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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第3話 ― 名を売らぬ海賊は、霧の港で笑った
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序節 ― 霧に隠れた港

 ナラ=オルテの浜が、朝靄の向こうへ遠ざかっていく。


 白い砂浜も、貝灯の吊るされた祠も、黒い箱を見張る潮見役たちの影も、少しずつ淡い霧の中に溶けていった。ミリカは最後まで浜に立っていた。母親の手を握り、泣き腫らした目で、ナミル=レイを見送っていた。


 ルカは船尾に立ち、その姿が見えなくなるまで手を振った。


 ミリカの父の名札は、もう海へ送り直された。

 けれど、海はすべてを持ち去って終わりにはしなかった。


 ナミル=レイの船首、名灯の下には、潮紙を三重に巻いた小さな包みが置かれている。布越しでも冷たさを放つ、錨形の金属片。七本の錨を重ねたような紋章を持つ、静潮具の欠片。


 錨記庁の印。


 それを知りたければ、イシュラ=マレへ行け。

 あそこに、名を売らない海賊がいる。


 セナ爺の声が、まだ耳の奥に残っていた。


 イシュラ=マレ。


 海賊自由港。

 公式海図には載らない港。

 嵐に追われた船、役所の記録から逃げた者、神殿に名を縛られた者、陸ではもう呼ばれたくない者たちが流れ着く場所。


 噂なら、ルカも聞いたことがあった。


 黒潮と霧に隠された岩礁群。

 海賊の巣。

 名を売らぬ港。

 入るには、港に認められる呼び名が必要だという。


 どれが本当で、どれが尾ひれなのか、ルカには分からない。


 ただ一つ分かっているのは、そこへ向かわなければならないということだった。


「ナミル、南西の潮へ」


 ルカは帆綱を引いた。


 ナミル=レイの帆が、朝の風を受けてふくらむ。真珠色の帆布に、青緑の潮紋がゆっくり浮かび上がった。両舷の名札が小さく鳴る。ナラ=オルテを出る時にはまだ少し怯えていたその音も、今は航海の始まりを確かめるように、低く揃っていた。


 けれど、船首の名灯の下に置かれた包みだけは、沈黙している。


 そこにある冷たさは、名の冷たさではなかった。


 祈りをなくしたもの。

 潮を測るために作られたもの。

 流れるはずの名を、数え、留め、底へ縫いつけるもの。


 ルカは包みから目を離した。


 長く見ていると、胸の奥が重くなる。まるで、自分の名前まで金属の尺度に当てられ、どれほど沈むか測られているような気がする。


「それ、まだ冷たい?」


 背後から声がした。


 エルンだった。


 彼は船縁に腰をかけ、海面を見ていた。ナラ=オルテを出てからずっと、足を甲板の上へ揃えず、片方だけ船縁近くに投げ出している。海に触れてはいない。けれど、水面との距離を確かめているようだった。


