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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第2話 沈んだ名は、海底の少年を呼んだ
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第二節 ― 沈名箱

「下にいる名が、泣いてる」


 少年の言葉は、潮見小屋の中に落ちたまま、しばらく誰の手にも拾われなかった。


 焚き火が、小さく爆ぜる。

 床に転がった貝湯の椀から、白い湯気が細く上がっていた。温かな匂いがあるのに、小屋の空気は冷えている。まるで、さっき黒い箱から引き上げられた暗い水が、まだ見えないかたちでこの場に残っているようだった。


 ルカは、少年を見つめた。


 少年は半身を起こしたまま、外を見ている。浜を見るのではない。海を見るのでもない。もっと遠く、もっと低い場所を見ている。視線は小屋の壁を抜け、砂浜を抜け、波打ち際を抜けて、そのまま海の底へ沈んでいくようだった。


「……あなたには、聞こえるの?」


 ルカが訊くと、少年はゆっくりと瞬きをした。


 その瞬きは、眠りから覚めた者のものではなかった。

 長いあいだ水の底で目を開けていた者が、ようやく空気の中で瞼の使い方を思い出したような、ぎこちなさがあった。


「聞こえる」


 少年は答えた。


「でも、耳じゃない」


「じゃあ、何で」


 少年は自分の胸元に手を当てた。


 そこには、海藻のような黒紐が絡んでいる。さっき浜へ引き上げたとき、その先には割れた貝殻の欠片が結ばれていた。いまも欠片は胸の上に乗っている。白く、薄く、ひびが入っていて、内側だけがかすかに青い。


「ここに、沈んでくる」


 ルカは息を呑んだ。


 沈んでくる。


 聞こえてくる、ではなく。

 浮かんでくる、でもなく。


 この少年は、声を受け取ることを“沈む”と言った。


 セナ爺が、少年へ近づこうとした。だが、その一歩は重かった。漂着者を保護するのは浜の役目だ。けれど、この少年が本当に漂着者なのかどうか、誰にも分からない。


「坊主」


 セナ爺は、できるだけ穏やかに呼びかけた。


「お前さん、自分がどこから来たか分かるか」


 少年は少し考えた。


 考えるというより、どこか深い場所から答えを掬い上げようとしているようだった。


「下」


「海の底か」


「……海の底、より、下」


 小屋にいた者たちが顔を見合わせる。


 海の底より下。

 そんな場所は、海の民にとって比喩であり、禁忌でもある。


 海底に沈んだ船。

 沈んだ都市。

 沈んだ祈り。

 還るはずの名が、たどりつけなかった暗い場所。


 そういうものを、人は時に「底より下」と呼ぶ。


 ルカは一歩近づいた。


「あなたの名前は?」


 少年の視線が、ようやくルカへ戻った。


 朝の光が、小屋の隙間から差し込んでいる。細い光の線が、少年の瞳に触れた。その瞳の奥で、星のようなものが揺れた。けれど、空の星ではない。海に沈んだ星。水越しに、ぼやけ、歪み、それでも消えずに残っている光。


「名前」


 少年は、ルカの言葉をなぞった。


「ある、と思う」


「思う?」


「うん」


 少年は、自分の手を見た。


 細い指先が、わずかに震えている。寒さの震えではない。自分自身の輪郭を確かめるために、皮膚の下から誰かが叩いているような震えだった。


「でも、いまは……水の底に置いてきた」


 その言葉は、序の浜辺で聞いたものと同じだった。

 けれど今度は、ルカの耳に違って届いた。


 ただ記憶を失っているのではない。

 名前を忘れたのでもない。


 この少年の名は、本当にどこかに置かれている。


 それも、水面からは見えないほど深い場所に。


「名前を置いてきたって、どういうこと」


 ルカは訊いた。


 少年は首を傾けた。


 答えを知らないのではない。言葉にするための道筋が、まだ空気の中に見つからないようだった。


「名前は……浮くものじゃない」


「浮くものじゃない?」


「沈んでる。みんな、少しずつ。呼ばれると、上に来る。忘れられると、下に行く」


 ヨルナ婆が、戸口で眉を動かした。


 その言い方は、浜の還名信仰に似ていた。けれど、まったく同じではない。ナラ=オルテの民にとって、名は潮に預けられ、流れ、巡り、時に戻るものだ。だがこの少年は、名を上下で見ている。


