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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第3話 ― 名を売らぬ海賊は、霧の港で笑った
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第一節 ― 本名を聞かない宿

 イシュラ=マレの桟橋は、陸というより、古い船の死骸をつなぎ合わせた浮島のようだった。


 ナミル=レイが案内の小舟に続いて入った水路は、岩礁と岩礁のあいだを縫うように曲がっていた。両側には黒い杭が何本も打ち込まれ、潮に濡れた縄が蜘蛛の巣のように張られている。杭には船名札が吊られていたが、そのほとんどは削られ、塗り潰され、あるいは裏返しにされていた。


 船が港に入っているのに、船の名が見えない。


 それだけで、ルカは落ち着かなかった。


 メルナ=レイでも、ナラ=オルテでも、船の名は祈りに近い。船首に刻み、船籍札に記し、出航の時には呼んで送り、帰港の時には呼んで迎える。名を隠す船は、後ろ暗いものを積んでいる船だと教えられてきた。


 けれど、ここでは違う。


 隠しているのは、盗むためだけではない。


 守るために隠している。


 そう思おうとしても、ルカの胸にはまだ小さな棘が残った。


「ここへ繋げ」


 案内の男が、小舟から桟橋の一角を指した。


 そこだけ、ほかの海賊船から少し離されている。小型船用の泊まり場らしく、波除けの板が低く組まれ、柱には白い貝殻の輪がかかっていた。


「名札船は、あっちの荒い連中の横に置かない決まりだ」


「決まりがあるんですね」


 ルカが思わず言うと、男は片耳の骨輪を揺らして笑った。


「決まりがなきゃ、海賊港なんざ三日で沈む」


 ナミル=レイの舷側が桟橋に寄る。ルカは綱を取ろうとしたが、桟橋にいた痩せた少女が先に受け取った。年はルカより少し下だろうか。髪を短く切り、頬に黒い煤の筋をつけ、片手で器用に結び目を作る。


「船名は?」


 少女が尋ねた。


 ルカは少し身構えた。


「ナミル=レイです」


「本名?」


「船の名です」


「本名だね」


 少女は悪びれずに言い、腰に吊った薄い木札を取り出した。そこには何も書かれていない。少女は船名を書きつける代わりに、木札の端へ小さな貝殻をひとつ結んだ。


「預かった。出る時に返す」


「書かないんですか」


「書いたら、読まれる」


 少女は当然のように答えた。


「ここじゃ、覚えるだけでいい」


 覚えるだけ。


 それは、ルカにとって奇妙な言葉だった。名は記されて初めて確かになると思っていた。名札に書き、船籍に残し、潮紙へ写し、祈りで呼ぶ。記されない名は、波にさらわれやすい。


 けれど、この港では、記さないことが守ることになるらしい。


 少女はナミル=レイの船首にある名灯を一瞥し、少しだけ目を細めた。


「きれいな船。祈りの匂いがする」


「名札船だから」


「なら、壊されないようにしな。ここ、祈りだけじゃ通れないところもあるから」


 忠告なのか、冷やかしなのか分からない声だった。


 ルカが返事に迷っていると、エルンが桟橋へ降りようとして、足を止めた。


 板の上に立った瞬間、彼の顔色が変わった。


「エルン?」


 ルカはすぐに振り返る。


 エルンは桟橋の板を見下ろしていた。


 板は古い船材を再利用したものらしく、ところどころに削れた文字が残っている。船名だったのか、積荷の印だったのか、もう読めない。潮と靴跡に削られ、油に染み、赤い酒の跡までついている。


