第二節 ― 名を売らぬ海賊
潮牙亭の奥では、昼間から賭けが行われていた。
賭場というより、酒場の一角を勝手に賭場にしているだけなのだろう。丸い卓を囲んで、船乗り、密輸商らしき男、顔を布で半分隠した女、片目に黒い革帯を巻いた老海賊が、札とも貝殻ともつかない小片を投げ合っている。
卓の中央には、銀貨、銅貨、牙貝、珊瑚玉、誰かの短剣、封を切っていない酒瓶、用途の分からない小さな鍵まで積まれていた。
そして、その山の向こう側に、ひとりの女が座っていた。
片足を椅子に乗せ、背もたれに肘をかけ、片手に酒杯を持っている。日焼けした肌。銅赤の混じる黒褐色の髪。傷のある頬。琥珀とも海緑ともつかない、光の角度で色を変える瞳。
腰には湾曲した短剣。
肩には古い帆布の外套。
首元には牙貝、欠けた名札、珊瑚片をつないだ飾り。
派手ではない。
けれど、目立った。
その女が笑うと、周りの男たちの笑い声まで少し遅れてついてくる。怒鳴ると、酒場の別の卓まで一瞬静かになる。座っているだけなのに、そこだけ潮の流れが違うようだった。
「ほら、またあたしの勝ちだ」
女は卓上の貝片を開き、にやりと笑った。
向かいの大男が頭を抱える。
「嘘だろ、カイラ船長! さっきから勝ちすぎだ!」
「負け犬は海よりよく吠えるね」
「あんた絶対、札を読んでるだろ」
「読めるように置いたあんたが悪い」
周囲で笑いが起きた。
ルカは足を止めた。
あれが、カイラ=マレイス。
名を売らない海賊。
セナ爺が行けと言った女船長。
噂から想像していた姿と、大きく外れてはいない。けれど、どこか違う。もっと厳粛な人物を想像していたのかもしれない。名を守る掟を背負う船長なら、寡黙で、鋭く、海そのもののように重い人なのだと。
だが、目の前のカイラは酒を飲み、賭けをし、勝ちを誇り、船員たちの罵声を浴びて笑っていた。
信用していいのか、分からない。
それがルカの第一印象だった。
エルンは、ルカの半歩後ろにいた。
潮牙亭の中に入ってから、彼はずっと顔色が悪い。酒場中を飛び交う呼び名が、彼には波のように押し寄せているのだろう。さっきから時々、耳を押さえかけては、思い直したように手を下ろしている。
ルカは小声で言った。
「無理そうなら、外で待っててもいいよ」
「外も多い」
「そっか」
「でも、ここは……浮いてる名前がぶつかる」
エルンの視線は、賭場の奥ではなく、酒場全体を見ていた。
赤帆。
片耳。
三杯目。
小鳥。
沈まぬ婆。
昨日の船長。
右足だけの祈り。
呼び名が飛び交い、笑い声と混ざり、酒に溶けて、床板へ落ち、また誰かの口から浮かぶ。
ルカには騒がしさとしてしか聞こえない。
エルンには、名の水面が重なりすぎているように聞こえている。
それでも、彼は逃げなかった。
ルカは小さく頷き、賭場の卓へ歩いた。
「カイラ=マレイスさんですか」
声をかけた瞬間、卓の周りの海賊たちが一斉にこちらを見た。
酒場のざわめきが少しだけ低くなる。
カイラは、すぐには返事をしなかった。
酒杯を口元へ運び、ゆっくり一口飲む。それから、足を椅子に乗せたまま、ルカを上から下まで眺めた。次に、ルカの後ろのエルンを見る。
その視線は、遠慮がなかった。
服。
手。
髪。
目。
潮の匂い。
持ち物。
隠している疲れ。
全部を一息で値踏みされたようで、ルカは少し背筋を硬くした。
エルンは、カイラと目が合った瞬間、半歩だけ後ろへ下がった。
「名拾いの嬢ちゃんと、海底から拾ったみたいな坊主か」
カイラは、低く笑った。
「面倒の匂いしかしないね」
ルカの眉がぴくりと動いた。
「私たちは、面倒を持ち込みに来たわけではありません」
「面倒を持ってくる奴は、たいていそう言うんだよ」
周囲の海賊たちがまた笑う。
ルカはむっとした。
この人に頼らなければならないことは分かっている。
けれど、最初から子ども扱いされるのは腹が立つ。
「ナラ=オルテのセナ爺から紹介を受けて来ました」
「セナの爺さん?」
カイラは酒杯を揺らした。
「あの爺さん、まだ若い子を厄介事に向かわせる癖が抜けないのかい」
「厄介事ではなく、必要な調査です」
「同じことさ。必要な調査ってのは、大抵ろくでもない厄介事の丁寧な呼び名だ」
そう言いながら、カイラは卓上の銀貨を無造作に自分の側へ寄せた。
負けた大男が文句を言いかけると、カイラは短剣の鞘で卓を軽く叩いた。
「次で取り返しな。取り返せる腕があるならね」
大男は唸ったが、それ以上は言わなかった。
カイラはようやく、ルカへ体を向けた。
「で、セナ爺が何を聞けって?」
ルカは慎重に、肩掛け鞄から潮紙箱を取り出した。
蓋を開ける前に、酒場の空気を見た。
