第六節 ― エルンは街の底へ降りる
浮上都市には、下がある。
当たり前のことなのに、ルカはそれまであまり考えていなかった。
ミラ=セレイへ来てから目にしてきたのは、空へ向かって広がる街だ。白い塔、色鮮やかな潮帆、街区と街区を結ぶ吊り橋。市場。住宅。祈り場。海面より遥か高い場所まで積み重ねられた建物。
そこに暮らす者たちは橋を渡り、階段を上り、別の街区へ移る。だから、街というものは上へ伸びているように見えた。
けれど実際には、そのすべてを支えているものが、海のすぐ上と、そのさらに下にある。
「ここから先は観光客が来る場所じゃない」
記録士が言った。
中央区の端。浮上核整備塔の裏側にある、小さな鉄扉の前だった。表から見れば、ただの倉庫にしか見えない。
扉には何重もの潮錠が掛けられ、その脇には現在の浮上核出力を示す細い計器が並んでいた。青い針は、ほとんど動いていない。
街が固定されているせいなのか、それとも正常値なのか、ルカには分からなかった。
「下には何があるんです?」
「浮上核。潮帆支持部。古い構文柱。水圧調整槽。それから、使われていない旧区画」
「旧区画?」
「ミラ=セレイは、今の形で最初から造られたわけじゃない」
記録士は潮錠を一つずつ外していく。
「増築してきたんだ。街区を足し、古い浮上核を新しいものへ繋ぎ、沈んだ区画の上に別の区画を載せる。上は建て替えられるが、下は全部取り除くわけにはいかない」
「どうして?」
「取り除いたものが、何を支えているか分からないからだ」
冗談ではなかった。
「怖い言い方しますね」
「実際、怖い場所だ」
最後の潮錠が外れた。
鉄扉が開く。
冷たい空気が流れ出した。
上層を吹く潮風とは違う。湿っていて、金属と古い水、貝殻、長く陽の当たっていない石の匂いが混じっていた。
エルンが一歩前へ出る。
「こっち」
迷いがない。
ルカはその背中を見た。
「分かるの?」
「うん」
「何があるか?」
「それは分からない」
「じゃあ何が分かるの」
「呼んでる方向」
ルカは黙った。
エルンは、祈り場でも同じようなことを言っていた。
上は返せなくなっている。
下は、別の方へ引っ張っている。
今も彼は扉の向こうの暗がりを見つめている。まるで、一度通ったことのある道を思い出そうとしているように。
「カイラは?」
ルカが振り返る。
カイラは扉の外に立ったままだった。
「行かないよ」
「え?」
「浮上核の中まで海賊船長を連れてったら、あとで何盗まれたって言われるか分かったもんじゃない」
「盗む気なんですか?」
「失礼だね」
「今、自分で言いましたよね」
「それに」
カイラはエルンを見る。
「ここから先は、あたしの仕事じゃない」
軽い言い方だった。
けれど、ルカには意味が分かった。
名を読む。沈んだものを探す。古い海の奥へ触れる。
そこは、ルカとエルンの領分だ。
「何かあったら戻ってきな」
「赤い牙貝、鳴らします?」
「街の底で鳴らしてどうする。船ごと突っ込めって?」
「それは困る」
「だろ?」
カイラはルカの額を指で軽く弾いた。
「無理して読まない」
「はい」
「エルン」
「うん」
「こいつが無理したら引っ張って帰れ」
「分かった」
「なんでエルンには素直なんですか」
「お前より聞き分けがいいから」
「そんなことない」
エルンがすぐ否定した。
ルカは少し嬉しくなる。
「ほら」
「そこ喜ぶところかい?」
カイラが呆れた。
短いやり取りを終え、ルカとエルンは扉の向こうへ入った。記録士が続き、背後で鉄扉が閉まる。
音が変わった。
上層では、いつでも風が聞こえていた。橋を渡る足音。帆布が鳴る音。人の声。遠くの港から届く鐘。海鳥。市場の喧騒。
街はいつも、何かしら喋っていた。
ここには、それがない。
代わりに聞こえるのは、低い振動だった。
ごう、と遠くで響く。一定ではない。巨大な生き物が眠りながら呼吸しているような音だった。
「浮上核です」
記録士が言った。
階段を下りる。
最初は石造りだった。壁には小さな潮灯が取り付けられ、足元も乾いている。
十段。
二十段。
さらに下る。
空気が少しずつ冷たくなった。