「名前が、多い」


 エルンは呟いた。


 序節でも同じことを言っていた。


 けれど、港の中に入った今、その声にはさらに重さがあった。


「ここ、踏むたびに別の名前が鳴る」


「船板だから?」


「うん。前の船の名前。乗ってた人の呼び名。ここに来て捨てた名前。隠した名前。嘘の名前。……多い」


 ルカには、板は板にしか見えない。


 古く、湿って、ところどころ滑りやすい桟橋。潮と酒と煙の匂いが染みついた木材。


 けれどエルンには、その一枚一枚が名の層になって聞こえている。


 ルカはそっと彼の手首に触れた。


「無理しないで。人が少ないところを通ろう」


「人が少なくても、名前はいる」


「それは……そうかもしれないけど」


 港全体が、名を隠している。


 だからこそ、隠された名の数だけ、エルンには響きが重なるのだろう。


 案内の男は、二人を待ちながら顎で水路の奥を示した。


「カイラ船長に会いたいなら、《潮牙亭》だ」


「宿ですか」


「酒場で、宿で、船長の根城で、たまに喧嘩場だ」


「喧嘩場……」


「怖いなら帰ってもいい」


「帰りません」


 ルカが即座に言うと、男は少しだけ口角を上げた。


「なら、足元を見るな。顔も見すぎるな。ここじゃ、見られたくない傷を持ってる奴が多い」


 男はそう言って歩き出した。


 ルカとエルンはその後を追った。


 イシュラ=マレの港は、歩けば歩くほど、海の上にある町というより、船同士が寄り集まってひとつの生き物になったようだった。水路の上に張り出した木造の家。ロープでつながれた足場。古い帆を屋根にした露店。魚を焼く煙。樽の上で眠る猫。貝殻細工を売る老婆。片足の男が修理している帆布。子どもたちが水路へ飛び込み、怒鳴られて笑って逃げる。


 騒がしい。


 けれど、ただの無秩序ではない。


 酒場の前で怒鳴り合っていた二人の男は、腰の短剣に手をかけた瞬間、周りの海賊たちに一斉に睨まれ、黙って手を下ろした。水路の端で泣いていた幼い子には、通りすがりの女が何も聞かずにパンを渡した。顔を布で隠した旅人が足を引きずっていると、誰かが「本名は要らん、呼び名だけ置け」と声をかけ、近くの小屋へ案内していった。


 陸の町では見ない優しさだった。


 だが、優しいだけでもない。


 店先で銀貨を誤魔化そうとした男は、店主の老婆に耳を掴まれ、周囲の笑いものにされた。小舟から積荷を盗もうとした少年は、叩かれる代わりに、盗もうとした縄束を三倍の量だけ運ばされている。


 掟がある。


 乱暴で、荒くて、口が悪い。

 それでも、確かに線が引かれている。


 ルカは、自分が思っていた海賊港と、目の前の港が少しずつずれていくのを感じた。


「ここです」


 案内の男が立ち止まった。


 水路沿いに、大きな建物があった。


 半分は岩壁に埋まり、半分は海上へ張り出している。屋根には古い赤帆が何枚も重ねられ、その端に貝殻と牙の飾りが吊るされていた。入口の上には看板がある。文字ではなく、珊瑚で作られた牙の形の印。


