表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第1話 還ってきた名は、別人の声で泣いた
4/17

第三節 ― 少年の中の少女

 貝殻の扉の向こうは、神殿というより病室に近かった。


 床には白砂が薄く敷かれ、部屋の四隅には海底香を焚く小さな香炉が置かれている。煙は天井へ昇らず、低く漂っていた。まるで海の底に沈んだ霧のように、足首の高さでゆっくりと揺れている。


 壁には名灯籠が三つ吊るされていた。


 ひとつは青。


 ひとつは白。


 ひとつは火が消えている。


 青い灯籠には、ノア=リムの名札が結ばれていた。白い灯籠には、ミナ=ベルカの潮紙が結ばれている。消えた灯籠には、まだ何も結ばれていなかった。


 ルカは、それを見た瞬間、胸の奥に小さな棘を感じた。


 空の灯籠。


 神殿は、すでに第三の名を想定している。


 まだ誰のものとも決められない名を、そこへ入れようとしているのだ。


 部屋の中央には、低い寝台が置かれていた。


 そこに、少年が横たわっている。


 ノア=リム。


 年は十二、三ほど。色の薄い髪が額に張りつき、頬には乾ききらない涙の跡が残っている。体つきは細く、漁師や船乗りの子というより、網を繕う家の子らしい、手先だけが少し固い少年だった。


 その胸元には、貝殻護符が置かれていた。


 小さな二枚貝を合わせ、銀糸で縫い留めたもの。表面には、海風で削られた細い傷がある。長く身につけられていた護符だ。


 けれど、そこに浮かぶ光は、ノアのものではなかった。


 少なくとも、ルカにはそう見えた。


 寝台のそばには、ふたりの女がいた。


 ひとりは、ノアを抱きかかえるようにして座る女。髪を後ろでひとつにまとめ、潮網職人の作業着を着ている。疲れきった顔の奥に、少年を守ろうとする強い光があった。


 もうひとりは、少し離れた椅子に座る女だった。


 白い喪布を肩から掛けている。手には、桃色の髪紐を握りしめていた。十年前に海へ流したはずの遺品を、もう一度抱きしめるように。


 ミナの母だろう。


 彼女はルカが入ってきても、ほとんど反応しなかった。


 ただ、寝台の少年から目を離さない。


「名拾いを連れてきた」


 セグラム神官が言った。


 ノアを抱いている女が顔を上げる。


「この子を、どこにも連れて行かせません」


 最初の言葉がそれだった。


 ルカは静かに首を横に振る。


「連れて行きません。見るだけです」


「見るだけで、何がわかるんですか」


「文字よりは、少しだけ」


 女は眉を寄せた。


 不信の目だった。


 当然だと、ルカは思った。


 今この部屋で一番傷ついているのは、ミナの母だけではない。ノアを守ってきたこの女もまた、突然、少年の名を奪われかけている。


「あなたが、ノアさんの保護者ですか」


「リサ=リムです。血の繋がりはありません。でも、この子を育てたのは私です」


 リサは、ノアの肩にかけた布を握り直した。


「十年前に浜で拾いました。海から上がった子です。名もほとんど言えなくて、泣くこともできなかった。それでも、ノアって呼んだら、少しだけ反応したんです。だからノアになった」


