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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第1話 還ってきた名は、別人の声で泣いた
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第二節 ― 海葬都市オルカ=ベル

 メルナ=レイを離れて半日ほど、海の色が変わりはじめた。


 真珠港を囲む海は、朝には乳白色を帯び、昼には淡い青へほどけていく。けれど南へ進むにつれて、その青は少しずつ深くなった。藍に近く、黒に近く、けれど夜の黒ではない。底に眠るものの多さで、海そのものが重くなっているような色だった。


 ルカはナミル=レイの舳先に立ち、風の匂いを嗅いだ。


 塩。


 鯨油。


 古い香。


 そして、濡れた木札の匂い。


 オルカ=ベルが近い。


 急使は船室で休んでいた。昨夜からほとんど眠っていないらしく、ナミル=レイが出航してしばらくすると、糸が切れたように座席へ沈み込んだ。無理もない。還名儀式の異常など、普通の神官見習いや使い走りが運ぶには重すぎる知らせだった。


 ルカはひとりで舵を取りながら、海面を見ていた。


 南の潮は、まだ迷っている。


 船の下を流れる潮筋が、ときおり二つに割れるのだ。左へ行こうとして、右へ戻る。沈もうとして、浮かび直す。まるで、ひとつの名がふたつの呼び声に引かれているようだった。


 ふいに、低い声が聞こえた。


 沖の方からだった。


 鯨の声。


 人の声とは違う。けれど、ただの獣の鳴き声とも違う。海の底に沈んだ古い鐘を、誰かがゆっくりと揺らしたような響きだった。


 ナミル=レイの帆が、わずかに震える。


 ルカは顔を上げた。


 前方に島影が見えた。


 オルカ=ナハト。


 鯨歌の島。


 島は遠目には、黒い鯨が海に背を出して眠っているように見える。低い山並みが湾を抱き、白い霧が谷間から海へ流れていた。湾の入り口には、左右に巨大な鯨骨の柱が立っている。骨は白く磨かれ、表面には無数の名が刻まれていた。


 死者の名。


 流された名。


 還らなかった名。


 それらが陽を受けるたび、鯨骨の柱は淡く光った。


 その内側に、海葬都市オルカ=ベルはあった。


 都市は、海へ降りるために造られているようだった。


 白い貝殻を敷き詰めた階段が、町のあちこちから湾へ伸びている。家々は斜面に寄り添うように建ち、屋根には乾いた海藻束と小さな貝鈴が吊るされていた。風が吹くたび、貝鈴が鳴る。


 けれどその音は、メルナ=レイの市場の貝鈴とは違った。


 軽やかではない。


 祈りの終わりに落とす、最後の息に似ていた。


 湾の中央には、長い桟橋があった。


 海葬桟橋。


 その両側には、古い名札が幾重にも吊るされている。木札、貝札、骨札、真珠片を繋いだもの、潮紙を筒状に巻いたもの。どれも風と潮に洗われ、文字の大半は読めなくなっていた。


 だが、消えたわけではない。


 名は、文字が読めなくなっても残る。


 それを知っているから、ルカは桟橋を見た瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。


 ここは、名の終わりを見送る都市だ。


 そして、時おり名の帰還を恐れる都市でもある。


 ナミル=レイが港へ近づくと、小舟が一艘、迎えに出てきた。


 船首に鯨骨の小さな飾りをつけた神殿船だった。乗っているのは、若い神官見習いと、灰色の潮布をまとった年配の男である。


 男の肩には、古い名札がいくつも結ばれていた。名札守だろう。


「メルナ=レイの名拾いか」


 男が声を張った。


「ルカ=ネリスです」


 ルカは短く答えた。


 海上で陸の名を長く名乗るのは、あまり好まれない。だが、これは神殿への正式な応答だった。必要なときだけ、名は重くする。


 名札守は頷いた。


「還名神殿より迎えに来た。港につけたら、そのまま神殿へ来てもらう」


「少年は?」


「眠っている。だが、起きるたびに声が変わる」


 ルカは舵を切った。


「昨日から、ずっとですか」


「ずっとではない。波の音が近くなると変わる。名灯籠を近づけると泣く。母親が呼ぶと……」


 男はそこで言葉を切った。


 どちらの母親、と聞く必要はなかった。


 ルカは港へ船を入れた。


 オルカ=ベルの港は、騒がしくなかった。


 船は多い。漁船も、巡礼船も、海葬用の名札船も停泊している。市場も開かれていた。干し魚、貝粉、鯨油、葬送用の香、名灯籠の替え芯。人は行き交っている。


 それなのに、声が低い。


 誰も大きく笑わない。


 物を売る声も、買う声も、どこか抑えられている。


 この都市では、死者がすぐ近くにいるのだ。


 墓地が町の外にあるわけではない。墓石が区画に並んでいるわけでもない。死者の名は海にあり、遺品は潮に流され、家々の軒先には、還らなかった名を待つための小さな灯籠が吊るされている。


