第三節 ― 少年の中の少女
貝殻の扉の向こうは、神殿というより病室に近かった。
床には白砂が薄く敷かれ、部屋の四隅には海底香を焚く小さな香炉が置かれている。煙は天井へ昇らず、低く漂っていた。まるで海の底に沈んだ霧のように、足首の高さでゆっくりと揺れている。
壁には名灯籠が三つ吊るされていた。
ひとつは青。
ひとつは白。
ひとつは火が消えている。
青い灯籠には、ノア=リムの名札が結ばれていた。白い灯籠には、ミナ=ベルカの潮紙が結ばれている。消えた灯籠には、まだ何も結ばれていなかった。
ルカは、それを見た瞬間、胸の奥に小さな棘を感じた。
空の灯籠。
神殿は、すでに第三の名を想定している。
まだ誰のものとも決められない名を、そこへ入れようとしているのだ。
部屋の中央には、低い寝台が置かれていた。
そこに、少年が横たわっている。
ノア=リム。
年は十二、三ほど。色の薄い髪が額に張りつき、頬には乾ききらない涙の跡が残っている。体つきは細く、漁師や船乗りの子というより、網を繕う家の子らしい、手先だけが少し固い少年だった。
その胸元には、貝殻護符が置かれていた。
小さな二枚貝を合わせ、銀糸で縫い留めたもの。表面には、海風で削られた細い傷がある。長く身につけられていた護符だ。
けれど、そこに浮かぶ光は、ノアのものではなかった。
少なくとも、ルカにはそう見えた。
寝台のそばには、ふたりの女がいた。
ひとりは、ノアを抱きかかえるようにして座る女。髪を後ろでひとつにまとめ、潮網職人の作業着を着ている。疲れきった顔の奥に、少年を守ろうとする強い光があった。
もうひとりは、少し離れた椅子に座る女だった。
白い喪布を肩から掛けている。手には、桃色の髪紐を握りしめていた。十年前に海へ流したはずの遺品を、もう一度抱きしめるように。
ミナの母だろう。
彼女はルカが入ってきても、ほとんど反応しなかった。
ただ、寝台の少年から目を離さない。
「名拾いを連れてきた」
セグラム神官が言った。
ノアを抱いている女が顔を上げる。
「この子を、どこにも連れて行かせません」
最初の言葉がそれだった。
ルカは静かに首を横に振る。
「連れて行きません。見るだけです」
「見るだけで、何がわかるんですか」
「文字よりは、少しだけ」
女は眉を寄せた。
不信の目だった。
当然だと、ルカは思った。
今この部屋で一番傷ついているのは、ミナの母だけではない。ノアを守ってきたこの女もまた、突然、少年の名を奪われかけている。
「あなたが、ノアさんの保護者ですか」
「リサ=リムです。血の繋がりはありません。でも、この子を育てたのは私です」
リサは、ノアの肩にかけた布を握り直した。
「十年前に浜で拾いました。海から上がった子です。名もほとんど言えなくて、泣くこともできなかった。それでも、ノアって呼んだら、少しだけ反応したんです。だからノアになった」
ルカはリサの言葉を、胸の内で繰り返した。
十年前。
浜で拾われた子。
名をほとんど言えなかった。
泣くこともできなかった。
それは、すでに答えの一部だった。
「昨夜の儀式まで、この子は普通でした」
リサの声が震える。
「少しぼんやりしたところはあるけど、働き者で、優しくて、網を繕うのが上手で……それなのに、急に」
彼女は言葉を詰まらせた。
ミナの母が、そこで初めて口を開いた。
「ミナは、網を繕うのが苦手でした」
その声はひどく静かだった。
「いつも指に糸を絡ませて、泣きそうな顔をしていた。なのに歌だけはすぐ覚えたの。鯨歌いになりたいって、よく言っていた」
彼女は、ノアの顔を見つめたまま続ける。
