第一節 ― 本名を聞かない宿
イシュラ=マレの桟橋は、陸というより、古い船の死骸をつなぎ合わせた浮島のようだった。
ナミル=レイが案内の小舟に続いて入った水路は、岩礁と岩礁のあいだを縫うように曲がっていた。両側には黒い杭が何本も打ち込まれ、潮に濡れた縄が蜘蛛の巣のように張られている。杭には船名札が吊られていたが、そのほとんどは削られ、塗り潰され、あるいは裏返しにされていた。
船が港に入っているのに、船の名が見えない。
それだけで、ルカは落ち着かなかった。
メルナ=レイでも、ナラ=オルテでも、船の名は祈りに近い。船首に刻み、船籍札に記し、出航の時には呼んで送り、帰港の時には呼んで迎える。名を隠す船は、後ろ暗いものを積んでいる船だと教えられてきた。
けれど、ここでは違う。
隠しているのは、盗むためだけではない。
守るために隠している。
そう思おうとしても、ルカの胸にはまだ小さな棘が残った。
「ここへ繋げ」
案内の男が、小舟から桟橋の一角を指した。
そこだけ、ほかの海賊船から少し離されている。小型船用の泊まり場らしく、波除けの板が低く組まれ、柱には白い貝殻の輪がかかっていた。
「名札船は、あっちの荒い連中の横に置かない決まりだ」
「決まりがあるんですね」
ルカが思わず言うと、男は片耳の骨輪を揺らして笑った。
「決まりがなきゃ、海賊港なんざ三日で沈む」
ナミル=レイの舷側が桟橋に寄る。ルカは綱を取ろうとしたが、桟橋にいた痩せた少女が先に受け取った。年はルカより少し下だろうか。髪を短く切り、頬に黒い煤の筋をつけ、片手で器用に結び目を作る。
「船名は?」
少女が尋ねた。
ルカは少し身構えた。
「ナミル=レイです」
「本名?」
「船の名です」
「本名だね」
少女は悪びれずに言い、腰に吊った薄い木札を取り出した。そこには何も書かれていない。少女は船名を書きつける代わりに、木札の端へ小さな貝殻をひとつ結んだ。
「預かった。出る時に返す」
「書かないんですか」
「書いたら、読まれる」
少女は当然のように答えた。
「ここじゃ、覚えるだけでいい」
覚えるだけ。
それは、ルカにとって奇妙な言葉だった。名は記されて初めて確かになると思っていた。名札に書き、船籍に残し、潮紙へ写し、祈りで呼ぶ。記されない名は、波にさらわれやすい。
けれど、この港では、記さないことが守ることになるらしい。
少女はナミル=レイの船首にある名灯を一瞥し、少しだけ目を細めた。
「きれいな船。祈りの匂いがする」
「名札船だから」
「なら、壊されないようにしな。ここ、祈りだけじゃ通れないところもあるから」
忠告なのか、冷やかしなのか分からない声だった。
ルカが返事に迷っていると、エルンが桟橋へ降りようとして、足を止めた。
板の上に立った瞬間、彼の顔色が変わった。
「エルン?」
ルカはすぐに振り返る。
エルンは桟橋の板を見下ろしていた。
板は古い船材を再利用したものらしく、ところどころに削れた文字が残っている。船名だったのか、積荷の印だったのか、もう読めない。潮と靴跡に削られ、油に染み、赤い酒の跡までついている。
「名前が、多い」
エルンは呟いた。
序節でも同じことを言っていた。
けれど、港の中に入った今、その声にはさらに重さがあった。
「ここ、踏むたびに別の名前が鳴る」
「船板だから?」
「うん。前の船の名前。乗ってた人の呼び名。ここに来て捨てた名前。隠した名前。嘘の名前。……多い」
ルカには、板は板にしか見えない。
古く、湿って、ところどころ滑りやすい桟橋。潮と酒と煙の匂いが染みついた木材。
けれどエルンには、その一枚一枚が名の層になって聞こえている。
ルカはそっと彼の手首に触れた。
