表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第4話 止まった潮は、提督の名で凍った
PR
39/50

第一節 ― 止まった潮の浜

 メルナ=レイの浜は、朝から人で埋まっていた。


 いつもの還名浜なら、潮の音が先に聞こえる。


 波が白砂を洗い、貝殻が鳴り、名札船の小さな鈴が遠くから近づいてくる。名拾いたちは声を張らない。祈りを扱う者たちだから、浜では自然と声が低くなる。それでも、そこには流れがあった。誰かが潮紙を広げ、誰かが名札を乾かし、誰かが泣き、誰かが黙って海を見つめる。名はいつも、人の間を通って、最後に海へ出ていく。


 けれど、その朝の浜には、流れがなかった。


 人はいる。


 名拾いたちもいる。

 潮名預かり人も、浜の古老も、還名儀式に来た家族たちもいる。

 けれど、誰も動けないでいた。


 ルカはナミル=レイを浅瀬に寄せ、舫い縄を杭へ結んだ。


 船体が砂を擦る音が、いつもより大きく聞こえた。波は寄せている。引いてもいる。海そのものは止まっていない。けれど、その音の中に、名札が流れる微かな響きだけがない。


 船から降りた瞬間、浜の空気が肌にまとわりついた。


 潮の匂い。

 濡れた砂。

 祈りに使う潮香木の薄い煙。

 そして、そのすべての下に、冷たいものがある。


 海が冷たいのではない。


 名が冷たい。


「……やっぱり、ここも」


 ルカは呟いた。


 エルンが後ろから降りてくる。足が砂に沈んだ瞬間、彼は少し顔をしかめた。


「下じゃない」


「え?」


「沈んでない。沈みたいわけでもない」


 エルンは、波打ち際に並ぶ名札の群れを見つめた。


「ただ、止まってる」


 浜のすぐ先、膝ほどの深さの波間に、いくつもの名札が浮いていた。


 木札。貝札。潮紙を巻いた細い筒。小さな船形に削られたもの。古い櫛に名を刻んだもの。どれも還名儀式で流されたものだろう。家族が見送り、祈りを添え、海へ預けた名たち。


 本来なら、名札は沖へ出る。


 すぐ戻ってくるものもある。夢に還るものもある。潮騒の中で一度だけ呼び声になり、誰かの胸へ戻るものもある。あるいは、戻らずに海の底で待つものもある。


 けれど、今はどれも違った。


 名札は、浜に戻ってきていない。

 沖へ出てもいない。

 波間の途中で、ただ止まっている。


 寄せ波が来れば揺れる。

 引き波が来れば、水だけが引く。

 それでも名札は、同じ場所から動かない。


 まるで、海面の上に見えない釘で留められているようだった。


「ルカ!」


 呼ばれて振り向くと、名拾い仲間のひとりが駆け寄ってきた。


 若い女の名拾い、サリアだった。いつもは落ち着いている彼女の頬が、今は潮風に赤くなっている。胸元の潮紙入れは開いたままで、何度も試したのだろう、指先が水に濡れていた。


