第三節 ― 海底から来た少年
潮見小屋へ戻るころには、浜の朝はすっかり明るくなっていた。
けれど、ナラ=オルテの浜にいつもの朝の気配は戻っていなかった。
漁師たちは船を出す支度を途中で止め、網を肩にかけたまま、遠巻きにルカたちを見ている。子どもたちは大人の背に隠れ、覗くようにエルンを見つめていた。潮見役たちは声を低くして話し合っているが、何を言っても答えは出ないらしく、視線は何度も祠の方へ戻った。
黒い箱は、まだそこにある。
蓋を閉じ、潮文字を消し、何も起こらなかったように沈黙している。
けれど、誰ももう、あれをただの箱だとは思っていなかった。
ルカはエルンの腕を支えながら、小屋の前まで戻った。
エルンの足取りは危うい。歩けないわけではない。ただ、地面というものにまだ慣れていないようだった。砂に足を取られるたび、彼は少しだけ不思議そうに足元を見る。砂が崩れること、靴も履かずに立つ足が沈むこと、風が肌の上を通っていくこと。その一つ一つを、初めて確かめているようだった。
「痛くない?」
ルカが尋ねると、エルンは足元を見たまま答えた。
「痛い、は……分かる」
「今、痛い?」
「違う。変」
「変?」
「下じゃない」
ルカは一瞬、意味を考えた。
「地面が?」
エルンは頷いた。
「沈まない。止まる」
その言葉に、セナ爺が小さく眉を寄せた。
「人は地面に立つもんだ」
エルンはセナ爺を見た。悪気も反発もない顔だった。ただ、本当に分からないことを言われた時の、静かな戸惑いだけがあった。
「立つのは、上にいる人のこと?」
「……まあ、そうだな」
「じゃあ、僕はまだ少し、下にいる」
その場にいた者たちが、互いに顔を見合わせた。
エルンの言葉は、どれも比喩のようで、比喩ではなかった。
この少年は、地上の言葉を使っているのに、見ている世界の座標が違う。
上と下。
水面と底。
浮くものと沈むもの。
ルカはそのずれを、怖いとは思わなかった。けれど、胸の奥が少しだけ冷えた。エルンの言葉に触れていると、自分の立っている場所の確かさまで揺らぎそうになる。
名を読む時も、似た感覚がある。
自分の名を握っていなければ、他人の名に触れたまま、どこかへ流されてしまう。
「中で休んだ方がいい」
ルカが言うと、エルンは小屋を見た。
けれど、入ろうとはしなかった。
彼の視線は、小屋の横を通り越し、待ち場へ向かっている。
石囲いの中には、白い名札が並べられていた。
七枚。
朝日を浴びているのに、それらは明るく見えなかった。白い貝札も、潮紙も、木札も、光を受けてなお、空白のまま沈んでいる。名が消えた名札ではない。名が戻ってこなかった名札。殻だけが水面へ押し戻されたもの。
エルンは、そちらへ歩き出した。
「エルン」
ルカが呼ぶと、彼は足を止めた。
その反応が、少し遅れた。
呼ばれた名が自分のものだと、まだ確かめているようだった。
「休まなくていいの?」
「……あれが、呼んでる」
エルンは待ち場を見ていた。
ルカは黙った。
セナ爺が腕を組む。
「近づけていいのか」
ヨルナ婆は、白い片目を細めた。
「近づかせない方が怖いね。この子は、あれを見ているんじゃない。あれの向こうを聞いてる」
ルカはエルンの横に並んだ。
「一緒に行く」
エルンは少しだけルカを見た。
「沈まないように?」
「うん。たぶん、私もあなたも」
エルンは納得したのか、しないのか、また待ち場へ向かって歩き出した。
石囲いの前まで来ると、ミリカが小さく息を呑んだ。
彼女は、母親らしい女性に肩を抱かれて立っていた。母親は目元を赤くしている。けれど、ミリカを小屋へ連れ戻そうとはしなかった。娘が見なければならないものを、もう止められないと分かっている顔だった。
ミリカの手には、父の白い名札がある。
エルンは、まず石囲いに並べられた七枚を見た。
次に、ミリカの胸元の一枚を見た。
「それ」
エルンが言った。
ミリカは身を固くした。
「これ?」
「うん」
ミリカはルカを見た。
ルカは頷いた。
「大丈夫。無理には取らない」
ミリカは少し迷ってから、両手で抱いていた名札を差し出した。
