表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第4話 止まった潮は、提督の名で凍った
PR
40/50

第二節 ― 白い獣紳士は潮を覗く

 白い旅人は、止まった名札をもう一度、指先で弾いた。


 乾いた音はしなかった。


 木の札が鳴る音でも、貝札が触れ合う音でもない。もっと薄い、紙の裏側を爪で撫でたような音だった。けれど、その音は奇妙にはっきりと浜に広がった。波の音も、人々のざわめきも、その一瞬だけ遠ざかる。


 名札は動かない。


 波は寄せ、泡は割れ、砂は濡れていく。だが、名札だけはそこに留まっていた。旅人の指が触れても、わずかに震えるだけで、流されることも、浜へ戻ることもない。


 白い旅人は、面白いものを見るように目を細めた。


「止まった名は、きれいだね」


 その声は、若くも老いてもいなかった。


 よく通るのに、誰に向けているのか分かりにくい声だった。隣で囁かれたようにも、ずっと遠い岩場から響いたようにも聞こえる。


「腐らない。流れない。失くならない」


 旅人は、指先についた水を軽く払った。


 その指は濡れていなかった。


 ルカは、それに気づいて息を呑んだ。


 波間に手を伸ばしたはずなのに、袖も、手袋も、指先も濡れていない。靴も同じだった。白い革靴は浜の濡れた砂を踏んでいるのに、泥も塩もついていない。


 だが、錨記庁の測名官とは違う。


 灰外套の測名官には、乾いた冷たさがあった。水を測り、名を測り、人を項目へ変える、あのぞっとするような無機質さ。


 この旅人は違う。


 白い。


 あまりにも白い。


 けれど、その白さは清潔というより、何も書かれていない紙のようだった。そこに何かが書かれるのを待っているようで、同時に、書こうとした文字をすべて拒むようでもある。


 白い外套の裾は、潮風に揺れている。襟元には細い銀糸の刺繍。髪は淡く、朝霧と同じ色に見えた。顔立ちは整っているが、どこか人のものから少しだけ外れている。微笑んでいるのに、目だけが笑っていない。


 いや。


 目が笑っていないのではない。


 笑い方が、人よりも古いのだ。


 ルカは、思わず一歩前へ出た。


「あなたは……?」


 白い旅人は、ルカを見た。


 その視線が触れた瞬間、ルカは胸の奥を指で軽く弾かれたような感覚を覚えた。


 名前を呼ばれたわけではない。

 名を読まれたわけでもない。


 けれど、自分の中にある、まだ自分でも触れられない場所の輪郭を、一瞬だけなぞられた気がした。


 ルカは反射的に口を閉じる。


 白い旅人は、嬉しそうに笑った。


「名前を訊くのは、自然なことだね」


「……名乗らないんですか」


「名乗ってもいい。けれど、名前は便利すぎる」


 旅人は、止まった名札から目を離さずに言った。


「便利なものは、早く出しすぎると物語が痩せる」


「物語?」


「うん」


 彼は何でもないことのように頷いた。


「人は、まだ分からないものを抱えて歩く時がいちばん豊かだ。答えをもらうと安心する。けれど、安心したぶんだけ、余白は減る」


 ルカには、言葉の半分も分からなかった。


 だが、分からないのに、聞き流せない。潮騒の中へ消えてしまいそうな言葉なのに、胸の奥へ白い小石のように残る。


 後ろで、エルンがわずかに後ずさった。


 砂が小さく鳴る。


 ルカは振り返った。


「エルン?」


 エルンは、白い旅人を見ていた。


 顔色が悪い。


 けれど、測名官を見た時の震えとは違った。あの時のエルンは、身体が先に怯えていた。今は怯えというより、底を探ろうとして、そこに底がないことに気づいたような顔だった。


