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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第1話 還ってきた名は、別人の声で泣いた
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第五節 ― 名は誰のものか

 還名神殿の奥には、潮を読むための小室がある。


 祈りのための部屋ではない。

 裁きのための部屋でもない。

 そこは、名が乱れたとき、余計な声を遠ざけるための部屋だった。


 壁は厚い貝殻石でできている。外のざわめきはほとんど届かない。天井は低く、四隅には小さな潮瓶が置かれていた。瓶の中では、オルカ=ベルの湾から汲み上げられた潮水が、誰も触れていないのに静かに揺れている。


 中央には、白砂を敷いた円形の床。


 その上に、ノアは座らされていた。


 寝台ではなく、床に近い場所に座るのは、名が浮きすぎないようにするためだと、セグラム神官は説明した。名は火や声に寄り、潮と砂に落ち着く。海葬都市では、そう考えられている。


 ノアのそばには、リサが座っている。


 ミナの母は、少し離れた場所にいた。彼女の手には、桃色の髪紐がある。けれどルカが頼むと、彼女はそれを胸に押し当てるだけで、ノアに近づこうとはしなかった。


 名前を強く呼ばないこと。


 泣き声に引かれて、死者の名を呼び戻そうとしないこと。


 ルカが告げたそれを、彼女はかろうじて守っている。


 それだけで、精いっぱいなのだろう。


 部屋の外には、セグラム神官が控えていた。彼は町への布告を出したばかりだった。


 還名現象は精査中。

 神殿周辺で該当する二名の名を不用意に呼ぶことを禁じる。

 参拝者は静粛に待つこと。


 それで町が静まるかどうかはわからない。


 だが少なくとも、いまこの小室の中だけは、少し静かだった。


 ルカはノアの前に膝をついた。


「これから、いくつか聞きます」


 ノアは小さく頷いた。


 顔色はまだ悪い。だが、白い灯籠から離したことで、少しだけ呼吸が整っている。胸元の貝殻護符は、薄い布で覆われていた。直接見せていると、母の視線も、リサの不安も、そこへ集まりすぎるからだ。


