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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第2話 沈んだ名は、海底の少年を呼んだ
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第三節 ― 海底から来た少年

 潮見小屋へ戻るころには、浜の朝はすっかり明るくなっていた。


 けれど、ナラ=オルテの浜にいつもの朝の気配は戻っていなかった。


 漁師たちは船を出す支度を途中で止め、網を肩にかけたまま、遠巻きにルカたちを見ている。子どもたちは大人の背に隠れ、覗くようにエルンを見つめていた。潮見役たちは声を低くして話し合っているが、何を言っても答えは出ないらしく、視線は何度も祠の方へ戻った。


 黒い箱は、まだそこにある。


 蓋を閉じ、潮文字を消し、何も起こらなかったように沈黙している。

 けれど、誰ももう、あれをただの箱だとは思っていなかった。


 ルカはエルンの腕を支えながら、小屋の前まで戻った。


 エルンの足取りは危うい。歩けないわけではない。ただ、地面というものにまだ慣れていないようだった。砂に足を取られるたび、彼は少しだけ不思議そうに足元を見る。砂が崩れること、靴も履かずに立つ足が沈むこと、風が肌の上を通っていくこと。その一つ一つを、初めて確かめているようだった。


「痛くない?」


 ルカが尋ねると、エルンは足元を見たまま答えた。


「痛い、は……分かる」


「今、痛い?」


「違う。変」


「変?」


「下じゃない」


 ルカは一瞬、意味を考えた。


「地面が?」


 エルンは頷いた。


「沈まない。止まる」


 その言葉に、セナ爺が小さく眉を寄せた。


「人は地面に立つもんだ」


 エルンはセナ爺を見た。悪気も反発もない顔だった。ただ、本当に分からないことを言われた時の、静かな戸惑いだけがあった。


「立つのは、上にいる人のこと?」


「……まあ、そうだな」


「じゃあ、僕はまだ少し、下にいる」


 その場にいた者たちが、互いに顔を見合わせた。


 エルンの言葉は、どれも比喩のようで、比喩ではなかった。

 この少年は、地上の言葉を使っているのに、見ている世界の座標が違う。


 上と下。

 水面と底。

 浮くものと沈むもの。


 ルカはそのずれを、怖いとは思わなかった。けれど、胸の奥が少しだけ冷えた。エルンの言葉に触れていると、自分の立っている場所の確かさまで揺らぎそうになる。


 名を読む時も、似た感覚がある。


 自分の名を握っていなければ、他人の名に触れたまま、どこかへ流されてしまう。


「中で休んだ方がいい」


 ルカが言うと、エルンは小屋を見た。


 けれど、入ろうとはしなかった。


 彼の視線は、小屋の横を通り越し、待ち場へ向かっている。


 石囲いの中には、白い名札が並べられていた。


 七枚。


 朝日を浴びているのに、それらは明るく見えなかった。白い貝札も、潮紙も、木札も、光を受けてなお、空白のまま沈んでいる。名が消えた名札ではない。名が戻ってこなかった名札。殻だけが水面へ押し戻されたもの。


 エルンは、そちらへ歩き出した。


「エルン」


 ルカが呼ぶと、彼は足を止めた。


 その反応が、少し遅れた。


 呼ばれた名が自分のものだと、まだ確かめているようだった。


「休まなくていいの?」


「……あれが、呼んでる」


 エルンは待ち場を見ていた。


 ルカは黙った。


 セナ爺が腕を組む。


「近づけていいのか」


 ヨルナ婆は、白い片目を細めた。


「近づかせない方が怖いね。この子は、あれを見ているんじゃない。あれの向こうを聞いてる」


 ルカはエルンの横に並んだ。


「一緒に行く」


 エルンは少しだけルカを見た。


「沈まないように?」


「うん。たぶん、私もあなたも」


 エルンは納得したのか、しないのか、また待ち場へ向かって歩き出した。


 石囲いの前まで来ると、ミリカが小さく息を呑んだ。


 彼女は、母親らしい女性に肩を抱かれて立っていた。母親は目元を赤くしている。けれど、ミリカを小屋へ連れ戻そうとはしなかった。娘が見なければならないものを、もう止められないと分かっている顔だった。