「無理しないで。人が少ないところを通ろう」
「人が少なくても、名前はいる」
「それは……そうかもしれないけど」
港全体が、名を隠している。
だからこそ、隠された名の数だけ、エルンには響きが重なるのだろう。
案内の男は、二人を待ちながら顎で水路の奥を示した。
「カイラ船長に会いたいなら、《潮牙亭》だ」
「宿ですか」
「酒場で、宿で、船長の根城で、たまに喧嘩場だ」
「喧嘩場……」
「怖いなら帰ってもいい」
「帰りません」
ルカが即座に言うと、男は少しだけ口角を上げた。
「なら、足元を見るな。顔も見すぎるな。ここじゃ、見られたくない傷を持ってる奴が多い」
男はそう言って歩き出した。
ルカとエルンはその後を追った。
イシュラ=マレの港は、歩けば歩くほど、海の上にある町というより、船同士が寄り集まってひとつの生き物になったようだった。水路の上に張り出した木造の家。ロープでつながれた足場。古い帆を屋根にした露店。魚を焼く煙。樽の上で眠る猫。貝殻細工を売る老婆。片足の男が修理している帆布。子どもたちが水路へ飛び込み、怒鳴られて笑って逃げる。
騒がしい。
けれど、ただの無秩序ではない。
酒場の前で怒鳴り合っていた二人の男は、腰の短剣に手をかけた瞬間、周りの海賊たちに一斉に睨まれ、黙って手を下ろした。水路の端で泣いていた幼い子には、通りすがりの女が何も聞かずにパンを渡した。顔を布で隠した旅人が足を引きずっていると、誰かが「本名は要らん、呼び名だけ置け」と声をかけ、近くの小屋へ案内していった。
陸の町では見ない優しさだった。
だが、優しいだけでもない。
店先で銀貨を誤魔化そうとした男は、店主の老婆に耳を掴まれ、周囲の笑いものにされた。小舟から積荷を盗もうとした少年は、叩かれる代わりに、盗もうとした縄束を三倍の量だけ運ばされている。
掟がある。
乱暴で、荒くて、口が悪い。
それでも、確かに線が引かれている。
ルカは、自分が思っていた海賊港と、目の前の港が少しずつずれていくのを感じた。
「ここです」
案内の男が立ち止まった。
水路沿いに、大きな建物があった。
半分は岩壁に埋まり、半分は海上へ張り出している。屋根には古い赤帆が何枚も重ねられ、その端に貝殻と牙の飾りが吊るされていた。入口の上には看板がある。文字ではなく、珊瑚で作られた牙の形の印。
潮牙亭。
扉は開け放たれていた。
中から、笑い声、怒号、食器の音、弦楽器の調子外れの音、そして濃い酒と魚油と煙の匂いが流れてくる。
ルカは思わず足を止めた。
エルンも止まった。
「大丈夫?」
ルカが聞くと、エルンは入口の闇を見つめたまま言った。
「中、名前が浮いてる」
「浮いてる?」
「沈んでない。でも、多すぎる」
案内の男が、軽く扉の柱を叩いた。
「沈む前に飯を食え。ここで倒れたら、宿代に介抱代もつくぞ」
そして、彼はルカに向き直った。
「カイラ船長がいるかは知らん。店番に聞け。ただし、本名を出すな。ここで本名を聞くのは、喧嘩を売るより悪い」
それだけ言うと、男は小舟の方へ戻っていった。
ルカは深く息を吸った。
「行こう、エルン」
「うん」
二人は潮牙亭へ入った。
最初に目に入ったのは、壁だった。
壁一面に、ものが吊るされている。
折れた短剣。
半分焼けた海図。
裂けた帆布。
潮で白くなったロープ。
古い船具。
誰かの片方だけの手袋。
焦げた船名板。
そして、名札の紐。
名札そのものではない。
名札を結んでいた紐だけが、いくつも束ねられて吊るされている。
それを見た瞬間、ルカは胸が詰まった。
名札の紐は、名札が失われた後にも残る。持ち主が名を手放したのか、奪われたのか、海へ返したのか、ただ逃げるために切ったのか。それだけでは分からない。