 水面と底。

 浮上と沈降。

 呼ばれるものと、届かないもの。


 ルカの胸の奥に、第一節で読めなかった白い名札の感覚が戻ってきた。


 深すぎて、読めない名。

 あの名も、同じように沈んでいるのだろうか。


「じゃあ、ミリカのお父さんの名も」


「ミリカ」


 少年は、その名に反応した。


 外で名札を抱いている少女の名前。さっき、ルカが呼んだばかりの名前だ。


 少年の顔に、かすかな痛みが走った。


「その子が、呼んでる」


「ミリカが?」


「うん。でも、下に届いてない」


 ルカは思わず戸口を振り返った。


 小屋の外では、ミリカがヨルナ婆に支えられるように立っている。白い名札を胸に抱いたまま、こちらを見ていた。怖がっているのに、逃げない。父の声へ続くかもしれないものから、目を逸らせないでいる。


 少年は、ミリカを見ない。

 見なくても、分かるのだ。


「下にいる名が、泣いてるって言ったよね」


 ルカは少年へ向き直った。


「それは、ミリカのお父さんの名?」


「ひとつは」


 少年は言った。


 小屋の中の空気が、さらに固まる。


「ひとつは?」


「ほかにもいる」


 彼の声は淡々としていた。けれど、その淡さがかえって怖かった。感情がないのではない。感情が、深すぎてまだ水面へ届いていない。


「名札の殻が、たくさん浮いてる。中身は下にある。絡まってる」


「絡まっている?」


「黒いものに」


 少年は、ゆっくりと戸口の外を指差した。


 その先にあるのは、浜の祠だった。


 黒い箱が置かれている場所。


 ルカが一歩、そちらへ向かおうとした瞬間、セナ爺が杖を鳴らした。


「行くな」


 その声は、今までより厳しかった。


 ルカは足を止めた。


「でも」


「でもではない」


 セナ爺は戸口をふさぐように立った。


 小屋の外から、潮風が流れ込む。潮の匂いとともに、浜の人々のざわめきが聞こえた。黒い箱のことを、誰も忘れていない。むしろ、少年が目覚めたことで、その存在はさらに重くなった。


「三度潮に洗われて残ったものは、拾っていい。だが、三度潮に洗われても動かぬものは、拾うな」


 セナ爺は、ひとつひとつ刻むように言った。


「それは、海が返したものじゃない。海が、誰かを呼ぶために置いたものだ」


 その言葉は、夜明けの浜で聞いた時よりも重かった。


 あの時、ルカは箱に触れた。

 そして、少年を引き上げた。


 もうすでに、警告を破っている。


 それでもセナ爺は、もう一度止めた。

 今度は、ルカが箱に呼ばれていると分かっているからだ。


「私は、あの箱からこの子を引き上げました」


「だからだ」


 セナ爺の目が鋭くなる。


「一度つながったものは、二度目に深く引く。名も、祈りも、海の底もそうだ。お前があれにもう一度触れたら、今度は何を引き上げるか分からん。あるいは、お前の方が持っていかれる」


 ルカは何も言えなかった。


 持っていかれる。


 その言葉を聞いた瞬間、第一節で白い名札に触れた時の感覚が蘇った。指先から入ってきた冷たさ。胸の奥に詰まった黒い水。自分の呼吸が、ほんの一瞬、自分のものではなくなったような感覚。