 潮牙亭。


 扉は開け放たれていた。


 中から、笑い声、怒号、食器の音、弦楽器の調子外れの音、そして濃い酒と魚油と煙の匂いが流れてくる。


 ルカは思わず足を止めた。


 エルンも止まった。


「大丈夫?」


 ルカが聞くと、エルンは入口の闇を見つめたまま言った。


「中、名前が浮いてる」


「浮いてる?」


「沈んでない。でも、多すぎる」


 案内の男が、軽く扉の柱を叩いた。


「沈む前に飯を食え。ここで倒れたら、宿代に介抱代もつくぞ」


 そして、彼はルカに向き直った。


「カイラ船長がいるかは知らん。店番に聞け。ただし、本名を出すな。ここで本名を聞くのは、喧嘩を売るより悪い」


 それだけ言うと、男は小舟の方へ戻っていった。


 ルカは深く息を吸った。


「行こう、エルン」


「うん」


 二人は潮牙亭へ入った。


 最初に目に入ったのは、壁だった。


 壁一面に、ものが吊るされている。


 折れた短剣。

 半分焼けた海図。

 裂けた帆布。

 潮で白くなったロープ。

 古い船具。

 誰かの片方だけの手袋。

 焦げた船名板。

 そして、名札の紐。


 名札そのものではない。


 名札を結んでいた紐だけが、いくつも束ねられて吊るされている。


 それを見た瞬間、ルカは胸が詰まった。


 名札の紐は、名札が失われた後にも残る。持ち主が名を手放したのか、奪われたのか、海へ返したのか、ただ逃げるために切ったのか。それだけでは分からない。


 けれど、どの紐にも、誰かがここへ辿り着いた気配があった。


 逃げ込んだ者。

 拾われた者。

 もう名を呼ばれたくなかった者。

 それでも完全には名を捨てられなかった者。


 潮牙亭は、ただの酒場ではなかった。


 ここは、名を持たずに眠れる場所だ。


 そう思った瞬間、店の奥からしわがれた声が飛んできた。


「入口で突っ立ってると、酔っ払いに値踏みされるよ。泊まりか、飯か、喧嘩か、泣き寝入りか。どれだい」


 声の主は、帳場の奥に座る老婆だった。


 背は小さいが、目は鋭い。白髪を赤い布でまとめ、片耳には大きな牙貝の耳飾りをつけている。手元には分厚い宿帳が開かれていた。黒い表紙は潮で膨らみ、何度も継ぎ足された紙の端が不揃いに飛び出している。


 ルカは慌てて近づいた。


「あの、カイラ=マレイス船長に会いたくて来ました」


 老婆はルカを上から下まで見た。次にエルンを見る。そこで少しだけ眉が動いた。


「カイラに会いたい奴は多い。会って無事で済む奴は少ない」


「紹介を受けています。ナラ=オルテのセナ爺から」


「セナの爺さんかい」


 老婆は鼻を鳴らした。


「まだ死んでないんだね、あの潮干し爺」


「お知り合いですか」


「昔、あたしの酒を三樽踏み倒した」


 知り合いなのか恨みなのか分からない返事だった。


 老婆は宿帳を指で叩く。


「まず宿を取んな。カイラが戻るまで、外でうろつかれても邪魔だ」


「宿帳を書くんですか」


「書くよ。名は書かないけどね」


 ルカは帳面を覗いた。


 そこに並んでいたのは、本名ではなかった。


 《赤帆》

 《片耳》

 《三杯目》

 《沈まぬ婆》

 《昨日の船長》

 《右足だけの祈り》

 《小鳥》

 《まだ決めない》


 名前というより、呼び名、傷名、酒の席のあだ名、一晩だけの目印。


 ルカは戸惑った。


「本名は、書かなくていいんですか」


 老婆は、ぴたりと手を止めた。


 店のざわめきが、一瞬だけ遠のいた気がした。


 老婆の目が、鋭くなる。


「嬢ちゃん」


 声は低い。


「ここで本名を聞く奴は、客じゃない。売り手だよ」


 ルカは息を呑んだ。


 怒鳴られたわけではない。けれど、その言葉には、潮牙亭という場所の掟がはっきり宿っていた。


 老婆は続けた。


「本名を聞く奴は、たいてい相手を覚えたいわけじゃない。値をつけたいんだ。どこの家の子か。どこの船の逃げ者か。どこの神殿から抜けたか。どこの役所に引き渡せば銀貨になるか。そういうことを知りたい奴が、本名を欲しがる」


