第五節 ― 名は誰のものか
還名神殿の奥には、潮を読むための小室がある。
祈りのための部屋ではない。
裁きのための部屋でもない。
そこは、名が乱れたとき、余計な声を遠ざけるための部屋だった。
壁は厚い貝殻石でできている。外のざわめきはほとんど届かない。天井は低く、四隅には小さな潮瓶が置かれていた。瓶の中では、オルカ=ベルの湾から汲み上げられた潮水が、誰も触れていないのに静かに揺れている。
中央には、白砂を敷いた円形の床。
その上に、ノアは座らされていた。
寝台ではなく、床に近い場所に座るのは、名が浮きすぎないようにするためだと、セグラム神官は説明した。名は火や声に寄り、潮と砂に落ち着く。海葬都市では、そう考えられている。
ノアのそばには、リサが座っている。
ミナの母は、少し離れた場所にいた。彼女の手には、桃色の髪紐がある。けれどルカが頼むと、彼女はそれを胸に押し当てるだけで、ノアに近づこうとはしなかった。
名前を強く呼ばないこと。
泣き声に引かれて、死者の名を呼び戻そうとしないこと。
ルカが告げたそれを、彼女はかろうじて守っている。
それだけで、精いっぱいなのだろう。
部屋の外には、セグラム神官が控えていた。彼は町への布告を出したばかりだった。
還名現象は精査中。
神殿周辺で該当する二名の名を不用意に呼ぶことを禁じる。
参拝者は静粛に待つこと。
それで町が静まるかどうかはわからない。
だが少なくとも、いまこの小室の中だけは、少し静かだった。
ルカはノアの前に膝をついた。
「これから、いくつか聞きます」
ノアは小さく頷いた。
顔色はまだ悪い。だが、白い灯籠から離したことで、少しだけ呼吸が整っている。胸元の貝殻護符は、薄い布で覆われていた。直接見せていると、母の視線も、リサの不安も、そこへ集まりすぎるからだ。
「答えたくないことは、答えなくていいです」
「……うん」
「わからないことは、わからないでいいです。思い出そうとしすぎないでください。名は、無理に引っ張ると傷つきます」
ノアの指が、膝の上で小さく震えた。
「僕の名も?」
「はい」
「その子の名も?」
その子。
ノアは、ミナの名をそう呼んだ。
ルカは少しだけ目を伏せる。
名前を避けている。
けれど、拒んでいるわけではない。
それだけで、この少年がどれほど慎重に、自分の中の少女の名を扱っているかがわかった。
「はい。その子の名も」
ノアは、安心したように息を吐いた。
ルカは水鉢を手元へ寄せた。中には湾の潮水が入っている。水面に薄い真珠粉を落とすと、光が細い線になって揺れた。
記憶を問うとき、オルカ=ベルでは水を見る。
答えが正しければ水面は円を描く。
答えが混ざっていれば線が割れる。
嘘であれば、水は沈む。
もちろん、これは絶対ではない。
水は判決を下すものではなく、名の震えを映すだけだ。
「最初に、歌を」
ルカが言うと、ミナの母の肩が強張った。
リサもノアを見た。
ノアは困ったように唇を噛む。
「歌うの?」
「歌わなくていいです。どんな歌だったか、覚えているところだけ」
ノアはしばらく黙った。
それから、目を閉じる。
「夜に……窓が鳴る」
声は少年のものだった。
「貝鈴が、からからって鳴る。風が強い夜。眠れなくて、泣いてる。そしたら、お母さんが……」
ミナの母が口元を押さえた。
ノアの声が、少し細くなる。
「潮は眠る、貝は夢見る。
白い鯨は、名を抱いて帰る……」
歌ではなく、言葉だけだった。
けれど、部屋の空気が変わった。
ミナの母の目から、涙がこぼれた。
「それは……」
声が震える。
「私が、あの子にだけ歌った歌です」
リサが顔を伏せる。
水鉢の表面には、丸い波紋が広がっていた。
嘘ではない。
少なくとも、その記憶は本当にミナの名に結びついている。