三つ目の踊り場を過ぎた頃から、壁が濡れ始める。石の隙間に水が滲み、細い筋になって流れていた。
「海水?」
ルカが触れようとすると、
「触らない方がいい」
記録士に止められた。
「なんで?」
「古い浮上核の冷却潮だ。害はないが、構文残響が強い」
ルカはすぐ手を引いた。
「先に言ってください」
「触るとは思わなかった」
「名拾いは何でも触ると思っててください」
「それを改めた方がいいんじゃないか?」
「私もそう思います」
エルンが横から言う。
「二人ともひどい」
さらに下る。
途中から、階段の幅が変わった。
それまでより狭い。
石材も違う。
白灰色だった壁は、深い青黒色へ変わっていた。
ルカは足を止めた。
「これ、途中で造り方変わってません?」
「分かるか」
「見れば分かります」
新しい壁は整っている。同じ大きさの石。均等な継ぎ目。
ところが古い部分は違った。巨大な石を不規則に組み、そこへ金属とも貝殻ともつかない白い材質を流し込んで接合している。表面には細かな溝が走っていた。
「文字?」
ルカが潮灯を近づける。
「いや」
記録士は首を振った。
「少なくとも、現在の都市構文ではない」
「読めない?」
「記号として成立しているかどうかも分からない」
ルカにも分からなかった。
線がある。
けれど、それが何かを書こうとしている線には見えない。波に削られた跡にも、誰かが意図的に刻んだ痕にも見える。
「エルン?」
少年は壁を見ていなかった。
さらに下を見ている。
「もっと下」
また言った。
階段を降りる。
やがて、空間が大きく開けた。
ルカは思わず息を止める。
「……大きい」
巨大な浮上核があった。
建物の中に装置がある、という大きさではない。
装置そのものが、建物だった。
半透明の青白い球体が、何本もの構文柱に囲まれて浮かんでいる。内部では光がゆっくりと回っていた。
一周して、止まる。
少し間を置き、また一周。
そのたびに低い振動が床を伝う。
球体の下からは何十本もの太い索が伸び、床を貫いてさらに下へ消えていた。
「これがミラ=セレイを浮かせてる?」
「一基だけだ」
記録士が答える。
「一基?」
「主浮上核が七基。補助核が二十三。細かな浮力核まで数えれば百を超える」
「七……」
ルカは、その数字に反応しかけた。
だが記録士は何事もないように続ける。
「増築された年代によって規格が違う。ここは第三主核区画だ」
なら、七という数に意味があるとは限らない。
何でも七へ結びつけるのは早い。
以前見た黒点が七つだったからこそ、余計に慎重になった。
「潮帆は?」
「あれだ」
記録士が球体の向こうを指す。
暗い空間に、巨大な布があった。
都市の下へ垂れている潮帆。
上から見ると美しかった。
青。
白。
薄緑。
光を透かし、海中を漂うクラゲのように見えた。
下側から見ると違う。
巨大だった。
重かった。
黒い海水を含んだ布が、太い索から吊り下がっている。ところどころに補修の縫い目があり、風ではなく潮を受け続けてきた表面には、水圧で刻まれた無数の皺が走っていた。
その下には、本物の海がある。
暗い。
街の底から、さらに落ちていく海。
ルカは欄干越しに見下ろした。
「これ、落ちたら?」
「上へ戻るのは難しい」
「聞かなきゃよかった」
「だから欄干がある」
「信じます」
エルンだけは怖がっていなかった。
欄干へ近づき、暗い海を見つめている。
いや。
見ているのは海ではない。
その手前。浮上核を支える、古い基壇。
「エルン?」
呼んでも返事がない。
少年はそのまま歩き出した。
「待って」
ルカが追う。
記録士も続こうとしたが、途中で足を止めた。
「そっちは旧構文区だ」
「入れない?」
「禁止ではない。ただ、何もない」
「何も?」
「現行構文とは接続していない」
なら。
ルカはエルンを見る。
「だから、エルンには聞こえるのかも」
記録士は理解できないという顔をした。
「彼は何を読んでいる?」
「沈んでるもの」
「都市の中で?」
「都市でも、人でも、海でも」
ルカは少し考え、
「私より深いところを」
とだけ答えた。
旧構文区へ入る。
