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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第3話 ― 名を売らぬ海賊は、霧の港で笑った
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第十節 ― 錨記庁の買い手

 沈み水路の市場は、戦いが終わったあとも、しばらく息をしていた。


 壊れた灯が水面に浮き、黒い油膜の上で赤く揺れている。倒れた棚からは古い船具や偽の船籍札がこぼれ、白い潮紙の輪がその間を漂っていた。さっきまで名の糸を引き留めていた黒い箱は、カイラの船員たちによって鉛布に包まれ、太い縄で何重にも縛られている。


 それでも、箱はまだ鳴っていた。


 かすかに。

 遠くの錨鎖が、深い海底で揺れるように。


 ルカはその音を聞くたび、指先に力が入った。


 読んではいけない。


 そう自分に言い聞かせる。


 箱の中には、誰かの名がある。呼び名の端、返事の糸、まだ戻りきらない輪郭。それらが全部、ばらばらに閉じ込められている。名拾いとしては、読みたい。助けたい。何が残っているのか、何が奪われたのか、確かめたい。


 けれど、確かめることと、覗くことは違う。


 リオたちの名は、本人に選ばせた。


 それを忘れてはならない。


「嬢ちゃん、手ぇ止めるな」


 カイラの声で、ルカは顔を上げた。


 ドゥラ=ヴェックは、倉庫の柱に縛られていた。口は塞がれていないが、もう余裕のある笑みは消えている。代わりに、どこか冷めた、諦めたような目でこちらを見ていた。


 カイラの船員たちは、倉庫の中を手際よく調べている。机の引き出し、床板の下、半分水に沈んだ棚、壁に埋め込まれた隠し箱。荒っぽいが、雑ではない。積み荷を奪う海賊の手つきではなく、危険な物を見逃さない捜索者の手つきだった。