ルカは水面を見つめながら、次の問いを選んだ。
「海葬の日のことは?」
ノアの眉が苦しげに寄る。
リサがすぐに手を伸ばしかけたが、ルカは小さく首を振った。
触れると、ノアはリサの名に戻ろうとする。
それは安心でもあるが、今は記憶の糸を切ってしまうかもしれない。
「海葬の日……」
ノアの声がまた揺れた。
「寒くなかった。晴れてた。海が白かった。お母さんが、貝殻の箱を持ってる。箱の中に……」
彼は胸元に手を当てた。
「桃色の髪紐。欠けた耳飾り。あと、貝殻」
「貝殻の色は?」
ルカが尋ねる。
ノアは目を閉じたまま答えた。
「青じゃない。白でもない。内側だけ、薄い紫。外は灰色。割れてるところに、金の線を塗ってある」
ミナの母が、震える息を漏らした。
「そうです」
彼女は髪紐を握りしめる。
「私は、あの子の好きだった貝を入れた。外は地味だけど、内側が紫に光るから、ミナは夜明け貝と呼んでいました。割れたところに金を塗ったのは、あの子が落として欠けさせたから……」
水鉢の波紋は、また丸く広がった。
ルカは頷いた。
正しい記憶。
ミナの家族しか知らないもの。
だから、母は信じてしまう。
娘が帰ってきたと。
信じたくなるに決まっている。
ルカは、自分の胸の中に浮かんだ同情を、そっと横へ置いた。
同情で名を読むと、見たいものだけを見てしまう。
「もうひとつ。最後に握っていたものは?」
ノアの肩が震えた。
今度は、水鉢の表面がわずかに乱れた。
「布」
彼は言った。
「潮布。濡れてる。ざらざらして、指にくっつく。冷たい。手の中で、ずっと動いてるみたいだった」
「色は?」
「青……じゃない。海みたいな色。濡れると黒く見える。でも光が当たると、緑が出る」
ミナの母は、声を出さずに泣いた。
「海葬のときには流していません」
彼女は言った。
「その布は、あの子が死んだ日に握っていたものです。戻ってきたとき、指から離れなくて……私が切って、神殿に預けました。誰にも見せていません」
リサが顔を上げる。
その表情に、怒りはなかった。
ただ、怖れていた。
ノアの中の少女の名が本物であることを、リサも認めざるを得なくなっている。
それが、彼女にとってどれほど恐ろしいか。
ルカにはわかった。
ミナの名が偽物なら、戦える。
誰かの仕組んだ偽装なら、暴ける。
でも本物なら。
本物の名が、生きている少年を揺らしているなら。
何と戦えばよいのか、わからなくなる。
ルカは水鉢の真珠粉を指でなぞった。
ここまでは正しい。
問題は、この先だ。
「今度は、あなたが見たものを話してください」
ノアが薄く目を開ける。
「僕が?」
「はい。ミナさんの家族が知らないこと。あなた自身も、なぜ知っているのかわからないこと」
ノアの喉が動いた。
「……怖い」
「無理はしなくていいです」
「でも、言わないと、ずっといる」
「誰が?」
ノアは答えなかった。
かわりに、胸元の護符を押さえた。
布の下で、青と白の光がじわりと滲む。
「底に、いる」
水鉢の表面が割れた。
丸い波紋ではなかった。
細い線が、二つに分かれた。
ルカは表情を変えないようにした。
「底?」
「海の底。暗いけど、真っ暗じゃない。光ってる。白い石が、ずっと下へ続いてる」
「階段ですか」
「うん」
ノアの声が、ひどく遠くなる。
「沈んだ階段。貝がついてる。柱が折れてる。水の中なのに、鐘が鳴ってる。上からじゃない。もっと下から」
セグラム神官が、扉の外で身じろぎする気配がした。
ルカは水面から目を離さない。
ミナが死後に知ったはずのない景色。
ノアが幼いころに覚えているはずのない深海。
それが、ノアの中でミナの名と混ざっている。
「そこに、誰かいますか」
ルカが問うと、ノアの唇が震えた。
