第二節 ― 海葬都市オルカ=ベル
メルナ=レイを離れて半日ほど、海の色が変わりはじめた。
真珠港を囲む海は、朝には乳白色を帯び、昼には淡い青へほどけていく。けれど南へ進むにつれて、その青は少しずつ深くなった。藍に近く、黒に近く、けれど夜の黒ではない。底に眠るものの多さで、海そのものが重くなっているような色だった。
ルカはナミル=レイの舳先に立ち、風の匂いを嗅いだ。
塩。
鯨油。
古い香。
そして、濡れた木札の匂い。
オルカ=ベルが近い。
急使は船室で休んでいた。昨夜からほとんど眠っていないらしく、ナミル=レイが出航してしばらくすると、糸が切れたように座席へ沈み込んだ。無理もない。還名儀式の異常など、普通の神官見習いや使い走りが運ぶには重すぎる知らせだった。
ルカはひとりで舵を取りながら、海面を見ていた。
南の潮は、まだ迷っている。
船の下を流れる潮筋が、ときおり二つに割れるのだ。左へ行こうとして、右へ戻る。沈もうとして、浮かび直す。まるで、ひとつの名がふたつの呼び声に引かれているようだった。
ふいに、低い声が聞こえた。
沖の方からだった。
鯨の声。
人の声とは違う。けれど、ただの獣の鳴き声とも違う。海の底に沈んだ古い鐘を、誰かがゆっくりと揺らしたような響きだった。
ナミル=レイの帆が、わずかに震える。
ルカは顔を上げた。
前方に島影が見えた。
オルカ=ナハト。
鯨歌の島。
島は遠目には、黒い鯨が海に背を出して眠っているように見える。低い山並みが湾を抱き、白い霧が谷間から海へ流れていた。湾の入り口には、左右に巨大な鯨骨の柱が立っている。骨は白く磨かれ、表面には無数の名が刻まれていた。
死者の名。
流された名。
還らなかった名。
それらが陽を受けるたび、鯨骨の柱は淡く光った。
その内側に、海葬都市オルカ=ベルはあった。
都市は、海へ降りるために造られているようだった。
白い貝殻を敷き詰めた階段が、町のあちこちから湾へ伸びている。家々は斜面に寄り添うように建ち、屋根には乾いた海藻束と小さな貝鈴が吊るされていた。風が吹くたび、貝鈴が鳴る。
けれどその音は、メルナ=レイの市場の貝鈴とは違った。
軽やかではない。
祈りの終わりに落とす、最後の息に似ていた。
湾の中央には、長い桟橋があった。
海葬桟橋。
その両側には、古い名札が幾重にも吊るされている。木札、貝札、骨札、真珠片を繋いだもの、潮紙を筒状に巻いたもの。どれも風と潮に洗われ、文字の大半は読めなくなっていた。
だが、消えたわけではない。
名は、文字が読めなくなっても残る。
それを知っているから、ルカは桟橋を見た瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
ここは、名の終わりを見送る都市だ。
そして、時おり名の帰還を恐れる都市でもある。
ナミル=レイが港へ近づくと、小舟が一艘、迎えに出てきた。
船首に鯨骨の小さな飾りをつけた神殿船だった。乗っているのは、若い神官見習いと、灰色の潮布をまとった年配の男である。
男の肩には、古い名札がいくつも結ばれていた。名札守だろう。
「メルナ=レイの名拾いか」
男が声を張った。
「ルカ=ネリスです」
ルカは短く答えた。
海上で陸の名を長く名乗るのは、あまり好まれない。だが、これは神殿への正式な応答だった。必要なときだけ、名は重くする。
名札守は頷いた。
「還名神殿より迎えに来た。港につけたら、そのまま神殿へ来てもらう」
「少年は?」
「眠っている。だが、起きるたびに声が変わる」
ルカは舵を切った。
「昨日から、ずっとですか」
「ずっとではない。波の音が近くなると変わる。名灯籠を近づけると泣く。母親が呼ぶと……」
男はそこで言葉を切った。
どちらの母親、と聞く必要はなかった。
ルカは港へ船を入れた。
オルカ=ベルの港は、騒がしくなかった。
船は多い。漁船も、巡礼船も、海葬用の名札船も停泊している。市場も開かれていた。干し魚、貝粉、鯨油、葬送用の香、名灯籠の替え芯。人は行き交っている。
それなのに、声が低い。
誰も大きく笑わない。
物を売る声も、買う声も、どこか抑えられている。
この都市では、死者がすぐ近くにいるのだ。
墓地が町の外にあるわけではない。墓石が区画に並んでいるわけでもない。死者の名は海にあり、遺品は潮に流され、家々の軒先には、還らなかった名を待つための小さな灯籠が吊るされている。
ルカは桟橋に降りた。
足元の板には、無数の傷がある。おそらく、名札を結んだ紐が長い年月こすれた跡だ。その傷ひとつひとつに、誰かの別れが残っている気がした。