ここで錨記庁の印を大声で言うな。
港へ入る時、案内の男にそう言われた。
ルカは声を低くする。
「ナラ=オルテの近海で、名札が沈められました。自然に沈んだのではなく、名を底へ縫いつけるような……人工の錨で」
カイラの笑みが、少し薄くなった。
周りの海賊たちのうち、何人かが目を細める。
「続けな」
「そのあと、静潮具の欠片が見つかりました。錨形の金属片です。表面に、七本の錨を重ねた紋章がありました」
ルカは潮紙に包まれた小さな包みを出した。
まだ開かない。
ただ、卓の上へ置く。
その瞬間、近くにいた数人の海賊がわずかに身を引いた。
分かるのだ。
布越しでも、その欠片が普通の船具ではないと。
カイラは酒杯を置いた。
賭けの場の笑い声が、そこで完全に止まった。
ルカは続ける。
「セナ爺は、あなたならこの印について知っていると言いました」
「知ってるかもしれない」
「教えてください」
ルカがそう言うと、カイラは片眉を上げた。
「ただで?」
ルカは一瞬、言葉を失った。
「……はい?」
「情報料だよ。ここは神殿の相談所じゃない。潮牙亭の卓に乗った話は、魚の骨一本まで値がつく」
「人の名が沈められているんです」
「それでも、情報には値がつく」
「子どもからお金を取るんですか」
ルカの声が少し強くなった。
周囲の空気がわずかに動く。
カイラは笑った。
「海は子ども料金で荒れちゃくれないよ」
ルカは唇を結んだ。
正論のようで、違う。
少なくとも、ルカにはそう聞こえた。
名を売らない海賊。
漂流者と失名者を守る船長。
そう聞いて来たのに、目の前の女は金の話をしている。子ども相手にも遠慮がなく、疲れ切ったエルンにも優しい声をかけない。セナ爺の言う「名を売らない」が本当なのか、急に分からなくなる。
「払えるほど、持っていません」
ルカは正直に言った。
「なら、別のもので払うんだね」
「別のもの?」
「仕事。手伝い。運び。見張り。あるいは、あんたの名拾いの腕」
カイラの視線が、ルカの目をまっすぐ捉えた。
「ここじゃ、銀貨だけが金じゃない」
ルカは言い返そうとして、止まった。
からかわれているのか、本気なのか、判断できない。
カイラは包みへ視線を落とした。
「それにね、嬢ちゃん。あんたが持ってきたその欠片は、たぶんあたしが知っている。だが、知ってるからこそ、軽く口に出すものじゃない。話す場所も、聞く覚悟も、値も要る」
その声は先ほどまでより低かった。
ルカは、ほんのわずかに迷った。
カイラはふざけている。
でも、今の言葉だけはふざけていなかった。
エルンが、ルカの袖を軽く引いた。
「この人、うるさいけど、沈んでない」
ルカは小声で聞き返した。
「沈んでない?」
「うん。名前が重い。でも沈んでない」
それが褒め言葉なのかどうか、ルカには分からなかった。
カイラには聞こえていたらしい。
彼女はエルンを見て、にやりと笑った。
「面白いこと言う坊主だね」
エルンはまた半歩下がった。
「見ないで」
「見られたくないものを持ってる目だ」
「カイラさん」
ルカは思わず間に入った。
「エルンを値踏みしないでください」
カイラは一瞬、ルカを見た。
それから、面白そうに笑う。
「守る気かい」
「はい」
「その細腕で?」
「腕の太さは関係ありません」
周囲から、ひゅう、と冷やかすような口笛が上がった。
ルカの頬が熱くなる。
しかし目は逸らさなかった。
カイラはしばらくルカを見ていたが、やがて酒杯を持ち上げた。
「気に入った、と言いたいところだけどね。守る気だけで守れるなら、海賊なんて商売は要らない」
その言葉は、なぜか少しだけ重かった。
ルカが答えを探していると、酒場の隅で小さな騒ぎが起きた。
「おい、《小鳥》。それ、見せろって言ってんだろ」
太い声。
ルカは振り返った。
先ほどの少年――リオ、ここでは《小鳥》と呼ばれている子が、隅の卓で肩をすくめていた。彼の前には、三人の男が立っている。酔っているのか、頬が赤く、目つきが荒い。
そのうちのひとりが、リオの小さな布袋を掴んでいた。
「返して」
リオが言った。
声は弱い。
「これ、おれの」
「中身を見せろって言ってるだけだ。逃げてきたガキが、どこで銀貨なんざ持った?」
「持ってない」
「じゃあ見せろ」
男が袋を引く。
リオは抵抗しようとしたが、身体が遅れた。
反応が、遅い。
呼ばれてから振り向くのが遅いだけではない。自分のものを取られそうになっているのに、手を伸ばすまでの動きさえ、何かに引っかかっているようだった。
ルカは一歩踏み出した。
だが、それより早く、カイラが動いた。