リサが不安げに手を握りしめる。
ミナの母も、髪紐を胸に押し当てたまま動かない。
「いる」
ノアは言った。
「少年がいる」
部屋の潮瓶が、かすかに鳴った。
ルカの指先が冷たくなる。
「どんな少年ですか」
「わからない」
「年は?」
「僕と同じくらい……でも、もっと古い」
「古い?」
「顔は子どもなのに、声が海みたいに古い。階段の下で待ってる。ずっと待ってる。誰かが降りてくるのを」
水鉢の真珠粉が、底へ沈みかけた。
嘘ではない。
だが、どの名の記憶でもない。
少なくとも、ミナだけの記憶ではない。
「その少年は、何か言いますか」
ノアは苦しそうに息を吸った。
「呼んでる」
「誰を?」
「わからない」
「あなたを?」
「違う……と思う」
「ミナさんを?」
「違う」
ノアの声が、ほんの少し少女のものに近づいた。
「もっと……まだ、上にいる子」
ルカの胸元が冷えた。
潮名札を入れているあたりが、氷を当てられたように冷たくなる。
彼女は無意識にそこへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
この記憶は、今触れてはいけない。
ノアの中にある名の混線を、さらに深いところへ引き込んでしまう。
「その少年は、名前を言いますか」
ルカの声は、自分でもわかるほど慎重だった。
ノアは首を横に振る。
「名前は、沈んでる」
水鉢の水が、一瞬だけ黒く見えた。
「ただ、待ってる。底で。白い階段の下で。名を拾う子が来るのを」
リサが息を呑んだ。
ミナの母は意味がわからないという顔をしている。
だが、ルカには、胸の奥で何かが小さく軋む音が聞こえた。
名を拾う子。
それは誰のことか。
自分だと決めつけるのは危険だ。
海の記憶は、人の言葉に置き換えると歪む。
ノアが聞いたものを、ノアの知っている言葉で表しているだけかもしれない。
それでも。
ルカの欠けた潮名が、静かに冷え続けている。
「他には?」
ルカは問いを戻した。
深いところへ行きすぎてはいけない。
今はミナとノアの絡まりを見るための時間だ。
「階段の上に、僕がいる」
ノアが言った。
「あなたが?」
「小さい僕。たぶん。泣いてる。でも声が出ない。波が来て、足が滑って、落ちる。水が口に入る。暗い。怖い。でも、誰かが手を掴む」
ミナの母の体が震えた。
リサが青ざめる。
ノアは両手を握りしめる。
「その手が、僕を押す。上へ。上へって。僕は浮く。でも、その子は沈む」
声が、また細くなる。
「寒い」
少女の声だった。
「指が痛い。布が離れない。お母さんの歌、忘れたくない。帰りたい。でも、この子を返さなきゃ」
ミナの母が小さく声を漏らした。
「ミナ……」
ルカはすぐに視線を向ける。
母は口を押さえた。
名を呼ばなかった。
ただ、呼びかけそうになった声を必死に飲み込んでいた。
ルカは小さく頷いた。
それでいい。
今は、名を強く引き寄せてはいけない。
ノアの額に汗が浮かぶ。
「その子が言うんだ」
ノアは、ほとんど囁くように続けた。
「わたしの名はいらないから、この子を返して、って」
水鉢の表面に、大きな波紋が広がった。
青と白が重なり、ひとつになりかけ、すぐに割れた。
リサが泣きそうな顔でノアを見る。
「十年前、あなたは……」
「覚えてない」
ノアは震えた。
「覚えてないはずなんだ。僕、浜で拾われる前のこと、ほとんどない。リサ母さんが最初にくれた貝の笛のことは覚えてる。熱を出した夜のことも、網の結び方を教わった日のことも覚えてる。でも、その前は……海の音だけ」
リサの顔が歪んだ。
ノアが初めて彼女を「リサ母さん」と呼んだ。
それは、彼が自分の名に戻ろうとしている証でもあった。
同時に、ミナの母にとっては、彼が自分の娘ではないと突きつける言葉でもあった。