 ルカは桟橋に降りた。


 足元の板には、無数の傷がある。おそらく、名札を結んだ紐が長い年月こすれた跡だ。その傷ひとつひとつに、誰かの別れが残っている気がした。


 港の入り口に、小さな子どもが立っていた。


 手には貝殻の小瓶を抱えている。中には、髪がひと房入っていた。


 子どもの隣には父親らしき男がいて、しゃがみ込んで何かを説明している。


「ここから流すんだ。おばあちゃんの名は、潮が覚えてくれる」


「帰ってくる?」


「いつかね」


「いつ?」


 父親は答えられなかった。


 その沈黙を、ルカは知っている。


 還ると信じなければ、流せない。


 けれど、いつ還るかは誰にもわからない。


 そもそも、還ってくるとは限らない。


 オルカ=ベルでは、死者は土に埋めない。


 遺体は海葬される。骨は砕かれ、貝粉と混ぜて海へ撒かれる。遺品は小舟か灯籠に乗せられ、潮に渡される。名は潮紙に書かれ、神官の祈りとともに海へ預けられる。


 墓に刻むのではなく、波に預ける。


 それが、この都市の弔いだった。


 だから、人々は待つ。


 名が還る日を。


 名札となって浜に上がるかもしれない。


 貝殻の内側に浮かぶかもしれない。


 夢の中で呼ばれるかもしれない。


 名灯籠がひとりでに灯るかもしれない。


 還った名は、祝福である。


 死者が忘れられていない証だから。


 けれど同時に、恐怖でもあった。


 なぜなら、還ってきた名が、必ずしも人の望む姿で戻るとは限らないからだ。


 帰ってきた名が、死の真相を告げることもある。


 忘れていた罪を呼び起こすこともある。


 別れたはずの者を、もう一度失わせることもある。


 そしてなかには、何十年待っても、名を返してもらえない家族もいる。


 名が還らない家の灯籠は、白く乾いていく。


 火を入れても、すぐ消える。


 そういう家の前を通るとき、オルカ=ベルの人々は声を落とす。慰めの言葉をかけることもしない。なぜなら、還らない名を待つ悲しみに、軽い言葉を乗せることは、潮への不作法だとされているからだ。


 ルカは名札守に案内され、港から海葬桟橋へ続く通りを歩いた。


 通りの両側には、葬送のための店が並んでいる。


 潮紙屋。


 貝殻棺の細工師。


 遺品を流すための小舟を作る職人。


 海底香を扱う香師。


 どの店先にも、白と青の布が垂れていた。


 海底香の匂いが強くなる。


 甘く、湿っていて、少し苦い。


 メルナ=レイでも海底香は売られているが、オルカ=ベルのものはもっと深い匂いがした。燃やすための香ではなく、沈めるための香だ。煙を空へ昇らせるのではなく、匂いを潮に溶かす。


「昨日の還名は、海葬桟橋で?」


 ルカが尋ねると、名札守は頷いた。


「満ち潮の時刻に始めた。手順に乱れはなかった。潮紙も、遺品も、灯籠も、すべて十年前の記録通りに揃えた」


「死んだ少女の名は?」


「ミナ=ベルカ」


 その名が口にされた瞬間、通りの貝鈴が一斉に鳴った。


 風はなかった。


 名札守の顔がわずかに強ばる。


「……今、この町でその名を呼ぶと、ああなる」


 ルカは貝鈴を見上げた。


 小さな白い貝殻が、軒先で細かく震えている。


「名が、まだ町を歩いているんですね」


「歩いている?」


「戻る場所を探しているのかもしれません」


 名札守は何か言いかけて、やめた。


 ルカが若すぎるからだろう。


 名拾いと聞いて呼んだものの、実際に現れたのが十代半ばの少女となれば、頼りなく見えるのも当然だった。


 だが、名を読む仕事に年齢はあまり関係ない。


 むしろ年を重ねるほど、名を文字として扱う癖がつく。名がどこへ行きたがっているかではなく、誰のものか、どの家に属するか、どの儀式に従うかで判断してしまう。


 ルカはそういう大人を、何人も見てきた。


 そして時々、名はそれを嫌う。


 道の先に、還名神殿が見えてきた。


 神殿は、町の中心ではなく、海へ張り出すように建っていた。


 白い石と貝殻で造られた建物で、壁には波紋のような彫刻が施されている。屋根は低く、風に逆らわない形をしていた。正面には扉がない。代わりに、海へ向かって開かれた広い回廊があり、その奥に祭壇が見える。


