ちる子がいる。間に合わない病人がいる。腐る荷物がある。街を見つけられず帰る船もいる」


 ルカは顔を上げた。


「カイラは、それでも動かした方がいいと思ってるんですか?」


「知らないよ」


「知らない?」


「この街に住んでないからね」


 カイラは肩をすくめた。


「あたしが決めることじゃない」


 あまりにも簡単に言われて、ルカは黙った。


 考えてみれば、当たり前だった。


 止まった方がいいのか。


 動いた方がいいのか。


 外から来た自分が、今ここで決められる話ではない。


「ただし」


 カイラが続ける。


「安全って言葉は便利だから、気をつけな」


「便利?」


「何でも飲み込める」


 カイラは掲示板の錨を指した。


「落ちない。怪我しない。迷わない。失わない。それだけ聞けば、嫌だって言う奴の方が馬鹿に見える」


 そこで一度、言葉を切る。


「でも、本当に全部それだけなのかは、自分の目で確かめな」


 ルカは頷いた。


「はい」


 今度は、軽く答えなかった。


 市場の喧騒が遠くから聞こえる。


 子どもの笑い声。


 荷車の車輪。


 定刻に入港した交易船を知らせる鐘。


 どれも普通だった。


 平和だった。


 ミラ=セレイは、少なくとも今この瞬間、壊れているようには見えない。むしろ以前より暮らしやすくなっている。


 だからこそ、ルカは分からなくなった。


 海は流れるものだ。


 名も流れるものだ。


 そう信じてきた。


 けれど、流れることによって失うものがある。


 動く街から落ちる子どもがいる。


 間に合わない命がある。


 届かない荷物がある。


 なら、失わないように止めることは、本当に間違いなのだろうか。


 胸の奥へ浮かんだ問いを、ルカはすぐには打ち消さなかった。


 答えが出ないなら、答えが出ないまま持っていればいい。


 名だって、無理に読めば壊れることがある。


 問いも、きっと同じなのだ。


「とりあえず宿を取りましょう」


 ルカが言った。


「腹減った?」


 カイラが尋ねる。


「それもあります」


「そっちが先だね」


「違います。半分くらいです」


「ほぼ先じゃないか」


「エルンもお腹すいたよね?」


 急に振られたエルンは少し考えた。


「すいた」


「ほら」


「何が『ほら』なのか分からないね」


 カイラが笑った。


 三人は住宅区から中央区へ向かって歩き出す。


 橋は揺れなかった。


 ルカはもう、欄干を掴まなくても渡れる。


 それが少し怖くて。


 同時に、少し楽だった。


 その二つが両方とも本当だということを、ルカはまだ上手く言葉にできなかった。

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