表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第3話 ― 名を売らぬ海賊は、霧の港で笑った
PR
28/50

第二節 ― 名を売らぬ海賊

 潮牙亭の奥では、昼間から賭けが行われていた。


 賭場というより、酒場の一角を勝手に賭場にしているだけなのだろう。丸い卓を囲んで、船乗り、密輸商らしき男、顔を布で半分隠した女、片目に黒い革帯を巻いた老海賊が、札とも貝殻ともつかない小片を投げ合っている。


 卓の中央には、銀貨、銅貨、牙貝、珊瑚玉、誰かの短剣、封を切っていない酒瓶、用途の分からない小さな鍵まで積まれていた。


 そして、その山の向こう側に、ひとりの女が座っていた。


 片足を椅子に乗せ、背もたれに肘をかけ、片手に酒杯を持っている。日焼けした肌。銅赤の混じる黒褐色の髪。傷のある頬。琥珀とも海緑ともつかない、光の角度で色を変える瞳。


 腰には湾曲した短剣。

 肩には古い帆布の外套。

 首元には牙貝、欠けた名札、珊瑚片をつないだ飾り。


 派手ではない。

 けれど、目立った。


 その女が笑うと、周りの男たちの笑い声まで少し遅れてついてくる。怒鳴ると、酒場の別の卓まで一瞬静かになる。座っているだけなのに、そこだけ潮の流れが違うようだった。


「ほら、またあたしの勝ちだ」


 女は卓上の貝片を開き、にやりと笑った。


 向かいの大男が頭を抱える。


「嘘だろ、カイラ船長! さっきから勝ちすぎだ!」


「負け犬は海よりよく吠えるね」


「あんた絶対、札を読んでるだろ」


「読めるように置いたあんたが悪い」


 周囲で笑いが起きた。


 ルカは足を止めた。


 あれが、カイラ=マレイス。


 名を売らない海賊。

 セナ爺が行けと言った女船長。


 噂から想像していた姿と、大きく外れてはいない。けれど、どこか違う。もっと厳粛な人物を想像していたのかもしれない。名を守る掟を背負う船長なら、寡黙で、鋭く、海そのもののように重い人なのだと。


 だが、目の前のカイラは酒を飲み、賭けをし、勝ちを誇り、船員たちの罵声を浴びて笑っていた。


 信用していいのか、分からない。


 それがルカの第一印象だった。


 エルンは、ルカの半歩後ろにいた。


 潮牙亭の中に入ってから、彼はずっと顔色が悪い。酒場中を飛び交う呼び名が、彼には波のように押し寄せているのだろう。さっきから時々、耳を押さえかけては、思い直したように手を下ろしている。