港の入り口に、小さな子どもが立っていた。
手には貝殻の小瓶を抱えている。中には、髪がひと房入っていた。
子どもの隣には父親らしき男がいて、しゃがみ込んで何かを説明している。
「ここから流すんだ。おばあちゃんの名は、潮が覚えてくれる」
「帰ってくる?」
「いつかね」
「いつ?」
父親は答えられなかった。
その沈黙を、ルカは知っている。
還ると信じなければ、流せない。
けれど、いつ還るかは誰にもわからない。
そもそも、還ってくるとは限らない。
オルカ=ベルでは、死者は土に埋めない。
遺体は海葬される。骨は砕かれ、貝粉と混ぜて海へ撒かれる。遺品は小舟か灯籠に乗せられ、潮に渡される。名は潮紙に書かれ、神官の祈りとともに海へ預けられる。
墓に刻むのではなく、波に預ける。
それが、この都市の弔いだった。
だから、人々は待つ。
名が還る日を。
名札となって浜に上がるかもしれない。
貝殻の内側に浮かぶかもしれない。
夢の中で呼ばれるかもしれない。
名灯籠がひとりでに灯るかもしれない。
還った名は、祝福である。
死者が忘れられていない証だから。
けれど同時に、恐怖でもあった。
なぜなら、還ってきた名が、必ずしも人の望む姿で戻るとは限らないからだ。
帰ってきた名が、死の真相を告げることもある。
忘れていた罪を呼び起こすこともある。
別れたはずの者を、もう一度失わせることもある。
そしてなかには、何十年待っても、名を返してもらえない家族もいる。
名が還らない家の灯籠は、白く乾いていく。
火を入れても、すぐ消える。
そういう家の前を通るとき、オルカ=ベルの人々は声を落とす。慰めの言葉をかけることもしない。なぜなら、還らない名を待つ悲しみに、軽い言葉を乗せることは、潮への不作法だとされているからだ。
ルカは名札守に案内され、港から海葬桟橋へ続く通りを歩いた。
通りの両側には、葬送のための店が並んでいる。
潮紙屋。
貝殻棺の細工師。
遺品を流すための小舟を作る職人。
海底香を扱う香師。
どの店先にも、白と青の布が垂れていた。
海底香の匂いが強くなる。
甘く、湿っていて、少し苦い。
メルナ=レイでも海底香は売られているが、オルカ=ベルのものはもっと深い匂いがした。燃やすための香ではなく、沈めるための香だ。煙を空へ昇らせるのではなく、匂いを潮に溶かす。
「昨日の還名は、海葬桟橋で?」
ルカが尋ねると、名札守は頷いた。
「満ち潮の時刻に始めた。手順に乱れはなかった。潮紙も、遺品も、灯籠も、すべて十年前の記録通りに揃えた」
「死んだ少女の名は?」
「ミナ=ベルカ」
その名が口にされた瞬間、通りの貝鈴が一斉に鳴った。
風はなかった。
名札守の顔がわずかに強ばる。
「……今、この町でその名を呼ぶと、ああなる」
ルカは貝鈴を見上げた。
小さな白い貝殻が、軒先で細かく震えている。
「名が、まだ町を歩いているんですね」
「歩いている?」
「戻る場所を探しているのかもしれません」
名札守は何か言いかけて、やめた。
ルカが若すぎるからだろう。
名拾いと聞いて呼んだものの、実際に現れたのが十代半ばの少女となれば、頼りなく見えるのも当然だった。
だが、名を読む仕事に年齢はあまり関係ない。
むしろ年を重ねるほど、名を文字として扱う癖がつく。名がどこへ行きたがっているかではなく、誰のものか、どの家に属するか、どの儀式に従うかで判断してしまう。
ルカはそういう大人を、何人も見てきた。
そして時々、名はそれを嫌う。
道の先に、還名神殿が見えてきた。
神殿は、町の中心ではなく、海へ張り出すように建っていた。
白い石と貝殻で造られた建物で、壁には波紋のような彫刻が施されている。屋根は低く、風に逆らわない形をしていた。正面には扉がない。代わりに、海へ向かって開かれた広い回廊があり、その奥に祭壇が見える。
祭壇の背後は、すぐ海だった。
神に祈る場所というより、潮に名を差し出す場所。
そんな印象だった。
神殿の前には、人が集まっていた。
巡礼者ではない。
町の者たちだ。
誰も声を上げてはいないが、視線だけが神殿の奥へ向けられている。恐れと好奇心と、ほんの少しの期待。それらが混ざり、空気を重くしていた。
ルカが近づくと、視線が一斉に彼女へ向いた。
「あの子が、メルナ=レイの名拾い?」
「若すぎないか」
「でも、真珠港の浜で名を読む子だろう」
「ミナの名を戻せるのか」
「戻すって、どこへ」
最後の声だけが、ルカの耳に残った。
戻す。
人はよくそう言う。