「ここ、まだ奥がある」


 エルンが言った。


 彼は水路に近い壁の前で立ち止まっていた。顔色は悪い。けれど、目は一点を見つめている。


 壁は古い板張りで、塩に膨らみ、ところどころ黒い墨が染みていた。普通に見れば、ただの腐った倉庫壁だ。


 エルンは、その下の水面へ耳を傾けた。


「箱じゃない。紙が鳴ってる」


「紙?」


 ルカが近づくと、エルンは頷いた。


「名前を書いた紙じゃない。名前を、測った紙」


 その言葉に、カイラの表情が変わった。


「退きな」


 カイラは短剣の柄で壁板を叩いた。


 鈍い音。


 中が空洞だ。


 船員の一人が小さな鉄鉤を差し込み、板を外す。湿った木が剥がれ、隠し棚が現れた。中には防水油紙で包まれた薄い束がいくつも詰められている。


 カイラは素手で触らず、布を巻いた指で一束を取り出した。


 封の留め具は、錨銀。


 七本の錨を重ねた、あの紋章。


 ルカの背中に冷たいものが走った。


「錨記庁……」


 思わず声が漏れる。


 カイラは答えず、油紙を開いた。


 中身は名簿ではなかった。


 少なくとも、ルカが想像していたような、漂流者の名前を並べたものではない。


 それは、もっと乾いた記録だった。


 人の名が、名として扱われていない。


 項目。

 分類。

 反応。

 測定値。

 優先順位。


 ルカは一枚目に目を落とし、息を詰めた。


 そこには、こう書かれていた。


 ――潮名複数保持者。

 ――陸名秘匿傾向あり。

 ――検問時、反応遅延。

 ――潮名証適合率、中。

 ――再接触候補。


 別の紙。


 ――失名回復過程。

 ――旧名反応、不安定。

 ――記憶回帰時に名糸浮上。

 ――採取可能性あり。


 さらに別の紙。


 ――本名放棄希望者。

 ――罪名由来呼称に強反応。

 ――自発的改名傾向あり。

 ――名分離試験に適す。


 ルカは、指が震えるのを感じた。


 リオたちだ。


 名前そのものは書かれていない。

 けれど、分かる。


 潮議会で出会った被害者たちの事情が、商品でも、祈りでもなく、試料のように分類されている。


「……名簿じゃない」


 ルカはかすれた声で言った。


「これは、何なんですか」


「漁場の記録だね」


 カイラが低く答えた。


「どの水路に、どんな魚がいるか。どの餌で寄るか。どの網で取れるか。連中は、人の名でそれをやってる」


 ルカは紙を握りしめそうになり、慌てて手を離した。


 破ってしまいたい。


 けれど、破ってはいけない。


 証拠だ。


 この紙は、錨記庁が何をしているのかを示すものだ。


 エルンが、ふいに身じろぎした。


「それ」


 彼は、棚の奥を指した。


 まだ一束残っている。


 ほかの束より薄く、封が黒い。錨銀の留め具の下に、細い潮文字が刻まれている。ドゥラがそれを見た瞬間、顔色を変えた。


 カイラはそれを見逃さなかった。


「それが本命かい」


 ドゥラは答えない。


 カイラは黒封の束を取り出し、ルカへ渡さず、自分で開いた。


 数枚の紙が入っていた。


 そのうち一枚だけ、ほとんど空白だった。


 いや、空白に見えただけだ。


 中央に、四つの項目だけが記されている。


 ――黒箱漂着体。

 ――沈名反応:強。

――読名不能。

 ――回収優先。


 ルカは、呼吸を忘れた。


 文字が、水面の底から浮かび上がるように目に入ってくる。


 黒箱漂着体。


 黒い箱。


 第2話。

 ナラ=オルテの浜。

 三度潮に洗われても動かなかった箱。

 蓋の内側に底のない暗い海があり、その奥から少年の手が浮かび上がった。


 沈名反応、強。


 偽造潮名証が、エルンへ向かって震えた夜。

 リオの証だけではなく、回収した複数の証が、彼を探すように鳴った。


 読名不能。


 ルカには、エルンの名が読めない。

 触れても、底に届かない。

 彼自身も、自分の名前を「水の底に置いてきた」と言った。


 回収優先。


 その四文字を見た瞬間、ルカの身体が先に動いた。


 彼女はエルンの前に立った。


 考えるより早かった。


 紙に書かれているのは、エルンだ。


 名前はない。

 似顔絵もない。

 でも、エルンだ。


「……どうして」


 ルカの声は震えていた。


「どうして、これがここにあるんですか」


 ドゥラは黙っている。


 カイラは紙を見下ろしたまま、顔を険しくした。


「ドゥラ」


 低い声。