 怖い。


 それは確かに怖かった。


 ルカは名拾いだ。

 けれど、万能ではない。

 深すぎる名は読めない。触れれば、自分自身の名の輪郭まで薄くなることがある。


 まして、あの箱は名札ではない。

 遺品でもない。

 漂着物ですらない。


 海の底へ続く、穴だ。


 そう思った時、遠くから小さな音がした。


 ちりん。


 風鈴のような、貝殻のような、細い音。


 ルカは顔を上げた。


 もう一度。


 ちりん。


 入り江の方からだった。


 ナミル=レイ。


 浜の東の浅い入り江に繋がれた、ルカの小型名札船。その両舷には、いくつもの名札が吊るされている。いつもは潮風に合わせて、かすかに鳴る。けれど今は、風がない。


 それなのに、一枚だけ鳴っている。


 ちりん。


 警告ではなかった。


 警告なら、もっと鋭い。名灯が強く瞬き、名札が一斉にざわめき、船霊は帆を震わせる。


 今の音は違う。


 ためらっている。


 行くな、と言い切れない。

 行け、とも言えない。

 ただ、ルカの袖を小さく引くような音。


 ナミル=レイの船霊も、迷っている。


 その迷いが、ルカの胸に重なった。


「……セナ爺」


 ルカは、ゆっくりと言った。


「私も怖いです」


 セナ爺の表情が、ほんの少し変わった。


「怖いなら、なおさら行くな」


「でも、怖いから行かないで済むなら、名拾いはいりません」


 自分で言って、ルカは少し驚いた。


 強い言葉だった。

 自分の中から、こんな言葉が出てくるとは思わなかった。


 けれど、言ってしまえば、それはもう自分の言葉だった。


「ミリカのお父さんの名は、まだ消えていません。七枚の名札も、空になったわけじゃない。深いところで止まっている。私には読めない。でも、読めないから終わりにはしたくない」


「お前が沈んだらどうする」


「沈まないようにします」


「どうやって」


 ルカは答えに詰まった。


 その時、少年が寝台から足を下ろした。


 誰も予想していなかった動きだった。潮見役が慌てて支えようとする。だが少年は、その手を避けなかった。支えられながら立ち上がる。脚は細く、まだ力が入っていないように見える。それでも、彼は倒れなかった。


