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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第2話 沈んだ名は、海底の少年を呼んだ
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第八節 ― 還った声は、すべてを戻さない

 ナミル=レイが入り江へ戻った時、夜はまだ明けていなかった。


 東の空は黒いままで、海と空の境目も見えない。ただ、浜の祠に灯された貝灯だけが、いくつも闇の中に浮かんでいた。潮見役たちは眠らず待っていたらしい。セナ爺の杖の灯、ヨルナ婆の肩掛け、若い名拾いたちの影が、岩場の上に並んでいる。


 その中に、ミリカもいた。


 母親に抱かれながら、それでも眠らずに、ずっと海を見ていた。


 ナミル=レイの名灯が入り江へ差しかかると、浜の者たちが一斉に息を呑んだ。小さな名札船は、出ていった時よりも静かだった。船体の名札は鳴っている。けれど、それは怯えた音ではなかった。


 ちりん。

 ちりん。


 暗い夜を越えて、何かを連れて帰ってきた音だった。


 ルカは船首に立っていた。


 腕の中には、潮紙箱がある。


 箱の内側には三枚の名札が休んでいた。白い貝札、古い木札、小さな潮紙札。どれも完全ではない。傷つき、濁り、声の端を失っている。それでも、止まってはいなかった。


 流れている。


 かすかに。

 今にも消えそうなほど細く。

 それでも確かに、名はまた動き始めていた。


 船が岩場に寄ると、セナ爺が綱を取った。


「戻ったか」


 それだけ言った。


 ルカは頷こうとして、うまく力が入らなかった。緊張が解けたせいか、膝が少し震えている。自分で思っていたよりも、身体はずっと疲れていた。


 エルンは甲板の中央に座り込んだままだった。


 顔色は悪い。けれど、目は開いている。眠ると沈んでしまうのを恐れているように、彼はずっと水面を見ていた。


「エルン、立てる?」


 ルカが声をかけると、彼は少し考えてから答えた。


「立つのは、まだ上すぎる」


「じゃあ、手を貸す」


「うん」


 ルカが手を差し出すと、エルンは素直に掴んだ。


 冷たい。

 でも、海底から引き上げた時の冷たさとは違っていた。


 そこには、地上に留まろうとする弱い力があった。


 岩場へ降りると、ミリカが駆け寄りかけた。けれど、途中で止まった。自分が何を聞くべきなのか、まだ分からないのだろう。父の名が戻ったのか。声が戻ったのか。父が帰ってくるのか。


 そのどれも、簡単には言えない。


 ルカは潮紙箱を抱え直し、ミリカの前に膝をついた。


 少女の顔は青白かった。泣き疲れた子どもの顔ではない。泣くことさえ後回しにして、待つことだけを続けていた顔だった。


「ミリカ」


 ルカは静かに呼んだ。


「お父さんの潮名は、戻ったよ」


 ミリカの目が大きく開いた。


「お父さん、戻ったの?」


 その問いに、ルカはすぐ答えられなかった。


 ここで頷けば、ミリカは喜ぶ。

 けれど、それは嘘になる。


 ルカは潮紙箱に視線を落とした。


 白い貝札は箱の中で淡く光っている。そこに父のすべてがあるわけではない。父の魂が戻ったわけでもない。失われた声が完全に蘇ったわけでもない。


 それでも、何も戻らなかったわけではない。


「お父さん本人は、戻らない」


 ルカは言った。


 ミリカの唇が震えた。


 そばにいた母親が、娘の肩を抱く。


「声も、全部は戻らないと思う」


 ミリカの目に涙が溜まる。


 ルカは続けた。


「でも、ひとつだけ、戻ったものがある」


 ルカは潮紙箱をそっと開けた。


 中の白い貝札を、両手で持ち上げる。


 夜明け前の薄闇の中で、その名札は弱い光をまとっていた。白い貝殻の内側に、潮で削れた文字のようなものが浮かんでいる。はっきり読める字ではない。けれど、青帆のラウという潮名の輪郭が、かすかに戻っていた。