「この黒封は、誰に渡す予定だった」


 ドゥラは目を伏せた。


「買い手に」


「誰だ」


「名前は知りません」


 カイラが一歩近づく。


「潮牙亭の掟は、ここには適用しないよ。言いな」


 ドゥラはゆっくり顔を上げた。


「本当に知りません。彼らは名乗らない。灰外套。錨銀の留め具。濡れない靴。そういう者たちです」


 濡れない靴。


 ルカはぞっとした。


 海賊港にいて、下層水路に来て、それでも濡れない靴。


 それは、この場所の者ではないという印だった。


 カイラが舌打ちする。


「測名官か」


 その言葉が落ちた瞬間、倉庫の奥で水が動いた。


 誰もいないはずの水路。


 黒い水面に、細い波紋が走る。


 カイラが短銃を抜いた。


「出てきな」


 沈黙。


 だが、霧が動いた。


 倉庫の奥、壊れた吊り灯の向こうに、人影が立っていた。


 灰色の外套。

 錨銀の留め具。

 白い手袋。

 水路の縁に立っているのに、靴先が濡れていない。


 男とも女とも判じがたい細い影だった。顔は外套の襟と薄い面布で隠れている。けれど、その視線だけははっきり分かった。


 エルンを見ている。


 ルカは背筋が凍った。


 測名官は、戦う構えを見せなかった。


 ただ、エルンを見ていた。


 まるで探していた品物を、棚の奥ではなく、目の前に見つけた時のように。


「……まだ浮いていたのか」


 声は静かだった。


 驚きでもない。

 喜びでもない。

 失望でもない。


 ただ、記録にない誤差を確認したような声。


 エルンの身体が震えた。


 意味は分かっていない顔だった。


 けれど、身体が反応している。


 胸元の割れた貝殻に触れようとして、彼は途中で手を止めた。カイラに言われたことを覚えている。だが、その手は空中で震えたままだった。


「エルン」


 ルカは彼の名を呼んだ。


 エルンはすぐには返事をしなかった。


 視線が、測名官から離れない。


 呼ばれた名が届くまでの遅れではない。

 もっと深い、底の方から引かれるような沈黙だった。


「エルン!」


 ルカがもう一度呼ぶ。


 ようやく、彼の瞳がルカへ戻った。


「……ルカ」


 返事は小さい。


 でも、戻った。


 ルカは彼の袖を掴んだ。


 測名官は、その様子まで見ていた。


「呼称反応あり」


 彼は淡々と言った。


「浮上後の仮名定着、観測」


「黙れ」


 カイラの声が低く響いた。


 測名官はカイラへ目を向ける。


「カイラ=マレイス。海賊自由港イシュラ=マレ所属。潮牙帆船ネームレス・ガル船長。複数の逃亡名保護、名簿不提出、検問妨害」


「ずいぶん詳しいね。恋文ならもっと色気を足しな」


「あなたには、後日、正式な照会が行われる」


「来な。港ごと迷わせてやる」


 カイラは短銃を構えたまま、わずかに足を開いた。


 だが、測名官は撃たれる距離にいながら、逃げようとしない。


 いや。


 逃げる必要がない距離を、最初から取っていた。


 彼の足元の水面に、細い錨形の光が浮かぶ。


 ルカは見た。


 水面が、止まっている。


 波紋が広がらない。

 水が流れない。


 その場所だけ、潮が静止している。


 第2話の黒い輪と同じ感覚。


「カイラさん!」


 ルカが叫ぶのと、カイラが撃つのは同時だった。


 短銃の音が倉庫に響く。


 弾は測名官の肩を狙っていた。

 だが、弾丸は彼の前で遅くなった。


 水中に落ちた石のように、空中で速度を失い、錨形の光の手前でぽとりと水へ落ちる。


 測名官は動かなかった。


「静潮標……!」


 カイラが吐き捨てる。


 測名官は黒封の記録へ視線を落とした。


「提出予定記録、未回収。だが、対象確認を優先する」


「対象じゃありません」


 ルカは言った。


 自分でも驚くほど、声がはっきり出た。


「エルンは、対象じゃありません」


 測名官の面布の奥で、目が少しだけ動いた。


「仮称、エルン」


「仮称じゃない」


 ルカは言い返した。


「今、彼が振り向ける名です」


 その言葉に、エルンが小さく息を呑んだ。


 測名官はしばらくルカを見た。


「名拾いルカ=ネリス。還名読解者。水面側反応あり。現時点では副次対象」


 カイラが笑った。


 低く、危険な笑いだった。


「その口、ほんとに測ることしか知らないんだね」


 測名官は答えなかった。


 灰外套の裾が、霧に溶け始める。


 逃げる。