「この人」


 エルンは呟いた。


「底の音がしない」


 旅人の目が、エルンへ向いた。


 その瞬間、浜に漂っていた潮香木の煙が、ふっと横へ流れた。誰かが息を呑む。ミリカがルカの袖を掴む。


 白い旅人は、エルンをじっと見た。


 値踏みするようではない。

 測るようでもない。

 むしろ、すでに知っている本の、まだ読んでいないページを見つけた時のような目だった。


「それは、君も似たようなものだよ」


 旅人はやさしく言った。


「底に置いてきた名の子」


 エルンの肩がびくりと震えた。


 ルカはすぐにエルンの前へ出る。


「この子に、何か知っているんですか」


「知っている、という言い方はむずかしいね」


「どういう意味ですか」


「記録はある。けれど、記録があることと、彼を知っていることは違う」


 白い旅人は、薄く笑った。


「錨の者たちは、その違いが苦手らしい」


 ルカの胸が強く鳴った。


 錨の者。


 その一言だけで、彼が何かを知っていることは分かった。


「錨記庁のことですか」


 旅人は答えなかった。


 代わりに、止まった名札の方へ目を戻した。


「止まった水面は、鏡に似ている」


 彼は言った。


「見たいものだけを返す。失くした声、帰らない人、終わらなかった祈り。ここにある、と見せてくれる」


 ミリカが、ルカの袖を握る手に力を込めた。


 旅人の言葉は、ミリカに向けられたものではないようでいて、間違いなく届いていた。


「でも、鏡の中のものは、こちらへ歩いてこない」


 旅人は、波間の名札を見下ろす。


「触れられるように見えて、触れられない。残っているように見えて、続かない。止まった名は、美しい。けれど、美しさは時々、とても残酷だ」


 ルカは、ミリカの手をそっと包んだ。


 ミリカは何も言わなかった。


 父の船歌は、まだ同じ場所で繰り返されている。


 白い旅人はしゃがみ、濡れていない指で砂の上に線を引いた。線はすぐ波に消されるはずだった。けれど、波が来ても、その線だけは一瞬残った。


 まるで、消されることを少し遅らされたように。


「流れるから、失われる」


 旅人は静かに言った。


「それは、半分だけ正しい」


 ルカは息を止める。


「流れなければ、届かない。これも、半分だけ正しい」


「半分……?」


「真実はたいてい、片側だけでは痩せてしまう。だから人は、物語にする。どちらにも届くように」


 ルカは眉を寄せた。


「あなたは、何をしに来たんですか」


「潮を覗きに」


「覗きに?」


「そう」


 旅人は立ち上がった。


「止められた潮が、何を映すのか見たかった。誰が泣き、誰が迷い、誰が正しさを名乗るのか。そういうものは、動いている時より、止まった時の方がよく見える」


 ルカの中に、不快感が芽生えた。


 彼は助けに来たのではない。


 少なくとも、今すぐ名札を流してくれるわけではない。ミリカの父の声を救ってくれるわけでも、エルンの正体を教えてくれるわけでもない。


 見ている。


 観測している。


 それは錨記庁の「測る」とは違う。けれど、どこか似た冷たさもある。


「見てるだけなんですか」


 ルカの声は、自分で思ったより鋭かった。


 旅人は、少し嬉しそうに目を細めた。


「いい問いだね」


「答えてください」


「手を出せば、変わる。手を出さなければ、失われる。どちらも傲慢で、どちらも臆病だ」


「そんな話を聞いているんじゃありません」


 ルカは一歩踏み出した。


「目の前で、名が止まってるんです。ミリカのお父さんの声も、他の人たちの名札も、全部。あなたが何か知っているなら――」


「知っている者が、答えを渡すとは限らない」


 旅人の声は、やわらかかった。


 けれど、そのやわらかさが、ルカの怒りを少しだけ冷ました。


「答えは、もらうと借りになる。借りた答えでは、君の船の掟にはならない」


 ルカは言葉に詰まった。


 船の掟。


 あのときの、カイラに言われた言葉が胸に蘇る。


 船には掟がいる。


 まだ、ルカはそれを決めきれていない。


 ナミル=レイは、名を拾う船だった。祈りの船だった。だが今、浜に並ぶ名札を前にして、ただ拾うだけでは足りないことを突きつけられている。


 旅人は、そんなルカを見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「名拾いの少女」


 ルカは警戒して顔を上げた。


「君は、読む者だね」


「そうです」


「なら、読まないことも覚えた」


 ルカの喉が動いた。


 あのときことを知っているのか。


 潮牙亭。

 リオ。

 カイラの掟。


 旅人は続ける。


「次は、流すか止めるかを選ぶ番だ」


「私は、止めません」


