表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第2話 沈んだ名は、海底の少年を呼んだ
PR
22/50

第七節 ― 水面から呼ぶ声

 黒い輪は、夜の海に沈んだまま動かなかった。


 渦ではない。

 穴でもない。

 ただ、そこだけが潮の呼吸を忘れている。


 ナミル=レイは、その輪の手前で船足を落としていた。船体は小さく軋み、帆は星明かりを受けて淡く震えている。海面には波がある。けれど黒い輪の周囲だけ、波の形が遅れていた。寄せる波も、引く波も、そこへ近づくと鈍くなる。


 水が、止められている。


 そして、その水の下で、名が止められている。


 ルカは船首に立ち、潮紙を両手に持っていた。


 さっき書いたのは、ミリカの言葉だった。

 ミリカは、まだ待っています。

 声を忘れたいのではありません。

 あなたの名が、水面へ戻る道を探しています。


 それは呼びかけの骨だった。


 でも、それだけでは足りない。


 沈んだ名が自分のことだと気づくためには、呼び名がいる。

 本名ではない。

 海で本名を呼んではいけない。


 本名を海へ投げれば、名は深く結ばれすぎる。帰るべき魂を縛り、遺された者の願いを錨にしてしまう。だから海へ送る時、人は潮名を使う。船の上で使われた名。仲間に呼ばれた名。海とともに過ごした時間だけに許された、もうひとつの輪郭。


 ミリカは、昼間、泣きながらそれを教えてくれた。


 父の本当の名ではなく、船で呼ばれていた潮名。


 《青帆のラウ》。


 嵐の夜、沈んだ船で呼ばれていた名。

 魚群を見つけるのが早く、いつも青い帆布の切れ端を腕に巻いていたから、仲間たちにそう呼ばれていたのだという。ミリカはその由来を話しながら、途中で声を詰まらせた。


 お父さんの声は思い出せない。

 でも、みんながその名前で笑って呼んでいたことは、まだ覚えている。


 だからルカは、その潮名を書く。


 筆先を潮紙に置いた。


 船が揺れる。

 黒い輪が近い。

 潮鏡の中では、沈んだ名札の群れがゆっくり回っている。


 それでも、ルカは一字ずつ丁寧に書いた。


 急いではいけない。


 名を書くということは、ただ文字を置くことではない。呼ぶための水面を作ることだ。雑に書けば、呼び声も濁る。怖れながら書けば、怖れも名に移る。だからルカは、指先の震えを抑え、潮紙に向き合った。