「この子が昨夜、言ったんです。『お母さん、わたし、鯨の歌を最後まで覚えられなかった』って。そんなこと、家族しか知らない」
リサが唇を噛む。
「偶然です」
「偶然で、あの子の子守歌を歌える?」
ミナの母の指が震える。
「ミナが小さいころ、夜泣きするときに歌った歌よ。誰にも聞かせていない。あの子と私だけの歌だった。それを、この子は歌ったの」
「だからって、この子がミナになるわけじゃない!」
リサの声が鋭くなる。
名灯籠の火が揺れた。
白い灯籠の火が一瞬だけ強くなる。
ノアのまつげが震えた。
ルカは、寝台へ近づいた。
部屋の空気が、すぐに変わる。
海底香の煙がルカの足元で割れ、寝台の方へ流れた。ノアの貝殻護符が、淡く光る。青でも白でもない。ふたつの色が混ざりきらず、貝の内側でゆらゆらと滲んでいる。
ルカは膝をつき、ノアの顔を覗き込んだ。
「ノアさん」
少年の眉がわずかに動いた。
ルカは声を落とす。
「聞こえますか」
ノアの唇が開いた。
「……聞こえる」
それは少年の声だった。
掠れているが、確かに男の子の声。
リサが小さく息をつく。
「ノア」
その名を呼ばれた瞬間、ノアの表情が苦しげに歪んだ。
ルカはすぐに手を上げ、リサを制した。
「今は、強く呼ばないでください」
「どうして」
「名が引っ張られています」
リサは言葉を失う。
ミナの母が立ち上がりかけた。
「では、ミナと呼べば――」
「それも、まだ駄目です」
ルカの声は静かだったが、部屋の空気を止めるには十分だった。
ミナの母が、椅子に座り直す。
ノアの指が、寝台の布を掴んだ。
「僕は……ノアだ」
「はい」
ルカは頷く。
「ここにいます」
「でも、いるんだ」
少年は目を開けないまま呟いた。
「女の子が、いる。胸のところで、ずっと泣いてる。寒いって。暗いって。帰りたいって」
リサが口元を押さえた。
ミナの母は、祈るように髪紐を握りしめた。
ノアの声が、ふっと変わる。
細くなる。
水の中から上がってきたように、輪郭が揺らぐ。
「お母さん……」
ミナの母が、椅子から崩れ落ちるように前へ出た。
「ミナ!」
ルカはすぐに振り返る。
「呼ばないでください!」
だが遅かった。
白い名灯籠が強く燃え、ノアの体が大きく跳ねた。少年の喉から、少年とも少女ともつかない悲鳴が漏れる。
青い灯籠の火が小さくなる。
ノアの名札が、紐の先で震えた。
ルカは寝台の端に手をつき、潮の気配を読む。
名が、動いている。
ミナの名がノアの中で強くなるたび、ノア自身の名が押しやられる。けれどそれは、ミナの名がノアを食べているのとは違った。
侵食に似ている。
だが、もっと絡まっている。
ほどこうとすると、一緒に千切れてしまうような結び目。
「ミナ……ミナ、帰ってきたのね」
母が泣きながら呟く。
ノアの唇が震えた。
「お母さん……ごめんなさい」
その言葉に、母の顔が歪んだ。
「謝らないで。謝らないでいいのよ。あなたは悪くない。帰ってきてくれたのなら、それで――」
「違う」
声が、また少年に戻った。
ノアは目を開けた。
薄い灰青の瞳。
そこに、恐怖があった。
「違う。僕は……僕は、帰ってきたんじゃない」
ノアは胸元の護符を握りしめた。
「押されたんだ。背中を。冷たい手で。上へ、上へって。僕だけ……」
ルカは息を止めた。
「何を見ていますか」
「海」
ノアの瞳が虚ろになる。
「暗い海。白い階段がある。下へ続いてる。鐘の音がする。でも、鐘は上じゃない。下で鳴ってる。誰かが、ずっと名前を呼んでる」
白い階段。
海の下の鐘。
それは、ミナの生前の記憶ではない。
少なくとも、オルカ=ベルの少女が知るはずのない光景だ。
