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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第4話 止まった潮は、提督の名で凍った
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序節 ― 流れない朝

 イシュラ=マレの霧は、いつまでも船尾にまとわりついていた。


 夜明け前に港を出たはずなのに、ナミル=レイの後ろにはまだ、霧の港の影が残っている。黒い岩礁の輪郭、牙灯の揺れ、潮牙亭の低い笑い声、下層水路の黒い水。どれももう見えないはずだった。けれど、ルカが振り返るたび、船尾の向こうに白く濁ったものが漂い、そこから誰かの呼び名が漏れてくるような気がした。


 名を売らぬ港。


 本名を聞かない宿。


 読まないことで守られる名。


 そのすべてが、まだルカの胸の中で湿っていた。


 ナミル=レイは、朝の海を静かに進んでいる。


 白い帆は半分だけ張られ、名札飾りは帆柱の下で小さく揺れていた。潮紙箱は船室の棚に収まり、潮鏡は布をかけられて眠っている。星潮羅針盤の針は、メルナ=レイの方角を示していた。戻るべき港。真珠のような白い家々と、還名儀式の浜と、名拾いたちのいる場所。


 けれど、戻っているという安心は、なかった。


 船室の入口に腰を下ろし、ルカは手の中の小さな貝を見つめていた。


 赤い牙貝。


 カイラ=マレイスが投げて寄こした、鋭い牙のような貝殻だ。外側は血を乾かしたような赤。内側は暗い珊瑚色に光っている。潮紋が細く刻まれていて、指でなぞると、遠い帆布が張るような音がした。


 一度だけ鳴らせ。


 本当に沈みそうな時だけだ。


 その声を思い出すたび、ルカの胸の奥に、少しだけ苦いものが広がった。


 助けを呼ぶ貝。

 でも、ただの護符ではない。


 それは、ナミル=レイがもう、ひとりで海を渡るだけの船ではなくなった証のようでもあった。ルカが困ったら誰かが助けに来てくれる、という甘いものではない。むしろ逆だ。海には、自分たちだけでは抗えないものがある。赤い牙貝は、それを突きつける小さな重さだった。


 そして、鳴らせばカイラが来るかもしれない。


 来たら、借りができる。


 助け賃は高いよ。


 カイラの笑い声が、まだ耳に残っている。


「……高いって、どのくらいなんだろう」


 ルカは小さく呟いた。


 返事はなかった。


 船室の奥で、エルンが眠っている。


 眠っている、はずだった。


 彼は毛布にくるまり、壁際の狭い寝台に横たわっていた。胸元には割れた貝殻の飾り。顔色は、イシュラ=マレを出た時より少しだけ戻っている。けれど、眠りは浅い。時々、眉間にしわが寄る。指先が空中で何かを探すように動く。


 沈んだ名を聞く少年。


 第2話で、黒い箱の底から手を伸ばしてきた少年。


 第3話で、偽造潮名証に探され、錨記庁の記録に「黒箱漂着体」「沈名反応:強」「読名不能」「回収優先」と書かれていた少年。


 ルカは、赤い牙貝をそっと布袋へしまった。


 その音で、エルンが目を開けた。


「起こした?」


 ルカが小声で尋ねると、エルンはゆっくり首を振った。


「起きてた」


 声はまだ眠たげだった。けれど、その奥に何か別の硬さがある。


「眠れてない?」


「少し眠った」


「少しじゃ、だめだよ」


「ルカも、あまり眠ってない」


 そう言われて、ルカは返す言葉に詰まった。


 たしかに、眠っていない。


 目を閉じると、潮牙亭の長卓に並んだ偽造潮名証が見えた。白布の中で震え、エルンの方へ向かって動こうとする黒い札。沈み水路の棚の奥に隠されていた小瓶。リオの呼び名の糸。灰外套の測名官の、感情のない声。


