第九節 ― 読めない少年
ミリカが父の名札を海へ流したあと、浜には長い余韻が残った。
誰もすぐには動かなかった。
白い貝札は、もう見えない。朝の海は淡い銀色に光り、寄せては返す波の上に、小さな泡だけが残っている。けれど、浜の者たちはみな、その白い名札がまだ水面のどこかに浮いているように、沖を見つめ続けていた。
ミリカは母親の胸に顔を埋め、泣いていた。
泣き声は、夜明け前のものとは違っていた。父の声を失う恐怖に耐えきれずこぼれた涙ではない。もう一度送ることを選んだ子どもが、その選択の重さに震えている声だった。
ルカは、それを少し離れた場所で聞いていた。
近づきすぎてはいけない気がした。
ミリカがいま抱いている悲しみは、ミリカのものだ。名拾いが預かるべきなのは、流れを失った名であって、別れそのものではない。そこまで抱えてしまえば、きっと自分はもう、自分の名を保てなくなる。
潮風が吹いた。
さっきまで白い貝札を運んでいた海が、何事もなかったように波を返す。けれど、ルカには分かる。海は何もなかったことにはしない。ただ、留めないだけだ。
名も、声も、悲しみも。
留めず、流す。
それが海のやり方なのだろう。
「ルカ」
セナ爺が、背後から声をかけた。
ルカは振り返る。
古老はいつもの杖をつき、浜の祠の方を一度見てから、低く言った。
「黒い箱は、まだ動いていない」
「そうですか」
「祠の潮は落ち着いている。だが、消えたわけじゃない。あの箱も、沖の黒い錨もな」
ルカは頷いた。
分かっている。
ミリカの父の潮名は送り直せた。ほかに二枚の名札も戻せた。けれど、黒い輪は残っている。名を底に縫いつける錨も、呼んではいけない古い場所の名も、まだ海のどこかにある。
今回の事件は解けた。
でも、海の底で始まっている何かは、まだ終わっていない。
「今日一日は休め」
セナ爺は言った。
「お前も、あの坊主も、海に近づきすぎた」
「はい」
ルカが素直に返事をすると、セナ爺は少しだけ意外そうな顔をした。
「反論しないのか」
「したいです。でも、たぶん、いま船を出したらナミル=レイに怒られます」
その言葉に、セナ爺は鼻を鳴らした。
「船に怒られるうちは、まだ大丈夫だ」
そう言って、彼はミリカたちの方へ歩いていった。浜の者たちは少しずつ動き始めている。戻った二枚の名札について話す者、黒い箱の見張りを交代する者、夜通し焚いていた火を片づける者。
事件が終わった浜は、急に生活の匂いを取り戻していく。
濡れた網。
朝の焚き火。
貝湯の匂い。
泣き疲れた子どもへ渡される温かな布。
その中で、エルンだけが少し浮いていた。
彼は、波打ち際から離れた岩の上に座っていた。膝を抱え、海を見ている。濡れているように見える髪は、朝日に当たっても乾かない。足元の砂は、彼の近くだけ少し青みを帯びている。
浜の者たちは、彼を遠巻きに見ていた。
恐れている者もいる。
不思議がっている者もいる。
感謝している者もいる。
だが誰も、どう声をかければいいのか分からない。
海底から来た少年。
黒い箱から現れ、沈んだ名の声を聞いた少年。
エルン=カイオという、まだ全部ではない名を持つ少年。
ルカは、彼のもとへ歩いた。
足音で気づいたのか、エルンは少し遅れて顔を上げる。
「ルカ」
呼ばれた瞬間、ルカは小さく息を止めた。
彼が自分の名を呼ぶと、少しだけ不思議な感覚がある。水面に石を落とされたように、胸の奥で波紋が広がる。嫌な感じではない。けれど、普通でもない。
エルンの声は、名の表面だけでなく、その下にある影まで触れてくるようだった。
「隣、いい?」
ルカが訊くと、エルンは岩の上を少し空けた。
ルカは腰を下ろした。
しばらく、二人は海を見ていた。
ミリカの父の名札は、もう見えない。けれど、今朝の海は昨日とは違った。少なくとも、ルカにはそう見えた。波が戻っている。潮が動いている。名を抱えた水が、ちゃんと行き先を持って流れている。
「もう、泣いてない?」
ルカが尋ねると、エルンは頷いた。
「ラウの名は、泣いてない」
「そっか」
「でも、遠くで歌ってる」
「聞こえるの?」
「少しだけ」
エルンは耳を澄ませるように、目を細めた。
「下じゃない。水の中を、流れてる。だから、もう追わなくていい」
ルカは、胸の奥が少し緩むのを感じた。
追わなくていい。
それは、名拾いにとって大切な言葉だった。