エルンは、それを受け取ろうとして、一度手を止めた。
「触っていい?」
その問いに、ミリカは目を見開いた。
この浜の大人たちは、名札を扱う時、必ず許しを得る。けれど、エルンがその作法を知っていたとは思えない。彼はただ、沈んだ名に触れる前に、持ち主の祈りを越えてはいけないと、どこかで分かっているのだろう。
ミリカは、小さく頷いた。
「いい。お父さんを、探して」
エルンは名札を受け取った。
その瞬間、彼の指先に青白い光が走った。
ミリカが一歩引きかける。母親が肩を抱く手に力を込める。浜の者たちも身構えた。だが、名札は燃えなかった。割れもしなかった。ただ、白い貝殻の内側に、薄い水の影が広がった。
ルカは息を詰めて見ていた。
自分が触れた時には、名札は軽すぎた。声も、手触りも、祈りも、表面には何も残っていなかった。奥に深さだけがあると分かったが、その底へは届かなかった。
エルンは違った。
彼は名札を両手で包まない。目を閉じて待つこともしない。
名札をそっと片耳に当てた。
貝殻を耳に当てて、海の音を聞くように。
その姿はあまりにも自然で、ルカは思わず見入ってしまった。
エルンの瞼が少し下りる。
風が、彼の濡れているはずの髪を揺らした。
名札に当てた耳の横で、割れた貝殻の欠片がかすかに光る。
長い沈黙があった。
ミリカが、息を止めている。
ルカも、自分の指先に力が入っていることに気づいた。
やがて、エルンが小さく言った。
「……泣いてる」
ミリカの顔が強張った。
「お父さんが?」
エルンはすぐには答えなかった。
ルカが静かに尋ねる。
「誰が?」
エルンは、名札を耳に当てたまま首を横に振った。
「名札じゃない」
その声は、潮見小屋で聞いた時よりも確かだった。
「下にいる名が」
浜のざわめきが止まった。
名札は、ここにある。
エルンの手の中にある。
けれど彼が聞いているのは、名札そのものではない。
ルカはそのことに、遅れて気づいた。
自分は名札に残った響きを読む。
漂着した札の表面に、まだ触れられるほどの声や祈りが残っている時、それを拾うことができる。水面に浮いた名、海から戻ってきた名なら、読める。
けれど、エルンは違う。
彼は、札を窓にしている。
空っぽに見える名札の向こう側へ、耳を澄ましている。
ルカには届かなかった底を、彼は聞いている。
「私は」
ルカは、思わず口を開いた。
自分でも、何を言おうとしているのか分からなかった。驚きなのか、悔しさなのか、安堵なのか。胸の中にいくつもの感情が同時に立ち上がり、どれも名になりきらない。
「私は、海から戻ってきた名なら読める」
エルンは名札を耳に当てたまま、ルカを見た。
「うん」
「漂着した名とか、潮に触れた残響とか、仮名の揺らぎとか。名が混ざっているか、誰かを侵しているか。そういうものなら、分かる」
「うん」
「でも、これは戻ってきていない」
ルカはミリカの名札を見た。
「空っぽに見える」
その言葉を口にするのは、痛かった。
名拾いが「空っぽに見える」と言うことは、ほとんど敗北を認めるようなものだった。
けれど、今は隠しても仕方がない。
エルンは、少しだけ首を傾けた。
「空っぽじゃない」
静かな声だった。
「水面に届いてないだけだ」
ルカは息を呑んだ。
水面に届いていない。
それは、ルカが第一節で感じたことを、まるで別の角度から言い換えた言葉だった。名はある。消えていない。けれど深すぎて読めない。
ルカが手を伸ばして届かなかった場所を、エルンは最初から「水面の下」として捉えている。
「あなたには、見えるの?」
ルカは訊いた。
エルンは名札を耳から離し、手のひらの上に置いた。
白い貝殻札は、変わらず白いままだった。文字も戻らない。ミリカの父の潮名も浮かばない。見た目には、何の変化もない。
けれど、エルンの瞳だけが深く揺れていた。
「見えるんじゃない」
彼は言った。
「下から、呼ばれる」
ルカは、何も言えなくなった。
見えているのではない。
聞いているのでもない。
呼ばれている。