 ミリカの手には、父の白い名札がある。


 エルンは、まず石囲いに並べられた七枚を見た。

 次に、ミリカの胸元の一枚を見た。


「それ」


 エルンが言った。


 ミリカは身を固くした。


「これ?」


「うん」


 ミリカはルカを見た。


 ルカは頷いた。


「大丈夫。無理には取らない」


 ミリカは少し迷ってから、両手で抱いていた名札を差し出した。


 エルンは、それを受け取ろうとして、一度手を止めた。


「触っていい?」


 その問いに、ミリカは目を見開いた。


 この浜の大人たちは、名札を扱う時、必ず許しを得る。けれど、エルンがその作法を知っていたとは思えない。彼はただ、沈んだ名に触れる前に、持ち主の祈りを越えてはいけないと、どこかで分かっているのだろう。


 ミリカは、小さく頷いた。


「いい。お父さんを、探して」


 エルンは名札を受け取った。


 その瞬間、彼の指先に青白い光が走った。


 ミリカが一歩引きかける。母親が肩を抱く手に力を込める。浜の者たちも身構えた。だが、名札は燃えなかった。割れもしなかった。ただ、白い貝殻の内側に、薄い水の影が広がった。


 ルカは息を詰めて見ていた。


 自分が触れた時には、名札は軽すぎた。声も、手触りも、祈りも、表面には何も残っていなかった。奥に深さだけがあると分かったが、その底へは届かなかった。


 エルンは違った。


 彼は名札を両手で包まない。目を閉じて待つこともしない。

 名札をそっと片耳に当てた。


 貝殻を耳に当てて、海の音を聞くように。


 その姿はあまりにも自然で、ルカは思わず見入ってしまった。


 エルンの瞼が少し下りる。

 風が、彼の濡れているはずの髪を揺らした。

 名札に当てた耳の横で、割れた貝殻の欠片がかすかに光る。


 長い沈黙があった。


 ミリカが、息を止めている。


 ルカも、自分の指先に力が入っていることに気づいた。


 やがて、エルンが小さく言った。


「……泣いてる」


 ミリカの顔が強張った。


「お父さんが?」


 エルンはすぐには答えなかった。


 ルカが静かに尋ねる。


「誰が?」


 エルンは、名札を耳に当てたまま首を横に振った。


「名札じゃない」


 その声は、潮見小屋で聞いた時よりも確かだった。


「下にいる名が」


 浜のざわめきが止まった。


 名札は、ここにある。

 エルンの手の中にある。


 けれど彼が聞いているのは、名札そのものではない。


 ルカはそのことに、遅れて気づいた。


 自分は名札に残った響きを読む。

 漂着した札の表面に、まだ触れられるほどの声や祈りが残っている時、それを拾うことができる。水面に浮いた名、海から戻ってきた名なら、読める。


 けれど、エルンは違う。


 彼は、札を窓にしている。

 空っぽに見える名札の向こう側へ、耳を澄ましている。


 ルカには届かなかった底を、彼は聞いている。


「私は」


 ルカは、思わず口を開いた。


 自分でも、何を言おうとしているのか分からなかった。驚きなのか、悔しさなのか、安堵なのか。胸の中にいくつもの感情が同時に立ち上がり、どれも名になりきらない。


「私は、海から戻ってきた名なら読める」


 エルンは名札を耳に当てたまま、ルカを見た。


「うん」


「漂着した名とか、潮に触れた残響とか、仮名の揺らぎとか。名が混ざっているか、誰かを侵しているか。そういうものなら、分かる」


「うん」


