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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第3話 ― 名を売らぬ海賊は、霧の港で笑った
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終節 ― 船には掟がいる

 潮牙亭に朝が来るころ、霧はまだ港の底に残っていた。


 夜のあいだ沈み水路を満たしていた潮は、ゆっくりと引き始めている。水位が下がるたび、港の下層に沈んでいた倉庫の扉や、石壁の黒い苔や、錆びた鎖が姿を現した。昨夜、名売り市が開かれていた水路も、いまは何事もなかったように静かだった。


 けれど、何事もなかったわけではない。


 潮牙亭の広間には、眠れなかった者たちの気配が残っていた。


 倒れた椅子は戻され、こぼれた酒も拭かれている。賭け卓の上にはもう銀貨はない。その代わりに、白布で包まれた偽造潮名証と、鉛布に包まれた記録束が置かれていた。ドゥラ=ヴェックは、潮議会の見張りに連れていかれた。名抜き墨の小瓶も、静潮具の粉も、錨砂の袋も、すべて封じられた。


 終わった。


 そう言ってしまえば、事件は終わったのかもしれない。


 だが、ルカの胸には、終わったという感覚がなかった。


 リオは、潮牙亭の入口近くに座っていた。


 夜明けの薄い光が、帆布の隙間から差し込んでいる。その光の中で、リオは温かな魚汁の椀を両手で持っていた。昨日と同じ椀だ。けれど、昨日とは違う。


「リオ」


 帳場の老婆が呼んだ。


 少年は、顔を上げた。


 すぐに。


 ほんの少しだけ間はあった。けれど、それはもう、底の見えない遅れではなかった。声が長い水路を通って届くのではなく、少し眠そうな子どもが振り向く程度の間だった。


「冷めるよ」


「うん」


 リオは椀に口をつけた。


 その様子を見て、広間のあちこちで、誰かが小さく息を吐いた。


 ルカも、胸の奥で力が抜けるのを感じた。


 戻った。


 そう思いたかった。


 でも、完全には戻っていない。


 リオは、母に呼ばれていた名をまだ思い出せない。家族の船の名も、声の全部も、沈んだ日の記憶も、欠けたままだ。名抜き墨に吸われた呼び名の糸は取り戻せた。けれど、抜かれたことで薄くなった部分までは、元通りにならなかった。


 リオは、自分で選んだ。


 リオでいい。


 本名じゃないけど。


 でも、今はそれで振り向ける。


 それが救いだと、頭では分かっている。


 それでも、ルカは悔しかった。


 名拾いなのに。


 海から還る名を読むために、ナミル=レイに乗っているのに。


 助けられたはずのものを、全部は助けられなかった。


 ルカは、広間の隅に立ち、リオの横顔を見つめていた。


「そんな顔をするんじゃないよ」


 背後から声がした。


 カイラ=マレイスだった。


 彼女は夜通し動いていたはずなのに、疲れた様子を見せなかった。少なくとも、見せようとはしていなかった。外套の裾は濡れ、肩には水路の煤がついている。腰の短剣にはまだ黒い水の跡が残っていた。


