第一節 ― 戻らない名札
少年は、浜辺の潮見小屋へ運ばれた。
ナラ=オルテの浜には、漂着物を見張るための小屋がいくつかある。白く乾いた流木を組み、屋根に海藻を編んだ素朴な小屋で、壁には拾得を待つ名札や、拾ってはならない漂着物の印が掛けられていた。
その一番古い小屋に、少年は寝かされた。
敷かれたのは、潮を通しにくい厚布だった。誰かが焚き火を起こし、誰かが温めた貝湯を持ってきた。だが、少年の身体は不思議なほど濡れていなかった。髪は水を含んでいるように見えるのに、布へ雫は落ちない。服も肌に貼りついているのに、砂も水も吸っていない。
まるで、海から引き上げられたのではなく、海の記憶だけをまとって現れたみたいだった。
少年は目を閉じていた。
息はある。
かすかだが、胸は上下している。
けれど、その呼吸は浜の空気を吸っているというより、水の底に残した何かと細い糸でつながっているように、遠かった。
ルカは少年の手を離せなかった。
さっきまで自分が握っていた手だ。冷たかった。氷のように、ではない。氷なら、外から冷たさが刺してくる。少年の手は違った。内側に深い水を抱えていて、触れた者の体温を少しずつ底へ沈めていくような冷たさだった。
今は、その手が厚布の上に置かれている。
細い指。
爪の際に残る、青白い光。
手首には、黒い紐の跡のようなものがあった。
海藻ではない。
縄でもない。
何かに結ばれていた痕。
ルカがそれを見つめていると、セナ爺が低く言った。
「ルカ。あまり近くに寄るな」
小屋の中には、セナ爺のほかに、二人の名拾いと、潮見役の老婆がいた。外では浜の者たちがざわめいている。誰も大声は出さない。けれど、黒い箱と少年を見たあとの浜は、波音だけでは隠しきれない緊張に包まれていた。
「この子は、漂着者なんでしょうか」
ルカは尋ねた。
セナ爺はすぐには答えなかった。
焚き火にかけられた小鍋が、小さく鳴っている。貝と海草を煮た匂いが小屋に満ちていた。普通なら、冷えた身体を温める匂いだ。けれど今は、その温かささえ少年の冷たさに近づけずにいるようだった。
「漂着者なら、潮が連れてくる」
セナ爺は言った。
「けれど、あれは箱から出た」
潮見役の老婆が、壁際の椅子に腰かけたまま頷いた。
老婆の名はヨルナといった。浜の者たちは、彼女をヨルナ婆と呼ぶ。片目が白く濁っているが、潮の色を読む力は誰よりも確かだという。
「箱から出た者は、拾ってよい者とは限らないよ」
その声には、ルカを責める響きはなかった。
だが、警告はあった。
「でも、あの手を放していたら」
「沈んでいたろうね」
ヨルナ婆は、少年の顔を見た。
「沈んでいるべきものだったのか、沈められていたものだったのか。それが分からない」
沈んでいるべきもの。
その言葉に、ルカは胸の奥がざらりとした。
名拾いは、沈んだものを何でも引き上げるわけではない。海へ還った名を、むやみに地上へ戻してはならない。死者の名、捨てられた名、捧げられた名、忘れたいと願われた名。そういうものまで拾い上げれば、名は祈りではなく、傷になる。
だから、ルカはいつも確かめる。
この名は、戻りたがっているのか。
それとも、海に抱かれたままでよいのか。
けれど、あの黒い箱に触れたとき、そんな問いを立てる余裕はなかった。
手があった。
水の底から伸びてきた手があった。
だから掴んだ。
それが正しかったのかどうかを、ルカはまだ分からない。
「……黒い箱は?」
ルカが聞くと、セナ爺は戸口の方を顎で示した。
「浜の祠へ移した。まだ誰にも触れさせておらん。お前が触れたあと、文字はひとつだけ残ったが、読める者はいない」
「潮文字でした」
「あれを潮文字と呼べるならな」
セナ爺の声は渋かった。
「古すぎる。ネリュエの還名式でもない。ナラ=オルテに伝わる漂着記号でもない。あれは……海のもっと底の字だ」
海のもっと底の字。
ルカは少年を見た。