「でも、これは戻ってきていない」


 ルカはミリカの名札を見た。


「空っぽに見える」


 その言葉を口にするのは、痛かった。


 名拾いが「空っぽに見える」と言うことは、ほとんど敗北を認めるようなものだった。

 けれど、今は隠しても仕方がない。


 エルンは、少しだけ首を傾けた。


「空っぽじゃない」


 静かな声だった。


「水面に届いてないだけだ」


 ルカは息を呑んだ。


 水面に届いていない。


 それは、ルカが第一節で感じたことを、まるで別の角度から言い換えた言葉だった。名はある。消えていない。けれど深すぎて読めない。


 ルカが手を伸ばして届かなかった場所を、エルンは最初から「水面の下」として捉えている。


「あなたには、見えるの?」


 ルカは訊いた。


 エルンは名札を耳から離し、手のひらの上に置いた。


 白い貝殻札は、変わらず白いままだった。文字も戻らない。ミリカの父の潮名も浮かばない。見た目には、何の変化もない。


 けれど、エルンの瞳だけが深く揺れていた。


「見えるんじゃない」


 彼は言った。


「下から、呼ばれる」


 ルカは、何も言えなくなった。


 見えているのではない。

 聞いているのでもない。

 呼ばれている。


 エルンにとって、沈んだ名は対象ではないのだ。読解するものでも、調査するものでもない。下から彼を呼ぶもの。彼自身のどこかへ沈んでくるもの。


「呼ばれるって、苦しくないの?」


 ミリカが、小さく訊いた。


 エルンは彼女を見た。


「少し」


「じゃあ、やめていい」


 その言葉に、ルカはミリカを見た。


 少女は泣きそうな顔をしていた。父の声を取り戻したい。けれど、そのために目の前の少年が苦しむのも怖い。十歳の心の中で、その二つがぶつかっているのが分かった。


 エルンは、しばらく黙っていた。


 そして、名札をもう一度耳に当てた。


「でも、やめると、もっと下に行く」


「お父さんが?」


「お父さんの名が」


 ミリカは名札を握る手を強めた。


 エルンの声は、説明ではなかった。

 ただ、今そこにある深さを言葉にしているだけだった。


「下にいる名は、呼ばれたい。でも、上が分からない。声が濁ってる。水が動かないから」


 セナ爺が険しい顔で問う。


「水が動かない?」


 エルンは頷いた。


「そこだけ、止まってる」


「潮が止まっているのか」


「潮だけじゃない」


 エルンは、言葉を探した。


 彼にとって当然の感覚を、地上の者たちへ渡すのは難しいらしい。眉がかすかに寄り、唇が何度か動く。


「名も、止まってる」


 その場の空気が、さらに冷えた。


 名が止まる。


 潮の民にとって、それは不吉な響きだった。名は流れるものだ。たとえ還らなくても、海に溶け、潮に運ばれ、誰かの夢や歌や記憶の奥で形を変える。止まった名は、祈りになれない。別れにもなれない。


 ルカは石囲いの中の七枚の名札を見た。


 七枚すべてが、同じように白い。

 見た目には違う素材なのに、同じ種類の空白をまとっている。


「ほかの名札も、同じ?」


 ルカが訊くと、エルンはミリカの名札を持ったまま、待ち場の七枚へ近づいた。


 セナ爺が警戒して一歩寄る。

 けれどエルンは名札を乱暴に扱わなかった。むしろ、ひとつひとつの前で足を止める。耳に当てる前に、指先で空気を確かめる。まるで、眠っている人を起こさないようにするみたいだった。