「僕がいる」


 少年は言った。


 ルカも、セナ爺も、ヨルナ婆も彼を見た。


「君は、まだ立っているのもやっとだろう」


 セナ爺が言うと、少年は少し首を傾げた。


「立つのは、苦手」


 返答になっているようで、なっていない。


「でも、沈むのは分かる」


 その一言に、小屋の空気が変わった。


 ルカは少年の顔を見た。


 彼は自分が何者なのか分からない。名前も水の底に置いてきた。けれど、沈むことだけは分かる。沈んだ名の声だけは、聞こえる。


 ルカには届かない深さへ、この少年は届いている。


「あなたは、あの箱が何か分かるの?」


 ルカが訊くと、少年は戸口の向こうを見た。


「箱じゃない」


「じゃあ、何?」


「入口」


 少年は、胸元の割れた貝殻を指で押さえた。


「沈んだ名を、少しだけ水面に近づける入口。間違って開くと、戻れない」


「あなたは、そこから来たの?」


 少年は答えなかった。


 代わりに、自分の手を見た。


 その指先に、かすかな青白い光が宿っている。朝の光ではない。海底で発光する小さな貝や魚のような、静かな光。


「呼ばれた」


「誰に?」


「分からない」


 少年は、ルカを見た。


「でも、君が手を取った」


 ルカの胸が、きゅっと痛んだ。


 自分が呼んだのだろうか。

 それとも、箱が自分を使って彼を呼んだのだろうか。


 その違いは、大きい。


 けれど今は、確かめなければならないことがある。


「セナ爺」


 ルカはもう一度、古老を見た。


「一人では触りません。あなたたちにも見ていてほしい。もし、私がおかしくなったら、止めてください」


「簡単に言うな」


「簡単じゃないです」


 ルカは、自分の手を胸に当てた。


 まだ指先は冷えている。名札の深さも、箱の冷たさも、残っている。怖くないわけがない。けれど、怖いという感情があるから、無茶をしているわけではないと分かる。


 ミリカが、外から小さく言った。


「ルカ」


 ルカは戸口を振り向いた。


 ミリカは泣いてはいなかった。白い名札を抱いて、ただ立っている。十歳の少女が耐えるには重すぎる沈黙を、それでも両腕で抱いている。


「私も、見てていい?」


 ヨルナ婆がすぐに首を振ろうとした。


 だがルカは、その前に言った。


「遠くからなら」


「ルカ」


 ヨルナ婆が咎める声を出す。


「この子は、知らなきゃいけないんだと思います」


 ルカはミリカを見たまま言った。


「お父さんの名に、何が起きているのか。全部じゃなくても、見ないまま待つのは、きっともっと怖いから」


 ミリカは名札を抱く手に力を込めた。


 セナ爺は長く黙っていた。


 波の音だけが聞こえる。

 遠くで、ナミル=レイの名札がもう一度だけ鳴った。


 ちりん。


 セナ爺は目を閉じ、深いため息をついた。


「……浜の祠へ行く」


 それは許可ではなく、覚悟の言葉だった。


「ただし、ルカ。お前一人の判断では触らせん。俺とヨルナが見て、潮が荒れたらすぐ離れる。坊主、お前も倒れそうになったら下がれ」


 少年は頷いた。


 小屋の外へ出ると、浜の人々が道を開けた。


 潮見役、名拾い、漁師、子どもを抱いた母親、年老いた船大工。誰も大声を出さない。だが視線が集まる。ルカと少年が並んで歩くと、人々のあいだに細い波紋のようなざわめきが広がった。


 少年は裸足だった。


 砂の上に足を置くたび、彼の足跡には水が滲む。けれど、濡れた足跡ではない。砂がほんの一瞬だけ、深海のような青を帯び、それから普通の色へ戻る。


 ルカはそれに気づいたが、何も言わなかった。


 言えば、この少年がさらに遠いものになってしまう気がした。


 浜の祠は、波打ち際から少し離れた岩場にあった。小さな石造りの祠で、屋根には白い貝殻が敷き詰められている。中には潮神ネリュエの像はない。ナラ=オルテでは、浜の祠に神像を置かない。漂着物の行き先を決める場所に、特定の神の顔を置いてはならないとされるからだ。


 祠の中央に、黒い箱が置かれていた。


 朝の光の中で見ても、やはり奇妙だった。大きさは変わらない。子どもが両腕で抱えられるほど。だが、その存在感は小さな箱のものではない。まるで、砂浜に海底の一部だけが露出しているようだった。


 表面には、夜明けに浮かび上がった潮文字がひとつ残っている。


 ルカは、その文字を見た。


 読めない。


 けれど、読めないのに目が離せない。

 文字というより、沈んだ音の形だった。線があり、曲がりがあり、結び目がある。だが、それらは紙に書かれた記号ではなく、水中でほどけかけた歌のように揺れている。


「これ、君には読める?」


 ルカは少年に訊いた。


 少年は箱の前に立ち、じっとその文字を見た。


 やがて、小さく首を振った。


「読めない」


「あなたにも?」


「これは、読むものじゃない」


「じゃあ?」


「開くもの」


 ルカは箱の文字をもう一度見た。


 鍵。


 序節で感じた直感が、また胸の奥で鳴った。


 これは名前ではない。

 これは鍵だ。


 だが、何を開く鍵なのか。

 誰のための鍵なのか。


 セナ爺が、ルカの肩越しに低く言った。


「触る前に、潮を見ろ」


 ルカは海を見た。


 波は穏やかだった。けれど、不自然なほど音がない。いつもなら、ナラ=オルテの浜では小石を転がす音や、貝殻が擦れる音や、海藻が濡れた砂を叩く音が重なっている。今は、それらが遠い。箱の周りだけ、音が底へ吸われている。