拾うべき名と、見送るべき名を間違えてはいけない。
「よかった」
ルカは小さく言った。
エルンは、ルカを見た。
「君は、泣かないの?」
不意の問いだった。
ルカは瞬きをした。
「泣いたよ。少しだけ」
「少しだけ?」
「うん。名拾いが泣きすぎると、名を抱え込みすぎるから」
「泣くと、沈む?」
「たぶん。少なくとも、私は沈みやすくなる」
エルンはその言葉を、ゆっくり飲み込むように黙った。
「じゃあ、僕は泣いてる名に近すぎる」
「そうかもしれない」
「だから、僕は上にいるのが下手なのかな」
ルカはすぐには答えられなかった。
エルンの声には、自分を責める響きはなかった。ただ、事実を確かめるような静けさがあった。その静けさが、かえってルカの胸に引っかかった。
「上にいるのが下手でも」
ルカは言葉を選びながら言った。
「上にいていいんだと思う」
エルンは、少し不思議そうにルカを見た。
「いい?」
「うん。たぶん」
「ルカも、たぶんって言う」
「あなたのがうつったのかも」
エルンは少し考えたあと、真面目な顔で言った。
「うつるもの?」
「言葉は、うつることもあるよ」
「そう」
彼は納得したのかどうか分からない顔で、もう一度海へ視線を戻した。
その横顔を見ながら、ルカはまだ聞けていないことを思い出した。
黒い箱の中で浮かんだ音。
エル。
カイオ。
そして、そのあいだにあると言った、まだ浮かんでいない何か。
ルカは、少し迷った。
名前は、軽く尋ねていいものではない。
特に、この少年にとっては。
でも、呼ぶためには必要だった。
彼をただ「海底から来た少年」と呼び続けるのは違う。
「ねえ」
「うん」
「改めて聞いてもいい?」
エルンはルカを見た。
「何を?」
「あなたの名前」
エルンは黙った。
波が寄せる。
砂を撫で、泡を残し、また引いていく。
エルンの瞳の奥で、海底の星のような光が揺れた。彼は胸元の割れた貝殻に触れた。黒い紐で結ばれたその欠片は、朝日を受けても白く光らず、内側だけが青く沈んでいる。
やがて、彼は言った。
「エルン」
ルカは頷いた。
「うん」
「エルン=カイオ……だと思う」
「だと思う?」
ルカが聞き返すと、エルンは自分の胸元を見た。
「名前はある。でも、全部は浮かんでない」
「浮かんでない……」
「うん。水面に出てるところだけ、呼べる」
ルカは、彼の言葉を噛みしめた。
全部ではない名。
それでも、呼べる名。
「じゃあ、エルン=カイオは仮の名なの?」
「仮かどうかも、分からない」
「本当の名かもしれない?」
「一部は、本当」
「一部は?」
「うん」
エルンは、少し困ったように眉を寄せた。
「名の上の方」
その表現が、いかにもエルンらしくて、ルカは少しだけ苦笑しそうになった。けれど、笑えなかった。彼にとってそれは本当にそうなのだろう。名にも水面と底があり、浮かんでいる部分と沈んでいる部分がある。
「君は、自分の名を読めないの?」
ルカは尋ねた。
エルンは、ルカを見た。
その視線は、波よりも静かだった。
「君もでしょ」
ルカは息を呑んだ。
潮騒が、遠くなる。
一瞬、浜の音が消えたように感じた。ミリカの泣き声も、網を片づける音も、セナ爺の杖の音も、どこか遠い水の向こうへ沈んだ。
君もでしょ。
その言葉は、ルカの胸の奥にまっすぐ落ちた。
エルンは、ルカの本当の名を知っているわけではない。
そんなはずがない。
ルカ自身でさえ、知らないのだから。
いや、知らないという言い方も正しくない。
ルカ=ネリス。
それは自分の名だ。そう呼ばれ、そう名乗り、そう記されてきた。けれど、名拾いとして数多くの名を読んできたルカは、自分の名に触れようとした時だけ、いつも水面を見失う。
読めない。
自分の名の奥に、何かがある。
でも、そこへ手を伸ばすと、潮が濁る。
他人の名なら見える残響が、自分の名だけは見えない。
聞こうとすると、波音だけが返ってくる。
それは、ずっと胸の奥にしまってきたことだった。
誰にも言っていない。
ナミル=レイにさえ、はっきりとは。
「……どうして、そんなこと言うの」
ルカの声は、思ったより硬かった。
エルンは、少しだけ目を伏せた。
「見えたから」
「何が」
「君の底」
ルカは立ち上がりかけた。
「見ないで」
声が鋭くなった。
自分でも驚くほどだった。
エルンは、すぐに頷いた。
「見ない」
あまりに素直だったので、ルカはかえって言葉を失った。
