表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第3話 ― 名を売らぬ海賊は、霧の港で笑った
PR
35/50

第九節 ― 売られた名を取り戻す

 黒い箱が開いた瞬間、沈み水路の市場から、音が消えた。


 いや、消えたのではない。


 奪われたのだ。


 水音も、商人たちの息づかいも、遠くで揺れる鎖の音も、すべてが一度、黒い箱の奥へ吸い込まれたように薄くなる。次に戻ってきたのは、声だった。


 声。


 声。


 声。


 誰かが呼ばれている。


 けれど、返事ができない。


 ルカの耳の奥に、無数の呼び声が押し寄せた。


 小鳥。


 裂け帆。


 頭巾。


 昔の罪。


 思い出しかけ。


 渡り荷。


 どれも本名ではない。潮牙亭の宿帳に置かれた、その夜だけの呼び名。けれど、その呼び名の奥には、もっと深い、もっと柔らかい、本人だけが傷として抱えている名の縁がある。


 ルカは思わず、それを読もうとした。


 指が潮紙箱に触れる。


 読み解けるかもしれない。


 リオの本当の名。

 母に呼ばれていた声。

 家族の船が沈む前、彼がまだ疑わずに振り向けた名前。


 それが分かれば、糸を戻せるかもしれない。


 けれど、その瞬間、カイラの声が雷のように落ちた。


「読むな!」


 ルカの指が止まった。


 読まない。


 それは、何もしないことではない。


 守るために、読まない。


 潮牙亭の宿帳。

 リオの遅れた返事。

 カイラの低い声。

 その子が許してない名を、読むんじゃない。


 ルカは唇を噛み、潮紙箱を開いた。


 ただし、名を読むためではない。


 白い潮紙を一枚、二枚、三枚と取り出し、水面へ放つ。潮紙は沈み水路の黒い水に触れる直前でふわりと広がり、小さな白い円を作った。


 それは水面だった。


 海ではない。

 名を返す場所でもない。

 けれど、呼ばれた名が一度だけ浮かび上がるための、仮の水面。


「私は、あなたたちの名前を読みません」


 ルカは、黒い箱へ向かって言った。


 声が震えた。


 それでも、言った。


「でも、返事をする場所を作ります」


 ドゥラ=ヴェックの眉がわずかに動いた。


「返事をする場所?」


「名を暴かなくても、呼び名は戻せます」


 ルカは潮紙をさらに水面へ置いた。


 潮紙は淡く光り、黒い水の上に白い輪をいくつも浮かべていく。その輪は、港の夜に咲く小さな月のようだった。


 箱の奥から伸びていた名の糸が、かすかに揺れる。


 それは迷っているように見えた。


 どこへ戻ればいいのか分からない名たち。

 持ち主に捨てられたわけではない。

 けれど、持ち主へ戻る道を誰かに結び替えられてしまった名たち。


 ルカは、それらの名を覗かなかった。


 ただ、水面を作る。


 浮かぶ場所を作る。


「エルン」


 ルカは後ろを見ずに呼んだ。


「箱を探して。どの糸が、どこに入ってるか」


 エルンは頷いた。


 胸元の割れた貝殻に手を伸ばしかけ、途中で止める。


 カイラに言われたことを思い出したのだろう。怖い時ほど、何でもない顔をしろ。鳴るものを押さえるな。そこに何かあると教えるな。


 エルンは手を下ろし、黒い水路へ耳を澄ませた。


「奥」


 彼は言った。


「机の下じゃない。壁の中でもない。水に半分沈んだ棚の後ろ」


 ドゥラの顔から、笑みが消えた。


「興味深い少年ですね」


「黙りな」


 カイラが低く言った。


 その声と同時に、倉庫の外で短笛が鳴った。


 一度。


 続いて、二度。


 沈み水路の市場のあちこちから、荒い足音と水音が上がる。


「封鎖!」


 カイラが叫んだ。


「正面水路を塞げ! 逃げる舟は櫂を落とせ、船底は割るな! 子どもと被害者を巻き込むな! 札持ちを見つけたら白布をかけろ、素手で触るんじゃない!」


 市場の奥で、海賊たちが動いた。


 ネームレス・ガルの船員たちだった。


 黒帆の印をつけた女が鉤縄を投げ、倉庫の梁に絡める。別の男が水路へ飛び降り、逃げようとした小舟の舫い縄を切るのではなく、逆に素早く絡め取った。短銃の乾いた音が一発だけ鳴る。弾は人ではなく、吊り灯の鎖を撃ち抜いた。灯が落ち、水路の出口にいた見張りたちが怯んだ隙に、二人の海賊が彼らを押さえ込む。