景色がまた変わった。
潮灯の数が減り、新しい配管もなくなる。代わりに古い鎖が壁から何本も垂れていた。
錆びている。
一本は途中で切れている。
別の一本は石壁そのものへ飲み込まれ、どこへ続いているのか分からない。
床には浅く水が溜まり、歩くたび、靴の下でちゃぷ、と音がした。
ルカは足元へ目を落とす。
「水、流れてない」
完全な水溜まりではない。
どこかから入り、どこかへ抜けている。
それなのに、方向が分からない。
静かすぎる。
エルンはさらに奥へ進む。
「こっち」
「さっきからずっとそれしか言ってないよ」
「だって、こっち」
「分かってるけど」
呼ばれている。
エルンには本当にそう感じているのだろう。
歩き方が違った。
普段なら、知らない場所では少し慎重になる少年が、ここでは迷わない。
右。
階段。
左。
狭い通路。
また下。
「エルン」
ルカが腕を掴んだ。
少年が振り返る。
「何?」
「来たことある?」
「ない」
即答だった。
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、どうして道分かるの?」
エルンは少し考えた。
「分かるんじゃない」
「じゃあ?」
「間違ってる方が分かる」
ルカは眉を寄せる。
「どういう意味?」
「こっちじゃないって方が、うるさい」
説明になっているようで、なっていない。
「道を選んでるんじゃなくて?」
「うん」
エルンは暗い通路の奥を見る。
「戻されない方へ行ってる」
その言葉が、妙に耳へ残った。
さらに進む。
やがて壁の材質が完全に変わった。
石ではない。
黒く、光をほとんど反射しない。貝殻の内側のように滑らかな部分と、岩のように粗い部分が同じ面にある。
そこへ白い筋が走っていた。
最初は割れ目に見えた。
ルカは近づく。
線が一本。
そこから枝分かれし、また繋がる。
さらに別の線。
文字ではない。
絵でもない。
潮流図のようにも見える。
「記録士さん」
後ろを振り返る。
ついてきた記録士が壁へ潮灯を近づけた。
「こんなものがあったのか」
「知らなかったんですか?」
「壁の模様だと思われていた」
「調査は?」
「年代測定くらいだ。現行の浮上構文と反応しない。魔力も、祈りも、潮圧も通さない。構文として認識できないんだ」
「いつのもの?」
「ミラ=セレイ最古層より古い可能性がある」
ルカは壁を見た。
「街より古い?」
「少なくとも、今の記録上は」
「じゃあ、この街を造る前からここに?」
「それも分からない。浮上都市は、古い構造物を核に増築されたという説もある」
「説?」
「証明できないから説だ」
分からないことばかりだった。
それでも、エルンは分からない顔をしていなかった。
壁の前に立ち、ゆっくり手を伸ばす。
「待って」
ルカが止めた。
エルンの指が、壁の直前で止まる。
「何?」
「触るの?」
「うん」
「大丈夫?」
「分からない」
「それ、私の台詞」
「じゃあ、触らない?」
ルカは迷った。
自分が触るべきか。
けれど、見ても何も読めない。
潮の名の残響がない。
ルカにとって、この壁は深すぎた。
初めてエルンへ触れた時と同じ。
名がないのではない。
自分には届かないところにある。
「私には読めない」
ルカは正直に言った。
「エルンには?」
「聞こえる」
「どんなふうに?」
「まだ、触ってないから分からない」
ルカは彼の腕を離した。
「無理だったら、すぐ離して」
「うん」
「何か変だったら呼ぶから」
「僕の名前?」
「うん」
「分かった」
エルンが壁へ触れた。
何も起こらなかった。
少なくとも、ルカにはそう見えた。
光らない。
壁が開くこともない。
浮上核の音も変わらない。
「エルン?」
少年は動かなかった。
指先を黒い壁へ当てたまま、目を見開いている。
「エルン」
もう一度呼ぶ。
返事がない。
ルカの胸が跳ねた。
「エルン=カイオ」
「聞こえてる」
すぐに返ってきた。
ルカは息を吐く。
「返事してよ」
「聞いてた」
「私を?」
「違う」
エルンは壁から手を離さない。
「下を」
「何が聞こえる?」