エルンにとって、沈んだ名は対象ではないのだ。読解するものでも、調査するものでもない。下から彼を呼ぶもの。彼自身のどこかへ沈んでくるもの。
「呼ばれるって、苦しくないの?」
ミリカが、小さく訊いた。
エルンは彼女を見た。
「少し」
「じゃあ、やめていい」
その言葉に、ルカはミリカを見た。
少女は泣きそうな顔をしていた。父の声を取り戻したい。けれど、そのために目の前の少年が苦しむのも怖い。十歳の心の中で、その二つがぶつかっているのが分かった。
エルンは、しばらく黙っていた。
そして、名札をもう一度耳に当てた。
「でも、やめると、もっと下に行く」
「お父さんが?」
「お父さんの名が」
ミリカは名札を握る手を強めた。
エルンの声は、説明ではなかった。
ただ、今そこにある深さを言葉にしているだけだった。
「下にいる名は、呼ばれたい。でも、上が分からない。声が濁ってる。水が動かないから」
セナ爺が険しい顔で問う。
「水が動かない?」
エルンは頷いた。
「そこだけ、止まってる」
「潮が止まっているのか」
「潮だけじゃない」
エルンは、言葉を探した。
彼にとって当然の感覚を、地上の者たちへ渡すのは難しいらしい。眉がかすかに寄り、唇が何度か動く。
「名も、止まってる」
その場の空気が、さらに冷えた。
名が止まる。
潮の民にとって、それは不吉な響きだった。名は流れるものだ。たとえ還らなくても、海に溶け、潮に運ばれ、誰かの夢や歌や記憶の奥で形を変える。止まった名は、祈りになれない。別れにもなれない。
ルカは石囲いの中の七枚の名札を見た。
七枚すべてが、同じように白い。
見た目には違う素材なのに、同じ種類の空白をまとっている。
「ほかの名札も、同じ?」
ルカが訊くと、エルンはミリカの名札を持ったまま、待ち場の七枚へ近づいた。
セナ爺が警戒して一歩寄る。
けれどエルンは名札を乱暴に扱わなかった。むしろ、ひとつひとつの前で足を止める。耳に当てる前に、指先で空気を確かめる。まるで、眠っている人を起こさないようにするみたいだった。
一枚目。
古い木札。
エルンは耳に当てた。
「低い。男の人。船じゃなくて、岩場」
その札を持ってきた老婆が、口元を押さえた。
「弟だ……岩場で落ちた、弟の潮名だよ」
二枚目。
潮紙を重ねた札。
「歌ってた。でも、途中で水が入った」
若い母親が泣き出した。
その札は、幼くして海へ流された子のものだったらしい。
三枚目。
骨片に潮布を巻いた札。
「怒ってる」
セナ爺が眉を上げる。
「誰が」
「名が。まだ行きたくないって」
持ち主らしい男が、俯いた。彼は両手を強く握っている。何か言いたげだったが、言えなかった。
エルンは、それ以上は言わない。
彼は説明しすぎない。
分かっていないからだ。
分かっているのは、そこに沈んでいる名の感触だけ。
誰の人生だったのか、どんな死だったのか、遺族が何を悔いているのか。そういうことは、まだ読めない。あるいは、読もうとしていない。
ルカはそれを見て、少しだけ安心した。
もしエルンがすべて分かってしまう少年なら、怖かった。
名も過去も未練も、何もかも見透かしてしまう存在なら、彼は人から遠すぎる。
けれど、そうではない。
エルンは万能ではない。
沈んだ名に呼ばれるだけだ。
その意味を、人の言葉へ翻訳するのは、まだ苦手なのだ。
ルカは自分の胸に手を当てた。
なら、もしかしたら。
ルカが水面の名を読み、エルンが底の名を聞く。
二つを合わせれば、沈んだ名の行き先に手が届くのかもしれない。
四枚目に触れた時、エルンの身体が大きく揺れた。
「エルン!」
ルカが支える。
エルンは膝をつきかけ、名札を落とさないように両手で抱えた。その顔から血の気が引いている。瞳の奥の星のような光が、かすかに乱れていた。
「これは、だめ」
「何が?」
「深い」
ルカは、その言葉に身体を強張らせた。
深い。
自分が第一節で感じた言葉と同じ。
「ミリカのお父さんの名より?」
エルンは首を横に振った。
「種類が違う」
「どう違うの?」
「これは、沈んだんじゃない。沈めた」