 ルカは小声で言った。


「無理そうなら、外で待っててもいいよ」


「外も多い」


「そっか」


「でも、ここは……浮いてる名前がぶつかる」


 エルンの視線は、賭場の奥ではなく、酒場全体を見ていた。


 赤帆。

 片耳。

 三杯目。

 小鳥。

 沈まぬ婆。

 昨日の船長。

 右足だけの祈り。


 呼び名が飛び交い、笑い声と混ざり、酒に溶けて、床板へ落ち、また誰かの口から浮かぶ。


 ルカには騒がしさとしてしか聞こえない。

 エルンには、名の水面が重なりすぎているように聞こえている。


 それでも、彼は逃げなかった。


 ルカは小さく頷き、賭場の卓へ歩いた。


「カイラ=マレイスさんですか」


 声をかけた瞬間、卓の周りの海賊たちが一斉にこちらを見た。


 酒場のざわめきが少しだけ低くなる。


 カイラは、すぐには返事をしなかった。


 酒杯を口元へ運び、ゆっくり一口飲む。それから、足を椅子に乗せたまま、ルカを上から下まで眺めた。次に、ルカの後ろのエルンを見る。


 その視線は、遠慮がなかった。


 服。

 手。

 髪。

 目。

 潮の匂い。

 持ち物。

 隠している疲れ。


 全部を一息で値踏みされたようで、ルカは少し背筋を硬くした。


 エルンは、カイラと目が合った瞬間、半歩だけ後ろへ下がった。


「名拾いの嬢ちゃんと、海底から拾ったみたいな坊主か」


 カイラは、低く笑った。


「面倒の匂いしかしないね」


 ルカの眉がぴくりと動いた。


「私たちは、面倒を持ち込みに来たわけではありません」


「面倒を持ってくる奴は、たいていそう言うんだよ」


 周囲の海賊たちがまた笑う。


 ルカはむっとした。


 この人に頼らなければならないことは分かっている。

 けれど、最初から子ども扱いされるのは腹が立つ。


「ナラ=オルテのセナ爺から紹介を受けて来ました」


「セナの爺さん?」


 カイラは酒杯を揺らした。


「あの爺さん、まだ若い子を厄介事に向かわせる癖が抜けないのかい」


「厄介事ではなく、必要な調査です」


「同じことさ。必要な調査ってのは、大抵ろくでもない厄介事の丁寧な呼び名だ」


 そう言いながら、カイラは卓上の銀貨を無造作に自分の側へ寄せた。


 負けた大男が文句を言いかけると、カイラは短剣の鞘で卓を軽く叩いた。


「次で取り返しな。取り返せる腕があるならね」


 大男は唸ったが、それ以上は言わなかった。


 カイラはようやく、ルカへ体を向けた。


「で、セナ爺が何を聞けって?」


 ルカは慎重に、肩掛け鞄から潮紙箱を取り出した。


 蓋を開ける前に、酒場の空気を見た。


 ここで錨記庁の印を大声で言うな。

 港へ入る時、案内の男にそう言われた。


 ルカは声を低くする。


「ナラ=オルテの近海で、名札が沈められました。自然に沈んだのではなく、名を底へ縫いつけるような……人工の錨で」


 カイラの笑みが、少し薄くなった。


 周りの海賊たちのうち、何人かが目を細める。


「続けな」


「そのあと、静潮具の欠片が見つかりました。錨形の金属片です。表面に、七本の錨を重ねた紋章がありました」


 ルカは潮紙に包まれた小さな包みを出した。


 まだ開かない。

 ただ、卓の上へ置く。


 その瞬間、近くにいた数人の海賊がわずかに身を引いた。


 分かるのだ。


 布越しでも、その欠片が普通の船具ではないと。


 カイラは酒杯を置いた。


 賭けの場の笑い声が、そこで完全に止まった。


 ルカは続ける。


「セナ爺は、あなたならこの印について知っていると言いました」


「知ってるかもしれない」


「教えてください」


 ルカがそう言うと、カイラは片眉を上げた。


「ただで?」


 ルカは一瞬、言葉を失った。


「……はい?」


「情報料だよ。ここは神殿の相談所じゃない。潮牙亭の卓に乗った話は、魚の骨一本まで値がつく」


「人の名が沈められているんです」


「それでも、情報には値がつく」


「子どもからお金を取るんですか」


 ルカの声が少し強くなった。


 周囲の空気がわずかに動く。


 カイラは笑った。


「海は子ども料金で荒れちゃくれないよ」


 ルカは唇を結んだ。


 正論のようで、違う。

 少なくとも、ルカにはそう聞こえた。


 名を売らない海賊。

 漂流者と失名者を守る船長。


 そう聞いて来たのに、目の前の女は金の話をしている。子ども相手にも遠慮がなく、疲れ切ったエルンにも優しい声をかけない。セナ爺の言う「名を売らない」が本当なのか、急に分からなくなる。


「払えるほど、持っていません」


 ルカは正直に言った。


「なら、別のもので払うんだね」


「別のもの?」


「仕事。手伝い。運び。見張り。あるいは、あんたの名拾いの腕」


 カイラの視線が、ルカの目をまっすぐ捉えた。


「ここじゃ、銀貨だけが金じゃない」


 ルカは言い返そうとして、止まった。


 からかわれているのか、本気なのか、判断できない。


 カイラは包みへ視線を落とした。


「それにね、嬢ちゃん。あんたが持ってきたその欠片は、たぶんあたしが知っている。だが、知ってるからこそ、軽く口に出すものじゃない。話す場所も、聞く覚悟も、値も要る」