「答えたくないことは、答えなくていいです」


「……うん」


「わからないことは、わからないでいいです。思い出そうとしすぎないでください。名は、無理に引っ張ると傷つきます」


 ノアの指が、膝の上で小さく震えた。


「僕の名も?」


「はい」


「その子の名も?」


 その子。


 ノアは、ミナの名をそう呼んだ。


 ルカは少しだけ目を伏せる。


 名前を避けている。

 けれど、拒んでいるわけではない。


 それだけで、この少年がどれほど慎重に、自分の中の少女の名を扱っているかがわかった。


「はい。その子の名も」


 ノアは、安心したように息を吐いた。


 ルカは水鉢を手元へ寄せた。中には湾の潮水が入っている。水面に薄い真珠粉を落とすと、光が細い線になって揺れた。


 記憶を問うとき、オルカ=ベルでは水を見る。


 答えが正しければ水面は円を描く。

 答えが混ざっていれば線が割れる。

 嘘であれば、水は沈む。


 もちろん、これは絶対ではない。


 水は判決を下すものではなく、名の震えを映すだけだ。


「最初に、歌を」


 ルカが言うと、ミナの母の肩が強張った。


 リサもノアを見た。


 ノアは困ったように唇を噛む。


「歌うの?」


「歌わなくていいです。どんな歌だったか、覚えているところだけ」


 ノアはしばらく黙った。


 それから、目を閉じる。


「夜に……窓が鳴る」


 声は少年のものだった。


「貝鈴が、からからって鳴る。風が強い夜。眠れなくて、泣いてる。そしたら、お母さんが……」


 ミナの母が口元を押さえた。


 ノアの声が、少し細くなる。


「潮は眠る、貝は夢見る。

 白い鯨は、名を抱いて帰る……」


 歌ではなく、言葉だけだった。

 けれど、部屋の空気が変わった。


 ミナの母の目から、涙がこぼれた。


「それは……」


 声が震える。


「私が、あの子にだけ歌った歌です」


 リサが顔を伏せる。


 水鉢の表面には、丸い波紋が広がっていた。


 嘘ではない。


 少なくとも、その記憶は本当にミナの名に結びついている。


 ルカは水面を見つめながら、次の問いを選んだ。


「海葬の日のことは?」


 ノアの眉が苦しげに寄る。


 リサがすぐに手を伸ばしかけたが、ルカは小さく首を振った。


 触れると、ノアはリサの名に戻ろうとする。

 それは安心でもあるが、今は記憶の糸を切ってしまうかもしれない。


「海葬の日……」


 ノアの声がまた揺れた。


「寒くなかった。晴れてた。海が白かった。お母さんが、貝殻の箱を持ってる。箱の中に……」


 彼は胸元に手を当てた。


「桃色の髪紐。欠けた耳飾り。あと、貝殻」


「貝殻の色は?」


 ルカが尋ねる。


 ノアは目を閉じたまま答えた。


「青じゃない。白でもない。内側だけ、薄い紫。外は灰色。割れてるところに、金の線を塗ってある」


 ミナの母が、震える息を漏らした。


「そうです」


 彼女は髪紐を握りしめる。


「私は、あの子の好きだった貝を入れた。外は地味だけど、内側が紫に光るから、ミナは夜明け貝と呼んでいました。割れたところに金を塗ったのは、あの子が落として欠けさせたから……」