 ルカは頷いた。


「うん。触っていないのに、冷たい」


「下に向いてる」


「この欠片が?」


「ううん」


 エルンは少し考えてから、言葉を選ぶように続けた。


「これを見ると、海の方が下になる」


 ルカは眉を寄せた。


「海は、下にあるよ」


「そうじゃなくて」


 エルンは、自分の胸元の割れた貝殻に触れた。


「僕の中の下が、近くなる」


 ルカは黙った。


 エルンは錨記庁の名を知らないと言った。けれど、身体が反応している。記憶より先に、名前より先に、彼の中の底が震えている。


 それが何を意味するのか、まだ分からない。


 分からないからこそ、怖かった。


「イシュラ=マレへ行けば、少し分かるかもしれない」


 ルカが言うと、エルンは海を見たまま小さく頷いた。


「そこに、名を売らない人がいる?」


「うん。カイラ=マレイス。潮牙の女船長って呼ばれてる」


「海賊?」


「そう」


「海賊は、名を売らないの?」


「普通は……どうなんだろう」


 ルカは少し困った。


 海賊と聞けば、荷を奪い、船を襲い、法を破る者たちという印象が先に立つ。実際、そういう海賊もいる。メルナ=レイの港でも、海賊に襲われた船の話は何度も聞いた。


 けれど、セナ爺は言った。


 名を売らない海賊がいる、と。


「少なくとも、その人は売らないらしい」


「売らないって、どういうこと?」


「名を、取引にしないってことだと思う。逃げてきた人の本名とか、漂流者の過去とか、失名者が取り戻しかけた名とか。そういうものを、追っ手や役所に売らない」


 エルンは少しだけ目を伏せた。


「読まない?」


「たぶん、読まないこともあるんだと思う」


 言いながら、ルカ自身がその言葉に引っかかった。


 読まないことで守る。


 以前の出来事で、ルカはすでに少しだけそれを知った。自分が読むべきではない名があること。沈んだ名を無理に掬おうとすれば、自分の輪郭まで潮へ溶けること。エルンが読むべきもの、ルカが呼ぶべきものがあること。


 それでも、まだ実感としては掴みきれていない。


 名拾いであるルカにとって、名は読んで、拾って、還すものだった。

 けれど、海賊の港では、名は隠されるものでもあるのかもしれない。


 ナミル=レイは南西へ進んだ。


 昼が近づくにつれ、空の色は薄くなり、海の青は深くなる。海路は穏やかだった。けれど、星潮羅針盤の針は時折、不自然に迷った。普通なら潮流線をなぞり、次の潮へ滑るように指すはずの針が、イシュラ=マレへ近づくにつれ、盤面の上で小刻みに震える。


 方角を示さない。


 避けるように、回る。


 ルカは星潮羅針盤を覗き込んだ。


「港の近くなのに、針が定まらない」


 エルンが船尾からこちらへ来る。


「港が、名前を隠してる」


「港が?」


「うん」


 彼は羅針盤ではなく、海面を見ていた。


「ここから先、場所の名前が折れてる。まっすぐ呼ぶと、霧に戻される」


「そういう潮隠しがあるって聞いたことはあるけど……」


 ルカは潮鏡を用意した。


 浅い皿に海水を張り、星ではなく昼の潮影を読む。港が近ければ、岸の形、岩礁の影、灯台の残響くらいは映るはずだった。


 しかし、潮鏡の水面には何も映らなかった。


 空だけがある。


 雲も、帆も、ルカの顔も映っている。

 けれど、海上の地形だけが欠けている。


 そこにあるはずの港が、映らない。


 ルカは唇を引き結んだ。


「潮鏡にも出ない」


「隠してる」


 エルンは同じことを言った。


 彼は不安そうではなかった。むしろ、初めてイシュラ=マレという場所の性質を確かめているようだった。


「ここ、名前が多い」


 エルンは霧の向こうを見る。


 ルカも顔を上げた。


 いつの間にか、海の前方に霧が出ていた。


 白い霧ではない。少し青く、少し灰色で、内側に黒い影を含んでいる。遠目にはただの海霧に見える。けれど、近づくほど妙な密度があった。風で流れているのではなく、そこに立っている。海の上に、見えない壁があるようだった。