 荒っぽい。


 けれど、狙いは正確だった。


 誰も子どもへ刃を向けない。

 倒れた者の上を踏まない。

 逃げ惑う被害者には触れる前に声をかける。


「顔を伏せろ! 本名は言うな! 潮牙の保護だ!」


「証を出すなら布ごとだ! 手を見せろ、違う、名前じゃない、手だ!」


「そっちの子を水から上げろ! 買い手じゃない、札持ちだ!」


 ルカは、戦いの中に掟があることを見た。


 海賊たちは乱暴だ。


 だが、線を知っている。


 ドゥラの手下らしい男が、机の下から短い刃物を抜き、ルカへ向かって駆けた。


 ルカは身を固くした。


 次の瞬間、カイラの鉤縄が男の足首を絡め取り、床へ引き倒した。男が水たまりへ顔から落ちる。カイラは短剣の柄で男の手首を打ち、刃物を落とさせた。


「名拾いに刃を向けるなら、せめて正面から来な」


 カイラは男の襟を掴み、横へ投げた。


 その先では、船員がすでに縄を構えている。


 ルカは、息を整えた。


 怖がっている暇はない。


 潮紙の白い水面が、黒い箱から伸びる糸を受け止め始めている。だが、糸は途中で絡まり、何度も箱の方へ引き戻される。


「エルン、どこ?」


 ルカが訊くと、エルンはもう走り出していた。


 彼は倉庫の奥へ向かう。足元は水浸しで、木箱や壊れた船具が散らばっている。普通なら滑って転びそうな場所を、エルンは水音を聞き分けるように進んだ。


「こっちじゃない」


 彼は、棚の前で立ち止まる。


「ここ、上に見せてる箱は空っぽ。下」


 エルンが膝をつき、半分水に沈んだ木棚の下へ手を伸ばそうとする。


「素手で触るな!」


 ルカとカイラの声が重なった。


 エルンは手を止める。


 カイラが投げた鉤縄の先が、棚の脚に絡んだ。彼女が強く引くと、棚が軋みながら前へ倒れる。中から潮水が流れ出し、黒い藻のような墨の筋が床を這った。


 棚の後ろには、小さな箱がいくつも並んでいた。


 黒い箱ではない。


 透明に近い薄青の小瓶だった。


 どの瓶にも、細い糸のような光が沈んでいる。液体ではない。声でもない。けれど、ルカにはそれが呼び名の端だと分かった。


 呼ばれた時に、振り向くための糸。


 その一部が、小瓶の中に閉じ込められている。


 エルンは、その中の一本を見て、息を止めた。


「これ」


「リオ?」


 ルカが訊く。


 エルンは頷いた。


「小鳥じゃない。リオの方。でも、全部じゃない」


 ルカは小瓶の前に膝をついた。


 瓶の表面には潮文字が書かれている。だが、名前ではない。記号。番号。測るための印。


 ルカは怒りで指先が震えた。


 リオの名を、瓶にしている。


 呼び名の端を、商品として分けている。


 ドゥラは後方で、まだ逃げようとしていなかった。代わりに、黒い箱の蓋へ手を置き、何かを唱えている。潮名預かり人が使う古い節回しだ。けれど本来なら名をほどかないよう包むための祈りが、今は糸を引き留める鎖のように響いている。