 青帆のラウ。


 その文字が潮紙に乗った瞬間、船首の名灯が強く灯った。


 淡い光が、今度は船底へ落ちなかった。


 ほんの少しだけ前へ伸びた。

 夜の海面に、細い光の道が描かれる。


 ナミル=レイの名札が、一枚鳴った。


 ちりん。


 すぐに、別の一枚が応える。


 ちりん。

 からん。

 ちり、ちり。


 両舷に吊るされた名札たちが、順番に目を覚ましていく。眠っていた者たちが、ひとりの名のために場所を空けるように、小さく鳴り合う。


 ルカは潮紙を胸の前に掲げた。


 祈るのではない。


 祈りは上へ向かう。

 天へ、神へ、遠いものへ。


 でも、いま呼ばなければならない名は上にいない。


 下にいる。


 海底の黒い錨に縫いつけられ、流れられず、戻れず、声を濁らせている。


 だからルカは、声を落とした。


 水面へ投げるのではなく、水面を通して、底へ沈めるように。


「青帆のラウ」


 その名を呼んだ瞬間、黒い輪の縁がかすかに震えた。


 エルンが船尾側で息を吸う。


 彼はミリカの父の白い名札を耳に当てていた。もう片方の手は船縁から海へ沈めている。肩まで力が入っている。水の重さが彼を下へ引いているのが、離れていても分かった。


 けれど、エルンは手を離さない。


 その瞳には、黒い水面が映っていた。

 沈んだ鐘が映っていた。


 そして、その奥にある名を見ているわけではなく、名から呼ばれている。


 ルカはもう一度、潮紙を見る。


 青帆のラウ。


 ミリカの父の本名ではない。

 でも、船の上で彼を彼として呼んだ名。


 人は、本名だけで生きているわけではない。

 家で呼ばれる名。船で呼ばれる名。子どもが甘えて呼ぶ声。仲間が笑って呼ぶ声。怒られた時の名。見送られた時の名。


 名は所有物ではない。


 誰かに呼ばれるたび、輪郭を持つものだ。


 だから、ルカは「帰ってきて」とは言わなかった。


 死者を取り戻すことはできない。

 父を娘のもとへ戻すことはできない。

 それを言えば、ミリカの祈りを嘘にしてしまう。


 「戻ってきなさい」とも言わなかった。


 名は命令で浮かぶものではない。

 命じれば、それはまた別の錨になる。


 ルカは、潮紙を両手で持ったまま、黒い輪へ向かって声を落とした。


「あなたの声を、待っている子がいます」


 潮鏡の水面が震えた。


 黒い円の縁に、泡がひとつ浮かぶ。


 ルカは続けた。


「ミリカ=トウルが、あなたを忘れたいのではないと、待っています」


 泡が弾ける。


 かすかな音がした。


 歌の切れ端だった。


 短い船歌。

 嵐の前に、父が口ずさんでいたという歌。


 言葉にはならない。

 旋律も途切れている。


 けれど、確かに声の輪郭があった。


 ルカの喉が熱くなる。


 掴んではいけない。

 読もうとしてはいけない。

 今は、呼ぶだけ。


「あなたの名は、まだ水面を探しています」


 ルカの声に応じて、名灯がまた明るくなる。


 船体の名札が一斉に鳴った。


 今度は怯えではなかった。


 それは合図に近かった。

 沈んだ名へ、こちらが水面だと知らせるための、鈴の群れのような音。


 ちりん。

 からん。

 ちり、ちり、ちりん。


 ナミル=レイの船体に、薄い潮紋が浮かび上がる。真珠白の木肌に、青緑の線が走り、船首から船尾へ、船底から両舷へと広がっていく。


 エルンが、低く言った。


「聞こえた」


 ルカは息を止めた。


「ラウ?」


「うん。でも、まだ下にいる」


 エルンは名札を耳に当てたまま、海面の下へ向かって囁いた。