 けれど、手には酒杯がある。


 朝から飲んでいるのか、とルカは思ったが、口には出さなかった。


「……完全には、戻せませんでした」


 ルカは言った。


 声にすると、悔しさがまた胸に広がった。


「リオのお母さんの声も、本当の名も、たぶんまだ……」


「全部戻すことだけが救いじゃない」


 カイラは、あっさりと言った。


 乱暴なくらい、あっさりと。


 ルカは振り返る。


 カイラはリオを見ていた。


「生きてる奴には、明日使う名が要る」


「明日使う名……」


「そうだよ。死んだ名をきれいに並べてやるより、明日の朝、誰かに呼ばれて振り向ける名の方が要る時もある」


 ルカは言葉を返せなかった。


 名を還すこと。


 名を読むこと。


 失われたものを、正しく持ち主へ返すこと。


 それがルカの仕事だった。


 けれど、カイラは違う場所からものを見ている。生き延びること。逃げること。隠すこと。朝になっても、呼ばれる名を持っていること。


 どちらが正しいのか、簡単には言えなかった。


 リオは、椀を置いた。


 老婆がまた呼ぶ。


「リオ」


「はい」


 今度は、少し笑った。


 それだけで、ルカの胸は少しだけ軽くなった。


 完全ではない。


 でも、始められる。


 その横で、エルンがカイラを見ていた。


 彼は夜明けの光に慣れないように、少し目を細めている。昨夜、偽造潮名証が彼へ向かって震えた時から、エルンはあまり眠っていない。けれど、胸元の割れた貝殻を押さえる癖は、少しだけ減っていた。


「君は」


 エルンが言った。


 カイラが眉を上げる。


「あたしかい」


「うん」


 エルンはまっすぐ彼女を見た。


「名前を読まないんだね」


 カイラは一瞬、きょとんとしたような顔をした。


 それから、声を立てて笑った。


「海賊が名を読むように見えるかい?」


「読めないの?」


「読む必要がある時だけ読む。読まなくていい名は、読まない」


 カイラは酒杯を軽く揺らした。


「それが海賊の礼儀だ」


「礼儀」


 エルンはその言葉を、口の中で確かめるように繰り返した。


 ルカもまた、その言葉を聞いていた。


 礼儀。


 潮牙亭では本名を聞かない。

 宿帳には、その夜だけの呼び名を書く。

 被害者を責めない。

 名を売らない。

 読まなくていい名は、読まない。


 それは、神殿の教えではなかった。名拾いの儀式でもなかった。けれど、確かに礼儀だった。海の上で、逃げてきた者たちが互いを壊さずに生きるための礼儀。


 ルカは、カイラへ向き直った。


「カイラさん」


「何だい」


「錨記庁の印について、教えてください」


 広間の空気が、少しだけ変わった。


 近くで椅子を直していた船員が、手を止める。帳場の老婆が、帳面を閉じる。リオも、何かを感じ取ったのか、椀を持ったままこちらを見た。


 カイラは、酒杯を口元へ運びかけて、やめた。


「どこまで聞きたい」


「分かるところまで」


「欲張りだね」


「エルンが、狙われています」


 ルカは言った。


 その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


「灰外套の測名官は、エルンを見て言いました。まだ浮いていたのか、と。黒箱漂着体、沈名反応、読名不能、回収優先。あれは、エルンのことです」


 エルンの肩が小さく動いた。


 ルカは彼の方を見ない。


 見れば、不安にしてしまう気がした。


「私は、何も知りません。錨記庁が何をしているのかも、エルンをどうしようとしているのかも。だから、知りたいです」


 カイラはしばらく黙っていた。


 それから、酒杯を卓へ置いた。


「錨記庁は、もともと潮を測る連中だった」


 低い声だった。


「南方浮上都市群の水路、潮位、黒潮の流れ、嵐の周期、沈没しやすい海域、船の航路。そういうものを測って、記録して、管理する。役に立たない組織じゃなかった。むしろ、昔は必要だった」