「戻ってきたのね。よかった。イシュラ=マレに行ったって聞いていたから」


「何が起きてるんですか」


 ルカが尋ねると、サリアは首を横に振った。


「分からない。夜明け前からよ。還名儀式で流した名札が、沖へ出ないの。戻ってもこない。ただ、あそこで止まってる」


「全部ですか」


「少なくとも、今朝流した分は全部。昨日の夕方に流したものも、いくつか止まったまま見つかったわ」


 サリアは声を落とした。


「読もうとした人もいる。でも、読めない」


 ルカは名札の方を見た。


「名が消えてるんですか」


「違う。あるの。あるのに、読もうとすると……」


 サリアは、自分の喉元へ手を当てた。


「声が、同じところで止まる。続きを聞こうとすると、息が詰まるみたいになる」


 ルカの背筋を、冷たいものがなぞった。


 第2話の深さではない。

 第3話の箱でもない。


 名がある。


 そこにある。


 けれど、動けない。


「ルカ」


 エルンが小さく呼んだ。


 彼は波打ち際を見ていなかった。人垣の向こうを見ている。


 ルカもその視線を追った。


 そこに、ミリカ=トウルがいた。


 小さな背中だった。


 十歳ほどの少女は、膝を抱えるようにして砂浜に座っている。薄い外套の裾が濡れていたが、本人は気にしていない。髪は潮風で乱れ、頬には乾きかけた涙の跡があった。


 彼女の前、ほんの数歩先の波間に、一枚の名札が浮いている。


 ルカは、その名札を覚えていた。


 第2話で、ミリカが一晩抱いて眠った父の潮名札。

 翌朝、自分の手で海へ送り直した名札。


 あの時、ミリカは泣きながらも、父の名をもう一度海へ託した。返してもらうのではなく、送り直すために。


 その名札が、今、浜近くで止まっていた。


「ミリカ」


 ルカが声をかけると、ミリカはゆっくり振り返った。


 一瞬、顔が明るくなる。


「ルカお姉ちゃん」


 けれど、その明るさはすぐに崩れた。


 ミリカは立ち上がろうとして、うまく立てず、砂に手をついた。ルカは駆け寄り、彼女のそばに膝をついた。


「大丈夫?」


 ミリカは頷かなかった。


 代わりに、海を指さした。


「お父さんの」


「うん」


「流れないの」


 声は震えていた。


「朝、見に来たら、あそこにあったの。昨日も、一昨日もなかったのに。波が来ても、行かないの。戻ってもこないの」


 ルカは名札を見る。


 名札は、水面に貼りついたように止まっている。第2話の時より、木の色が少し淡くなっていた。海に送られたものの顔になり始めている。けれど、まだ完全には海のものになっていない。


 その時だった。


 小さな歌が聞こえた。


 最初は、潮騒かと思った。


 けれど違った。


 男の声だ。


 低く、少しかすれていて、節は不器用。船乗りが、子どもを寝かしつけるために無理に優しく歌っているような声。


 短い船歌。


 同じ旋律が、波の上で何度も繰り返されている。


 ミリカの肩が震えた。


「聞こえるの」


 彼女は言った。


「止まってるあいだは、お父さんの声、消えないの」


 ルカは息を呑んだ。


 歌は確かに聞こえる。


 はっきりしているわけではない。声そのものが戻ったわけではない。けれど、第2話の最後にミリカがようやく聞いた短い船歌よりも、今は近い。波が名札を通り過ぎるたび、歌がその場所に引っかかり、同じ節を繰り返す。