エルンの眉が、わずかに寄った。
「一つじゃない」
「名前?」
「違う」
「声?」
「それも違う」
長い沈黙。
少年は、言葉を探していた。
「音?」
ルカが助けるように訊く。
「うん」
「何個?」
エルンは目を閉じる。
その瞬間だった。
ルカには何も聞こえない。
けれど少年の肩が、小さく揺れた。
右を見る。
次に左。
後ろ。
足元。
壁の向こう。
まるで同時にいくつもの方向から名を呼ばれた人間のように、視線が迷う。
「エルン?」
「七つ」
小さな声だった。
ルカの呼吸が止まる。
「七つ?」
「うん」
少年は壁へ掌全体を当てた。
「こっち」
右。
「こっちも」
左。
「下」
足元。
「向こう」
壁のさらに奥。
方角としては成立しない。
なのにエルンは、確かに別々のものとして聞き分けている。
「七方向?」
記録士が呟く。
「そんな構文は記録にない」
エルンは答えない。
ルカは壁の白い筋を見る。
何も変わっていない。
ただの模様。
少なくとも、自分には。
「同じ音?」
ルカが訊いた。
「似てる」
「全部?」
「うん」
「何て言ってるの?」
エルンはしばらく聞いていた。
「言葉じゃない」
「じゃあ、何?」
彼の指が、壁の上をゆっくり動いた。
一本の白い筋を辿る。
途中で枝分かれし、いくつもの線が重なる。
その中心らしき部分へ触れた瞬間、エルンが息を呑んだ。
「どうした?」
「開く」
「何が?」
「分からない」
エルンは目を閉じた。
七つの方向へ意識を向ける。
「でも」
その声が、わずかに低くなる。
「閉じてる音じゃない」
ルカは胸元の貝殻護符を握った。
七つの黒点。
七錨。
海を止めようとしている何か。
それと関係があるのか。
聞きたい。
けれど、まだ材料が少なすぎる。
「エルン」
「うん」
「これ、何に似てる?」
少年はすぐには答えなかった。
壁の中へ沈んだ古い音を、もう一度確かめる。
一つ。
二つ。
七つ。
やがて、目を開いた。
「扉みたいだ」
「扉?」
「うん」
「七つあるの?」
エルンは首を横に振る。
「分からない」
「じゃあ?」
「一つのところから」
彼は白い筋が集まる場所へ指を置いた。
「七方向に、開こうとしてる」
記録士が潮灯を近づける。
ルカも壁を見る。
言われて初めて、その模様が違って見えた。
無秩序な傷ではない。
中心がある。
そこから、いくつもの筋が伸びている。
けれど肉眼で数えようとすると、途中で線が重なり、どれがどこへ続いているのか分からなくなる。
「写せますか?」
ルカが訊いた。
「やってみる」
記録士が潮紙を取り出し、壁の前へ広げる。
「現行構文として認識されないなら、手で取るしかない」
「全部お願いします」
「ああ」
ルカはエルンを見る。
「まだ聞こえる?」
「うん」
「苦しくない?」
「平気」
「深い?」
少し迷ってから、エルンは頷いた。
「深い。でも」
「でも?」
「怖くない」
その答えに、ルカはかえって不安になった。
以前、錨の深い反応へ近づいた時、エルンは明らかな恐怖を見せていた。
これは違う。
古い。
深い。
自分にも分からない。
それなのに、エルンは拒絶していない。
むしろ、懐かしいものの前に立っているように見えた。
「エルン」
「何?」
「本当に来たことないんだよね?」
「ない」
「思い出してない?」
少年は壁を見る。
「分からない」
今度は、そう答えた。
ルカはそれ以上訊かなかった。
エルンの沈んでいる名を、無理に読まない。
自分たちで決めた掟だ。
今ここで、本人にも分からないものを引きずり出すべきではない。
「じゃあ、今分かるところだけ」
「うん」
エルンが頷いた。
記録士が壁の白い筋を、潮紙へ写していく。
一つ。
また一つ。
線は複雑に重なりながら、少しずつ形を現していった。
上層では、ミラ=セレイの現在の名が、次へ進めずにいる。
その遥か下。
何代もの都市構文より古い場所には、人の目には文字にすら見えない何かが残っていた。
それは今も、七つの方向へ向かって開こうとしている。
潮は、その深さをまだ語らない。
けれど、エルンだけはそこから届く音を聞いていた。