 その声は先ほどまでより低かった。


 ルカは、ほんのわずかに迷った。


 カイラはふざけている。

 でも、今の言葉だけはふざけていなかった。


 エルンが、ルカの袖を軽く引いた。


「この人、うるさいけど、沈んでない」


 ルカは小声で聞き返した。


「沈んでない?」


「うん。名前が重い。でも沈んでない」


 それが褒め言葉なのかどうか、ルカには分からなかった。


 カイラには聞こえていたらしい。


 彼女はエルンを見て、にやりと笑った。


「面白いこと言う坊主だね」


 エルンはまた半歩下がった。


「見ないで」


「見られたくないものを持ってる目だ」


「カイラさん」


 ルカは思わず間に入った。


「エルンを値踏みしないでください」


 カイラは一瞬、ルカを見た。


 それから、面白そうに笑う。


「守る気かい」


「はい」


「その細腕で?」


「腕の太さは関係ありません」


 周囲から、ひゅう、と冷やかすような口笛が上がった。


 ルカの頬が熱くなる。

 しかし目は逸らさなかった。


 カイラはしばらくルカを見ていたが、やがて酒杯を持ち上げた。


「気に入った、と言いたいところだけどね。守る気だけで守れるなら、海賊なんて商売は要らない」


 その言葉は、なぜか少しだけ重かった。


 ルカが答えを探していると、酒場の隅で小さな騒ぎが起きた。


「おい、《小鳥》。それ、見せろって言ってんだろ」


 太い声。


 ルカは振り返った。


 先ほどの少年――リオ、ここでは《小鳥》と呼ばれている子が、隅の卓で肩をすくめていた。彼の前には、三人の男が立っている。酔っているのか、頬が赤く、目つきが荒い。


 そのうちのひとりが、リオの小さな布袋を掴んでいた。


「返して」


 リオが言った。


 声は弱い。


「これ、おれの」


「中身を見せろって言ってるだけだ。逃げてきたガキが、どこで銀貨なんざ持った?」


「持ってない」


「じゃあ見せろ」


 男が袋を引く。


 リオは抵抗しようとしたが、身体が遅れた。


 反応が、遅い。


 呼ばれてから振り向くのが遅いだけではない。自分のものを取られそうになっているのに、手を伸ばすまでの動きさえ、何かに引っかかっているようだった。


 ルカは一歩踏み出した。


 だが、それより早く、カイラが動いた。


 椅子に片足を乗せていたはずなのに、次の瞬間にはもう立っていた。酒杯は卓に置かれ、短剣は抜かれていない。ただ、その鞘――いや、柄尻が男の手首を押さえていた。


 笑ったままだった。


 けれど、空気が変わった。


「子どもの袋に手ぇ入れるなら」


 カイラは、にこやかに言った。


「指は港に置いていきな」


 男の顔から酔いが引いた。


「船長、いや、俺はただ――」


「ただ?」


 カイラの笑みは変わらない。


「ただ、なんだい」


「そのガキが、怪しい札を持ってるって聞いて」


「だから?」


「確かめようと」


「確かめる手が、ずいぶん泥棒に似てるね」


 カイラの短剣の柄尻が、男の手首に少し沈む。


 男が呻いた。


 抜いていない。

 刃は出していない。


 それなのに、男は完全に動けなくなっていた。


 周囲の海賊たちは止めない。笑いもしない。

 ただ、見ている。


 これは喧嘩ではない。

 掟の確認なのだ。


「潮牙亭で子どもの袋を漁るなら、理由を先に出す」


 カイラは言った。


「理由がないなら、謝る。理由が嘘なら、沈める。どれにする?」


「……謝る」


「誰に」


 男はリオを見た。


「悪かった」


 リオは袋を抱え、目を伏せた。


 返事をしない。


 いや、できないのかもしれない。


 カイラは男の手を放した。


「外で水を三樽運んできな。酔いを覚ましてから戻れ」