「上だ」


 その声は、ルカに向けたものではなかった。


 海底に向けている。

 沈んだ名へ向けている。


「まだ、上に行っていい」


 黒い輪が、わずかに揺れた。


 自然の渦ではない。

 人工的に止められた静止が、外からの呼び声に抵抗している。


 ルカにはそれが見えた。


 黒い輪の縁から伸びた細い糸が、白い名札を縫いつけている。糸は名札に絡み、貝殻の端を締めつけ、潮紙の繊維に食い込んでいる。それらが、呼び声に反応して軋んでいた。


 エルンの指が、水の中で強く震える。


「君の名は、沈められるために流されたんじゃない」


 エルンの声が、少し深くなった。


 まるで彼自身も、水の底へ半分沈みながら話しているようだった。


「流されたのは、海へ行くため。止められるためじゃない」


 黒い輪の下で、何かが軋んだ。


 ナミル=レイの船体が大きく揺れる。


 ルカは船首の手すりを掴んだ。潮紙が風もないのに揺れる。名灯の光が一瞬細くなり、また広がる。


 潮鏡の中で、白い点がひとつ、黒い円の縁から離れかけていた。


 ミリカの父の名。


 だが、錨の糸がそれを引き戻そうとしている。


「エルン!」


「呼んで」


 彼は振り返らずに言った。


「もっと、上を作って」


 上を作る。


 ルカはその言葉を理解する前に、胸元に手を当てた。


 ミリカの顔を思い浮かべる。

 白い名札を手放す時の震え。

 「返してね」と言った声。

 「忘れたいわけじゃない」と託した言葉。


 待っている子がいる。


 それこそが、水面だ。


 ルカは潮紙を名灯の前にかざした。


 名灯の光が文字を透かし、青帆のラウという潮名が淡く浮かび上がる。ルカはその文字を見ながら、もう一度声を落とした。


「あなたの娘は、あなたを所有したいのではありません」


 言いながら、ルカ自身もその意味に触れた。


「帰ってこいと、死をほどこうとしているのではありません」


 名灯の光が、ゆっくり水面へ伸びる。


「ただ、あなたがいたことを、忘れたくないのです」


 黒い輪の縁が震える。


「あなたに呼ばれた自分を、失いたくないのです」


 潮鏡の中で、白い点が一つ、強く光った。


 ルカの耳に、短い声が届く。


 ミリカ。


 それは、はっきりした声ではなかった。

 波に削られ、嵐に割れ、黒い錨に濁らされた声だった。


 けれど、父が娘を呼んだ声だった。


 ルカは涙が出そうになった。


 読んではいけない。

 掴んではいけない。


 でも、聞こえた。


 エルンが顔を歪めた。


「来る」


 黒い輪の縁から、白い名札がひとつ浮かび上がった。


 水面ではない。

 まだ水中だ。


 けれど、さっきまで底へ縫いつけられていたものが、確かに上へ向かっている。


 貝殻札。


 ミリカの父の名札の本体。


 ルカの手元にある白い殻ではなく、潮名と声の残った本体。


 それが、黒い糸を引きずりながら浮かび上がる。


 エルンが水の中の手を握り込む。


「上だ」


 彼はもう一度言った。


「まだ、上に行っていい」


 名札を縫っていた黒い糸が一本、切れた。


 音はなかった。

 けれど、ナミル=レイの名札が一斉に鳴った。


 ちりん。


 それは、解けた音だった。


 ミリカの父の名札が、黒い輪の縁から離れた。


 その瞬間、ほかの白い点も揺れ始めた。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 止められていた名札たちが、まるで最初の一枚に道を教えられたように、少しずつ水面へ向かって動き始める。