「昔は?」


「潮を測るだけならね」


 カイラの目が、鉛布に包まれた記録束へ向いた。


「けど最近は、潮だけじゃ飽き足りないらしい。名の流れまで測ろうとしてる」


 ルカは喉を鳴らした。


「名の流れを……」


「漂流者がどの港へ流れ着くか。失名者がどの名に反応するか。沈んだ名がどこで浮かぶか。潮名を変えた者が、どの呼び名で振り向くか。そんなものまで測り始めてる」


 カイラの声には、嫌悪があった。


「連中にとって名は、祈りじゃない。関係でもない。測定値だ。流れが乱れるなら止める。沈むなら記録する。浮くなら採る」


 エルンが、無意識に胸元へ手を伸ばした。


 だが、途中で止める。


 カイラはそれを見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「上出来だ、坊主」


 エルンは何も言わなかった。


 カイラは続けた。


「ただ、あんたたちに全部話すほど、あたしも親切じゃない」


「どうしてですか」


「知った名は、重くなる」


 その答えは、意外だった。


「知らなきゃ逃げられることもある。知らないふりで通れる検問もある。あんたたちはまだ、船も掟も半端だ。重い話を全部積んだら、ナミル=レイごと沈む」


 ルカは反論しようとして、できなかった。


 ナミル=レイ。


 自分の船。


 名を拾い、海へ還すための、小さな巡礼船。


 潮紙箱、潮鏡、星潮羅針盤、名灯、潮名船籍札。


 あの船は、祈りの船だった。


 でも。


 これからも、ただそれだけでいられるのだろうか。


 カイラは、まるでルカの胸の中を読んだように言った。


「錨記庁に見つかる前に、あんたたちの船を用意しな」


「船なら、あります」


「あるね。かわいい祈りの船が」


 カイラは少し笑った。


 馬鹿にした笑いではなかった。だが、甘くもなかった。


「でも、海で逃げるなら、船がいる。ただ浮かぶ舟じゃない。追われた時に隠れられる船。誰を乗せるか決められる船。誰の名を聞かないか決められる船。売っていい荷と、絶対に売らない名を分けられる船」


 ルカは黙った。


 ナミル=レイの姿が、頭に浮かぶ。


 小さな船体。白い名札の飾り。夜の海に灯る名灯。祈るように揺れる潮紙箱。海から還る名を待つ、優しい船。


 けれど、第2話であの船は底を向いた。


 星潮羅針盤は方角ではなく下を指し、潮鏡には黒い円が映り、名灯の光は船底へ落ちた。あの時から、ナミル=レイはもう、ただ還る名を待つ船ではなくなっていたのかもしれない。


 沈んだ名を追う船。

 失名者を乗せる船。

 追われる者を隠す船。

 名を読まないことを覚える船。


「それと」


 カイラは言った。


「船には掟がいる」


 ルカは顔を上げた。


「掟……」


「ああ。船長が迷った時、船が沈まないための線だ。何を積むか。何を積まないか。誰を守るか。何を売らないか。誰の名を聞かないか。どこまでなら逃げて、どこからは戦うか」


