第四節 ― 奇跡か、偽装か
還名神殿を出たとき、オルカ=ベルの空は曇りはじめていた。
朝には白く光っていた貝殻屋根も、昼を過ぎるころには鈍い灰色に沈んでいる。湾の沖では鯨が時おり低く鳴き、そのたびに町の貝鈴が細かく震えた。
ルカは神殿の回廊から、海葬桟橋を見下ろした。
昨夜、ミナ=ベルカの名が還るはずだった場所。
今は儀式の痕跡がまだ残っている。白い名灯籠が数基、桟橋の端に寄せられ、潮紙の破片が乾ききらずに板の隙間へ貼りついていた。貝殻箱からこぼれた小さな真珠片を、神官見習いがひとつずつ拾っている。
だが、桟橋に集まっているのは神官だけではなかった。
町の者たちが、遠巻きにそこを見ている。
魚籠を抱えた女。
海底香の束を背負った香師。
潮布を干しに来た職人。
名灯籠の替え芯を売る老人。
誰も桟橋の中央までは近づかない。けれど、離れもしない。
人々は、恐れていた。
そして、知りたがっていた。
「ネリュエ様が返してくださったんだろう」
誰かが言った。
声は小さかったが、潮風に乗ってルカの耳へ届いた。
「十年だぞ。十年も待ったんだ。母親の祈りが届いたんだ」
「でも、なぜあの子に宿るんだ」
「器が必要だったんじゃないのか。死者の名を戻すには、生きている器が」
「そんなことを言うな。生贄みたいじゃないか」
「実際、あの少年は昨夜からおかしくなってるんだろう?」
「神殿が何かしたんじゃないのか」
「還名を早める術があるって聞いたことがある」
「馬鹿な。そんなものがあれば、還らない名を待つ家なんてない」
噂は波のように広がり、岩にぶつかるたび形を変えていく。
奇跡。
偽装。
呪い。
生贄。
帰還。
乗っ取り。
どの言葉も、完全には間違っていないように聞こえる。だからこそ、厄介だった。
ルカは回廊の柱に手を添え、足元を流れる潮の気配を読んだ。
神殿の床下を通る水は、まだ落ち着かない。
オルカ=ベルの海は、多くの名を預かっている。死者の名、還らない名、還ってきた名。だが今、この町の潮は、ひとつの名に引き寄せられていた。
ミナ=ベルカ。
その名が町じゅうを歩いている。
人々が口にするたび、噂は名の形を少しずつ歪める。名は祈りであり、同時に記録でもある。何度も呼ばれ、何度も語られれば、事実とは違う形に固まりはじめる。
そして今、その歪みが、ノアの胸元へ流れ込んでいる。
ルカはそれを感じていた。
神殿の奥で眠っている少年の名が、町の声に引かれて微かに震えている。
このままでは、町そのものがノアを「ミナの帰還」にしてしまう。
それは、還名儀式よりもずっと危険だった。
「ルカ=ネリス」
背後から声がした。
振り返ると、セグラム神官が立っていた。顔には疲労が濃い。けれど祭衣は整えられ、真珠冠もまっすぐ額に載っている。
彼は疲れているのではなく、疲れているように見せないことに力を使っていた。
「話がある」
そう言って、神官は回廊の奥へ歩き出した。
ルカは黙ってついていく。
案内されたのは、神殿の記録室だった。
壁一面に潮紙の筒が並び、古い貝殻帳が棚に積まれている。天井からは乾燥した海藻束が吊られ、湿気を吸うための白砂壺が部屋の隅に置かれていた。
中央の机には、昨夜の儀式記録が広げられている。
ミナ=ベルカの名。
十年前の海葬日。
遺品。
参列者。
潮の満ち引き。
灯籠の数。
神官の署名。
すべてが丁寧に記されていた。
「手順に誤りはない」
セグラム神官は言った。
「潮紙も遺品も確認した。ミナ=ベルカの名は正しく呼ばれた。祭壇の水も清められていた。灯籠の芯も神殿のものだ」
「つまり、神殿側に落ち度はないと」
ルカが言うと、神官の眉がわずかに動いた。
「そういう話ではない」
「では、どういう話ですか」
「この件は、神殿の管理下に置く」