 一枚目。

 古い木札。


 エルンは耳に当てた。


「低い。男の人。船じゃなくて、岩場」


 その札を持ってきた老婆が、口元を押さえた。


「弟だ……岩場で落ちた、弟の潮名だよ」


 二枚目。

 潮紙を重ねた札。


「歌ってた。でも、途中で水が入った」


 若い母親が泣き出した。

 その札は、幼くして海へ流された子のものだったらしい。


 三枚目。

 骨片に潮布を巻いた札。


「怒ってる」


 セナ爺が眉を上げる。


「誰が」


「名が。まだ行きたくないって」


 持ち主らしい男が、俯いた。彼は両手を強く握っている。何か言いたげだったが、言えなかった。


 エルンは、それ以上は言わない。


 彼は説明しすぎない。

 分かっていないからだ。


 分かっているのは、そこに沈んでいる名の感触だけ。

 誰の人生だったのか、どんな死だったのか、遺族が何を悔いているのか。そういうことは、まだ読めない。あるいは、読もうとしていない。


 ルカはそれを見て、少しだけ安心した。


 もしエルンがすべて分かってしまう少年なら、怖かった。

 名も過去も未練も、何もかも見透かしてしまう存在なら、彼は人から遠すぎる。


 けれど、そうではない。


 エルンは万能ではない。

 沈んだ名に呼ばれるだけだ。

 その意味を、人の言葉へ翻訳するのは、まだ苦手なのだ。


 ルカは自分の胸に手を当てた。


 なら、もしかしたら。


 ルカが水面の名を読み、エルンが底の名を聞く。

 二つを合わせれば、沈んだ名の行き先に手が届くのかもしれない。


 四枚目に触れた時、エルンの身体が大きく揺れた。


「エルン!」


 ルカが支える。


 エルンは膝をつきかけ、名札を落とさないように両手で抱えた。その顔から血の気が引いている。瞳の奥の星のような光が、かすかに乱れていた。


「これは、だめ」


「何が?」


「深い」


 ルカは、その言葉に身体を強張らせた。


 深い。


 自分が第一節で感じた言葉と同じ。


「ミリカのお父さんの名より?」


 エルンは首を横に振った。


「種類が違う」


「どう違うの?」


「これは、沈んだんじゃない。沈めた」


 浜にいた者たちがざわついた。


 ルカは名札を見た。

 それは、一見何の変哲もない木札だった。端が少し削れ、紐がほつれている。文字は消え、白くなっている。


「誰の名札?」


 ルカが尋ねると、誰もすぐには答えなかった。


 やがて、若い名拾いが小さく言った。


「身元が分からない。三日前に戻った。誰が流した札なのか、浜では分からなかった」


「名主は?」


「不明だ。札の形も、この辺りのものじゃない」


 エルンは、その名札を見つめたまま、震える息を吐いた。


「これが、ほかを引いてる」


「この名札が?」


「名札じゃない。下にあるもの」


 エルンは、待ち場の名札を順に見た。


「みんな、同じところに引っかかってる。でも、この札の下だけ、もっと暗い。そこに、黒いものがある」


「黒いもの」


 ルカの脳裏に、祠の黒い箱が浮かんだ。


「箱と関係がある?」


 エルンは目を伏せた。


「箱は入口。黒いものは、底にある」


「それは何?」


「分からない」


 即答だった。


 その分からなさは、ルカにとって重要だった。


 エルンは、すべての答えを持っているわけではない。

 彼は地図ではない。

 ただ、ルカには聞こえない深さから呼ばれている少年なのだ。


 ルカは膝をつき、エルンの手元の木札を見た。


「私が触ってもいい?」


 エルンは少し考えたあと、頷いた。


「でも、読まないで」


 ルカは驚いて、エルンを見た。


 その言葉は、先ほどセナ爺が言ったものと同じだった。


「どうして?」


「呼ばれるから」


「私が?」


「うん」


 エルンは、木札をルカへ差し出した。


「これは、上を探してる。誰でもいいから、水面にしたがってる」


 意味は完全には分からない。

 けれど、危険だということだけは分かった。


 ルカは慎重に木札へ触れた。


 読まない。

 探さない。

 耳を澄ませない。


 ただ、触れる。


 それでも、冷たさは来た。


 白い木札の奥に、深い縦穴のような感覚がある。そこから、何かが上へ向かって手を伸ばしてくる。名ではない。声でもない。もっと形のない、渇いたもの。


 水面を探している。


 エルンの言葉が、遅れて理解できた。


 その名は、帰る場所を探しているのではない。

 自分を浮かべるために、誰かの記憶を水面として使おうとしている。


 ルカは慌てて手を離した。


 呼吸が荒くなる。


「今のは」


 エルンが木札をそっと石囲いへ戻した。


「泣いてない」


「じゃあ、何?」


「空いてる」


「空いてる?」


「うん。穴みたいに」


 ルカは木札から目を離せなかった。


 七枚の白い名札。

 そのうちの一枚だけが、他と違う。


 ミリカの父の名は、下で泣いている。

 ほかの名も、止められ、濁り、戻れずにいる。


 けれど、この一枚は穴だ。


 何かが、そこから他の名を引いている。


「セナ爺」


 ルカは立ち上がった。


「この札が流れ着いた場所は分かりますか」


 セナ爺は、若い名拾いを見た。


 若い名拾いは頷く。


「西の岩礁寄りだ。普通、あそこには名札は流れない。潮が沖へ抜ける場所だから」


「そこから、ほかの名札も戻った?」


「いや、ほかは待ち場の正面や、東の浅瀬だ。でも……」


 彼は言葉を切った。


「でも?」