 水鉢の波紋は、また丸く広がった。


 ルカは頷いた。


 正しい記憶。


 ミナの家族しか知らないもの。


 だから、母は信じてしまう。


 娘が帰ってきたと。


 信じたくなるに決まっている。


 ルカは、自分の胸の中に浮かんだ同情を、そっと横へ置いた。

 同情で名を読むと、見たいものだけを見てしまう。


「もうひとつ。最後に握っていたものは?」


 ノアの肩が震えた。


 今度は、水鉢の表面がわずかに乱れた。


「布」


 彼は言った。


「潮布。濡れてる。ざらざらして、指にくっつく。冷たい。手の中で、ずっと動いてるみたいだった」


「色は?」


「青……じゃない。海みたいな色。濡れると黒く見える。でも光が当たると、緑が出る」


 ミナの母は、声を出さずに泣いた。


「海葬のときには流していません」


 彼女は言った。


「その布は、あの子が死んだ日に握っていたものです。戻ってきたとき、指から離れなくて……私が切って、神殿に預けました。誰にも見せていません」


 リサが顔を上げる。


 その表情に、怒りはなかった。


 ただ、怖れていた。


 ノアの中の少女の名が本物であることを、リサも認めざるを得なくなっている。


 それが、彼女にとってどれほど恐ろしいか。


 ルカにはわかった。


 ミナの名が偽物なら、戦える。

 誰かの仕組んだ偽装なら、暴ける。

 でも本物なら。


 本物の名が、生きている少年を揺らしているなら。


 何と戦えばよいのか、わからなくなる。


 ルカは水鉢の真珠粉を指でなぞった。


 ここまでは正しい。


 問題は、この先だ。


「今度は、あなたが見たものを話してください」


 ノアが薄く目を開ける。


「僕が?」


「はい。ミナさんの家族が知らないこと。あなた自身も、なぜ知っているのかわからないこと」


 ノアの喉が動いた。


「……怖い」


「無理はしなくていいです」


「でも、言わないと、ずっといる」


「誰が?」


 ノアは答えなかった。


 かわりに、胸元の護符を押さえた。


 布の下で、青と白の光がじわりと滲む。


「底に、いる」


 水鉢の表面が割れた。


 丸い波紋ではなかった。


 細い線が、二つに分かれた。


 ルカは表情を変えないようにした。


「底?」


「海の底。暗いけど、真っ暗じゃない。光ってる。白い石が、ずっと下へ続いてる」


「階段ですか」


「うん」


 ノアの声が、ひどく遠くなる。


「沈んだ階段。貝がついてる。柱が折れてる。水の中なのに、鐘が鳴ってる。上からじゃない。もっと下から」


 セグラム神官が、扉の外で身じろぎする気配がした。


 ルカは水面から目を離さない。


 ミナが死後に知ったはずのない景色。


 ノアが幼いころに覚えているはずのない深海。


 それが、ノアの中でミナの名と混ざっている。


「そこに、誰かいますか」


 ルカが問うと、ノアの唇が震えた。


 リサが不安げに手を握りしめる。


 ミナの母も、髪紐を胸に押し当てたまま動かない。


「いる」


 ノアは言った。


「少年がいる」


 部屋の潮瓶が、かすかに鳴った。


 ルカの指先が冷たくなる。


「どんな少年ですか」


「わからない」


「年は?」


「僕と同じくらい……でも、もっと古い」


「古い?」


「顔は子どもなのに、声が海みたいに古い。階段の下で待ってる。ずっと待ってる。誰かが降りてくるのを」


 水鉢の真珠粉が、底へ沈みかけた。


 嘘ではない。


 だが、どの名の記憶でもない。


 少なくとも、ミナだけの記憶ではない。


「その少年は、何か言いますか」


 ノアは苦しそうに息を吸った。


「呼んでる」


「誰を?」


「わからない」


「あなたを?」


「違う……と思う」


「ミナさんを?」


「違う」


 ノアの声が、ほんの少し少女のものに近づいた。


「もっと……まだ、上にいる子」


 ルカの胸元が冷えた。


 潮名札を入れているあたりが、氷を当てられたように冷たくなる。


 彼女は無意識にそこへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 この記憶は、今触れてはいけない。


 ノアの中にある名の混線を、さらに深いところへ引き込んでしまう。


「その少年は、名前を言いますか」


 ルカの声は、自分でもわかるほど慎重だった。


 ノアは首を横に振る。


「名前は、沈んでる」


 水鉢の水が、一瞬だけ黒く見えた。


「ただ、待ってる。底で。白い階段の下で。名を拾う子が来るのを」


 リサが息を呑んだ。


 ミナの母は意味がわからないという顔をしている。


 だが、ルカには、胸の奥で何かが小さく軋む音が聞こえた。


 名を拾う子。


 それは誰のことか。


 自分だと決めつけるのは危険だ。


 海の記憶は、人の言葉に置き換えると歪む。

 ノアが聞いたものを、ノアの知っている言葉で表しているだけかもしれない。


 それでも。


 ルカの欠けた潮名が、静かに冷え続けている。


「他には?」


 ルカは問いを戻した。


 深いところへ行きすぎてはいけない。


 今はミナとノアの絡まりを見るための時間だ。


「階段の上に、僕がいる」


 ノアが言った。


「あなたが?」


「小さい僕。たぶん。泣いてる。でも声が出ない。波が来て、足が滑って、落ちる。水が口に入る。暗い。怖い。でも、誰かが手を掴む」


 ミナの母の体が震えた。


 リサが青ざめる。


 ノアは両手を握りしめる。


「その手が、僕を押す。上へ。上へって。僕は浮く。でも、その子は沈む」


 声が、また細くなる。


「寒い」


 少女の声だった。


「指が痛い。布が離れない。お母さんの歌、忘れたくない。帰りたい。でも、この子を返さなきゃ」


 ミナの母が小さく声を漏らした。


「ミナ……」


 ルカはすぐに視線を向ける。


 母は口を押さえた。


 名を呼ばなかった。


 ただ、呼びかけそうになった声を必死に飲み込んでいた。


 ルカは小さく頷いた。


 それでいい。


 今は、名を強く引き寄せてはいけない。


 ノアの額に汗が浮かぶ。


「その子が言うんだ」


 ノアは、ほとんど囁くように続けた。


「わたしの名はいらないから、この子を返して、って」


 水鉢の表面に、大きな波紋が広がった。


 青と白が重なり、ひとつになりかけ、すぐに割れた。


 リサが泣きそうな顔でノアを見る。


「十年前、あなたは……」


「覚えてない」


 ノアは震えた。


「覚えてないはずなんだ。僕、浜で拾われる前のこと、ほとんどない。リサ母さんが最初にくれた貝の笛のことは覚えてる。熱を出した夜のことも、網の結び方を教わった日のことも覚えてる。でも、その前は……海の音だけ」