 ヨルナ婆が祠の反対側に立ち、白い濁り目を細めた。


「潮が逃げてる」


「逃げてる?」


「箱に触れたくないんだよ。潮が、これを避けて通ってる」


 ルカは黒い箱へ向き直った。


 恐怖が、また上がってきた。


 この箱は、海に属しているのに、海から避けられている。

 それは矛盾している。だが、目の前の現象はそうだった。


 少年が、ルカの隣に立った。


「手を離さないで」


 ルカは驚いた。


「私が?」


「うん」


「あなたの?」


「たぶん」


 少年は少し考えてから、付け加えた。


「僕が沈みそうになったら、引いて。君が沈みそうになったら、僕が呼ぶ」


「呼ぶ?」


「名前じゃなくても、呼べる」


 その言い方に、ルカはかすかに胸を衝かれた。


 名前じゃなくても、呼べる。


 名拾いであるルカは、名を大切にしている。名がなければ、祈りは迷う。記録は届かない。人は、人を呼び止められない。


 けれど、この少年は名前を水の底に置いてきたまま、ここに立っている。

 名前がなくても、誰かの沈んだ声を聞いている。


 そのことが、ルカにはまだうまく理解できなかった。


 でも、今は理解より先に、手が必要だった。


 ルカは少年の手を取った。


 冷たい。


 けれど、最初に浜で掴んだ時よりは、ほんの少しだけ人の手に近かった。


 ルカはもう片方の手を、黒い箱へ伸ばす。


「ルカ」


 セナ爺が呼んだ。


「はい」


「危ないと思ったら、すぐ離せ」


「はい」


「読もうとするな」


 その言葉に、ルカは目を瞬いた。


 セナ爺は続けた。


「お前は何でも読もうとする。名拾いだからな。だが、読めぬものを無理に読めば、読む側の名が削れる。今は読むな。触れて、戻ってこい」


 ルカは小さく頷いた。


 読むな。


 それは難しいことだった。

 名に触れれば、自然に耳を澄ませてしまう。残響を探してしまう。傷の奥にある祈りを、少しでも掬い上げようとしてしまう。


 でも、今は読んではいけない。


 ルカは息を整えた。


 そして、黒い箱に触れた。


 冷たさが来た。


 ただし、前と同じ冷たさではなかった。

 今度は、触れた瞬間に引き込まれるような冷たさではない。箱の方が、ルカを確かめている。誰が触れたのか。何を持っているのか。どの名を水面に置いてきたのか。


 箱の表面に、潮文字が浮かび上がった。


 一つではない。

 二つ、三つ、七つ。


 白い貝殻の筋の間を、青黒い線が走る。文字は水面の波紋のように広がり、重なり、ほどけ、また結ばれる。ルカの知っている潮語ではない。ネリュエの還名式でも、メルナ=レイの名札文字でもない。