セグラム神官が眉をひそめる。
「沈没都市の幻か?」
ルカは答えなかった。
ノアの中にあるものは、単純な死者の記憶ではない。ミナの名、ノアの欠けた記憶、そしてもっと深い海の残響が、同じ場所で鳴っている。
だから、声がずれる。
だから、記憶がおかしい。
ミナの名は、本物だ。
けれど完全ではない。
ルカは寝台のそばに置かれていた水鉢へ手を伸ばした。神殿の潮水が入っている。水面は静かだったが、ルカが指を浸すと、細い波紋が三重に広がった。
ひとつは青。
ひとつは白。
ひとつは、色のない波紋。
空の灯籠に対応する波紋だ。
ルカはノアの貝殻護符へ目を向けた。
「触れてもいいですか」
リサが迷うようにノアを見る。
ノアは小さく頷いた。
ルカは護符に指先を触れた。
その瞬間、冷たい水が胸の奥へ流れ込んできた。
浜。
夜。
子どもの泣き声。
波に足を取られる感覚。
誰かの手。
小さな手ではない。
けれど大人の手でもない。
少女の手。
必死に押している。
上へ。
岸へ。
生きて。
まだ、はっきりとは見えない。
だが、手の感触だけが残った。
そして、その手の持ち主が、自分の名をほどいて潮へ差し出す気配。
ルカは指を離した。
息が浅くなっていた。
「どうした」
セグラム神官が問う。
ルカはすぐには答えなかった。
護符の中にある名の結び目を、心の中でなぞる。
これは、乗っ取りではない。
ミナの名がノアを奪おうとしているのなら、名はもっとまっすぐ食い込む。生者の名を押し潰し、自分の形に塗り替えようとするはずだ。
だが、これは違う。
ミナの名は、ノアの名の欠けたところに絡まっている。
まるで、破れた網目に別の糸が結ばれているように。
その糸を切れば、ミナの名は離れるかもしれない。けれど同時に、ノアの名の網もほどける。
ノア自身の名にも、穴がある。
それは昨夜できたものではない。
もっと古い。
十年前からある欠け。
「ノアさん」
ルカは静かに呼んだ。
今度は強く呼ばない。
潮へ投げるのではなく、手のひらにそっと乗せるように。
ノアの瞳が、わずかに焦点を結ぶ。
「はい」
「あなたは、ミナさんのことを覚えていますか」
ノアは首を振ろうとした。
だが、途中で止まる。
「知らない……はずなのに」
「はい」
「知ってる。歌を。髪紐の色を。お母さんの手が、いつも海底香の匂いだったことを。白珊瑚礁の近くへ行っちゃだめって言われてたことを」
ミナの母が声を殺して泣いた。
ノアは苦しそうに目を閉じる。
「でも、それだけじゃない。僕、あの子が海に入ったところも知ってる。僕の背中を押したことも。あの子が、何かを海に渡したことも」
「何を?」
ルカが尋ねる。
ノアは胸を押さえた。
「名前」
部屋の灯籠が、いっせいに小さく揺れた。
「名前を、渡したんだと思う」
その言葉は、ノアの声だった。
けれど、その奥で、少女の泣き声が重なっていた。
ルカは目を伏せる。
やはり。
ミナの名は、死後に偶然ノアへ宿ったのではない。
十年前から、彼の中にあった。
正確には、ノアの欠けた名の隙間に、ミナの名の一部が結びついていた。
昨夜の還名儀式は、それを呼び起こしただけだ。
セグラム神官が重い声で言う。
「では、ミナ=ベルカの名は本当にこの少年に還ったということか」
「還ったというより、もともと残っていたものが潮に照らされたんです」
「どう違う」
「大きく違います」
ルカは神官を見た。
「もし還った名が外から入っただけなら、引き離せます。でも、これはノアさんの名の欠けた部分に絡んでいる。無理に剥がせば、ノアさんの名も傷つきます」
リサの顔が青ざめる。
「それじゃ、この子はどうなるんですか」