けれど、どの紐にも、誰かがここへ辿り着いた気配があった。
逃げ込んだ者。
拾われた者。
もう名を呼ばれたくなかった者。
それでも完全には名を捨てられなかった者。
潮牙亭は、ただの酒場ではなかった。
ここは、名を持たずに眠れる場所だ。
そう思った瞬間、店の奥からしわがれた声が飛んできた。
「入口で突っ立ってると、酔っ払いに値踏みされるよ。泊まりか、飯か、喧嘩か、泣き寝入りか。どれだい」
声の主は、帳場の奥に座る老婆だった。
背は小さいが、目は鋭い。白髪を赤い布でまとめ、片耳には大きな牙貝の耳飾りをつけている。手元には分厚い宿帳が開かれていた。黒い表紙は潮で膨らみ、何度も継ぎ足された紙の端が不揃いに飛び出している。
ルカは慌てて近づいた。
「あの、カイラ=マレイス船長に会いたくて来ました」
老婆はルカを上から下まで見た。次にエルンを見る。そこで少しだけ眉が動いた。
「カイラに会いたい奴は多い。会って無事で済む奴は少ない」
「紹介を受けています。ナラ=オルテのセナ爺から」
「セナの爺さんかい」
老婆は鼻を鳴らした。
「まだ死んでないんだね、あの潮干し爺」
「お知り合いですか」
「昔、あたしの酒を三樽踏み倒した」
知り合いなのか恨みなのか分からない返事だった。
老婆は宿帳を指で叩く。
「まず宿を取んな。カイラが戻るまで、外でうろつかれても邪魔だ」
「宿帳を書くんですか」
「書くよ。名は書かないけどね」
ルカは帳面を覗いた。
そこに並んでいたのは、本名ではなかった。
《赤帆》
《片耳》
《三杯目》
《沈まぬ婆》
《昨日の船長》
《右足だけの祈り》
《小鳥》
《まだ決めない》
名前というより、呼び名、傷名、酒の席のあだ名、一晩だけの目印。
ルカは戸惑った。
「本名は、書かなくていいんですか」
老婆は、ぴたりと手を止めた。
店のざわめきが、一瞬だけ遠のいた気がした。
老婆の目が、鋭くなる。
「嬢ちゃん」
声は低い。
「ここで本名を聞く奴は、客じゃない。売り手だよ」
ルカは息を呑んだ。
怒鳴られたわけではない。けれど、その言葉には、潮牙亭という場所の掟がはっきり宿っていた。
老婆は続けた。
「本名を聞く奴は、たいてい相手を覚えたいわけじゃない。値をつけたいんだ。どこの家の子か。どこの船の逃げ者か。どこの神殿から抜けたか。どこの役所に引き渡せば銀貨になるか。そういうことを知りたい奴が、本名を欲しがる」
ルカは宿帳を見下ろした。
並んだ呼び名たちが、急に軽いものには見えなくなった。
ふざけているのではない。
隠している。
そして、守っている。
「……すみません」
「謝るなら覚えな」
老婆は羽根ペンを差し出した。
「今夜の呼び名を書きな。あんたは?」
ルカは少し迷った。
ナミル=レイの名拾い。
港へ入る時に使った呼び名。
けれど、宿帳に書くと、また別の重みがある。
自分の名を隠すことに、まだ抵抗はあった。
でも、この場所ではそれが礼儀なのだ。
ルカはペンを取った。
《名拾い》
そう書いた。
老婆は帳面を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「そのまんまだね」
「嘘は苦手なので」
「ここじゃ、嘘より下手な正直の方が危ないよ」
老婆はエルンを見る。
「坊主は?」
エルンは宿帳を見た。
並んだ呼び名を、読むのではなく聞いているように、しばらく黙っている。
「エルン」
彼は小さく言った。
老婆は眉を上げた。
「それは本名かい」
「今、浮いてるところ」
老婆は少しだけ黙った。
そして、ペンを取って、宿帳に書いた。
《浮いてるエルン》
「これでいい」
エルンは不思議そうに帳面を見た。
「増えた」