ルカは机の上の記録から目を上げた。
「ノアさんを、ですか」
「少年と、ミナ=ベルカの名をだ」
「それは同じではありません」
「今は同じだ」
神官の声が硬くなる。
「町の者たちは混乱している。ミナの母は娘が戻ったと信じ、ノアの保護者は少年を奪われると怯えている。噂は広がり、このままでは還名儀式そのものへの信頼が損なわれる」
「信頼を守るために、ノアさんを神殿に置くんですか」
「少年を守るためでもある」
「町の声から?」
「そうだ」
その言葉に嘘はなかった。
少なくとも、セグラム神官は本気でそう考えている。
ルカはそれを感じた。
この神官は悪人ではない。少年を犠牲にして名を戻そうとしているわけでもない。彼は、儀式を、神殿を、町を守ろうとしている。その中に、ノアの安全も含まれている。
ただし、それは神殿が扱える形に整えた安全だった。
「神官様」
ルカは静かに言った。
「ノアさんを神殿に置いて、町の人に見せないようにすれば、たしかに噂は少し静まるかもしれません。でも、神殿があの子を囲い込めば、人々はもっと疑います」
「だからこそ、神殿が正式に発表する」
「何を?」
「昨夜の現象は、潮神ネリュエによる特異な還名である、と」
ルカは息を止めた。
奇跡にする。
急使が言っていた言葉を思い出す。
「それは、まだ早いです」
「では、偽装だったと発表するか?」
セグラム神官は机に手をついた。
「誰かが還名儀式を利用し、死んだ少女の記憶を少年へ流し込んだと? そんなことを言えば、オルカ=ベルの還名すべてが疑われる。十年、二十年、名を待つ者たちが、今後何を信じればいい」
「でも、奇跡と呼べば、ノアさんはミナさんの帰還として扱われます」
「そうはしない」
「町はそうします」
部屋の外から、かすかに人々の声が聞こえている。
ミナ。
帰ってきた。
少年。
器。
奇跡。
噂はすでに、神殿の発表を待っていない。
ルカは続けた。
「ノアさんの名は、すでに弱っています。町じゅうがあの子をミナさんとして見れば、あの子自身が自分の名を保てなくなる」
「ならば、どうしろと言う」
神官の声には、苛立ちよりも焦りがあった。
「君は名拾いだろう。ならば、拾った名を本来の場所へ返せばいい」
「本来の場所が、ひとつとは限りません」
「名は、持ち主に返るものだ」
「そうでない名もあります」
沈黙が落ちた。
セグラム神官は、ルカを見つめた。
まだ若い少女の言葉を、神殿の長として受け入れるべきかどうかを測っている目だった。
ルカもまた、引かなかった。
名を読む者として、ここで譲ってはいけない。
「ミナさんの名は、本物です。でも完全ではありません。ノアさんの中にあるのは、ミナさんの名の一部です。しかもそれは、ノアさん自身の欠けた名に絡んでいます」
「だから、判断を保留しろと?」
「はい」
「町が待てると思うか」
「待てないからこそ、急いで間違えるべきではありません」
セグラム神官は、深く息を吐いた。
そのとき、記録室の扉が叩かれた。
神官見習いが顔を出す。
「神官様。ベルカ家の奥方が、また少年の部屋へ」
セグラム神官の顔が強ばった。
「リサ=リムは?」
「止めています。ですが、奥方が……その、ミナの名を呼び続けていて」
ルカは反射的に立ち上がった。
神官より早く部屋を出る。
回廊へ出た瞬間、白い名灯籠の火が遠くで揺れるのが見えた。
嫌な予感がした。
ノアのいる部屋の前には、数人の神官見習いが集まっていた。その奥から、女の泣き声が聞こえる。
「ミナ、お願い。返事をして」
「やめてください!」
リサの声だ。
「この子はノアです。何度も呼ばないで!」
「でも、答えたのよ。私の歌を覚えていた。あの子の髪紐のことも、窓辺の貝鈴のことも……あの子なのよ」