 カイラの目は、もう笑っていなかった。


「掟のない船は、潮が荒れた時に人を売る」


 その言葉は、重かった。


 ルカは、何も言えなかった。


 自分は名拾いだ。


 名を拾い、読む者だ。


 けれど、これからはそれだけでは足りない。


 エルンを乗せるなら。

 リオのような子をまた見つけるなら。

 錨記庁が名を測り、集め、分類しようとしているなら。


 ナミル=レイには、掟が必要になる。


 カイラは卓から離れ、広間の出口へ歩いた。


「カイラさん」


 ルカが呼ぶと、彼女は振り返らずに片手を上げた。


「まだ何か聞く気かい。情報料が積み上がるよ」


「……助けてくれて、ありがとうございました」


 カイラは足を止めた。


 少しだけ肩が揺れる。


 笑ったのかもしれない。


「礼を言うには早い」


 彼女は振り返った。


 そして、腰の小袋から何かを取り出し、ルカへ投げた。


 ルカは慌てて受け止める。


 手の中にあったのは、小さな貝だった。


 赤い牙のように尖った貝殻。表面には細い潮紋が刻まれ、内側は暗い珊瑚色に光っている。耳に近づけると、海鳴りではなく、遠い帆布が張る音がした。


「赤い牙貝だ」


 カイラが言った。


「一度だけ鳴らせ。本当に沈みそうな時だけだ」


 ルカは貝を両手で包んだ。


「鳴らしたら、来てくれるんですか」


「さあね」


 カイラはにやりと笑った。


 昨夜、名売り市で見せた冷たい笑みではない。潮牙亭の奥で賭け札を積んでいた時の、あの胡散臭い笑いに近かった。


「近くにいれば、聞こえるかもしれない」


「遠かったら?」


「沈む前に祈りな」


「ひどいです」


「海賊に何を期待してる」


 ルカは少しだけ笑ってしまった。


 笑えるとは思っていなかった。


 その自分に、少し驚いた。


 カイラは満足そうに顎を上げる。


「ただし、助け賃は高いよ」


「子どもからも取るんですか」


「依頼人からは取る」


「被害者からは?」


「取らない」


 ルカは赤い牙貝を見つめた。


 それは、カイラらしい答えだった。


 乱暴で、線がはっきりしていて、優しくはないのに、守るところだけは決して間違えない。


「覚えておきます」


「そうしな」


 カイラは今度こそ背を向けた。


 その背中に、エルンが声をかける。


「カイラ」


 呼び捨てだった。


 ルカは少し焦ったが、カイラは怒らなかった。


「何だい、海底坊主」


「僕のこと、売らない?」


 広間が静かになった。


 ルカの胸が痛んだ。


 エルンは、その問いを冗談として言ったのではない。偽造潮名証が自分に反応し、錨記庁の記録に「回収優先」と書かれていた。それを見たあとで、彼は本気で確かめている。


 カイラは、しばらくエルンを見た。


 それから、鼻で笑った。


「高く売れそうだとは思ったよ」


「カイラさん」


 ルカが睨む。


 カイラは肩をすくめた。


「冗談だ」


「冗談に聞こえません」


「海賊の冗談は、だいたい半分本気だからね」


 エルンはじっとカイラを見ていた。


 カイラは笑みを消す。


「売らない」


 短く、はっきりした答えだった。


「潮牙亭の敷居を越えた子どもと、あたしの前で名を抜かれかけた奴は売らない。それがあたしの掟だ」


 エルンは、少しだけ目を伏せた。


「うん」


 その返事は小さかった。


 でも、届いていた。


 カイラは外へ出た。


 霧の港に朝の光が差し始めている。牙灯の黒い影が薄れ、岩礁の輪郭が見える。水路には、昨夜の騒ぎなど知らないように小舟が行き交い始めていた。


 ルカは、潮牙亭を出て、桟橋へ向かった。


 ナミル=レイは、霧の端に浮かんでいた。


 小さな船だ。


 ネームレス・ガルのような海賊船ではない。オルヴァ=グレイヴのような軍艦でもない。祈りの名札を揺らし、白い帆をたたみ、静かに潮を受けている。


 けれど、ルカには、昨日とは少し違って見えた。


 船首の名札が、朝風に鳴る。


 その音は、問いかけのようだった。


 何を守るのか。


 誰を乗せるのか。


 どの名を読むのか。


 どの名を読まないのか。


 ルカは赤い牙貝を胸元にしまい、ナミル=レイの舷側に手を置いた。


「私たちにも、掟がいるね」


 船体が、かすかに鳴った。


 返事かどうかは分からない。


 でも、ルカには返事に聞こえた。


 エルンが隣に立つ。


「どんな掟?」


「まだ分からない」


 ルカは正直に答えた。


「でも、ひとつは決めた」


「何?」


「売らない」


 ルカはナミル=レイを見た。


「名も、人も。助けを求めて乗った人のことも」


 エルンは、少しだけ考えた。


 そして頷いた。


「うん」


 その返事を聞いて、ルカは船に乗り込んだ。


 潮は動いている。


 錨記庁の影は、もうこちらへ伸びている。


 灰外套の測名官は消えたが、「まだ浮いていたのか」という言葉は残った。黒箱漂着体、沈名反応、読名不能、回収優先。紙の上でエルンを分類した冷たい文字は、まだルカの胸に残っている。


 だが、ナミル=レイの上で呼べば、彼は振り向く。


「エルン」


「うん」


 すぐに返事があった。


 それだけで、まだ守れると思った。


 完全ではない。


 何も分かっていない。


 けれど、今はそれでいい。


 海は、少女にひとつの掟を教えた。


 名は、読めば救えるとは限らない。


 隠されてなお守られる名があり、呼ばれずとも売ってはならない名がある。


 霧の港で笑った海賊は、まだ仲間ではなかった。


 けれど、少女の船が進む先に、黒い錨の影があることを知っていた。

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