「どの札も、戻る前の夜に、沖の水面が黒く見えたって言う者がいる」


 黒い水面。


 ルカはエルンを見る。


 エルンも同じことを考えたのか、ゆっくり海の方を向いていた。


 朝の海は明るい。

 けれど、ルカにはもう、その明るさが信じきれなかった。


 水面の下に何かがある。

 名を止め、声を濁らせ、遺族から記憶を奪いかけている何かが。


 ルカはミリカの方へ向き直った。


「ミリカ」


 少女はびくりとした。


「お父さんの名札、もう少しだけ預かっていい?」


 ミリカは胸に抱えた名札を見た。


「持っていくの?」


「まだ分からない。でも、これがないと、お父さんの名がどこで止まっているか探せないかもしれない」


 ミリカはしばらく黙っていた。


 子どもにとって、それは酷な頼みだった。

 父との最後のつながりかもしれない名札を、手放してほしいと言っているのだから。


 ルカは膝をついた。


「無理なら、いい。あなたの名札だから」


 ミリカは首を横に振った。


「お父さんの名札」


「うん」


「でも、お父さんを探すなら、ルカに持っててほしい」


 ミリカは名札を差し出した。


 けれど、手を離す直前に、涙がこぼれた。


「返してね」


 ルカは両手で名札を受け取った。


「返す」


「白いままじゃなくて?」


 その問いに、ルカは言葉を詰まらせた。


 戻せるとは、まだ言えない。


 エルンが、横から静かに言った。


「声を、探す」


 ミリカはエルンを見た。


「見つかる?」


「分からない」


 ミリカの顔が曇る。


 けれどエルンは、続けた。


「でも、泣いてる場所は分かる」


 それは慰めではない。

 けれど、嘘ではなかった。


 ミリカは涙を拭き、頷いた。


「じゃあ、そこまで行って」


 ルカは名札を潮紙の布に包み、胸元へしまった。


 その瞬間、遠くの入り江でナミル=レイの名灯が淡く光った。


 まだ見えない距離のはずなのに、ルカには分かった。

 船が呼んでいる。


 いや、違う。


 ナミル=レイも、下から呼ばれている。


「船へ行こう」


 ルカは言った。


 セナ爺が目を細める。


「今すぐか」


「はい。ナミル=レイの潮鏡なら、水面に映るものを見られます。私だけでは底までは読めない。でも、エルンが下から呼ばれているなら、潮鏡に何か映るかもしれない」


「その子を船に乗せる気か」


 セナ爺の声には、反対だけではなく心配があった。


 ルカはエルンを見た。


「乗れる?」


 エルンは少し考えた。


「船は、浮く?」


「うん」


「沈まない?」


「できれば沈まないようにしてる」


 ルカの返事に、場違いにも若い名拾いが小さく笑いそうになり、すぐに口を押さえた。


 エルンは真剣に頷いた。


「なら、乗る」


「怖くない?」


「分からない」


 彼は正直だった。


「でも、下に行くなら、水面がいる」


 ルカは、その言葉を胸の奥で受け止めた。


 水面。


 自分は、水面なのだろうか。


 エルンが底から呼ばれる者なら、ルカは水面から名を拾う者。

 沈んだ名が戻るためには、底だけでも、水面だけでも足りない。


 そのことを、ルカはまだ理屈ではなく、予感として知った。


 ヨルナ婆が、祠の方を振り返った。


「黒い箱はどうする」


 セナ爺が答える。


「ここで見張る。誰にも触れさせん」


「潮が動いたら?」


「鐘を鳴らす」


 ナラ=オルテには、漂着異変を知らせる古い鐘がある。普段はほとんど鳴らされない。浜の者たちの顔に緊張が走った。


 ルカはセナ爺へ頭を下げた。


「お願いします」


「頼むのはこっちだ」


 セナ爺は、しわの深い顔でルカを見た。


「お前は若い。だが、名拾いだ。浜の者が頼った以上、俺たちは見張ることしかできん。……ただし、無茶はするな」


「はい」


「読めないものを、ひとりで読もうとするな」


 ルカは一瞬、エルンを見た。


「はい」


 今度の返事は、さっきより少しだけ確かだった。


 ルカは歩き出した。


 エルンが隣に並ぶ。足取りはまだ頼りないが、待ち場に来た時よりは地面に慣れてきたようだった。ミリカの父の名札は、ルカの胸元で静かに冷えている。


 浜の人々が、また道を開ける。


 その視線の中を、ルカはナミル=レイのある入り江へ向かった。


 途中、エルンがふいにルカを見た。


「ルカ」


「なに?」


「君の名は、浮いてる」


 ルカは足を止めた。


「え?」


 エルンは、何気ないことのように言った。


「沈んでない。でも、底に影がある」


 潮風が、ルカの髪を揺らした。


 胸の奥で、あの痛みがまた鳴る。


 自分の名に似た響きを、潮の中で聞いたことがある。

 でも、自分自身の本当の名は読めない。


「それは……どういう意味?」


 ルカが尋ねると、エルンは少し困ったように眉を寄せた。


「分からない」


 彼は、やはり説明係ではなかった。


 ただ、見えない底から呼ばれるものを、ありのままに口にするだけだった。


「でも」


「でも?」


「君も、少し泣いてる」


 ルカは何も言えなかった。


 その言葉が、自分のことなのか、自分の名のことなのか、分からなかったからだ。


 入り江の方から、ナミル=レイの名札が一斉に鳴った。


 風はない。


 それでも、船は鳴っていた。


 まるで水面そのものが、底から呼ばれた声に応えようとしているように。

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