 リサの顔が歪んだ。


 ノアが初めて彼女を「リサ母さん」と呼んだ。


 それは、彼が自分の名に戻ろうとしている証でもあった。


 同時に、ミナの母にとっては、彼が自分の娘ではないと突きつける言葉でもあった。


 部屋の中で、ふたつの母の痛みが向かい合っていた。


 ルカは、問いを止めた。


 これ以上は危ない。


 ノアの名が疲れている。


 水鉢の波紋も乱れすぎている。


「ここまでにしましょう」


 ルカが言うと、ノアは力が抜けたように肩を落とした。


 リサがすぐに支える。


「大丈夫?」


「うん……少し、眠い」


「眠っていい」


 リサはノアの背を撫でた。


 ミナの母は、何か言いたそうに唇を震わせた。だが、言わなかった。代わりに、桃色の髪紐を自分の胸に強く押し当てた。


 ルカは水鉢を見下ろした。


 そこには、三種類の記憶が映っていた。


 ひとつは、ミナの正しい記憶。


 母だけが知る子守歌。


 海葬の日に流された夜明け貝の色。


 死の直前に握っていた潮布の感触。


 それらはすべて、ミナ=ベルカの名に属している。


 だから、母は娘の帰還を信じた。


 信じる理由が、確かにあった。


 もうひとつは、ノア自身の記憶。


 浜で拾われる前の欠落。


 声を出せなかった幼少期。


 リサに名を与えられ、少しずつノアになっていった時間。


 彼の名は、最初から完全ではなかった。


 十年前、彼は何かを海に置いてきている。


 そして最後のひとつ。


 どちらにも属さない記憶。


 沈没した白い階段。


 海底で鳴る鐘。


 神殿のような場所。


 底で待っている少年。


 名を拾う子を呼ぶ声。


 それは、今回の事件に混ざり込んだ、さらに深い潮の影だった。


 ルカは、水鉢の表面に指を触れた。


 冷たい。


 ただの水ではないように冷たい。


 指先から、胸元の潮名札まで、細い冷気が走る。


 ルカ。


 自分の名を心の中で呼ぶ。


 そこまでは届く。


 けれど、その先はやはり沈んでいる。


 底で待っている少年。


 名を拾う子。


 ルカは小さく息を吐いた。


 今は、考えすぎてはいけない。


 この事件を解くには、まず十年前の海で何が起きたのかを確かめる必要がある。


 ミナは本当に、ノアを助けたのか。


 なぜ神殿の記録には、それが残っていないのか。


 ノアはなぜ浜で拾われたのか。


 そして、ミナの名の一部は、なぜノアの欠けた名に結びついたのか。


 ルカは立ち上がった。


「十年前の潮紙を見ます」


 扉の外にいたセグラム神官が、ゆっくりと部屋へ入ってきた。


 彼も今の話を聞いていたのだろう。表情は硬い。


「潮紙には、海葬時の記録しかない」


「本当にそうなら、それを確認できます」


「もし違ったら?」


「潮紙が、神殿の記録と違うことを覚えているかもしれません」


 セグラム神官の顔に、かすかな痛みが走った。


 神殿の記録が正しい。


 還名神官として、そう信じたいのだろう。


 けれど、彼もまた昨夜から、何かが記録の外で起きていることに気づいている。


「……保管庫へ案内しよう」


 神官は低く言った。


 ルカは頷く。


 部屋を出る前に、ミナの母が小さく呼び止めた。


「名拾いさん」


 ルカは振り返る。


「はい」


「あの子の記憶は、本当に……あの子のものなのね」


 ミナの名を直接呼ばなかった。


 それだけで、彼女がどれほど耐えているかがわかる。


 ルカは静かに答えた。


「はい。少なくとも、一部は」


 母の目に涙が溜まる。


「でも、あの子そのものではないのね」


 ルカは、少しだけ間を置いた。


 残酷な答えだった。


 けれど、ここで曖昧にすれば、ノアが傷つく。


「まだ、そうは言えません」


 母は目を閉じた。


 その頬を涙が伝う。


「……わかりました」


 完全には、わかっていないだろう。


 受け入れてもいないだろう。


 それでも、彼女は名を呼ばなかった。


 ルカは深く頭を下げた。


 小室を出ると、回廊の向こうに海が見えた。


 灰色の空の下で、オルカ=ベルの湾が静かに揺れている。


 沖で、また鯨が鳴いた。


 今度の声は、長く、深く、どこか遠い。


 まるで海の底から、まだ名を持たない誰かが、こちらを見上げているようだった。

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