 まだ浮いていたのか。


 ルカは膝の上で手を握った。


 あの声が、どうしても忘れられない。


「エルン」


「うん」


「……大丈夫?」


 問いが曖昧すぎると、自分でも思った。


 何が大丈夫なのか。


 身体か。名前か。記録のことか。錨記庁に狙われていることか。自分の名がどこにあるのか分からないことか。


 エルンは少し考えた。


 それから、寝台の上で身を起こす。


「分からない」


 正直な答えだった。


「でも、今は沈んでない」


 ルカは、胸の奥が少しだけ痛くなった。


「うん」


「ルカが呼ぶと、戻れる」


 その言葉は、あまりに静かに出てきた。


 ルカは一瞬、どう返せばいいか分からなかった。


 名前を呼ぶ。


 それだけのことが、エルンにとっては、底へ沈まないための縄なのかもしれない。


「じゃあ、何度でも呼ぶ」


 ルカは言った。


「迷ったら、呼ぶ。沈みそうなら、呼ぶ。眠ってる時でも、起こしていいなら呼ぶ」


「眠ってる時は、少し困る」


「そこは困るんだ」


「うん。眠いから」


 エルンがまじめな顔で言うので、ルカは少し笑ってしまった。


 笑えたことに、自分で少し驚いた。


 船室の空気が、ほんの少しやわらぐ。


 けれど、そのやわらぎは長く続かなかった。


 エルンがふいに、外を見た。


 まだ扉の向こうには、朝の光と帆の影しか見えない。だが、彼の目はその向こうの海を見ているようだった。


「どうしたの?」


 ルカが尋ねる。


 エルンは黙っていた。


 その沈黙の中で、ナミル=レイの名札飾りが、かすかに鳴った。


 ちり、と。


 小さな音。


 風ではない。


 ルカは立ち上がった。


「エルン?」


 エルンは寝台から降り、裸足のまま船室の床へ立った。


 船が揺れる。

 いつも通りの揺れだ。


 いや。


 ルカは眉をひそめた。


 揺れている。波はある。船体は水を受けている。帆も風をはらんでいる。何も止まっていないように見える。


 それなのに、どこかがおかしい。


 エルンは船室の入口へ歩き、外を見た。


「海が」


 彼は言った。


 声が低かった。


「静かすぎる」


 ルカはすぐに甲板へ出た。


 朝の海が広がっている。


 東の空は薄い金色に明け、雲の下から陽が差し始めていた。海面は鈍い銀色に光り、細かな波がナミル=レイの船腹を叩いている。帆は膨らみ、縄は軋み、船首はゆっくりと波を分けて進んでいた。


 静かすぎる、という言葉に似合う光景ではない。


 鳥の声もある。

 波の音もある。

 風もある。


 けれど、ルカはすぐに気づいた。


 足りない。


 海の音の中に、いつも混じっているはずのものが、ない。


 名札の音だ。


 漂着名札は、海面を流れながら、目に見えない微かな音を立てる。木片が波に当たる音とは違う。貝札が擦れる音とも違う。呼ばれるのを待つ名が、海の上でそっと身じろぎする音。


 ナミル=レイで何度も聞いてきた音。


 潮が名を運ぶ音。


 それが、ない。


 ルカは船縁へ駆け寄った。


 海面を見下ろす。


 最初は、何も見えなかった。


 けれど、ナミル=レイが少し進むと、船首の右手に小さな影が浮かんでいた。


 名札だ。


 細い紐のついた、古い木の名札。波の上に浮いている。文字は濡れてかすれているが、何かの潮名が刻まれているのが分かった。


 ルカは目を凝らした。


 名札は、流れていなかった。


 海面に貼りついたように、そこに止まっている。


 波は動いている。

 名札のまわりの水は揺れている。

 泡も動く。朝日も揺れる。


 なのに、名札だけが動かない。


 ナミル=レイが近づいても、名札は逃げるように流れず、戻るように寄りもせず、ただ同じ場所に浮かんでいる。船が通り過ぎる時、波に押されるはずなのに、それでもわずかに震えただけだった。