 ルカはリサの言葉を、胸の内で繰り返した。


 十年前。


 浜で拾われた子。


 名をほとんど言えなかった。


 泣くこともできなかった。


 それは、すでに答えの一部だった。


「昨夜の儀式まで、この子は普通でした」


 リサの声が震える。


「少しぼんやりしたところはあるけど、働き者で、優しくて、網を繕うのが上手で……それなのに、急に」


 彼女は言葉を詰まらせた。


 ミナの母が、そこで初めて口を開いた。


「ミナは、網を繕うのが苦手でした」


 その声はひどく静かだった。


「いつも指に糸を絡ませて、泣きそうな顔をしていた。なのに歌だけはすぐ覚えたの。鯨歌いになりたいって、よく言っていた」


 彼女は、ノアの顔を見つめたまま続ける。


「この子が昨夜、言ったんです。『お母さん、わたし、鯨の歌を最後まで覚えられなかった』って。そんなこと、家族しか知らない」


 リサが唇を噛む。


「偶然です」


「偶然で、あの子の子守歌を歌える?」


 ミナの母の指が震える。


「ミナが小さいころ、夜泣きするときに歌った歌よ。誰にも聞かせていない。あの子と私だけの歌だった。それを、この子は歌ったの」


「だからって、この子がミナになるわけじゃない!」


 リサの声が鋭くなる。


 名灯籠の火が揺れた。


 白い灯籠の火が一瞬だけ強くなる。


 ノアのまつげが震えた。


 ルカは、寝台へ近づいた。


 部屋の空気が、すぐに変わる。


 海底香の煙がルカの足元で割れ、寝台の方へ流れた。ノアの貝殻護符が、淡く光る。青でも白でもない。ふたつの色が混ざりきらず、貝の内側でゆらゆらと滲んでいる。


 ルカは膝をつき、ノアの顔を覗き込んだ。


「ノアさん」


 少年の眉がわずかに動いた。


 ルカは声を落とす。


「聞こえますか」


 ノアの唇が開いた。


「……聞こえる」


 それは少年の声だった。


 掠れているが、確かに男の子の声。


 リサが小さく息をつく。


「ノア」


 その名を呼ばれた瞬間、ノアの表情が苦しげに歪んだ。


 ルカはすぐに手を上げ、リサを制した。


「今は、強く呼ばないでください」


「どうして」


「名が引っ張られています」


 リサは言葉を失う。


 ミナの母が立ち上がりかけた。


「では、ミナと呼べば――」


「それも、まだ駄目です」


 ルカの声は静かだったが、部屋の空気を止めるには十分だった。


 ミナの母が、椅子に座り直す。


 ノアの指が、寝台の布を掴んだ。


「僕は……ノアだ」


「はい」


 ルカは頷く。


「ここにいます」


「でも、いるんだ」


 少年は目を開けないまま呟いた。


「女の子が、いる。胸のところで、ずっと泣いてる。寒いって。暗いって。帰りたいって」


 リサが口元を押さえた。


 ミナの母は、祈るように髪紐を握りしめた。


 ノアの声が、ふっと変わる。


 細くなる。


 水の中から上がってきたように、輪郭が揺らぐ。


「お母さん……」


 ミナの母が、椅子から崩れ落ちるように前へ出た。


「ミナ!」


 ルカはすぐに振り返る。


「呼ばないでください!」


 だが遅かった。


 白い名灯籠が強く燃え、ノアの体が大きく跳ねた。少年の喉から、少年とも少女ともつかない悲鳴が漏れる。


 青い灯籠の火が小さくなる。


 ノアの名札が、紐の先で震えた。


 ルカは寝台の端に手をつき、潮の気配を読む。


 名が、動いている。


 ミナの名がノアの中で強くなるたび、ノア自身の名が押しやられる。けれどそれは、ミナの名がノアを食べているのとは違った。


 侵食に似ている。


 だが、もっと絡まっている。


 ほどこうとすると、一緒に千切れてしまうような結び目。


「ミナ……ミナ、帰ってきたのね」


 母が泣きながら呟く。


 ノアの唇が震えた。


「お母さん……ごめんなさい」


 その言葉に、母の顔が歪んだ。


「謝らないで。謝らないでいいのよ。あなたは悪くない。帰ってきてくれたのなら、それで――」


「違う」


 声が、また少年に戻った。


 ノアは目を開けた。


 薄い灰青の瞳。


 そこに、恐怖があった。


「違う。僕は……僕は、帰ってきたんじゃない」


 ノアは胸元の護符を握りしめた。