「でも、みんな本当の場所を隠してる」


 エルンが続けた。


「人の名みたいに?」


「うん。呼ばれたくない場所の名」


 ナミル=レイの名札が、ちり、と鳴った。


 ルカは帆を少し絞った。


 霧へ入る直前、セナ爺から渡された古い貝灯を取り出す。掌ほどの貝殻に、小さな青白い灯が封じられている。イシュラ=マレの近くで灯せ、と言われていた。


 ルカが貝灯に潮を一滴落とすと、内側の光が目を覚ました。


 青白い火ではない。

 霧を照らす明かりでもない。


 貝灯の光は外へ広がらず、霧の中に一本の細い線を作った。水面の上を滑るように、見えない道を示している。


「これが入口……?」


 ルカが呟いた時、霧の奥から声がした。


「止まれ」


 低い男の声。


 ナミル=レイの名札が一斉に鳴る。


 ルカは反射的に船縁へ寄った。


 霧の中から、小舟が現れた。


 黒く塗られた細長い小舟だった。帆はなく、舵も見えない。船首には牙のように曲がった灯具がついている。灯ってはいないのに、その牙灯の周囲だけ霧が避けていた。


 小舟には男がひとり乗っていた。


 日焼けした肌。片耳に骨の輪。短く刈った黒髪。腰には曲刀を下げている。服装は荒っぽいが、目だけは妙に冷静だった。


 彼はナミル=レイを見た。

 次に、船首の名灯を見た。

 それから、ルカとエルンを順に見る。


「名札船か」


 ルカは頷いた。


「ナミル=レイです。メルナ=レイ所属の名札船。ナラ=オルテのセナ爺から紹介を受けて来ました」


 男はセナ爺の名には少しだけ反応したが、すぐには通さなかった。


「海図にはない港へ何の用だ」


「カイラ=マレイス船長に会いたいんです」


 男の眉がわずかに動く。


「カイラ船長に?」


「はい。錨の印について、聞きたいことがあります」


 ルカがそう言うと、男の視線が船首の名灯の下へ落ちた。


 潮紙に包まれた静潮具の欠片。


 中身が見えているはずはない。だが、男は何かを感じ取ったらしい。口元の表情が消えた。


「それを港で大声で言うな」


 声が低くなった。


 ルカは息を呑む。


「知っているんですか」


「質問は通ってからにしろ」


 男は小舟をナミル=レイへ寄せた。


「イシュラ=マレに入る船は、本名を出さない。船籍も、陸の肩書きも、役所の呼び名も、霧には通らない」


「では、何を」


「今夜だけの呼び名を出せ。港は、それで通す」


 ルカは戸惑った。


 今夜だけの呼び名。


 名を偽ることには抵抗がある。

 けれど、これは嘘の名を名乗れということではないのだろう。イシュラ=マレへ入るために、港へ預ける仮の輪郭。ここでだけ通じる名。


 ルカは、自分の胸元に手を当てた。


 ルカ=ネリス。

 それは今の自分の名だ。


 でも、ここで本名を出すことが礼に反するなら。


 ルカはナミル=レイの船体に触れた。


 真珠白の木肌が、わずかに温かい。両舷の名札が小さく鳴る。船が、自分を忘れないようにと応えているようだった。


「ナミル=レイの名拾い」


 ルカは言った。


「今夜は、それでお願いします」


 男は頷いた。


「通る名だ」


 そして、エルンを見る。


「そっちの坊主は」


 エルンは少し身を固くした。


 ルカは助け舟を出そうとしたが、男が手で制した。


「本人に言わせろ。言えないなら、言えないという呼び名でもいい」


 エルンは黙っていた。


 霧が船を包む。

 水音が遠くなる。


 やがて、彼は小さく言った。


「……エルン」


 男は待った。


 エルンは続けない。


「それだけか」


「今は、それだけ」


 男はエルンの顔をしばらく見ていた。


 嘲笑はしなかった。

 疑いはある。けれど、踏み込まない。


「通る名だ」


 その言葉に、エルンの肩が少しだけ下りた。


 男は小舟の舳先に立ち、牙灯に手をかざした。


 灯っていないはずの牙灯が、黒く光った。


 光なのに黒い。

 霧の中に、影の筋が伸びる。


「ついてこい。道を外れるな。霧の中で本名を呼ぶな。後ろを三度見るな。港に入るまで、見えたものを全部信じるな」


 ルカは思わず聞き返した。


「全部?」


「全部だ」


 男は短く答えた。


「イシュラ=マレは、見つかりたくないものを隠す港だ。港へ来る者も、港そのものもな」


 小舟が霧の中へ進み出す。


 ナミル=レイも、それに続いた。


 霧に入った瞬間、音が変わった。


 波音が柔らかくなり、遠くなる。帆を打つ風も、名札の揺れる音も、布の中へ包まれたように鈍くなった。その代わりに、どこからともなく声が聞こえる。