「やめなさい!」


 ルカは叫んだ。


 ドゥラは穏やかに笑った。


「戻してどうするのです。完全ではない名を。欠けた呼び名を。本人さえ、本名かどうか分からないものを」


 ルカは答えようとして、言葉に詰まった。


 リオの瓶は、完全ではない。


 小鳥。リオ。母の声。家族の船の上で呼ばれていた何か。どれが本当か、リオ自身にもまだ分からない。


 全部を戻すことはできないかもしれない。


 戻したところで、失われた船は戻らない。

 家族は戻らない。

 母の声も、完全には戻らない。


 それでも。


「完全じゃなくても」


 ルカは小瓶に潮紙を巻いた。


「返事ができるなら、そこから始められます」


 彼女は瓶を読まなかった。


 中身を覗こうともしなかった。


 瓶の外側に書かれた測定印だけを読む。どの錨砂で固定され、どの名抜き墨で吸われ、どの潮名証へつながっているか。それだけを読む。


 個人の名ではなく、仕掛けを読む。


 潮紙の白い水面が、小瓶の口元へ浮かび上がった。


「エルン、底から押して」


「うん」


 エルンは瓶へ耳を近づける。


「リオ。上」


 彼は静かに言った。


「まだ、上に行っていい」


 瓶の中の糸が揺れた。


 だが、出てこない。


 ドゥラの黒い箱が、奥で低く鳴る。錨の音だ。糸を戻さないよう、重く引いている。


 カイラが動いた。


 彼女は短銃を抜き、黒い箱を狙う。


 ドゥラが目を見開いた。


「撃てば、中の名が散りますよ」


 カイラの指が止まる。


 ドゥラは笑った。


「あなたは乱暴だが、名には撃てない」


「そうだね」


 カイラは短銃を下ろした。


 次の瞬間、彼女は鉤縄を投げた。


 狙ったのは箱ではない。


 箱を支える机の脚だった。


 鉤が絡み、カイラが全身で引く。机が傾き、ドゥラの手が箱から離れた。黒い箱は落ちない。だが、蓋を押さえていた力が途切れた。


「今!」


 カイラが叫ぶ。


 ルカは潮紙の水面を広げた。


 エルンが、瓶の奥へ声を落とす。


「リオ」


 それは本名ではない。


 けれど、いま呼べる名だった。


「上だよ」


 小瓶の中の糸が、ふっと浮いた。


 白い潮紙の水面へ、細い光が移る。


 ルカはそれを掴まない。

 読まない。

 ただ、流れる道を作る。


 糸は白い水面を伝い、黒い箱ではなく、倉庫の外へ、潮牙亭の方角へ向かおうとする。


 遠くで、リオが呼ばれているような気がした。


 小鳥。


 リオ。


 どちらでもいい。


 本人が、振り向けるなら。


 だが、糸は途中でほつれた。


 ルカは息を呑む。


「全部は戻らない……」


 思わず呟いてしまった。


 エルンが瓶を見つめる。


「取られたところが、薄い。戻るところと、まだ沈んでるところがある」


 ルカは焦りかけた。


 もっと読めば。

 もっと深く見れば。

 リオの奥にある本名まで手を伸ばせば、残りを引き出せるかもしれない。


 けれど、それをしたら。


 リオが許していない名を、読むことになる。


 ルカは目を閉じた。


 助けたい。


 でも、助けたいからこそ、踏み越えてはいけない線がある。


 カイラが、背後でドゥラの手下を蹴り倒しながら叫ぶ。


「嬢ちゃん!」


「分かっています!」


 ルカは目を開けた。


 そして、潮紙に向かって囁いた。


「リオに選ばせます」


 その言葉に、白い水面が揺れた。


 場面が、潮牙亭の奥部屋へつながる。


 実際に目で見えたわけではない。名の糸が戻るための水面に、ほんの一瞬だけ、呼び先が映ったのだ。


 寝台の上のリオ。

 そばにいる帳場の老婆。

 扉の向こうで待つ者たち。

 まだ少し遅れている呼吸。


 ルカは、直接彼の名を覗かずに問いかけた。


「あなたは、どの名で呼ばれたい?」


 遠い水面の向こうで、リオが顔を上げる。


 すぐには答えない。


 迷っている。


 当たり前だ。


 本名かもしれない名。

 母の声に近い名。