部屋の中で、ふたつの母の痛みが向かい合っていた。
ルカは、問いを止めた。
これ以上は危ない。
ノアの名が疲れている。
水鉢の波紋も乱れすぎている。
「ここまでにしましょう」
ルカが言うと、ノアは力が抜けたように肩を落とした。
リサがすぐに支える。
「大丈夫?」
「うん……少し、眠い」
「眠っていい」
リサはノアの背を撫でた。
ミナの母は、何か言いたそうに唇を震わせた。だが、言わなかった。代わりに、桃色の髪紐を自分の胸に強く押し当てた。
ルカは水鉢を見下ろした。
そこには、三種類の記憶が映っていた。
ひとつは、ミナの正しい記憶。
母だけが知る子守歌。
海葬の日に流された夜明け貝の色。
死の直前に握っていた潮布の感触。
それらはすべて、ミナ=ベルカの名に属している。
だから、母は娘の帰還を信じた。
信じる理由が、確かにあった。
もうひとつは、ノア自身の記憶。
浜で拾われる前の欠落。
声を出せなかった幼少期。
リサに名を与えられ、少しずつノアになっていった時間。
彼の名は、最初から完全ではなかった。
十年前、彼は何かを海に置いてきている。
そして最後のひとつ。
どちらにも属さない記憶。
沈没した白い階段。
海底で鳴る鐘。
神殿のような場所。
底で待っている少年。
名を拾う子を呼ぶ声。
それは、今回の事件に混ざり込んだ、さらに深い潮の影だった。
ルカは、水鉢の表面に指を触れた。
冷たい。
ただの水ではないように冷たい。
指先から、胸元の潮名札まで、細い冷気が走る。
ルカ。
自分の名を心の中で呼ぶ。
そこまでは届く。
けれど、その先はやはり沈んでいる。
底で待っている少年。
名を拾う子。
ルカは小さく息を吐いた。
今は、考えすぎてはいけない。
この事件を解くには、まず十年前の海で何が起きたのかを確かめる必要がある。
ミナは本当に、ノアを助けたのか。
なぜ神殿の記録には、それが残っていないのか。
ノアはなぜ浜で拾われたのか。
そして、ミナの名の一部は、なぜノアの欠けた名に結びついたのか。
ルカは立ち上がった。
「十年前の潮紙を見ます」
扉の外にいたセグラム神官が、ゆっくりと部屋へ入ってきた。
彼も今の話を聞いていたのだろう。表情は硬い。
「潮紙には、海葬時の記録しかない」
「本当にそうなら、それを確認できます」
「もし違ったら?」
「潮紙が、神殿の記録と違うことを覚えているかもしれません」
セグラム神官の顔に、かすかな痛みが走った。
神殿の記録が正しい。
還名神官として、そう信じたいのだろう。
けれど、彼もまた昨夜から、何かが記録の外で起きていることに気づいている。
「……保管庫へ案内しよう」
神官は低く言った。
ルカは頷く。
部屋を出る前に、ミナの母が小さく呼び止めた。
「名拾いさん」
ルカは振り返る。
「はい」
「あの子の記憶は、本当に……あの子のものなのね」
ミナの名を直接呼ばなかった。
それだけで、彼女がどれほど耐えているかがわかる。
ルカは静かに答えた。
「はい。少なくとも、一部は」
母の目に涙が溜まる。
「でも、あの子そのものではないのね」
ルカは、少しだけ間を置いた。
残酷な答えだった。
けれど、ここで曖昧にすれば、ノアが傷つく。
「まだ、そうは言えません」
母は目を閉じた。
その頬を涙が伝う。
「……わかりました」
完全には、わかっていないだろう。
受け入れてもいないだろう。
それでも、彼女は名を呼ばなかった。
ルカは深く頭を下げた。
小室を出ると、回廊の向こうに海が見えた。
灰色の空の下で、オルカ=ベルの湾が静かに揺れている。
沖で、また鯨が鳴いた。
今度の声は、長く、深く、どこか遠い。
まるで海の底から、まだ名を持たない誰かが、こちらを見上げているようだった。