「三樽?」


「指を置いてくより軽いだろ」


 男は何も言えず、仲間に押されるように外へ出ていった。


 酒場のざわめきが少しずつ戻る。


 カイラは何事もなかったように短剣を腰へ戻し、リオの前にしゃがんだ。


「小鳥」


 リオは反応しなかった。


 カイラはすぐに言い直さなかった。


 待った。


 酒場の騒ぎの中で、ただ待つ。


 ルカは、その間に気づいた。


 カイラは、三度呼ばない。


 呼び名が届くまで、待っている。


 急かさない。

 笑わない。

 代わりに答えない。


 やがて、リオが顔を上げた。


「……はい」


「袋、見せろとは言わない。持ってていい。でも、取られそうになったら叫べ。声が遅れても、皿を割れ。皿の音なら、あたしが先に聞く」


 リオは袋を胸に抱いたまま、こくりと頷いた。


 カイラは厨房へ向かって顎をしゃくった。


「小鳥に温かい汁を一杯。あたしの負け分につけときな」


 帳場の老婆が奥から怒鳴る。


「あんた、さっき勝ってただろ!」


「じゃあ勝ち分につけときな!」


 また笑いが起きた。


 今度の笑いは、さっきより少し柔らかかった。


 ルカは、その光景を見ていた。


 乱暴だ。

 口も悪い。

 金にも細かい。

 子ども相手にも容赦がない。


 でも、リオの袋へ伸びた手を止める時、カイラは一瞬も迷わなかった。


 掟の線を越えた者には厳しい。

 しかし、その線の内側にいる子どもは守る。


 ルカの中で、カイラの印象が少しだけ揺らいだ。


 信用できる、とまでは言えない。

 けれど、ただの胡散臭い海賊とも言い切れない。


 カイラはリオの肩を軽く叩き、立ち上がった。


 そして、ルカの方を振り返る。


「で、名拾いの嬢ちゃん」


 先ほどと同じ口調。


 でも、ルカにはもう少し違って聞こえた。


「情報料の話、続けようか」


 ルカは眉を寄せた。


「今の後で、まだ取るんですか」


「当然だろ」


 カイラは肩をすくめる。


「子どもを守るのと、ただ働きするのは別の話だ」


「……やっぱり信用しきれません」


「そいつはいい。海で会ってすぐ信用してくる奴の方が危ない」


 カイラは卓に戻り、ルカが置いた潮紙包みを指先で軽く叩いた。


 直接は触れない。


 それを見て、ルカは小さく息を止めた。


 カイラも分かっている。

 この包みには、素手で触れてはいけないと。


「その錨の欠片について知りたいなら、まずあんたが何を見たか、何を読んだか、全部話しな」


「ここで?」


「ここでは話すなと言うなら、奥の部屋を使う。部屋代は別だ」


「カイラさん」


「冗談だよ。半分は」


 ルカは深く息を吐いた。


 エルンが隣で小さく言う。


「この人、うるさいけど、リオの名前を急がせなかった」


「うん」


「たぶん、売らない」


 ルカはカイラを見た。


 カイラは聞こえているはずなのに、何も言わない。酒杯を持ち上げ、勝手に笑っている。


 名を売らぬ海賊。


 その意味は、まだ分からない。


 けれど、この酒場で本名を聞かない掟があり、子どもの袋へ伸びた手を止める女がいることだけは、今、ルカの目の前にあった。


 潮牙亭の壁で、名札の紐が揺れている。


 その中に、リオの首元の潮名証だけが、ほんのわずかに遅れて震えた。


 エルンが、それに気づいて目を細める。


「ルカ」


「うん」


「やっぱり、この子の名、誰かに引かれてる」


 ルカは、まだ笑っているカイラと、袋を抱えて小さく座るリオを交互に見た。


 情報料の話だけでは済まない。


 この宿で、すでに事件は始まっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