「違う!」
ルカが部屋へ入ると、空気が張り詰めていた。
ノアは寝台の上で半身を起こされている。リサがその背を支え、ミナの母がすぐそばに膝をついていた。彼女の手には桃色の髪紐がある。
白い灯籠が、青い灯籠よりも強く燃えていた。
ノアの顔は青ざめ、唇が震えている。
「ミナ」
母が呼ぶ。
ノアの体がびくりと跳ねた。
リサが泣きそうな顔で叫ぶ。
「呼ばないでって言ってるでしょう!」
「あなたにはわからない!」
ミナの母が振り返った。
その目は、十年間泣き続けた者の目だった。
「私はあの子を海に返したの。髪を切って、手紙を書いて、灯籠を流した。毎年、潮が戻る日にここへ来た。誰もいない浜で、ずっと待ったの。それが、やっと……やっと声が戻ってきたのよ」
「声だけで、この子を奪わないで」
「奪うなんて」
「奪ってる!」
リサの声が震えた。
「この子が自分の名前を呼ばれるたびに苦しんでるの、見えないんですか。あなたがミナって呼ぶたびに、この子が遠くなるんです」
ノアが胸を押さえた。
「僕は……」
彼の声は小さかった。
「僕は、ノア……」
白い灯籠が揺れる。
ミナの母が、涙で濡れた顔を上げた。
「ミナ」
その名が落ちた瞬間、ノアの声が変わった。
「お母さん」
リサが息を呑む。
ミナの母は崩れるようにノアへ手を伸ばした。
「ほら……ほら、やっぱり」
「違います」
ルカは二人の間に入った。
自分でも驚くほど、声が強く出た。
「今のは、ノアさんの中にあるミナさんの名が答えただけです。ノアさん自身が、あなたを母と呼んだわけではありません」
ミナの母の顔が、傷ついたように歪んだ。
「あなたに何がわかるの」
「まだ、全部はわかりません」
「なら、否定しないで!」
「否定しているのは、ミナさんではありません。ノアさんを、ミナさんだけにしてしまうことです」
部屋の空気が止まった。
白い煙の中で、ノアが小さく泣いている。
その涙が、誰のものなのか。
リサにも、ミナの母にも、ルカにも、まだわからない。
だからこそ、決めつけてはいけない。
ミナの母は髪紐を胸に抱きしめた。
「私は、あの子に帰ってきてほしかっただけ」
その声からは、怒りが抜けていた。
残ったのは、痛みだけだった。
「一度でいい。もう一度、名前を呼んでほしかっただけなの」
ルカは言葉を失った。
その願いを、間違いだとは言えなかった。
死んだ子に、もう一度だけ呼んでほしい。
それは祈りだ。
還名儀式は、その祈りのためにある。
けれど今、その祈りは生きている少年の名を押し潰しかけている。
リサが、ノアを抱いたままルカを見た。
その目には怒りも恐怖もあったが、何よりも切実な訴えがあった。
「ルカさん」
「はい」
「あの子はミナじゃない」
リサの声は震えていた。
「あの子は、ノアだ。私が浜で拾って、熱を出した夜に背中をさすって、初めて笑った日に貝の笛を買ってやって、何年も一緒に暮らしてきた子だ」
彼女はノアの髪を撫でた。
「なのに、みんながあの子を別の名前で呼ぶ」
青い灯籠の火が、小さく揺れる。
「ミナって呼ばれるたびに、この子が消えていく気がする。私の声じゃ、もう届かなくなる気がする」
リサは唇を噛んだ。
「お願い。あの子を、死んだ子の続きにしないで」
その言葉は、部屋にいる誰の胸にも刺さった。
ミナの母も、顔を背けた。
セグラム神官も、扉の前で黙っている。
ルカは、ノアの胸元の貝殻護符を見た。
青と白の光が、また内側で揺れている。
ふたつの名。
どちらも本物。
どちらも、無視できない。
けれど、今ここで一方を選べば、もう一方が傷つく。
それが、この事件の本当の恐ろしさだった。
偽装なら、暴けばいい。
呪いなら、祓えばいい。
奇跡なら、祈ればいい。