少年は眠っている。だが、その瞼の下で、何かを見ているようだった。朝の光が小屋の隙間から差し込み、彼の頬に細い線を作る。その顔立ちは静かで、整っていた。けれど、生きている人間特有のあたたかな曖昧さが薄い。
貝殻の内側に残った、誰かの横顔。
そんな印象があった。
「ルカ」
外から、控えめな声がした。
戸口に立っていたのは、浜の若い名拾いだった。年は二十歳前後。濡れた髪を布で結び、腰には名札を入れる籠を提げている。ルカとは昨日の夕方、ナミル=レイを入り江へ繋いだ時に少し話した。
「入っていいか」
セナ爺が頷くと、彼は戸口から半歩だけ中へ入った。完全には入らない。漂着した少年を恐れているのではない。小屋の中に満ちている“分からなさ”を乱したくないのだろう。
「浜の者が集まってる。黒い箱のこともあるけど……それだけじゃない」
「それだけじゃない?」
ルカが聞き返すと、若い名拾いは唇を結んだ。
セナ爺が、深いため息をついた。
「話すしかないか」
「何をですか」
ルカは不安になった。
黒い箱。
箱から出た少年。
読めない潮文字。
それだけでも、十分すぎるほど異常だった。けれど、セナ爺たちの顔には、それより前から抱えていた疲れがあった。突然の怪異に驚いているだけではない。もっと長く、何かを見ないふりをしてきた者の顔だった。
ヨルナ婆が立ち上がった。
「ルカ。外へおいで。あんたに見せるものがある」
ルカは少年を振り返った。
彼の指が、ほんの少し動いた気がした。
気のせいかもしれない。
けれど、ルカが目を離そうとした瞬間、その指先が何かを探すように、布を撫でた。
「この子は」
「見ているよ」
ヨルナ婆が言った。
「眠っている者の名を、勝手に覗いてはいけない。いまは寝かせておやり」
ルカは迷ったが、頷いた。
小屋を出ると、朝の光が一気に目に入った。
夜明けはもう終わりかけている。空は淡い青へ変わり、海の上には細かな光が散っていた。だが、浜にいる人々の表情は明るくない。漁師、潮見役、名拾い、子どもを抱えた母親、網を繕う手を止めた老人。誰もが、ルカを見る。
名拾いの少女。
メルナ=レイのナミル=レイに乗る、潮から名を拾う子。
昨日まではそう見られていたはずだ。
けれど今は違う。
黒い箱を開けた者。
海の底から少年を引き上げた者。
その視線が、ルカの肩に重く乗った。
ルカは小さく息を吸った。潮の匂いが肺に入る。海藻と、濡れた砂と、焚き火と、漂着物の古い匂い。その中に、かすかに腐りかけた木の匂いが混じっていた。
ヨルナ婆が浜の端へ歩き出す。
「こっちだよ」
浜の西側には、漂着物を一時的に置く石囲いがあった。低い石を円形に並べ、その内側に、三度潮に洗われたあとも残ったものだけを置く場所だ。人々はそれを《待ち場》と呼んでいる。
待ち場には、いくつもの名札が並んでいた。
ルカは足を止めた。
名札。
大きさも形もばらばらだ。貝殻札、木札、潮紙を固めた札、骨片に潮布を巻いたもの。普通なら、名札には何かが残っている。文字が削れても、結び紐がほどけても、潮に触れた名のかすかな響きがある。
だが、そこに並んでいる名札は、どれも白かった。
白いというより、抜けていた。
文字が消えているだけではない。
傷も、匂いも、手触りも、呼ばれた記憶も、何かが不自然に薄い。
「これは……」
「戻ってきたものじゃない」
ヨルナ婆は言った。
「戻れなかったものの、殻だ」
ルカは、名札の前に膝をついた。
手を伸ばす前に、いつもなら聞こえるはずのものがある。かすかな音。紙の繊維に残った呼吸。木の年輪に染みた声。貝殻の裏に反射する、誰かがその名を呼んだ時の温度。
それがない。
いや、正しくは、表面にはない。
ルカは唇を噛んだ。
「いつからですか」
若い名拾いが答えた。
「最初は、半月ほど前だ。還名儀式に流した札が、一枚、空で戻った」
「空で?」
「名前を書いたはずなのに、真っ白になっていた。潮で削れたのかと思った。そういうことは、たまにある。海が名を受け取った証だって言う者もいる」