 もっと古い。


 潮が言葉になる前の、海そのものの傷跡のような文字。


「読めるか」


 セナ爺が訊く。


 ルカは首を振った。


「読めません。でも……」


 言葉が途中で止まる。


 文字の動きが、ただの表示ではないと分かった。

 これは、何かを示している。


 水面の上ではなく、水面の下にあるものを。


 少年の手が、ルカの手の中で震えた。


「開く」


 彼が言った。


 次の瞬間、箱の蓋が消えた。


 開いた、というより、表面が水になった。


 黒い木でも石でもなかったはずの上面が、深い暗色の水面へ変わる。朝の光はそこに映らない。祠の屋根も、ルカの顔も、少年の影も映らない。ただ、底のない暗い海がある。


 ミリカが、遠くで小さく息を呑んだ。


 浜の人々が後ずさる。

 ヨルナ婆が祈りの布を握りしめる。

 セナ爺は杖を構えた。


 ルカは、箱の中を見た。


 底がない。


 いや、底はあるのかもしれない。

 けれど、ルカの目には届かない。


 暗い水の奥に、青白い光が揺れている。星ではない。貝でもない。まるで、沈んだ名札が発する最後の光を、遠くから見ているようだった。


 その奥で、何かが動いた。


 ルカの喉が鳴る。


 少年が、隣で息を止めた。


 暗い水面の下から、白い手が浮かび上がった。


 それは、さっき浜でルカが掴んだ手と同じだった。

 けれど、今そこに少年は隣にいる。では、この手は何なのか。


 記憶なのか。

 箱が見せている残響なのか。

 それとも、まだ引き上げられていない少年の一部なのか。


 ルカは、思わず少年を見た。


 少年の顔は青ざめていた。

 彼自身も、その手に怯えているようだった。


「これ……あなた?」


「分からない」


 少年の声はかすかだった。


「でも、置いてきた」


「何を」


 少年は、胸元の割れた貝殻を押さえた。


「名前と、たぶん……僕の底」


 水面の中の手が、ゆっくりと開いた。


 その手のひらに、小さな泡が浮かんでいる。泡の中に、映像があった。


 嵐の夜。

 船の破片。

 絡まる名札。

 黒い輪。

 沈んでいく貝殻。

 誰かが手を伸ばしている。

 誰かが、上からではなく、下から名を呼んでいる。


 ルカは目を逸らせなかった。


 読んではいけない。

 セナ爺に言われたばかりなのに、映像が勝手に流れ込んでくる。


 知らない少年が、暗い水の中で目を開ける。

 彼の口元が動く。

 名前を言おうとしている。

 けれど、音になる前に泡が弾ける。名前は上へ行かず、下へ沈む。


 黒い箱が、その名前を抱え込む。


 いや、違う。


 箱が抱え込んだのではない。


 箱は、名前がさらに深く沈まないように、かろうじて留めていた。


「ルカ!」


 セナ爺の声が飛ぶ。


 ルカははっとした。


 足元が濡れている。


 いつの間にか、箱の水が祠の床へ溢れていた。けれど普通の水ではない。濡れるのではなく、影が広がるように、黒い水面が足元に伸びている。


 ルカの靴先が、その影に沈みかけていた。


 少年が、ルカの手を強く握った。


「戻って」


 その声は小さかった。

 けれど、はっきり届いた。


「ルカ」


 名前を呼ばれた。


 ルカは、自分の名が水面へ引き上げられる感覚を覚えた。


 足元の黒い水が、すっと引く。


 箱の中の白い手も、暗い水の奥へ沈んでいった。手のひらに浮かんでいた泡がひとつ弾ける。その瞬間、ルカの耳元で短い音がした。


 エ……


 声にならない音。


 エル……


 ルカは息を止めた。


 少年も同時に目を見開いた。


 箱の潮文字が、ひとつだけ強く光る。


 読めない文字。

 けれど、その音だけが水面に浮いた。


「エル……?」


 ルカが呟くと、少年の手が震えた。


 彼は自分の胸に手を当てた。

 まるで、そこに忘れていた鼓動が戻ったかどうか確かめるように。


「エル」


 少年は、ゆっくり繰り返した。