 ミリカが、小さく息を呑んだ。


「お父さんの……」


「うん。船で呼ばれていた名」


 ルカは名札をミリカへ差し出そうとして、途中で止めた。


 渡すのは簡単だ。

 けれど、この名札は、ただ所有するために戻ったものではない。


 ルカはミリカを見た。


「触ってみる?」


 ミリカは怖そうに頷いた。


 小さな手が、白い貝札へ伸びる。指先が触れた瞬間、名札の光がわずかに揺れた。


 そして、音がした。


 歌だった。


 ほんの短い船歌。


 言葉は途切れている。

 旋律も、完全ではない。

 途中で波音に混ざり、すぐに消えてしまいそうな、頼りない歌。


 けれど、その歌には、低くて少し掠れた男の声があった。


 ミリカの指が震えた。


「……これ」


 少女の目から涙があふれた。


「これ、お父さんが、網を直す時に歌ってた」


 母親が口元を押さえた。


 その歌は、父の声そのものではなかったのかもしれない。名札に残った潮の響きと、ミリカの記憶が重なって、ようやく形になったものかもしれない。


 でも、ミリカには分かった。


 父の声がすべて戻らなくても。

 父の姿が帰ってこなくても。

 その短い歌だけで、父が確かにいたことを思い出せた。


「お父さん……」


 ミリカは名札を両手で包み、その場にしゃがみ込んだ。


 泣き声は大きくなかった。


 けれど、ずっと堪えていたものがほどけるように、涙が次々と落ちた。母親も隣に膝をつき、娘の肩を抱いた。二人は名札を挟むようにして、しばらく動かなかった。


 ルカはその様子を見て、喉の奥が熱くなった。


 泣きそうだった。


 けれど、泣いてはいけないと思ったわけではない。

 ただ、いま自分が抱え込んではいけないと思った。


 これはミリカの涙だ。

 ミリカと、その母親と、青帆のラウを知っていた人たちの涙だ。


 名拾いは、名を拾う。

 けれど、拾った名を自分のものにしてはいけない。


 名に宿る悲しみも、祈りも、すべてを自分の胸へ入れてしまえば、いつか自分の名が薄れてしまう。


 ルカはそっと目を伏せ、息を整えた。


 ルカ=ネリス。


 胸の奥で、自分の名を小さく確かめる。


 私は、ここにいる。

 私は、返すために拾う。


 その時、隣に立っていたエルンがルカを見た。


「今、沈みかけた?」


「少しだけ」


 ルカが正直に答えると、エルンは小さく頷いた。


「泣いてる名は、引く」


「うん」


「でも、君は離した」


 ルカはミリカたちを見た。


「離したんじゃないよ。返したの」


 エルンはその言葉を考えるように、白い貝札を見た。


「返す」


「うん。全部を持ち帰ることじゃない。戻ったものを、ちゃんと次の場所へ渡すこと」


 エルンはまだ完全には理解していない顔をしていた。けれど、否定はしなかった。


 やがてセナ爺が、潮紙箱の中の残り二枚を見た。


「ほかの札は?」


「それぞれの持ち主を探します。完全ではありません。でも、声の端は戻っています」


 ルカは答えた。


「黒い輪は?」


 その問いに、ルカは表情を引き締めた。


「消えていません」


 浜の者たちの空気が重くなる。


「でも、ナラ=オルテの近海に伸びていた糸は、少し緩みました。今夜戻せた名は三つだけです。全部は無理でした」


「十分だ」


 セナ爺は即座に言った。


 ルカは顔を上げる。


 セナ爺は、黒い海の方を見ていた。


「全部を一晩で戻そうとする者は、たいてい最初に沈む。三つ戻した。それで、今夜は十分だ」


 ヨルナ婆も頷いた。


「戻らなかった名があるなら、また潮を見る。けれど、もう何が起きているか分からず怯えるだけではない」


 ルカは胸の奥に、少しだけ息が戻るのを感じた。


 事件は終わった。

 少なくとも、ミリカの父の名が失われ続ける夜は終わった。


 けれど、黒い錨はまだ海の底にある。

 呼んではいけない古い場所の名も、まだ沈黙の奥にある。


 それは、今ここで語るべきことではなかった。


 今は、戻った歌を聞く夜だった。


 ミリカは名札を抱きしめたまま、しばらく泣いていた。


 やがて、顔を上げる。


「ルカ」


「うん」


「これ、もらっていいの?」


 ルカはすぐには答えなかった。


 名札を持ち続けることはできる。父の歌をいつでも聞けるように、家に置くこともできる。そうしたい気持ちは自然なものだ。


 けれど、この名札は一度、海へ流されたものだ。


 止められたから戻った。

 泣いていたから呼び戻した。

 でも、戻ったからといって、永遠に手元へ留めるものではないのかもしれない。


 ミリカ自身も、どこかでそれを分かっている顔をしていた。


「ミリカは、どうしたい?」


 ルカは尋ねた。


 ミリカは名札を見た。


 白い貝札から、また短い船歌がこぼれる。今度はさっきよりも小さかった。まるで、役目を終えた声が、少しずつ静かになっていくように。


「ずっと持っていたい」


 ミリカは言った。


 正直な声だった。


「でも」


 涙がまた頬を伝う。


「お父さん、もう一回、海に行きたいのかな」


 ルカは、何も言わず待った。


「帰ってきたんじゃなくて、止められてたんだよね」