ルカは頷いた。
名札が白く戻ること自体は、異常ではない。名が完全に海へ還った時、札だけが空になって戻ることがある。それは不吉ではなく、むしろ安堵として受け取られる。
名はもう苦しんでいない。
持ち主へ戻るのではなく、海へ還ることを選んだ。
そういう名もある。
だが、目の前の名札は違う。
「これは、還った白さじゃない」
ルカは思わず呟いた。
ヨルナ婆が、片目でルカを見た。
「分かるかい」
「……はい」
ルカは名札に指を近づけた。まだ触れない。ただ、表面の気配を確かめる。
「還った名札は、白くてもあたたかいです。声が消えていても、見送られた感じが残る。けれど、これは……」
言葉を探した。
白い。
けれど、清められていない。
空っぽ。
けれど、解放されていない。
まるで、中身だけをどこかへ引き抜かれて、札の形だけが水面に浮かんできたようだった。
「沈んでいます」
ルカは言った。
「名は、この札に戻っていない。けれど、消えたわけでもない。たぶん、まだどこかで……」
言いながら、自分の声が少し震えるのが分かった。
「まだ、沈んでいる」
浜にいた者たちが、ざわめいた。
その言葉を、みんな恐れていたのだろう。けれど、誰かが口にするまでは、ただの不安でいられた。名拾いであるルカが言ってしまえば、それはもう不安ではなく、事件になる。
セナ爺が目を伏せた。
「やはりか」
「セナ爺は、そう思っていたんですね」
「思いたくはなかった」
セナ爺の声は、海風に削られたように低かった。
「名が戻らないことはある。戻らぬまま海に抱かれることもある。だが、戻るはずだった名が、途中で止まるのは別だ」
「途中で……止まる」
「そうだ」
ヨルナ婆が、石囲いの外に立つ人々へ目を向けた。
「だから皆、あんたを待っていた。ナミル=レイが来たなら、読めるかもしれないと」
ルカは黙った。
期待されている。
頼られている。
それは名拾いとして、嬉しいことのはずだった。自分の力が誰かの役に立つなら、それはルカが船に乗る理由でもある。
けれど、今は胸が重かった。
読めるかもしれない。
そう思われているものを、読めなかったら。
自分は何を返せるのだろう。
「ルカ」
小さな声がした。
人垣の隙間から、ひとりの少女が出てきた。
十歳くらいだろうか。髪は潮風で少し乱れ、細い三つ編みの先に青い貝殻が結ばれている。日に焼けた頬には、泣いたあとの赤みが残っていた。服は質素だが、胸元には小さな潮鈴がついている。
少女は両手で、一枚の白い名札を抱えていた。
抱えている、というより、落とさないように必死で押さえているようだった。
「ミリカ」
若い名拾いが、少女の肩に手を置こうとした。
だが少女は首を振った。
「私が言う」
その声は震えていた。
けれど、逃げなかった。
ルカは膝をついたまま、少女と目線を合わせた。
「あなたが、ミリカ?」
少女は頷いた。
「ミリカ=トウル」
自分の名は言えた。
けれど、そのあと唇を噛んだ。
「お父さんの名札が、戻らないの」
ルカは、少女の手の中の名札を見た。
貝殻札だった。細長い白貝の内側を磨き、そこに潮紙を貼っている。紐は青と灰色の二色。青は海へ送る名。灰色は、帰らぬ者を待つ家の色。
「お父さんは、海で?」
ルカの問いに、ミリカは頷いた。
「嵐の夜。船が戻らなかった。船の欠片は、少しだけ戻った。でも、お父さんは戻らなかった」
声は淡々としていた。何度も説明したことがある声だった。泣きすぎて、泣き方を覚えてしまった子どもの声。
「だから、名札を流したの。お母さんと、私と、おじいちゃんで。お父さんの本当の名じゃなくて、船で使っていた潮名を書いた。ちゃんと、潮見役に見てもらって、ネリュエの祈りもした」
潮名。
本名を海へそのまま流すことは、ナラ=オルテでも避けられる。海に本名を固定してしまえば、戻るべき魂まで潮に縛られると信じられているからだ。だから、海へ送るのは潮名。船の上で使った名、仲間に呼ばれた名、海と結んだ仮の輪郭。