 その音は、彼のもののようでもあり、まだ彼のものではないようでもあった。


「それが、あなたの名前?」


 ルカは訊いた。


 少年は首を横に振ろうとして、途中で止めた。


「全部じゃない」


「一部?」


「たぶん」


 箱の水面が揺れる。


 今度は、少年が一歩前へ出た。


 セナ爺が止めようとしたが、ヨルナ婆がその腕を掴んだ。

 少年は箱へ手を伸ばす。ルカは、その手を離さなかった。少年も離そうとはしなかった。


 少年の指が、箱の水面に触れる。


 暗い水の中に、かすかな青い光が広がった。


 また泡が浮く。


 今度は、泡の中に文字ではなく、海底の風景が映った。


 沈んだ階段。

 貝殻に覆われた扉。

 壊れた鐘楼。

 水の中で揺れる、白い布。

 そして、遠くに眠る都市の影。


 ルカはそれを見た瞬間、胸の奥が痛んだ。


 知らない場所だ。

 見たことがあるはずもない。


 それなのに、なぜか懐かしい。


 行ったことのない海底の都市が、ルカの中のどこかで、ずっと閉じられていた扉を叩いたようだった。


 少年は苦しげに眉を寄せた。


「カ……」


 声が途切れる。


「カイ……」


 箱の水面が激しく揺れた。

 潮文字が乱れる。

 祠の貝殻屋根が、風もないのに鳴った。


 セナ爺が叫ぶ。


「もういい、離れろ!」


 だが少年は、まだ指を離さない。


「カイオ」


 最後の音が、水面から浮かび上がった。


 箱が、大きく震えた。


 ルカは反射的に少年の手を引いた。

 少年の身体が傾く。ルカは両腕で支えようとして、彼の軽さに驚いた。人ひとりの重さはある。けれど、その重さの一部が、まだ水の底に残っているようだった。


 黒い箱の水面が閉じていく。


 潮文字は、次々に消えた。

 最後に残ったのは、先ほどと同じひとつの鍵のような文字だけ。


 少年は、ルカに支えられながら、かすかに息をした。


「エル……カイオ?」


 ルカが確かめるように言うと、少年は目を閉じた。


「違う」


「違う?」


「間に、何かある」


 彼は自分の胸を押さえた。


「でも、今は……それでいい」


「名前として?」


 少年は少し迷ったあと、頷いた。


「エルン」


 その音は、ほとんど吐息だった。


 ルカには、それがどこから来たのか分からなかった。

 箱から浮いた音と、少年自身の奥から戻ってきた音が、ルカの耳の中で重なったのかもしれない。


「エルン=カイオ」


 少年は、ゆっくりと言った。


 その名を口にした瞬間、祠の外で、ナミル=レイの名札が一枚鳴った。


 ちりん。


 今度の音は、ためらいではなかった。


 小さく、確かめるような音。

 戻ってきた名を、まだ仮のまま受け入れる音。


 ミリカが、遠くでその名を繰り返した。


「エルン……」


 少年――エルン=カイオは、彼女の方を見た。


 その目に、また海底の星が揺れる。


「君の名札」


 エルンは、ミリカに向かって言った。


「まだ、下にある」


 ミリカは名札を抱きしめた。


「お父さんも?」


 エルンは、すぐには答えなかった。


 ルカは、その沈黙に冷たい予感を覚えた。


 エルンは嘘をつけないのかもしれない。

 少なくとも、沈んだ名については、慰めだけの言葉を選べないのかもしれない。


「お父さん、全部じゃない」


 エルンは言った。


 ミリカの顔が強張る。


「でも、声はある。下で、ほどけそうになってる」


「ほどける?」


「誰かが、止めてる。止めてるせいで、ほどけてる」


 ルカはその言葉に反応した。


「止めているのに、ほどける?」


 エルンは頷いた。


「流れない名は、腐る」


 その場にいた大人たちの顔色が変わった。


 名が腐る。


 それは、浜の者にとって聞き捨てならない言葉だった。名は失われることも、削れることも、還ることもある。だが、腐るという言い方はしない。名を物のように、しかも閉じ込められた水のように扱う言葉だった。