 ミリカは両手を握りしめた。


「流れたら、また聞こえなくなるの?」


 ルカは答えられなかった。


「ねえ、ルカお姉ちゃん」


 ミリカは、泣きそうな顔でルカを見る。


「じゃあ、このままじゃだめなの?」


 その問いは、ルカの胸をまっすぐ突いた。


「止まってたら、お父さんの声、ここにいるのに」


 砂浜にいた大人たちの誰も、すぐに何も言わなかった。


 古老も、潮名預かり人も、名拾いたちも、言葉を失っていた。


 それは、間違った願いではなかった。


 父の声が消えてほしくない。


 もう一度聞けた歌を、手放したくない。


 失った人の声が、すぐそこに留まっているなら、流れてほしくない。


 誰が、それを責められるだろう。


 ルカは、ミリカの肩に手を置いた。


「ミリカ……」


 名前を呼ぶことしかできなかった。


 還ることが救いだと、ルカは思ってきた。


 名は、閉じ込めるものではない。流れ、巡り、時に戻り、時に底で待つ。第1話で知った。第2話で知った。第3話では、読まないことで守る名があると知った。


 でも。


 流すことで、ミリカはもう一度父の声を手放すことになる。


 このまま止めておけば、声は消えない。


 たとえ同じ歌を繰り返すだけでも。

 たとえ本当に戻ったわけではなくても。

 それでも、ここにある。


 ルカは、すぐに「だめ」と言えなかった。


 エルンが、名札を見つめていた。


 彼は波打ち際に近づき、膝をつく。ただし、名札には触れない。手を伸ばしかけて、止める。


「エルン?」


 ルカが呼ぶと、彼は小さく言った。


「歌ってない」


 ミリカが顔を上げる。


「歌ってるよ」


 エルンはミリカを見た。


 責めるような目ではない。困ったような、悲しそうな目だった。


「聞こえる。でも、歌ってるんじゃない」


「どういうこと?」


「同じところで、ずっと引っかかってる」


 エルンは名札へ耳を澄ませる。


「息を吸わない。次へ行けない。戻ることもできない。声が、ここで輪になってる」


 ミリカは理解できないという顔をした。


 無理もない、とルカは思った。


 ルカだって、半分しか分からない。


 けれど、エルンの言うことは感覚として伝わってきた。


 歌は聞こえる。


 でも、生きている歌ではない。


 誰かが今、歌っているわけではない。

 父の記憶がミリカへ向かって動いているわけでもない。

 ただ、歌の一部が止められ、同じ場所で反響している。


 美しい。


 でも、苦しい。


 ルカは名札へ手を伸ばしかけた。


 潮紙越しに読めば、何か分かるかもしれない。


 けれど、指が止まった。


 読まない。


 第3話で学んだ掟が、胸の奥で鳴った。


 これはミリカの父の名だ。

 ミリカが送り直した名だ。

 そして今、ミリカは手放したくないと泣いている。


 勝手に読むことは、違う。


 助けるために、まず踏み込まない。


 ルカは潮紙箱から一枚だけ潮紙を取り出した。名を読むためではなく、水面の状態を見るために、名札の少し手前の波へ浮かべる。


 潮紙は、波に揺れた。


 だが、すぐに動きを失った。


 名札と同じ位置で、ぴたりと止まる。


 ルカは息を詰めた。


「潮紙まで……」


 浜の古老が近づいてきた。白い眉を潮風に揺らしながら、杖を砂に突く。


「朝からずっとその調子だ」


「原因は分かりますか」


「分からん。だが自然の潮ではない」


 古老は海を睨むように見た。


「海が迷っておるのではない。誰かが、海に迷うことを許しておらん」


 ルカの胸に、イシュラ=マレで見た黒封の記録が浮かぶ。


 錨記庁。


 黒箱漂着体。

 沈名反応、強。

 読名不能。

 回収優先。


 名の流れを測ろうとする者たち。


 そして、測るだけでは飽き足りず、止めようとしている者たち。


 ルカは拳を握った。


 だが、そこへミリカの声が割り込む。


「ルカお姉ちゃん」


 小さな声だった。


「これ、悪いことなの?」


 ルカは、すぐに答えられなかった。


 悪い。


 そう言うのは簡単だ。


 誰かが名を止めている。自然ではない。還名儀式を歪めている。それはきっと、よくないことだ。


 でも、ミリカの目の前には父の歌がある。


 今この瞬間、ミリカにとってそれは救いにも見える。


 ルカは、嘘をつけなかった。


「……分からない」


 ミリカの瞳が揺れる。


 ルカは言葉を探した。


「でも、分かるまで見に行く。どうして止まっているのか。止めているのが誰なのか。これが本当に、ミリカのお父さんのためになっているのか」


「お父さんのため……」


「うん」


 ルカは、名札を見た。


 止まった船歌は、まだ同じ節を繰り返している。


「声がここにあることと、お父さんの名がちゃんと海を行けることは、同じじゃないかもしれない」


 ミリカは黙った。


 納得したわけではない。

 たぶん、まだ分からない。


 それでも彼女は、名札を掴みに行こうとはしなかった。


 ルカはそのことに、少しだけ胸を締めつけられた。


「エルン」


 ルカは立ち上がった。


「沖へ出よう」


 エルンは頷いた。


「止めてる場所がある」


「分かる?」


「うん。音がまっすぐじゃない。みんな、同じ方へ引っかかってる」


 彼は海の先を指した。


 メルナ=レイの沖。


 朝霧の薄く残る方向。


 ルカには、まだ何も見えなかった。


 けれど、止まった名札たちは、確かに同じ方角を向いているように見えた。流れないまま、沈まないまま、ただ何かに留められている。


 ルカはナミル=レイへ戻ろうとした。


 その時、風が変わった。


 潮香木の煙が、浜の端へ流れる。


 ルカは何気なくそちらを見た。


 人垣から少し離れた、濡れた岩場の近く。


 白い外套の旅人が立っていた。


 港町には似合わないほど清潔な白。霧でも潮でも汚れていない裾。朝日に透ける髪は淡く、顔立ちは遠目ではよく見えない。ただ、そこにいるだけで周囲の音が少し薄くなるような、不思議な気配があった。


 その旅人は、止まった名札のひとつを眺めていた。


 そして、まるで古い友人にするように、指先で軽く弾いた。


 名札は、動かなかった。


 けれど、旅人は面白そうに笑った。


 ルカは、その笑みを見た瞬間、胸の奥に小さな違和感を覚えた。


 怖い、とは違う。

 優しい、とも違う。


 物語の端に、知らない白い余白が置かれたような感覚だった。


 エルンも、その旅人を見ていた。


 彼の顔色が、少し変わる。


「……あの人」


「知ってるの?」


「知らない」


 エルンは小さく首を振った。


「でも、底の音がしない」


 白い旅人は、こちらを見た。


 目が合った気がした。


 次の瞬間、彼はにこりと笑った。


 それは、止まった潮の浜にまったく似合わない、あまりに軽やかな笑みだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