椅子に片足を乗せていたはずなのに、次の瞬間にはもう立っていた。酒杯は卓に置かれ、短剣は抜かれていない。ただ、その鞘――いや、柄尻が男の手首を押さえていた。
笑ったままだった。
けれど、空気が変わった。
「子どもの袋に手ぇ入れるなら」
カイラは、にこやかに言った。
「指は港に置いていきな」
男の顔から酔いが引いた。
「船長、いや、俺はただ――」
「ただ?」
カイラの笑みは変わらない。
「ただ、なんだい」
「そのガキが、怪しい札を持ってるって聞いて」
「だから?」
「確かめようと」
「確かめる手が、ずいぶん泥棒に似てるね」
カイラの短剣の柄尻が、男の手首に少し沈む。
男が呻いた。
抜いていない。
刃は出していない。
それなのに、男は完全に動けなくなっていた。
周囲の海賊たちは止めない。笑いもしない。
ただ、見ている。
これは喧嘩ではない。
掟の確認なのだ。
「潮牙亭で子どもの袋を漁るなら、理由を先に出す」
カイラは言った。
「理由がないなら、謝る。理由が嘘なら、沈める。どれにする?」
「……謝る」
「誰に」
男はリオを見た。
「悪かった」
リオは袋を抱え、目を伏せた。
返事をしない。
いや、できないのかもしれない。
カイラは男の手を放した。
「外で水を三樽運んできな。酔いを覚ましてから戻れ」
「三樽?」
「指を置いてくより軽いだろ」
男は何も言えず、仲間に押されるように外へ出ていった。
酒場のざわめきが少しずつ戻る。
カイラは何事もなかったように短剣を腰へ戻し、リオの前にしゃがんだ。
「小鳥」
リオは反応しなかった。
カイラはすぐに言い直さなかった。
待った。
酒場の騒ぎの中で、ただ待つ。
ルカは、その間に気づいた。
カイラは、三度呼ばない。
呼び名が届くまで、待っている。
急かさない。
笑わない。
代わりに答えない。
やがて、リオが顔を上げた。
「……はい」
「袋、見せろとは言わない。持ってていい。でも、取られそうになったら叫べ。声が遅れても、皿を割れ。皿の音なら、あたしが先に聞く」
リオは袋を胸に抱いたまま、こくりと頷いた。
カイラは厨房へ向かって顎をしゃくった。
「小鳥に温かい汁を一杯。あたしの負け分につけときな」
帳場の老婆が奥から怒鳴る。
「あんた、さっき勝ってただろ!」
「じゃあ勝ち分につけときな!」
また笑いが起きた。
今度の笑いは、さっきより少し柔らかかった。
ルカは、その光景を見ていた。
乱暴だ。
口も悪い。
金にも細かい。
子ども相手にも容赦がない。
でも、リオの袋へ伸びた手を止める時、カイラは一瞬も迷わなかった。
掟の線を越えた者には厳しい。
しかし、その線の内側にいる子どもは守る。
ルカの中で、カイラの印象が少しだけ揺らいだ。
信用できる、とまでは言えない。
けれど、ただの胡散臭い海賊とも言い切れない。
カイラはリオの肩を軽く叩き、立ち上がった。
そして、ルカの方を振り返る。
「で、名拾いの嬢ちゃん」
先ほどと同じ口調。
でも、ルカにはもう少し違って聞こえた。
「情報料の話、続けようか」
ルカは眉を寄せた。
「今の後で、まだ取るんですか」
「当然だろ」
カイラは肩をすくめる。
「子どもを守るのと、ただ働きするのは別の話だ」
「……やっぱり信用しきれません」
「そいつはいい。海で会ってすぐ信用してくる奴の方が危ない」
カイラは卓に戻り、ルカが置いた潮紙包みを指先で軽く叩いた。
直接は触れない。
それを見て、ルカは小さく息を止めた。
カイラも分かっている。
この包みには、素手で触れてはいけないと。
「その錨の欠片について知りたいなら、まずあんたが何を見たか、何を読んだか、全部話しな」
「ここで?」
「ここでは話すなと言うなら、奥の部屋を使う。部屋代は別だ」
「カイラさん」
「冗談だよ。半分は」
ルカは深く息を吐いた。
エルンが隣で小さく言う。
「この人、うるさいけど、リオの名前を急がせなかった」
「うん」
「たぶん、売らない」
ルカはカイラを見た。
カイラは聞こえているはずなのに、何も言わない。酒杯を持ち上げ、勝手に笑っている。
名を売らぬ海賊。
その意味は、まだ分からない。
けれど、この酒場で本名を聞かない掟があり、子どもの袋へ伸びた手を止める女がいることだけは、今、ルカの目の前にあった。
潮牙亭の壁で、名札の紐が揺れている。
その中に、リオの首元の潮名証だけが、ほんのわずかに遅れて震えた。
エルンが、それに気づいて目を細める。
「ルカ」
「うん」
「やっぱり、この子の名、誰かに引かれてる」
ルカは、まだ笑っているカイラと、袋を抱えて小さく座るリオを交互に見た。
情報料の話だけでは済まない。
この宿で、すでに事件は始まっている。