 けれど、エルンの声には確信があった。


「流れないと、声が濁る。呼ばれても上がれない。下からも、戻れない」


「だから、ミリカは声を思い出せなくなっているの?」


 ルカが訊くと、エルンはミリカを見たまま頷いた。


「名が、遠くなってる」


 ミリカの瞳に、また涙が溜まった。


 ルカは、エルンの腕を支えながら、黒い箱を見た。


 箱と少年。


 どちらも、同じ深さを持っている。


 ルカには読めない。

 水面から見ても、何も分からない。


 けれど、触れた時の冷たさ、引き込まれる感覚、名があるのに届かない深さ――それは同じだった。


 黒い箱は、沈んだ名へ続く入口。

 そしてエルンは、その入口から現れた少年。


 彼は箱と同じ種類の沈み方をしている。


 名がないのではない。

 深すぎて、読めない。


 ルカはその事実を、初めて自分以外の誰かの姿として見た気がした。


 エルンが、ふいにふらついた。


 ルカは慌てて支える。


「大丈夫?」


「空気が、浅い」


「浅い?」


「うん。息が、上にありすぎる」


 どう答えればいいのか分からず、ルカはただ彼を支えた。


 セナ爺が近づき、エルンの反対側を支える。


「いったん小屋へ戻る」


 今度は、誰も反対しなかった。


 祠から離れる時、ルカはもう一度だけ黒い箱を振り返った。


 箱は沈黙していた。

 ただの黒い箱のように、祠の中央に置かれている。


 けれど、ルカはもう知っている。


 その中には底がない。

 暗い海がある。

 そして、まだ戻れない名が泣いている。


 浜へ戻る途中、ミリカが小さな足で近づいてきた。


 彼女はエルンを怖がっていた。けれど、それ以上に、父の声がどこにあるのかを知りたがっていた。


「エルン」


 ミリカは、覚えたばかりの名を呼んだ。


 エルンは足を止める。


 呼ばれたことに、少し驚いたようだった。

 その名が自分に向けられたものだと、まだ慣れていない。


「お父さん、泣いてる?」


 ミリカが訊いた。


 エルンは、しばらく彼女を見た。


 そして、首を横に振った。


「泣いてるのは、名」


「お父さんじゃないの?」


「お父さんは、たぶん……君に呼ばれたい」


 ミリカの唇が震えた。


「呼んでる。ずっと呼んでる」


「うん」


 エルンは頷いた。


「でも、今は届いてない」


 残酷な言葉だった。


 けれどミリカは、泣かなかった。


「じゃあ、届くところまで行く」


 そう言ったのは、ミリカではなかった。


 ルカだった。


 自分の声が、思ったよりはっきり浜に響いたことに、ルカ自身が驚いた。


 セナ爺がルカを見る。

 ヨルナ婆が、片目を細める。

 浜の人々が息を止める。


 ルカは、エルンを支えたまま、ミリカの白い名札を見た。


「私だけじゃ、読めない。水面からでは届かない。でも、エルンには下の声が聞こえる」


 エルンがルカを見た。


 ルカは続けた。


「だったら、探せるかもしれない。どこで止まっているのか。何に絡まっているのか。どうすれば、名を水面まで呼べるのか」


 エルンは、少し不思議そうにルカを見ていた。


「僕も、行くの?」


「あなたが嫌なら、無理には」


「嫌かどうか、分からない」


 エルンは正直に言った。


「でも、下の名は泣いてる」


 ルカは頷いた。


「うん」


「君は、上から呼べる?」


 その問いに、ルカは一瞬答えられなかった。


 上から呼べるのか。

 戻ってきた名を読むことはできる。漂着した名を拾うことはできる。けれど、沈んだ名を水面へ呼ぶことができるのか。


 分からない。


 でも。


「呼ぶ」


 ルカは言った。


「届くまで、呼んでみる」


 エルンは、ほんの少しだけ目を伏せた。


 それが頷きなのか、疲労なのか、ルカには分からなかった。


 ただ、彼の手が、ルカの手を離さなかった。


 潮は静かだった。


 けれどその静けさの下で、何かが絡まり、沈み、ほどけかけている。


 黒い箱は祠の中で沈黙している。

 エルン=カイオという仮の名を得た少年は、まだ自分の名の全部を取り戻していない。

 ミリカの父の声は、まだ水面へ届かない。


 それでも、ルカは知った。


 読めない名がある。

 届かない深さがある。

 自分ひとりでは、そこへ手を伸ばせない。


 だからこそ、ここから先は、ひとりでは行けない。


 ナミル=レイの名札が、遠い入り江でまた鳴った。


 今度は一枚ではなかった。

 二枚。

 三枚。

 それから、風のない朝の浜に、細い音がいくつも重なっていく。


 まるで、沈んだ名たちが、水面の方角を思い出そうとしているように。

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