「ほかの名も……」


 ルカは潮鏡を見つめた。


 ミリカの父だけではない。

 沈んだ船の名も、船員たちの名も、家族の祈りに応えようとしている。


 けれど、すべてが同時に上がれるわけではない。

 黒い錨はまだそこにある。

 糸はまだ多くの名札を縫いつけている。


 エルンの顔色がさらに悪くなった。


 ルカは気づいた。


 名札が浮上するたび、底からそれを返しているのはエルンだ。

 呼ぶのはルカ。

 でも、沈んだ場所から名を押し上げているのは、エルンの聞く力だ。


 彼の身体が、少しずつ底へ引かれている。


「エルン、無理しないで」


「まだ」


「でも」


「ラウの名が、道になってる」


 エルンは水面を見たまま言った。


「今なら、ほかの名も少し上がれる」


 ルカは唇を噛んだ。


 ここで止めれば、ミリカの父の名だけは救えるかもしれない。

 でも、ほかの名はまた沈む。


 ただし、エルンが沈みすぎれば、今度は彼が戻れなくなる。


 ルカは選ばなければならなかった。


 全部を救おうとして、誰かを失うのは違う。

 でも、目の前で浮き上がろうとしている名を、見捨てることもできない。


 その迷いを、ナミル=レイが感じ取ったように、船体が低く鳴った。


 船首の名灯が、ふたつに揺れた。


 ひとつの光はミリカの父の名札へ。

 もうひとつは、黒い輪の周囲で揺れる名札たちへ。


 ルカは息を吸った。


「全部を戻すとは言わない」


 ルカは海へ向かって言った。


「でも、あなたたちが沈められるために流されたのではないことは、知っていて」


 潮紙をもう一枚取り出す。


 そこに、名前は書かない。

 個々の名を知らないからだ。


 代わりに、こう書いた。


 待つ者がいます。

 思い出そうとする者がいます。

 送り直したい者がいます。


 ルカはその潮紙を名灯にかざした。


「あなたたちの声を、待っている人がいます」


 ナミル=レイの名札が、一斉に鳴った。


 船体が震える。


 黒い輪の縁で、さらに二枚の名札が浮かんだ。


 一枚は、古い木札。

 一枚は、潮紙を重ねた小さな札。


 それぞれに、淡い声の残響が宿っている。


 泣き声ではない。

 叫びでもない。


 ただ、誰かに呼ばれた時の短い応え。


 ここにいる。


 そう言うような、かすかな響きだった。


 エルンが、苦しげに息を吐いた。


「もう、だめ」


 ルカはすぐに頷いた。


「戻すよ」


「うん」


 エルンが海から手を引き上げる。


 その瞬間、黒い輪が大きく震えた。


 まるで、逃げようとする名札をもう一度捕まえようとするように、黒い糸が水中で伸びる。


 ルカは名灯の前に立ち、潮紙を強く握った。


「ナミル!」


 船の名を呼ぶ。


 ナミル=レイの帆が、風もないのに大きく膨らんだ。


 名灯の光が前方へ伸びる。

 星潮羅針盤の針が、底からほんの少しだけ外れる。


 船が水面を取り戻す。


 浮かび上がった三枚の名札が、ナミル=レイの側へ流れてくる。


 一枚目は、白い貝札。

 ミリカの父、青帆のラウの名札。


 二枚目は、古い木札。

 三枚目は、小さな潮紙札。


 ルカは手を伸ばしかけて、止めた。


 今度は直接読まない。


 かわりに、潮紙箱を開く。

 名を一時的に休ませるための、内側に貝粉を塗った箱。


「ここへ」


 ルカは、箱を水面へ近づけた。


 名札たちは、まるで疲れきった鳥が止まり木を見つけたように、ひとつずつ箱の中へ滑り込んだ。


 その瞬間、箱の内側で淡い光が灯る。


 青。

 灰。

 白。


 三つの名の残響が、かすかに震えている。


 完全に戻ったわけではない。

 まだ傷ついている。

 まだ濁っている。


 けれど、止まってはいない。


 流れ始めた。


 エルンは甲板に座り込んだ。


 ルカは慌てて駆け寄る。


「エルン!」


「沈んでない」


 彼は息を切らしながら言った。


「まだ、上にいる」


「うん。いる。ちゃんといる」


 ルカは彼の肩を支えた。


 エルンの身体は冷たかった。けれど、その冷たさの奥に、かすかな震えがある。命の震えだ。地上の空気にまだ慣れない少年が、それでもここに留まろうとしている震え。


 ルカは、彼の手を握った。


「ありがとう」


 エルンは、少しだけ目を開けた。


「呼べたね」


「うん」


「水面、あった」


 ルカは潮紙箱を見た。


 ミリカの父の名札が、箱の中で淡く光っている。


 そこから、ごく小さな声が漏れた。


 歌だった。


 まだ途切れている。

 まだ遠い。

 でも、確かに人の声だった。


 ルカは胸が震えた。


 ミリカは、これを聞いたら泣くだろう。

 けれど、それは失ったものを取り戻した涙ではない。


 見送るための涙だ。


 黒い輪は、まだ海にある。


 名を底に縫いつける錨も、消えてはいない。

 沈んだ名札の群れも、すべてが救われたわけではない。


 それでも、水面は一度、底へ届いた。


 沈められていた名が、三つ、浮かび上がった。


 ナミル=レイの名札が、夜の海で静かに鳴る。


 ちりん。

 ちりん。

 ちりん。


 それは勝利の音ではなかった。


 まだ始まったばかりの航海に、海が小さく返した応えだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