「今はそう言える」


 旅人の視線が、ミリカへ向いた。


「けれど、止まっているから救われている顔を見た時、君は迷う。迷うのは悪くない。迷わない正義は、錨とよく似ている」


 ルカは、何も言えなかった。


 ミリカは、まだ父の歌を聞いている。涙で目を赤くしながら、それでも名札から耳を離せずにいる。


 止めることが、全部悪だと切り捨てるには、そこにある願いは痛すぎた。


 エルンが小さく言った。


「でも、あの歌は苦しい」


 旅人はエルンを見た。


「君には、そう聞こえる」


「うん」


「水面の子には、残っているように見える。底の子には、引っかかっているように聞こえる。どちらも間違いではない」


「じゃあ、どうすればいいの」


 エルンの問いは幼く、まっすぐだった。


 旅人は、少しだけ首を傾けた。


「君たちが、どうしたいかだよ」


 それは、答えではなかった。


 でも、逃げでもなかった。


 ルカは、ふと気づいた。


 この人は、道を示さない。

 けれど、問いの場所だけは間違えさせない。


 そういう存在なのかもしれない。


 旅人は外套の内側から、一枚の名札を取り出した。


 白い名札だった。


 木札とも貝札とも違う。薄い骨のようにも、厚い紙のようにも見える。形は普通の潮名札に似ているが、紐はない。表面には何も書かれていない。


 彼はそれを、ルカの足元の砂へ置いた。


「これは?」


 ルカはしゃがんで名札を見る。


 空白。


 だが、何もないのとは違う。


 海から戻った名札の空白とも違う。以前に触れた、深すぎて読めない名札とも違う。


 これは、読ませない空白だ。


 名がないのではない。

 隠されているのでもない。

 読むという行為そのものが、すっと横へ避けられる。


 ルカの名拾いとしての感覚が、そこに触れようとして、何も掴めずに戻ってくる。


「読めない……」


「読まなくていいものもある」


 旅人は言った。


「けれど、空白は無ではない。そこに何も書かれていないからこそ、測る者の針を狂わせることがある」


「測る者……」


 ルカが顔を上げた時、旅人はもう少し離れた岩場に立っていた。


 移動した気配がなかった。


 濡れた砂にも、足跡は残っていない。


「待ってください」


 ルカは立ち上がる。


「あなたの名前は?」


 旅人は振り返った。


 朝霧の中で、白い外套が揺れる。


「名前は、また今度」


「また会うんですか」


「物語が痩せなければ」


 彼は笑った。


 今度の笑みには、ほんの少しだけ獣の気配があった。牙を見せたわけではない。目が光ったわけでもない。けれど、人ではないものが人の形を借りている、とルカはなぜか思った。


 エルンが、ルカの袖を掴む。


「ルカ」


「なに?」


「あの人、行く」


 言われて見ると、旅人の輪郭が朝霧に溶け始めていた。


 ミリカが小さく声を上げる。


「消えるの?」


 旅人は、最後に止まった名札の群れを見た。


「止まったものは、いつか誰かに動かされる」


 声だけが残る。


「それが潮か、錨か、君たちか。さて、どれだろうね」


 白い外套が霧に紛れた。


 次の瞬間、そこには誰もいなかった。


 ただ、砂の上に白い空白の名札だけが残っている。


 ルカはそれを拾おうとして、一瞬ためらった。


 触れていいものなのか分からない。


 けれど、潮が満ちれば流される。そう思って手を伸ばすと、名札は驚くほど軽かった。紙よりも軽く、貝よりも冷たい。


 読めない。


 でも、持っていてはいけないものではない。


 そんな気がした。


 ルカはそれを潮紙箱には入れなかった。代わりに、外套の内側、赤い牙貝とは反対の胸元へそっとしまう。


 赤い牙貝。


 白い空白札。


 片方は、沈みそうな時に助けを呼ぶもの。

 もう片方は、測られそうな時に余白を残すもの。


 ルカには、まだその意味は分からない。


 でも、ただの偶然ではないことだけは分かった。


 浜の向こうで、父の船歌がまた繰り返された。


 ミリカが顔を上げる。


 エルンは、沖を見た。


「止めてる場所、近い」


 ルカも海を見る。


 メルナ=レイの沖。朝霧の奥。


 名札たちは動かないまま、同じ方角を向いている。


 ルカは、胸元の空白札の冷たさを感じながら、ナミル=レイへ歩き出した。


 答えはもらえなかった。


 けれど、問いは残った。


 流すことは、本当に救いなのか。

 止めることは、本当に罪なのか。

 そして、自分たちの船は、どちらを選ぶのか。


 ナミル=レイの名灯が、沖の霧へ向かって細く光った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