「ここじゃ、足りない名には少し足す。沈まないようにね」
老婆の声はぶっきらぼうだった。けれど、ルカにはそれが不思議に優しく聞こえた。
エルンも、嫌がらなかった。
宿帳に書かれた《浮いてるエルン》の文字を見つめ、胸元の割れた貝殻にそっと触れる。
もしかすると、彼にとってそれは初めて「沈まないように足された呼び名」だったのかもしれない。
老婆は帳場の奥から鍵を二つ取り出した。
「二階の潮側。壁の薄い部屋だ。泣き声は聞こえるが、本名は聞こえない。飯は一階。喧嘩は外。カイラに会いたいなら、戻るまで待ちな」
「カイラ船長は、今どこに?」
「聞かない方がいい場所」
老婆はきっぱり言った。
「聞いたら、巻き込まれる」
「もう巻き込まれている気がします」
「なら、もう少し待ちな。巻き込まれ方にも順番がある」
ルカは返す言葉をなくした。
その時、酒場の奥で大きな笑い声が上がった。
「おい、《小鳥》! そっちの皿を取れ!」
太った男が、隅の席へ向かって叫んでいる。
隅には、十二歳くらいの少年が座っていた。
小柄で、痩せている。日に焼けた肌に、少し大きすぎる上着。首には紐で小さな札を下げている。片手で椀を抱えたまま、彼はぼんやりとテーブルの木目を見ていた。
「《小鳥》!」
男がもう一度呼ぶ。
少年は反応しない。
「おい、小鳥ってば!」
三度目に呼ばれて、少年はようやく顔を上げた。
遅い。
眠っていたわけではない。
聞こえていなかったわけでもない。
呼び名が彼に届くまで、どこかを遠回りしてきたような遅れだった。
少年は慌てて皿を取ろうとして、椀を倒しかけた。周囲の大人たちが笑う。けれど、笑い声には悪意だけではない。誰かが「無理すんな」と言い、別の女が布巾を投げて寄こした。
ルカは、その少年から目が離せなかった。
首に下がった札。
一見すると普通の潮名証に見える。安物だが、海上で使う仮の呼び名を記すためのもの。漂流者や逃亡者、港から港へ移る者が持つことがある。
けれど、その札の縁が、わずかに黒ずんでいる気がした。
「エルン」
ルカが小さく呼ぶ。
エルンはもう、その少年を見ていた。
顔色が悪い。
「どうしたの」
ルカが尋ねると、エルンは声を落とした。
「この子の名前、遅れてる」
ルカの胸が、静かに強張った。
沈んでいるのではない。
消えているのでもない。
けれど、呼ばれてから届くまでに遅れている。
前に見たような名の異変とは違う。だが、同じ種類の冷たさがある。
ルカは少年の首元の札を見た。
少年はまた椀を抱え、周囲の声から少し遅れて笑った。まるで、自分が笑うべき時を、誰かに教えられてからやっと思い出したように。
潮牙亭のざわめきは続いている。
赤帆。
片耳。
三杯目。
小鳥。
沈まぬ婆。
本名ではない呼び名が、酒と煙と潮の匂いの中を飛び交う。
ルカには騒がしいだけに聞こえるその声の群れが、エルンには水面に浮かんでは沈む名の波に聞こえているのだろう。
そして、その中でひとつだけ、呼ばれても遅れて届く名がある。
ルカは宿帳の上に置かれた羽根ペンを見た。
名を書かない宿。
本名を聞かない宿。
名を売らぬ港。
その中で、誰かの名がすでに売られかけているのかもしれない。
老婆が、ルカの視線に気づいた。
「《小鳥》に構うなら、飯の後にしな」
「彼は?」
「リオ。いや、ここじゃ《小鳥》だ」
老婆は声を少し落とした。
「流れ着いた子だよ。船を失って、名も半分濡らしてきた。最近、呼ばれても振り向くのが遅い」
ルカはエルンと目を合わせた。
エルンは小さく頷く。
潮牙亭の壁で、名札の紐が揺れた。
風はない。
けれど、どこかで名が引かれている。
ルカは、その音を聞いた気がした。