浜にいた者たちがざわついた。
ルカは名札を見た。
それは、一見何の変哲もない木札だった。端が少し削れ、紐がほつれている。文字は消え、白くなっている。
「誰の名札?」
ルカが尋ねると、誰もすぐには答えなかった。
やがて、若い名拾いが小さく言った。
「身元が分からない。三日前に戻った。誰が流した札なのか、浜では分からなかった」
「名主は?」
「不明だ。札の形も、この辺りのものじゃない」
エルンは、その名札を見つめたまま、震える息を吐いた。
「これが、ほかを引いてる」
「この名札が?」
「名札じゃない。下にあるもの」
エルンは、待ち場の名札を順に見た。
「みんな、同じところに引っかかってる。でも、この札の下だけ、もっと暗い。そこに、黒いものがある」
「黒いもの」
ルカの脳裏に、祠の黒い箱が浮かんだ。
「箱と関係がある?」
エルンは目を伏せた。
「箱は入口。黒いものは、底にある」
「それは何?」
「分からない」
即答だった。
その分からなさは、ルカにとって重要だった。
エルンは、すべての答えを持っているわけではない。
彼は地図ではない。
ただ、ルカには聞こえない深さから呼ばれている少年なのだ。
ルカは膝をつき、エルンの手元の木札を見た。
「私が触ってもいい?」
エルンは少し考えたあと、頷いた。
「でも、読まないで」
ルカは驚いて、エルンを見た。
その言葉は、先ほどセナ爺が言ったものと同じだった。
「どうして?」
「呼ばれるから」
「私が?」
「うん」
エルンは、木札をルカへ差し出した。
「これは、上を探してる。誰でもいいから、水面にしたがってる」
意味は完全には分からない。
けれど、危険だということだけは分かった。
ルカは慎重に木札へ触れた。
読まない。
探さない。
耳を澄ませない。
ただ、触れる。
それでも、冷たさは来た。
白い木札の奥に、深い縦穴のような感覚がある。そこから、何かが上へ向かって手を伸ばしてくる。名ではない。声でもない。もっと形のない、渇いたもの。
水面を探している。
エルンの言葉が、遅れて理解できた。
その名は、帰る場所を探しているのではない。
自分を浮かべるために、誰かの記憶を水面として使おうとしている。
ルカは慌てて手を離した。
呼吸が荒くなる。
「今のは」
エルンが木札をそっと石囲いへ戻した。
「泣いてない」
「じゃあ、何?」
「空いてる」
「空いてる?」
「うん。穴みたいに」
ルカは木札から目を離せなかった。
七枚の白い名札。
そのうちの一枚だけが、他と違う。
ミリカの父の名は、下で泣いている。
ほかの名も、止められ、濁り、戻れずにいる。
けれど、この一枚は穴だ。
何かが、そこから他の名を引いている。
「セナ爺」
ルカは立ち上がった。
「この札が流れ着いた場所は分かりますか」
セナ爺は、若い名拾いを見た。
若い名拾いは頷く。
「西の岩礁寄りだ。普通、あそこには名札は流れない。潮が沖へ抜ける場所だから」
「そこから、ほかの名札も戻った?」
「いや、ほかは待ち場の正面や、東の浅瀬だ。でも……」
彼は言葉を切った。
「でも?」
「どの札も、戻る前の夜に、沖の水面が黒く見えたって言う者がいる」
黒い水面。
ルカはエルンを見る。
エルンも同じことを考えたのか、ゆっくり海の方を向いていた。
朝の海は明るい。
けれど、ルカにはもう、その明るさが信じきれなかった。
水面の下に何かがある。
名を止め、声を濁らせ、遺族から記憶を奪いかけている何かが。
ルカはミリカの方へ向き直った。
「ミリカ」
少女はびくりとした。
「お父さんの名札、もう少しだけ預かっていい?」
ミリカは胸に抱えた名札を見た。
「持っていくの?」
「まだ分からない。でも、これがないと、お父さんの名がどこで止まっているか探せないかもしれない」
ミリカはしばらく黙っていた。
子どもにとって、それは酷な頼みだった。
父との最後のつながりかもしれない名札を、手放してほしいと言っているのだから。
ルカは膝をついた。
「無理なら、いい。あなたの名札だから」
ミリカは首を横に振った。