だがこれは、そのどれでもない。
名が本物であるがゆえに、誰かを傷つける。
ルカはゆっくりと息を吸った。
「今から、部屋の外でミナさんの名を呼ぶことを止めてください」
セグラム神官が顔を上げる。
「町人にか」
「はい。少なくとも、神殿の周囲では。ノアさんの名も、ミナさんの名も、強く呼びすぎないでください。どちらも揺れています」
「そんな布告を出せば、かえって噂になる」
「すでになっています」
ルカは神官を見た。
「神殿が本当にこの子を守るつもりなら、奇跡だと決める前に、名を静かにしてください」
セグラム神官は苦い顔をした。
だが、今度は反論しなかった。
「……わかった。神殿内では、二人の名を不用意に呼ぶことを禁じる。町には、還名の精査中とだけ伝える」
「お願いします」
ルカはリサへ向き直った。
「ノアさんを少し休ませてください。青い灯籠の火が弱くなっています」
リサは頷き、ノアをそっと寝台へ戻した。
ミナの母は、立ち上がろうとしてふらついた。
ルカは彼女を支えた。
痩せた肩だった。
十年分の待つ時間が、その体を細くしてしまったように感じた。
「私は……あの子を苦しめているの?」
母が小さく尋ねた。
ルカはすぐに答えられなかった。
優しい嘘を言うべきではない。
だが、刃のような真実をそのまま渡すべきでもない。
「あなたの声に、ミナさんの名が反応しています」
ルカは言った。
「それだけ、ミナさんの名はあなたのもとへ帰りたがっているんだと思います」
母の目に、また涙が溜まる。
「でも、その名は今、ノアさんの中にあります。だから、強く呼びすぎると、ノアさんが耐えられません」
「私は、どうすればいいの」
「待ってください」
母は笑った。
涙の中で、壊れそうな笑みだった。
「十年、待ったのに?」
ルカは何も言えなかった。
それでも、言わなければならない。
「もう少しだけ」
母は目を閉じた。
しばらくして、小さく頷いた。
その頷きは、納得ではなかった。
ただ、これ以上呼べば少年が壊れると、彼女にもわかったのだ。
部屋を出ると、回廊の向こうで町のざわめきがさらに大きくなっていた。
神殿の前に集まる人が増えている。
誰もが答えを求めている。
奇跡なのか。
偽装なのか。
死者は帰ったのか。
少年は奪われるのか。
神殿は何を隠しているのか。
ルカは回廊の柱にもたれ、海を見た。
沖で、鯨が鳴いた。
その声は、町の噂をすべて沈めてしまうほど深かった。
けれど、人の声は消えない。
名は、人が呼ぶたび形を持つ。
だからこそ、このままでは危うい。
ルカは胸元の潮名札に手を添えた。
自分の名の欠けたところが、かすかに冷たい。
ノアの苦しみが、他人事ではなかった。
別の名で呼ばれること。
自分の名が遠くなること。
それがどれほど怖いことか、ルカは少しだけ知っている。
彼女は顔を上げた。
次に必要なのは、記録だった。
神殿の記録では足りない。
町の噂ではなおさら足りない。
十年前、海で何が起きたのか。
ミナの名は、なぜノアの欠けた名に絡みついたのか。
それを知らなければ、誰かが誰かを奪う前に、名をほどくことはできない。
ルカはセグラム神官の方へ振り返った。
「十年前の潮紙を見せてください」
神官は、険しい顔をした。
「それを見て、何がわかる」
「少なくとも、神殿の記録に書かれなかったことがわかるかもしれません」
「記録に書かれなかったこと?」
「はい」
ルカは、神殿の外に広がる海葬都市を見た。
白い貝殻の階段。
名札の揺れる桟橋。
名を返してもらえなかった家の灯籠。
帰ってきてしまった名に震える町。
「潮は、嘘をつきません」
少し間を置いて、ルカは続けた。
「でも、人が聞きたいことだけを、聞かせてくれるわけでもありません」