名を戻す。
名を返す。
失くしたものを元の場所へ置くように。
けれど名は、そんなに素直なものではない。
潮に沈んだ名は、沈む前と同じではいられない。誰かの涙に触れ、祈りに触れ、忘却に触れ、時に別の名と絡まり合う。
還ってきた名は、帰ってきたものではなく、旅を終えたものだ。
その旅の分だけ、形が変わる。
ルカは神殿の入口で足を止めた。
海が近い。
神殿の床下を、潮が通っている。
その潮が、落ち着かない。
ざわざわと、石の下で小さく鳴っている。
まるで、何かを隠している子どものように。
神殿の奥から、白青の祭衣をまとった男が現れた。
還名神官だった。
年は四十前後。整った顔立ちで、額には真珠片の冠をつけている。だがその目の下には、昨夜から眠っていない影があった。
「あなたがルカ=ネリスか」
「はい」
「遠路、よく来てくれた」
言葉は丁寧だったが、声には硬さがある。
歓迎ではない。
必要に迫られた者の声だった。
「私はこの神殿の還名神官、セグラム=オルカ。昨夜の儀式を司った」
神官は一瞬、周囲の町人たちへ目を向けた。
「中で話そう。ここでは耳が多すぎる」
ルカは頷いた。
神殿の中へ入る直前、沖でまた鯨が鳴いた。
低く、長く、海底から神殿の柱を揺らすような声。
集まっていた人々が、いっせいに黙った。
セグラム神官の肩が、わずかに震える。
ルカは振り返った。
海葬桟橋の向こう、湾の黒い水面に、白い泡が細く浮かんでいる。
その泡はまっすぐではなかった。
二筋に分かれ、また絡み合い、ほどけきれないまま神殿の方へ漂っていた。
ルカは胸の奥で、小さく息を吸った。
名は、ここにいる。
けれど、ひとつではない。
神殿の回廊を進むと、海底香の匂いがさらに濃くなった。壁には還名儀式の記録が刻まれている。何年何月、誰の名が還ったか。どの家へ戻ったか。どの浜で拾われたか。小さな文字が、波紋のように壁一面を埋めていた。
その中には、空白もあった。
名が還らなかった者のための空白。
名前を刻む場所だけが用意され、何十年もそのままになっている。
ルカは自然と足を緩めた。
「気になるか」
セグラム神官が言った。
「はい」
「あれは、還らぬ名の壁だ。家族が望めば、名が戻るまで空けておく。中には、三代待っている家もある」
「三代……」
「待つこともまた、祈りだ」
神官はそう言った。
だが、その声は疲れていた。
「だからこそ、還った名は祝福でなければならない。恐怖ではなく」
ルカは神官を見た。
彼が何を恐れているのか、少しわかった。
昨夜起こったことは、還名儀式への信頼を揺らす。
名が戻ることを願い、何年も何十年も待つ人々にとって、還った名が別人の中で泣くという出来事は、救いではなく新しい傷になる。
神官はその傷を、奇跡という言葉で包もうとしているのかもしれない。
けれど、包めないものもある。
回廊の奥に、閉ざされた部屋があった。
貝殻を重ねた扉の前に、ふたりの神官見習いが立っている。ふたりとも顔色が悪かった。
扉の向こうから、かすかな声が聞こえた。
泣き声。
子どもの声だった。
けれど、男の子の声ではない。
細く、震えていて、海水を含んだような声。
「お母さん……」
ルカの背筋に、冷たいものが走った。
セグラム神官は目を伏せた。
「昨夜から、あれを繰り返している」
「少年の名は?」
「ノア=リム。十二歳。オルカ=ベルの南通りに住む潮網職人の養い子だ」
「ミナ=ベルカとの関係は?」
「記録上は、ない」
「記録上は」
ルカが繰り返すと、神官はわずかに眉を寄せた。
「何が言いたい」
「名は、記録にないところで触れることがあります」
そのとき、扉の向こうで声が変わった。
今度は少年の声だった。
「違う……僕は、ノアだ……」
すぐに別の声が重なる。
「寒いの。暗いの。帰りたい」
そして、誰か大人の女が泣き崩れる音がした。
ルカは扉を見つめた。
そこにいるのは、死んだ少女なのか。
生きている少年なのか。
それとも、どちらの名にもなりきれない何かなのか。
答えはまだわからない。
けれど、潮はもう答えを出した気でいるようだった。
海葬都市オルカ=ベルは、死者を土に埋めない。
名を海へ預ける。
けれど海は、預かった名を、必ずしも人の望むかたちで返しはしない。
ルカは胸元の潮名札に手を触れた。
自分の欠けた名は、今日も沈黙している。
それでも彼女は扉の前へ進んだ。
「会わせてください」
セグラム神官が、重く頷く。
貝殻の扉が開く。
海底香の白い煙の向こうで、少年が泣いていた。