「お父さんの名札」
「うん」
「でも、お父さんを探すなら、ルカに持っててほしい」
ミリカは名札を差し出した。
けれど、手を離す直前に、涙がこぼれた。
「返してね」
ルカは両手で名札を受け取った。
「返す」
「白いままじゃなくて?」
その問いに、ルカは言葉を詰まらせた。
戻せるとは、まだ言えない。
エルンが、横から静かに言った。
「声を、探す」
ミリカはエルンを見た。
「見つかる?」
「分からない」
ミリカの顔が曇る。
けれどエルンは、続けた。
「でも、泣いてる場所は分かる」
それは慰めではない。
けれど、嘘ではなかった。
ミリカは涙を拭き、頷いた。
「じゃあ、そこまで行って」
ルカは名札を潮紙の布に包み、胸元へしまった。
その瞬間、遠くの入り江でナミル=レイの名灯が淡く光った。
まだ見えない距離のはずなのに、ルカには分かった。
船が呼んでいる。
いや、違う。
ナミル=レイも、下から呼ばれている。
「船へ行こう」
ルカは言った。
セナ爺が目を細める。
「今すぐか」
「はい。ナミル=レイの潮鏡なら、水面に映るものを見られます。私だけでは底までは読めない。でも、エルンが下から呼ばれているなら、潮鏡に何か映るかもしれない」
「その子を船に乗せる気か」
セナ爺の声には、反対だけではなく心配があった。
ルカはエルンを見た。
「乗れる?」
エルンは少し考えた。
「船は、浮く?」
「うん」
「沈まない?」
「できれば沈まないようにしてる」
ルカの返事に、場違いにも若い名拾いが小さく笑いそうになり、すぐに口を押さえた。
エルンは真剣に頷いた。
「なら、乗る」
「怖くない?」
「分からない」
彼は正直だった。
「でも、下に行くなら、水面がいる」
ルカは、その言葉を胸の奥で受け止めた。
水面。
自分は、水面なのだろうか。
エルンが底から呼ばれる者なら、ルカは水面から名を拾う者。
沈んだ名が戻るためには、底だけでも、水面だけでも足りない。
そのことを、ルカはまだ理屈ではなく、予感として知った。
ヨルナ婆が、祠の方を振り返った。
「黒い箱はどうする」
セナ爺が答える。
「ここで見張る。誰にも触れさせん」
「潮が動いたら?」
「鐘を鳴らす」
ナラ=オルテには、漂着異変を知らせる古い鐘がある。普段はほとんど鳴らされない。浜の者たちの顔に緊張が走った。
ルカはセナ爺へ頭を下げた。
「お願いします」
「頼むのはこっちだ」
セナ爺は、しわの深い顔でルカを見た。
「お前は若い。だが、名拾いだ。浜の者が頼った以上、俺たちは見張ることしかできん。……ただし、無茶はするな」
「はい」
「読めないものを、ひとりで読もうとするな」
ルカは一瞬、エルンを見た。
「はい」
今度の返事は、さっきより少しだけ確かだった。
ルカは歩き出した。
エルンが隣に並ぶ。足取りはまだ頼りないが、待ち場に来た時よりは地面に慣れてきたようだった。ミリカの父の名札は、ルカの胸元で静かに冷えている。
浜の人々が、また道を開ける。
その視線の中を、ルカはナミル=レイのある入り江へ向かった。
途中、エルンがふいにルカを見た。
「ルカ」
「なに?」
「君の名は、浮いてる」
ルカは足を止めた。
「え?」
エルンは、何気ないことのように言った。
「沈んでない。でも、底に影がある」
潮風が、ルカの髪を揺らした。
胸の奥で、あの痛みがまた鳴る。
自分の名に似た響きを、潮の中で聞いたことがある。
でも、自分自身の本当の名は読めない。
「それは……どういう意味?」
ルカが尋ねると、エルンは少し困ったように眉を寄せた。
「分からない」
彼は、やはり説明係ではなかった。
ただ、見えない底から呼ばれるものを、ありのままに口にするだけだった。
「でも」
「でも?」
「君も、少し泣いてる」
ルカは何も言えなかった。
その言葉が、自分のことなのか、自分の名のことなのか、分からなかったからだ。
入り江の方から、ナミル=レイの名札が一斉に鳴った。
風はない。
それでも、船は鳴っていた。
まるで水面そのものが、底から呼ばれた声に応えようとしているように。