 笑い声。

 怒鳴り声。

 歌。

 泣き声。

 誰かを呼ぶ声。

 でも、本名らしいものは一つもない。


 赤帆。

 片耳。

 小鳥。

 沈まぬ婆。

 黒靴。

 右舷の三杯目。

 昨日までの船長。


 呼び名が霧の中を漂っている。


 ルカにはそれがただの声に聞こえた。


 だが、エルンは顔をしかめた。


「多い」


「大丈夫?」


「名前が多い。でも、底が浅い」


「浅い?」


「みんな、水面だけ出してる」


 ルカは霧の中へ目を凝らした。


 水面だけ出した名。


 それは、イシュラ=マレという港そのものを表しているようだった。


 本名を隠し、過去を隠し、逃げてきた理由を隠す。けれど、完全に名を失うわけではない。今夜だけの呼び名を差し出し、その名で眠り、その名で酒を飲み、その名で船に乗る。


 名を捨てるのではなく、守るために水面へ出す部分を選ぶ。


 ルカは、それが不思議で、少し怖かった。


 霧の奥に、黒い影が浮かんだ。


 岩礁かと思った。

 だが近づくと、それは帆だった。


 黒い帆。

 いくつも重なっている。


 さらに進むと、霧が少しずつ薄れた。


 赤い珊瑚灯が見えた。岩壁に吊るされ、波打つように光っている。灯台ではない。港の輪郭を照らすというより、霧の中に「ここから先は別の掟だ」と印を刻む灯だ。


 水路が開ける。


 その向こうに、イシュラ=マレが現れた。


 岩礁に囲まれた港だった。


 断崖を削って作られた桟橋。

 古い船板を継ぎ合わせた家々。

 水上に張り出した酒場。

 吊り橋のように渡されたロープ。

 黒帆の船、赤帆の船、船名を塗り潰した船。

 帆柱から垂れる名札ではなく、名前を書かない札。白紙の木札や、刻みのない貝札が、風に揺れている。


 どこからか、笑い声が響く。

 別の場所では、怒鳴り合いが起きている。

 小舟の上で子どもが魚を売り、片腕の男が網を繕い、頭巾を被った女が誰にも顔を見せずに水路を渡っていく。


 無法に見えた。


 けれど、完全な混沌ではなかった。


 船は決められた水路を通っている。

 酒場の前で喧嘩している男たちは、刃物を抜かない。

 子どもの近くで荒い言葉を使った海賊が、老婆に耳を叩かれて素直に黙る。


 掟がある。


 陸の法ではない。

 神殿の戒律でもない。

 錨記庁の規則でもない。


 潮の上に生きる者たちが、自分たちで決めた掟。


 ルカは、その空気に圧倒されながら、ナミル=レイを小舟のあとへ進めた。


 船首の名灯が、いつもより低く灯っている。怯えているわけではない。港の空気を読むように、光を抑えている。


「港へ入ったら、船の名は預ける」


 案内の男が言った。


「預ける?」


「奪うんじゃない。港が覚えるだけだ。出る時に返す。ここでは、船も本名で騒がない」


 ルカはナミル=レイの船体に手を置いた。


「大丈夫?」


 名札が一枚、ちりん、と鳴った。


 不安はある。

 けれど、拒んではいない。


「ナミル=レイ」


 ルカは小さく船名を呼んだ。


「今夜だけ、静かにしていて」


 両舷の名札が、控えめに鳴った。


 それを聞いた男が、ちらりとルカを見る。


「船と話す名拾いか。カイラ船長が好きそうな面倒だ」


「面倒なんですか」


「面倒じゃない奴は、イシュラ=マレには来ない」


 男はそう言って、桟橋の方へ小舟を寄せた。


 その時だった。


 船首の名灯の下に置かれた潮紙包みが、かすかに鳴った。


 かつん。


 小さな金属音。


 ルカは振り返った。


 包みの中の錨形金属片が、冷たさを増している。


 港へ入ったからだ。


 イシュラ=マレの水路に触れた瞬間、錨記庁の印が、何かに反応した。


 エルンもそれを見ていた。


 顔色が少し青い。


「どうしたの」


 ルカが訊くと、彼は港の奥を見た。


 赤い珊瑚灯の並ぶ水路。

 黒帆の船が並ぶ桟橋。

 笑い声と怒号が混じる海賊自由港。


 その奥のどこか。


「この港にも」


 エルンは低く言った。


「沈んでる名前がある」


 ルカは息を呑んだ。


 イシュラ=マレは、本名を隠す港。

 名を売らぬ港。


 けれど、隠された名と、沈められた名は同じではない。


 霧に隠れた港の中で、ナミル=レイの名札がひとつ、また静かに鳴った。

 まるで、この港で待っている事件が、すでに船の名を聞きつけたかのように。

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