 祭壇の背後は、すぐ海だった。


 神に祈る場所というより、潮に名を差し出す場所。


 そんな印象だった。


 神殿の前には、人が集まっていた。


 巡礼者ではない。


 町の者たちだ。


 誰も声を上げてはいないが、視線だけが神殿の奥へ向けられている。恐れと好奇心と、ほんの少しの期待。それらが混ざり、空気を重くしていた。


 ルカが近づくと、視線が一斉に彼女へ向いた。


「あの子が、メルナ=レイの名拾い?」


「若すぎないか」


「でも、真珠港の浜で名を読む子だろう」


「ミナの名を戻せるのか」


「戻すって、どこへ」


 最後の声だけが、ルカの耳に残った。


 戻す。


 人はよくそう言う。


 名を戻す。


 名を返す。


 失くしたものを元の場所へ置くように。


 けれど名は、そんなに素直なものではない。


 潮に沈んだ名は、沈む前と同じではいられない。誰かの涙に触れ、祈りに触れ、忘却に触れ、時に別の名と絡まり合う。


 還ってきた名は、帰ってきたものではなく、旅を終えたものだ。


 その旅の分だけ、形が変わる。


 ルカは神殿の入口で足を止めた。


 海が近い。


 神殿の床下を、潮が通っている。


 その潮が、落ち着かない。


 ざわざわと、石の下で小さく鳴っている。


 まるで、何かを隠している子どものように。


 神殿の奥から、白青の祭衣をまとった男が現れた。


 還名神官だった。


 年は四十前後。整った顔立ちで、額には真珠片の冠をつけている。だがその目の下には、昨夜から眠っていない影があった。


「あなたがルカ=ネリスか」


「はい」


「遠路、よく来てくれた」


 言葉は丁寧だったが、声には硬さがある。


 歓迎ではない。


 必要に迫られた者の声だった。


「私はこの神殿の還名神官、セグラム=オルカ。昨夜の儀式を司った」


 神官は一瞬、周囲の町人たちへ目を向けた。


「中で話そう。ここでは耳が多すぎる」


 ルカは頷いた。


 神殿の中へ入る直前、沖でまた鯨が鳴いた。


 低く、長く、海底から神殿の柱を揺らすような声。


 集まっていた人々が、いっせいに黙った。


 セグラム神官の肩が、わずかに震える。


 ルカは振り返った。


 海葬桟橋の向こう、湾の黒い水面に、白い泡が細く浮かんでいる。


 その泡はまっすぐではなかった。


 二筋に分かれ、また絡み合い、ほどけきれないまま神殿の方へ漂っていた。


 ルカは胸の奥で、小さく息を吸った。


 名は、ここにいる。


 けれど、ひとつではない。


 神殿の回廊を進むと、海底香の匂いがさらに濃くなった。壁には還名儀式の記録が刻まれている。何年何月、誰の名が還ったか。どの家へ戻ったか。どの浜で拾われたか。小さな文字が、波紋のように壁一面を埋めていた。


 その中には、空白もあった。


 名が還らなかった者のための空白。


 名前を刻む場所だけが用意され、何十年もそのままになっている。


 ルカは自然と足を緩めた。


「気になるか」


 セグラム神官が言った。


「はい」


「あれは、還らぬ名の壁だ。家族が望めば、名が戻るまで空けておく。中には、三代待っている家もある」


「三代……」


「待つこともまた、祈りだ」


 神官はそう言った。


 だが、その声は疲れていた。


「だからこそ、還った名は祝福でなければならない。恐怖ではなく」


 ルカは神官を見た。


 彼が何を恐れているのか、少しわかった。


 昨夜起こったことは、還名儀式への信頼を揺らす。


 名が戻ることを願い、何年も何十年も待つ人々にとって、還った名が別人の中で泣くという出来事は、救いではなく新しい傷になる。


 神官はその傷を、奇跡という言葉で包もうとしているのかもしれない。


 けれど、包めないものもある。


 回廊の奥に、閉ざされた部屋があった。


 貝殻を重ねた扉の前に、ふたりの神官見習いが立っている。ふたりとも顔色が悪かった。


 扉の向こうから、かすかな声が聞こえた。


 泣き声。


 子どもの声だった。


 けれど、男の子の声ではない。


 細く、震えていて、海水を含んだような声。


「お母さん……」


 ルカの背筋に、冷たいものが走った。


 セグラム神官は目を伏せた。


「昨夜から、あれを繰り返している」


「少年の名は?」


「ノア=リム。十二歳。オルカ=ベルの南通りに住む潮網職人の養い子だ」


「ミナ=ベルカとの関係は?」


「記録上は、ない」


「記録上は」


 ルカが繰り返すと、神官はわずかに眉を寄せた。


「何が言いたい」


「名は、記録にないところで触れることがあります」


 そのとき、扉の向こうで声が変わった。


 今度は少年の声だった。


「違う……僕は、ノアだ……」


 すぐに別の声が重なる。


「寒いの。暗いの。帰りたい」


 そして、誰か大人の女が泣き崩れる音がした。


 ルカは扉を見つめた。


 そこにいるのは、死んだ少女なのか。


 生きている少年なのか。


 それとも、どちらの名にもなりきれない何かなのか。


 答えはまだわからない。


 けれど、潮はもう答えを出した気でいるようだった。


 海葬都市オルカ=ベルは、死者を土に埋めない。


 名を海へ預ける。


 けれど海は、預かった名を、必ずしも人の望むかたちで返しはしない。


 ルカは胸元の潮名札に手を触れた。


 自分の欠けた名は、今日も沈黙している。


 それでも彼女は扉の前へ進んだ。


「会わせてください」


 セグラム神官が、重く頷く。


 貝殻の扉が開く。


 海底香の白い煙の向こうで、少年が泣いていた。

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