「うん」


「じゃあ、私がずっと持ってたら、また止めちゃう?」


 その問いに、母親が息を呑んだ。


 ルカは静かに首を横に振った。


「持っていることが、必ず悪いわけじゃない。忘れないために手元へ置く名もある」


「でも、お父さんのこれは、違う気がする」


 ミリカは名札を胸に当てた。


「これは、帰ってきたんじゃなくて、私がもう一回送るために戻ってきた気がする」


 ルカは、胸が熱くなった。


 この子は、自分で分かっている。


 父の名を返してもらうことと、父の名をもう一度送ることの違いを。


「じゃあ、今夜は一緒にいて」


 ルカは言った。


 ミリカが顔を上げる。


「一晩だけ?」


「うん。一晩だけ抱いて眠って、歌を聞いて、思い出して。明日の朝、自分の手で海へ流そう」


 ミリカは名札を見つめた。


「送るの?」


「もう一度、送り直すの」


 ルカは、ゆっくりと言った。


「今度は、止められないように。あなたが覚えている歌と一緒に」


 ミリカは泣きながら頷いた。


「うん」


 その夜、ミリカは父の名札を抱いて眠った。


 浜の者たちは、潮見小屋の隣に小さな寝床を用意した。ミリカの母親がそばに座り、ヨルナ婆が貝灯をひとつ灯した。ルカは少し離れた戸口のそばで、名札の歌を聞いていた。


 歌は何度も鳴ったわけではない。


 ミリカが眠りに落ちる少し前、ほんの一度だけ、短く響いた。


 青帆のラウの船歌。


 その声を聞いたミリカは、眠りながら泣いた。泣きながら、少し笑った。

 母親はその髪を撫で続けた。


 ルカは戸口から外へ出た。


 空はまだ暗い。けれど東の端が、ほんの少し白み始めていた。ナミル=レイは入り江で静かに揺れている。名札たちも、もう騒いでいない。


 エルンは浜の岩に座り、海を見ていた。


 眠っていない。


「休まないの?」


 ルカが声をかけると、彼は振り返った。


「眠ると、下に行きそう」


「そっか」


 ルカは隣に座った。


 しばらく、二人は黙って海を見た。


 夜の海はまだ黒い。

 でも、黒い輪のあった沖は、今は見えない。見えないだけで、あるのだろう。沈んだ錨も、古い場所の名も。


「ラウの名、軽くなった」


 エルンが言った。


「ミリカが抱いてるから?」


「うん。上を覚えたから」


「上を覚えた名は、送れる?」


「たぶん」


 ルカは少し笑った。


「やっぱり、たぶんなんだ」


「全部分かったら、沈まない」


 エルンはまた同じようなことを言った。


 ルカは今度は笑わなかった。

 その言葉の寂しさが、少し分かったからだ。


 夜が明けた。


 朝の潮は、静かだった。


 浜の者たちが集まる中、ミリカは白い名札を両手で持って波打ち際へ立った。昨日よりも顔は赤く、目も腫れていた。それでも、足取りはしっかりしていた。


 ルカは少し後ろに立つ。

 エルンも隣にいる。

 セナ爺とヨルナ婆、ミリカの母親、浜の名拾いたちが見守っていた。


 ミリカは海へ向かって、小さく息を吸った。


「青帆のラウ」


 父の潮名を呼ぶ。


 声は震えていた。

 でも、最後まで聞こえた。


「昨日、歌を返してくれてありがとう」


 波が寄せる。


「もう、止まらないで」


 白い貝札が、朝の光を受けて淡く光った。


「私、忘れたくないから、覚えてる。だから、行っていいよ」


 ミリカは泣いていた。


 でも、その手は名札を離した。


 貝札は、波に乗った。


 一度、足元へ戻りかける。

 ミリカは反射的に手を伸ばしそうになった。


 けれど、止めた。


 波がもう一度来る。


 白い名札は、今度こそ水面に浮いた。

 沈まなかった。

 黒い糸に引かれることもなかった。


 ゆっくり、ゆっくり、沖へ流れていく。


 その時、海の向こうから、短い船歌が聞こえた。


 完全な声ではない。

 父がその場にいるわけでもない。


 それでも、ミリカは顔をくしゃくしゃにして泣きながら、何度も頷いた。


「うん」


 彼女は、誰かに返事をするように言った。


「うん。いってらっしゃい」


 ルカは目を伏せた。


 涙がこぼれそうだった。


 けれど、今度は無理に堪えなかった。ひとしずくだけ、頬を伝った。

 すぐに袖で拭う。


 名拾いは泣いてもいい。

 ただ、名を抱え込みすぎなければいい。


 海は、白い貝札を連れていった。


 それは喪失ではなかった。

 返還でもなかった。


 もう一度、送り直すこと。


 止められていた名が、ようやく自分の潮へ戻ること。


 ミリカは泣きながら、最後まで海を見ていた。


 ルカも、その隣で見送った。


 エルンは少し離れた場所で、耳を澄ませていた。やがて彼は、小さく言った。


「もう、泣いてない」


 ルカは彼を見た。


「ラウの名?」


「うん」


「そっか」


 海面の向こうで、名札はもう見えなくなっていた。


 けれど、波は動いている。

 潮は流れている。

 名は、もう止まっていない。


 それだけで、今朝は十分だった。

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