 ルカは踏み出そうとした。


「待って! あなたはエルンを知っているんですか! 黒箱漂着体って何ですか!」


 測名官は、最後にもう一度エルンを見た。


 その視線だけで、エルンの肩が震える。


「沈んだ名は、いずれ底へ戻る」


 静かな声。


「浮いている間に、測る」


 次の瞬間、錨形の光が沈み、霧が水面を覆った。


 測名官の姿は消えていた。


 残ったのは、濡れていない足跡すらない水路と、ぽとりと落ちた短銃の弾だけだった。


 ルカは水路へ駆け寄った。


 しかし、何もない。


 水はまた流れ始めている。さっきまで静止していた場所も、ただの黒い潮に戻っていた。


「逃げた……」


 ルカの声が震えた。


 訊きたいことが、山ほどあった。


 まだ浮いていたのか、とはどういう意味なのか。

 黒箱漂着体とは何か。

 エルンは、どこから来たのか。

 沈んだ名は底へ戻る、とは何を指しているのか。


 けれど、測名官は霧に消えた。


 答えではなく、記録だけを残して。


 エルンは、その場に立ち尽くしていた。


 ルカは彼の前に戻る。


「エルン」


 呼ぶ。


 今度は、彼はすぐに顔を上げた。


「……僕」


 声がかすれている。


「あの人、知ってた?」


「分からない」


 エルンは首を横に振った。


「知らない。覚えてない。でも、錨の音がした。第2話の……ナラ=オルテの、あの欠片と同じ」


 彼は胸元に手を伸ばしかけ、また止めた。


 その手を、ルカがそっと包む。


「今は押さえていい」


 エルンは少しだけ目を見開いた。


「隠さなきゃ」


「今は、私が見てるだけだから」


 そう言うと、エルンはようやく胸元の割れた貝殻を押さえた。


 小さな音がした。


 深い水の底で、かすかな鐘が鳴るような音。


 ルカは、その音を聞きながら思った。


 エルンは、ただの漂流者ではない。


 でも、だからといって、測られていい存在ではない。


 分類され、回収優先と書かれていい存在ではない。


 カイラは黒封の記録を乱暴に畳んだ。


「錨記庁が、本気で名を漁り始めてる」


 声には、明確な苛立ちがあった。


「漂流者、失名者、沈名保持者。ついでに海底由来の名まで網にかける気だ」


 ルカは顔を上げる。


「どうして、そこまで」


「決まってる」


 カイラは、霧の消えた水路を睨んだ。


「流れてるものが気に入らない連中だからさ」


 ドゥラが柱のそばで、低く笑った。


「彼らは秩序を望んでいるだけです。名が流れ、失われ、腐るくらいなら、記録し、測り、保管した方が――」


 最後まで言わせなかった。


 カイラの短剣の柄が、ドゥラのすぐ横の柱に叩きつけられる。


「黙りな」


 それだけだった。


 だが、ドゥラは口を閉じた。


 ルカは黒封の記録を見た。


 黒箱漂着体。

 沈名反応、強。

 読名不能。

 回収優先。


 そこには、エルンの名がない。


 でも、エルンの存在が奪われている。


 名前を書かないまま、彼を分類している。


 名を売るより、もっと冷たいものがあるのだと、ルカは知った。


 名を呼ばずに、対象にすること。


 名を読まずに、測ること。


 その冷たさは、黒い箱よりも、名抜き墨よりも、深く肌に残った。


 カイラは記録束を鉛布に包み、船員へ渡した。


「全部持ち帰る。潮議会に出す前に、写しを作る。錨記庁の印があるものは、濡らすな。燃やすな。隠す場所は三つに分けろ」


「ドゥラは?」


「連れていく」


 カイラは答えた。


「生きたままね。死なせたら、都合よく口が閉じる」


 船員が頷き、ドゥラを立たせる。


 ルカはエルンの袖を握ったまま、沈み水路の奥を見た。


 測名官は消えた。


 だが、彼の言葉は残っている。


 まだ浮いていたのか。


 それは、エルンが本来なら浮いていないはずだったという意味なのか。


 エルンは、それを知らない。


 ルカも知らない。


 けれど、ひとつだけ分かった。


 錨記庁は、エルンを探している。


 そして、エルンがエルンとして振り向けるうちに、守らなければならない。


 沈み水路の外で、満潮の水が静かに引き始めていた。


 潮は流れる。


 だからこそ、名は還る。


 けれど、流れるものを止めようとする者たちがいる。


 その影が今、霧の向こうから、ルカたちの船へ手を伸ばし始めていた。

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