 港で与えられた《小鳥》。

 偽の証に書かれた安い潮名。

 どれも完全ではない。


 そして、完全なものは、今ここにない。


 リオの唇が動いた。


「……リオでいい」


 声は小さい。


 けれど、はっきりしていた。


「本名じゃないけど」


 少し間があく。


「でも、今はそれで振り向ける」


 その瞬間、白い水面が広がった。


 ルカの潮紙が、ぱっと淡く光る。小瓶の中の糸が、無理に引き抜かれるのではなく、自分で浮き上がるように外へ出た。


 リオ。


 その呼び名は、本名ではないかもしれない。


 でも、いま彼が選んだ名だった。


 本人が応えられる名だった。


 糸は白い水面を渡り、倉庫の黒い潮を越えて、遠く潮牙亭へ向かう。完全ではない。細い。ところどころほつれている。それでも、確かに戻っていく。


 エルンが、ほっと息を吐いた。


「届いた」


 ルカは膝から力が抜けそうになった。


 だが、まだ終わっていない。


 周囲には、ほかの小瓶がある。


 リオだけではない。


 ルカは顔を上げた。


「エルン、次」


「うん」


 エルンは小瓶の列へ耳を澄ませた。


「こっちは、《頭巾》。でも、中に昔の呼び名が絡んでる」


「本人に選ばせる」


 ルカは言った。


「全部、本人に」


 そこからは、時間の感覚が薄れた。


 カイラの船員たちは市場を封鎖し、逃げようとする売人を次々と取り押さえた。カイラは人間側の敵を止め続ける。短剣の峰で手首を打ち、鉤縄で足を絡め、短銃で灯を落とし、時には肩からぶつかって水路へ叩き落とす。けれど、被害者や子どもには絶対に刃を向けなかった。


 ルカは潮紙の水面を作る。


 名を暴かない。

 奥を覗かない。

 ただ、呼び名が戻れる場所を作る。


 エルンは小瓶を探す。


 どの糸が誰へ繋がっているか、底から聞く。沈みかけた糸を、上へ行っていいと呼ぶ。


 頭巾の少女は、自分で選んだ。


「今夜は《頭巾》でいい。明日、違う名前を考える」


 船を失った船員は言った。


「《裂け帆》でいい。まだ船を降りたくないから」


 本名を捨てたい男は、長い沈黙のあとに答えた。


「《昔の罪》は嫌だ。……《今日の荷》にする。まだ運べるものがあるなら」


 名を思い出しかけている失名者は、泣きながら言った。


「思い出すまで、《思い出しかけ》のままでいい」


 どれも完全な名ではない。


 けれど、本人が選んだ。


 本人が応えた。


 そのたび、瓶の中の糸は少しずつ戻っていった。


 最後の小瓶を終えた時、黒い箱の音は弱くなっていた。


 ドゥラ=ヴェックは、カイラの船員に取り押さえられていた。彼の青紐は解かれ、手首には縄がかかっている。それでも、その目にはまだ理解できないものを見るような光が残っていた。


「不完全な名ばかり戻して、何になるのです」


 ドゥラは言った。


「本名ではない。記録にも残らない。価値も定まらない。そんな呼び名に、何の意味がある」


 ルカは立ち上がった。


 疲れていた。


 指先は冷たく、潮紙を使いすぎたせいで膝が震えている。けれど、声は不思議とはっきりしていた。


「振り向けます」


 ドゥラが目を細める。


「何?」


「呼ばれて、振り向ける」


 ルカは言った。


「それで、始められます」


 名は、完全に戻らなくてもいい。


 失われたものが、すべて元に戻らなくてもいい。


 誰かが呼び、本人が応えられるなら。


 そこからまた、輪郭を持てる。


 カイラが短く笑った。


 今度の笑いには、酒場の軽さも、怒りの冷たさもなかった。


「聞いたかい、潮名預かり崩れ」


 彼女はドゥラを見下ろした。


「あんたが値札にしたもんは、まだ生きてる」


 沈み水路の黒い水面に、白い潮紙の輪がいくつも浮かんでいた。


 そのひとつひとつが、誰かの名前ではない。


 でも、誰かがもう一度振り向くための水面だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