「まだわかりません」
「わからない?」
「でも、ひとつだけ言えます」
ルカはノアを見る。
少年は疲れきった顔でこちらを見返していた。
「ノアさんは、ミナさんではありません」
ミナの母が震えた。
その言葉は、彼女にとって残酷だっただろう。
だが、言わなければならなかった。
「でも、ミナさんの名が偽物というわけでもありません」
今度はリサが息を止めた。
ルカは続ける。
「ノアさんの中にあるのは、ミナさんの名の一部です。全部ではない。ミナさんそのものでもない。でも、本物の名の欠片です」
沈黙が落ちた。
海底香の煙が、足元でゆっくりと揺れる。
白い灯籠と青い灯籠の火が、同じ高さで燃えている。
ただ、空の灯籠だけは、まだ消えたままだった。
ミナの母が、かすれた声で言う。
「一部でも……あの子なの?」
ルカは、すぐには答えなかった。
答えは簡単ではない。
名の一部は、その人か。
祈りの欠片は、本人か。
残された声は、帰還と呼べるのか。
それを決めるのは、名拾いではない。
「ミナさんの名は、ここにあります」
ルカはノアの胸元の護符を見た。
「でも、それをミナさんと呼び切ってしまうと、ノアさんの名が沈みます」
ミナの母は、髪紐を握りしめたまま泣いた。
声を上げない泣き方だった。
リサはノアを抱き寄せる。だが、今度はミナの母を睨まなかった。ただ、少年の背を支えながら、震えている。
ノアが小さく呟いた。
「僕の中で、泣いてるんだ」
ルカは頷く。
「はい」
「帰りたいって」
「はい」
「でも、僕も……消えたくない」
ルカの胸が、わずかに痛んだ。
彼女は自分の潮名札に触れそうになり、やめた。
ここで自分の欠けた名に逃げるわけにはいかない。
「消させません」
ルカは言った。
ノアの目が揺れる。
「ミナさんの名も、ノアさんの名も、どちらも無理に沈めません。まずは、どう絡まっているのかを見ます」
セグラム神官が口を開く。
「何をするつもりだ」
「十年前の記録を見せてください」
「儀式記録なら、もう確認した」
「神殿の記録ではなく、潮が覚えている記録です。潮紙、遺品、当時の浜の名札、鯨歌堂の記録。残っているものを全部」
神官の顔が険しくなる。
「鯨歌堂まで使う気か」
「必要なら」
「鯨歌は、神殿記録より古い。扱いを誤れば、関係のない名まで起こす」
「もう起きています」
ルカは静かに言った。
部屋の外で、沖の鯨が再び鳴いた。
今度は近かった。
神殿の壁が、低く震える。
空の灯籠の芯に、一瞬だけ火が入った。
誰も触れていないのに。
火はすぐに消えた。
けれどルカは見た。
その一瞬、灯籠の内側に、文字ではない影が浮かんだ。
白い階段。
海の底へ続く階段。
そして、そこに立つ誰かの気配。
まだ名はない。
まだ読めない。
だが、今回の事件は、ミナとノアだけで終わらない。
もっと深いところから、何かがこちらを見ている。
ルカは目を伏せ、息を整えた。
まずは、目の前の名だ。
少年の中で泣いている少女。
少女の名に支えられて生きている少年。
そして、ふたりのあいだに空いた、十年前の穴。
それを読まなければならない。
「ノアさん」
ルカは最後にもう一度、少年の名を呼んだ。
今度は、部屋の灯籠は揺れなかった。
ノアは小さく返事をした。
「はい」
「あなたの名を、少しだけ預かります」
「取らない?」
「取りません。拾うだけです」
ノアは、安心したのか、疲れ果てたのか、静かに目を閉じた。
その胸元で、貝殻護符が淡く光る。
青と白。
ふたつの色は、まだ混ざり合わない。
けれど、離れることもできずに、同じ貝殻の内側で震えていた。