「押されたんだ。背中を。冷たい手で。上へ、上へって。僕だけ……」


 ルカは息を止めた。


「何を見ていますか」


「海」


 ノアの瞳が虚ろになる。


「暗い海。白い階段がある。下へ続いてる。鐘の音がする。でも、鐘は上じゃない。下で鳴ってる。誰かが、ずっと名前を呼んでる」


 白い階段。


 海の下の鐘。


 それは、ミナの生前の記憶ではない。


 少なくとも、オルカ=ベルの少女が知るはずのない光景だ。


 セグラム神官が眉をひそめる。


「沈没都市の幻か?」


 ルカは答えなかった。


 ノアの中にあるものは、単純な死者の記憶ではない。ミナの名、ノアの欠けた記憶、そしてもっと深い海の残響が、同じ場所で鳴っている。


 だから、声がずれる。


 だから、記憶がおかしい。


 ミナの名は、本物だ。


 けれど完全ではない。


 ルカは寝台のそばに置かれていた水鉢へ手を伸ばした。神殿の潮水が入っている。水面は静かだったが、ルカが指を浸すと、細い波紋が三重に広がった。


 ひとつは青。


 ひとつは白。


 ひとつは、色のない波紋。


 空の灯籠に対応する波紋だ。


 ルカはノアの貝殻護符へ目を向けた。


「触れてもいいですか」


 リサが迷うようにノアを見る。


 ノアは小さく頷いた。


 ルカは護符に指先を触れた。


 その瞬間、冷たい水が胸の奥へ流れ込んできた。


 浜。


 夜。


 子どもの泣き声。


 波に足を取られる感覚。


 誰かの手。


 小さな手ではない。


 けれど大人の手でもない。


 少女の手。


 必死に押している。


 上へ。


 岸へ。


 生きて。


 まだ、はっきりとは見えない。


 だが、手の感触だけが残った。


 そして、その手の持ち主が、自分の名をほどいて潮へ差し出す気配。


 ルカは指を離した。


 息が浅くなっていた。


「どうした」


 セグラム神官が問う。


 ルカはすぐには答えなかった。


 護符の中にある名の結び目を、心の中でなぞる。


 これは、乗っ取りではない。


 ミナの名がノアを奪おうとしているのなら、名はもっとまっすぐ食い込む。生者の名を押し潰し、自分の形に塗り替えようとするはずだ。


 だが、これは違う。


 ミナの名は、ノアの名の欠けたところに絡まっている。


 まるで、破れた網目に別の糸が結ばれているように。


 その糸を切れば、ミナの名は離れるかもしれない。けれど同時に、ノアの名の網もほどける。


 ノア自身の名にも、穴がある。


 それは昨夜できたものではない。


 もっと古い。


 十年前からある欠け。


「ノアさん」


 ルカは静かに呼んだ。


 今度は強く呼ばない。


 潮へ投げるのではなく、手のひらにそっと乗せるように。


 ノアの瞳が、わずかに焦点を結ぶ。


「はい」


「あなたは、ミナさんのことを覚えていますか」


 ノアは首を振ろうとした。


 だが、途中で止まる。


「知らない……はずなのに」


「はい」


「知ってる。歌を。髪紐の色を。お母さんの手が、いつも海底香の匂いだったことを。白珊瑚礁の近くへ行っちゃだめって言われてたことを」


 ミナの母が声を殺して泣いた。


 ノアは苦しそうに目を閉じる。


「でも、それだけじゃない。僕、あの子が海に入ったところも知ってる。僕の背中を押したことも。あの子が、何かを海に渡したことも」


「何を?」


 ルカが尋ねる。


 ノアは胸を押さえた。


「名前」


 部屋の灯籠が、いっせいに小さく揺れた。


「名前を、渡したんだと思う」


 その言葉は、ノアの声だった。


 けれど、その奥で、少女の泣き声が重なっていた。


 ルカは目を伏せる。


 やはり。


 ミナの名は、死後に偶然ノアへ宿ったのではない。


 十年前から、彼の中にあった。


 正確には、ノアの欠けた名の隙間に、ミナの名の一部が結びついていた。


 昨夜の還名儀式は、それを呼び起こしただけだ。


 セグラム神官が重い声で言う。


「では、ミナ=ベルカの名は本当にこの少年に還ったということか」


「還ったというより、もともと残っていたものが潮に照らされたんです」


「どう違う」


「大きく違います」


 ルカは神官を見た。