「……なに、これ」


 ルカの声が、乾いた。


 エルンが隣に来る。


 彼は海面を見て、少し顔をしかめた。


「止まってる」


「潮が?」


「違う」


 エルンは首を振った。


「潮は動いてる。船も動いてる。魚も、下で動いてる。でも、名だけが動いてない」


 名だけが。


 ルカは胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 その時、ナミル=レイの船首に吊るされた名灯が、小さく揺れた。朝なのに、灯の芯に淡い光が灯る。ルカは名灯の光を見た。普段なら、還る名の方角へ細く伸びるその光が、今は途中で切れている。


 まるで、見えない壁にぶつかっているように。


「メルナ=レイの方角です」


 ルカは星潮羅針盤を確認した。


 針はまだ、港の方を示している。だが、針先が細かく震えていた。方角を失っているのではない。進む先に何かがあり、それを指したまま迷っている。


 エルンが、船縁に手を置いた。


「もっとある」


「名札が?」


「うん」


 彼の言葉どおりだった。


 朝霧の薄い向こうに、ぽつり、ぽつりと影が見え始める。


 ひとつ。

 ふたつ。

 三つ。


 流されてきた漂着名札。還名儀式で海へ送られた潮名札。割れた貝札。潮紙を巻いた小さな筒。どれも海面に浮かび、どれも流れていない。


 海が名を運んでいない。


 ルカは唇を噛んだ。


 第2話で見た、沈んだ名札の群れとは違う。


 あの時は、名が海底へ引かれていた。深すぎて読めなかった。

 第3話では、名が誰かの箱の中へ沈められていた。売れる形に切り分けられていた。

 でも今は違う。


 名は水面にある。


 手を伸ばせば届きそうな場所にある。


 それなのに、どこにも行けない。


「ルカ」


 エルンが言った。


「これ、怖い」


 その一言で、ルカは彼を見た。


 エルンは海面を見つめたまま、胸元の割れた貝殻に手を伸ばしかけていた。けれど途中で止める。カイラに教わった癖だ。人前で、鳴る場所を押さえない。見せない。測らせない。


 でも、今は二人きりだった。


 ルカは小さく言った。


「押さえていいよ」


 エルンは少し迷い、それから貝殻を押さえた。


 小さな、深い音がした。


 船底の下で鐘が鳴るような音。


「沈んでないのに、沈む前みたいな音がする」


 エルンは言った。


「どういうこと?」


「名が、進めない。下にも行けない。上にも届かない。ただ、ここに止められてる」


 ルカは海面の名札を見た。


 止められている。


 その言葉が、胸の奥で重く響いた。


 錨記庁。


 灰外套の測名官。


 名の流れを測ろうとしている者たち。


 カイラの声が蘇る。


 連中にとって名は、祈りじゃない。関係でもない。測定値だ。流れが乱れるなら止める。沈むなら記録する。浮くなら採る。


 ルカはナミル=レイの舷側を握った。


 木の感触が手のひらに返る。


 自分の船だ。


 名を拾い、還すための船。

 そして今は、名を売らないと決めた船。

 許されていない名を勝手に読まないと、心に決め始めた船。


 まだ正式な掟はない。


 けれど、もう逃げられないところまで来ている。


「メルナ=レイへ急ごう」


 ルカは言った。


「浜で何か起きてるかもしれない」


 エルンは頷いた。


 ナミル=レイの帆が、朝風を受けて膨らむ。


 船は進む。


 海は動いている。


 けれど、海面に止まった名札だけが、まるで見えない手で押さえつけられたように、その場に残り続けていた。


 ルカは船首に立ち、前方を見た。


 メルナ=レイの白い港は、まだ霧の向こうに見えない。


 ただ、海の上に浮かぶ名札の列だけが、道しるべのように続いている。


 流れない名たちが、黙って同じ方角を示していた。


 その先で、何かが潮を止めている。


 いや。


 潮ではない。


 名の流れを、止めている。


 ナミル=レイの名灯が、朝の光の中で、弱くまたたいた。

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