 ルカは宿帳を見下ろした。


 並んだ呼び名たちが、急に軽いものには見えなくなった。


 ふざけているのではない。


 隠している。

 そして、守っている。


「……すみません」


「謝るなら覚えな」


 老婆は羽根ペンを差し出した。


「今夜の呼び名を書きな。あんたは?」


 ルカは少し迷った。


 ナミル=レイの名拾い。

 港へ入る時に使った呼び名。


 けれど、宿帳に書くと、また別の重みがある。


 自分の名を隠すことに、まだ抵抗はあった。

 でも、この場所ではそれが礼儀なのだ。


 ルカはペンを取った。


 《名拾い》


 そう書いた。


 老婆は帳面を見て、ふんと鼻を鳴らした。


「そのまんまだね」


「嘘は苦手なので」


「ここじゃ、嘘より下手な正直の方が危ないよ」


 老婆はエルンを見る。


「坊主は?」


 エルンは宿帳を見た。


 並んだ呼び名を、読むのではなく聞いているように、しばらく黙っている。


「エルン」


 彼は小さく言った。


 老婆は眉を上げた。


「それは本名かい」


「今、浮いてるところ」


 老婆は少しだけ黙った。


 そして、ペンを取って、宿帳に書いた。


 《浮いてるエルン》


「これでいい」


 エルンは不思議そうに帳面を見た。


「増えた」


「ここじゃ、足りない名には少し足す。沈まないようにね」


 老婆の声はぶっきらぼうだった。けれど、ルカにはそれが不思議に優しく聞こえた。


 エルンも、嫌がらなかった。


 宿帳に書かれた《浮いてるエルン》の文字を見つめ、胸元の割れた貝殻にそっと触れる。


 もしかすると、彼にとってそれは初めて「沈まないように足された呼び名」だったのかもしれない。


 老婆は帳場の奥から鍵を二つ取り出した。


「二階の潮側。壁の薄い部屋だ。泣き声は聞こえるが、本名は聞こえない。飯は一階。喧嘩は外。カイラに会いたいなら、戻るまで待ちな」


「カイラ船長は、今どこに?」


「聞かない方がいい場所」


 老婆はきっぱり言った。


「聞いたら、巻き込まれる」


「もう巻き込まれている気がします」


「なら、もう少し待ちな。巻き込まれ方にも順番がある」


 ルカは返す言葉をなくした。


 その時、酒場の奥で大きな笑い声が上がった。


「おい、《小鳥》! そっちの皿を取れ!」


 太った男が、隅の席へ向かって叫んでいる。


 隅には、十二歳くらいの少年が座っていた。


 小柄で、痩せている。日に焼けた肌に、少し大きすぎる上着。首には紐で小さな札を下げている。片手で椀を抱えたまま、彼はぼんやりとテーブルの木目を見ていた。


「《小鳥》!」


 男がもう一度呼ぶ。


 少年は反応しない。


「おい、小鳥ってば!」


 三度目に呼ばれて、少年はようやく顔を上げた。


 遅い。


 眠っていたわけではない。

 聞こえていなかったわけでもない。


 呼び名が彼に届くまで、どこかを遠回りしてきたような遅れだった。


 少年は慌てて皿を取ろうとして、椀を倒しかけた。周囲の大人たちが笑う。けれど、笑い声には悪意だけではない。誰かが「無理すんな」と言い、別の女が布巾を投げて寄こした。


 ルカは、その少年から目が離せなかった。


 首に下がった札。


 一見すると普通の潮名証に見える。安物だが、海上で使う仮の呼び名を記すためのもの。漂流者や逃亡者、港から港へ移る者が持つことがある。


 けれど、その札の縁が、わずかに黒ずんでいる気がした。


「エルン」


 ルカが小さく呼ぶ。


 エルンはもう、その少年を見ていた。


 顔色が悪い。


「どうしたの」


 ルカが尋ねると、エルンは声を落とした。


「この子の名前、遅れてる」


 ルカの胸が、静かに強張った。


 沈んでいるのではない。

 消えているのでもない。

 けれど、呼ばれてから届くまでに遅れている。


 前に見たような名の異変とは違う。だが、同じ種類の冷たさがある。


 ルカは少年の首元の札を見た。


 少年はまた椀を抱え、周囲の声から少し遅れて笑った。まるで、自分が笑うべき時を、誰かに教えられてからやっと思い出したように。


 潮牙亭のざわめきは続いている。


 赤帆。

 片耳。

 三杯目。

 小鳥。

 沈まぬ婆。


 本名ではない呼び名が、酒と煙と潮の匂いの中を飛び交う。


 ルカには騒がしいだけに聞こえるその声の群れが、エルンには水面に浮かんでは沈む名の波に聞こえているのだろう。


 そして、その中でひとつだけ、呼ばれても遅れて届く名がある。


 ルカは宿帳の上に置かれた羽根ペンを見た。


 名を書かない宿。

 本名を聞かない宿。

 名を売らぬ港。


 その中で、誰かの名がすでに売られかけているのかもしれない。


 老婆が、ルカの視線に気づいた。


「《小鳥》に構うなら、飯の後にしな」


「彼は?」


「リオ。いや、ここじゃ《小鳥》だ」


 老婆は声を少し落とした。


「流れ着いた子だよ。船を失って、名も半分濡らしてきた。最近、呼ばれても振り向くのが遅い」


 ルカはエルンと目を合わせた。


 エルンは小さく頷く。


 潮牙亭の壁で、名札の紐が揺れた。


 風はない。


 けれど、どこかで名が引かれている。


 ルカは、その音を聞いた気がした。

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