「もし還った名が外から入っただけなら、引き離せます。でも、これはノアさんの名の欠けた部分に絡んでいる。無理に剥がせば、ノアさんの名も傷つきます」


 リサの顔が青ざめる。


「それじゃ、この子はどうなるんですか」


「まだわかりません」


「わからない?」


「でも、ひとつだけ言えます」


 ルカはノアを見る。


 少年は疲れきった顔でこちらを見返していた。


「ノアさんは、ミナさんではありません」


 ミナの母が震えた。


 その言葉は、彼女にとって残酷だっただろう。


 だが、言わなければならなかった。


「でも、ミナさんの名が偽物というわけでもありません」


 今度はリサが息を止めた。


 ルカは続ける。


「ノアさんの中にあるのは、ミナさんの名の一部です。全部ではない。ミナさんそのものでもない。でも、本物の名の欠片です」


 沈黙が落ちた。


 海底香の煙が、足元でゆっくりと揺れる。


 白い灯籠と青い灯籠の火が、同じ高さで燃えている。


 ただ、空の灯籠だけは、まだ消えたままだった。


 ミナの母が、かすれた声で言う。


「一部でも……あの子なの?」


 ルカは、すぐには答えなかった。


 答えは簡単ではない。


 名の一部は、その人か。


 祈りの欠片は、本人か。


 残された声は、帰還と呼べるのか。


 それを決めるのは、名拾いではない。


「ミナさんの名は、ここにあります」


 ルカはノアの胸元の護符を見た。


「でも、それをミナさんと呼び切ってしまうと、ノアさんの名が沈みます」


 ミナの母は、髪紐を握りしめたまま泣いた。


 声を上げない泣き方だった。


 リサはノアを抱き寄せる。だが、今度はミナの母を睨まなかった。ただ、少年の背を支えながら、震えている。


 ノアが小さく呟いた。


「僕の中で、泣いてるんだ」


 ルカは頷く。


「はい」


「帰りたいって」


「はい」


「でも、僕も……消えたくない」


 ルカの胸が、わずかに痛んだ。


 彼女は自分の潮名札に触れそうになり、やめた。


 ここで自分の欠けた名に逃げるわけにはいかない。


「消させません」


 ルカは言った。


 ノアの目が揺れる。


「ミナさんの名も、ノアさんの名も、どちらも無理に沈めません。まずは、どう絡まっているのかを見ます」


 セグラム神官が口を開く。


「何をするつもりだ」


「十年前の記録を見せてください」


「儀式記録なら、もう確認した」


「神殿の記録ではなく、潮が覚えている記録です。潮紙、遺品、当時の浜の名札、鯨歌堂の記録。残っているものを全部」


 神官の顔が険しくなる。


「鯨歌堂まで使う気か」


「必要なら」


「鯨歌は、神殿記録より古い。扱いを誤れば、関係のない名まで起こす」


「もう起きています」


 ルカは静かに言った。


 部屋の外で、沖の鯨が再び鳴いた。


 今度は近かった。


 神殿の壁が、低く震える。


 空の灯籠の芯に、一瞬だけ火が入った。


 誰も触れていないのに。


 火はすぐに消えた。


 けれどルカは見た。


 その一瞬、灯籠の内側に、文字ではない影が浮かんだ。


 白い階段。


 海の底へ続く階段。


 そして、そこに立つ誰かの気配。


 まだ名はない。


 まだ読めない。


 だが、今回の事件は、ミナとノアだけで終わらない。


 もっと深いところから、何かがこちらを見ている。


 ルカは目を伏せ、息を整えた。


 まずは、目の前の名だ。


 少年の中で泣いている少女。


 少女の名に支えられて生きている少年。


 そして、ふたりのあいだに空いた、十年前の穴。


 それを読まなければならない。


「ノアさん」


 ルカは最後にもう一度、少年の名を呼んだ。


 今度は、部屋の灯籠は揺れなかった。


 ノアは小さく返事をした。


「はい」


「あなたの名を、少しだけ預かります」


「取らない?」


「取りません。拾うだけです」


 ノアは、安心したのか、疲れ果てたのか、静かに目を閉じた。


 その胸元で、貝殻護符が淡く光る。


 青と白。


 ふたつの色は、まだ混ざり合わない。


 けれど、離れることもできずに、同じ貝殻の内側で震えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