「見えたって言ったじゃない」
「見ようとしたんじゃない」
「同じことです」
「違う」
エルンは静かに言った。
「下から、少し呼ばれた。でも、触ってない」
ルカは唇を結んだ。
怒っている。
たぶん、怒っている。
けれど、それはエルンだけに向けた怒りではなかった。自分の隠していた場所を、出会ったばかりの少年に見抜かれたこと。しかも彼が、それを責めるでもなく、ただ潮の深さのように言ったこと。
そのことが、怖かった。
「私は、名拾いです」
ルカは言った。
自分を立て直すように。
エルンは頷く。
「うん」
「名を読むのが、私の仕事です」
「うん」
「戻ってきた名を拾って、迷った名を読んで、必要なら海へ返す。それが私です」
「うん」
エルンは否定しない。
だからこそ、ルカの声はさらに揺れた。
「だったら、自分の名くらい――」
言いかけて、止まる。
言葉の先を、自分で怖がった。
自分の名くらい、読めるはず。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
言えば、それが嘘になるから。
エルンは、ルカを見上げた。
「でも、自分の底は読めない」
静かな声だった。
残酷なほど、静かだった。
ルカは何も言えなかった。
波が寄せる。
足元の砂を濡らす。
引いていく。
その音が、今だけやけに大きい。
「知ったようなことを言わないで」
ルカはようやく言った。
エルンは少し考えた。
「知ってない」
「なら」
「分からないから、そう言った」
ルカは眉を寄せた。
「どういう意味?」
「僕も、自分の名が全部浮かんでない。読めない。君も、自分の底が読めない。だから、似てると思った」
「似てない」
反射的に言った。
エルンは頷いた。
「似てないところもある」
「そういうことじゃなくて」
「うん」
ルカは言葉に詰まった。
エルンは責めていない。踏み込もうともしていない。ただ、自分が感じたことを言っただけだ。そのことは分かる。分かるのに、胸の奥がざわついて止まらない。
ルカは、少し離れて座り直した。
沈黙が落ちる。
エルンは追いかけてこなかった。
何かを言い訳することもなかった。
ただ、海を見ている。
その横顔が、少し寂しそうに見えた。
ルカは、さっきの自分の声を思い出した。鋭かった。怖がっている子どもみたいだった。
実際、怖かったのだと思う。
名拾いとして、名を読むことを自分の輪郭にしてきた。
でも、自分の名の底だけは読めない。
その事実を、誰かに見られるのが怖かった。
「……ごめん」
ルカは小さく言った。
エルンは振り向く。
「何が?」
「きつく言った」
「きつい、は分かる」
「今のは、きつかった?」
エルンは少し考えた。
「少し。上の方が痛い感じ」
ルカは思わず眉を下げた。
「ごめん」
「でも、沈まなかったから大丈夫」
「そういう基準なんだ」
「うん」
短いやり取りのあと、少しだけ空気が緩んだ。
ルカは膝を抱え、海を見た。
「私の名のことは、まだ触れないで」
「うん」
「私も、あなたの沈んでいる名を無理に読まない」
「うん」
「でも、呼ぶ名前は必要だから」
ルカは、エルンを見た。
「エルン=カイオ。今は、そう呼んでいい?」
エルンは少しだけ目を見開いた。
まるで、その名を他人からあらためて渡されたような顔だった。
「いい」
「全部じゃなくても?」
「全部じゃなくても、呼べるなら」
ルカは頷いた。
「じゃあ、今はそれで」
エルンは、自分の胸元の貝殻に触れた。
「ルカ=ネリス」
不意に呼び返され、ルカは肩を揺らした。
エルンは続けた。
「今は、そう呼ぶ」
「……うん」
「全部じゃなくても?」
ルカは息を止めた。
胸の奥に、またあの波紋が広がる。
でも、今度は逃げなかった。
「今は、それで」
そう答えると、エルンは小さく頷いた。
浜の向こうで、ミリカの泣き声が少しずつ静かになっていた。朝の光が強くなり、ナミル=レイの船体が真珠色に輝き始める。吊るされた名札たちは、風に合わせて穏やかに鳴っていた。
黒い箱はまだ祠にある。
黒い錨も、古い場所の名も、海の底に残っている。
エルンの名も、ルカの名の底も、まだ読めない。
けれど、呼べる名はある。
全部ではなくても。
仮でも。
水面に浮かんでいる部分だけでも。
呼べるなら、そこから始められる。
ルカは、朝の海を見ながら、そのことを胸の奥でそっと確かめた。