ミリカの父も、潮名を流されたのだろう。
「本当なら」
ミリカは名札を強く握った。
「本当なら、お父さんの名は、夢か、歌か、潮騒で戻るって。全部じゃなくてもいいって。お父さんがちゃんと海に行けたなら、何か残るって」
ルカは頷いた。
その通りだ。
海は死者を返さない。
けれど、名の形で別れを返すことがある。
夢の中で、最後に呼ばれた声。
朝の潮騒に混ざる船歌。
漂着した貝殻に残る手のぬくもり。
そういうものを、人は「戻った」と呼ぶ。
戻ったから生き返るのではない。
戻ったから、ようやく別れを受け取れる。
ミリカは名札を差し出した。
「でも、何も戻らない」
ルカは受け取らなかった。
すぐには触れなかった。
ミリカの手が震えている。名札の白さより、その震えの方が痛かった。
「昨日の夜ね」
ミリカは続けた。
「お父さんの声を思い出そうとしたの。寝る前に、いつもみたいに。私、お父さんの声を忘れないようにしてた。朝に魚籠を持ってくるときの声とか、船を出す前に私を呼ぶ声とか、嵐の前に歌ってた歌とか」
言葉が詰まった。
けれど、ミリカは泣かなかった。
「でも、思い出せなかった」
ルカの胸が、きゅっと縮んだ。
「顔は分かるの。手も分かる。笑った時に、右の頬だけへこむのも分かる。でも、声が分からないの。どんな声だったか、思い出そうとすると、波の音だけになる」
ミリカはルカを見た。
十歳の子どもの目ではなかった。
喪失の意味を、年齢より早く知ってしまった者の目だった。
「お父さん、海に行ったんじゃないの?」
その問いに、浜の誰も答えなかった。
ミリカの声が、さらに細くなる。
「海って、返してくれるんじゃないの?」
ルカは何か言おうとした。
けれど、言葉が出てこなかった。
「じゃあ」
ミリカの目に、ようやく涙が溜まった。
「どうして声までなくなるの?」
波の音が、遠くなった気がした。
ルカは少女の手元を見た。白い名札。その中に、本来なら父の潮名があったはずだ。名そのものではない。けれど、呼ばれた日々の残響があったはずだ。
それが、なくなっている。
ミリカが悲しんでいるのは、父が死んだことだけではない。
父を見送るための最後の手触りまで、誰かに奪われようとしていることだった。
ルカは、そっと両手を差し出した。
「見せてくれる?」
ミリカは頷いた。
名札が、ルカの手に乗る。
軽かった。
あまりにも軽い。
名札は本来、重さを持つ。木や貝や紙の重さではない。呼ばれた時間の重さ。結ばれた祈りの重さ。書いた人の手の熱や、流す時にこぼれた涙の重さ。
けれど、この名札には、それがほとんどなかった。
ルカは目を閉じた。
名を読む時、最初にするのは、探すことではない。待つことだ。こちらからこじ開けるのではなく、名がこちらへ浮かび上がるのを待つ。潮は急かされると濁る。記憶は掴もうとすると逃げる。
ルカは、名札を両手で包んだ。
潮の匂い。
貝殻の冷たさ。
ミリカの指の震え。
焚き火の煙。
浜の人々の沈黙。
その奥へ、耳を澄ませる。
最初に聞こえたのは、波だった。
ざあ、と寄せる波。
ざあ、と引く波。
それだけ。
ルカはさらに深く、名札に意識を沈めた。
普通なら、ここで何かが触れる。欠けた言葉でもいい。笑い声の端でもいい。船の名を呼ぶ仲間の声でもいい。潮名を書いた瞬間の筆圧でもいい。
だが、何も上がってこない。
かわりに、下へ引かれる。
ルカの指先から、冷たいものが入ってきた。名札の中に穴がある。そこから下へ、下へ、見えない糸が伸びている。
名がないのではない。
消えたのでもない。
ルカは息を詰めた。
深い。
あまりにも深い。
名札一枚に残るはずの名が、まるで海底の裂け目に沈み込んでいる。水面から覗き込んでも底が見えない。そこに名があることだけは分かる。けれど、手が届かない。
さらに読もうとした瞬間、ルカの胸の奥が鈍く痛んだ。
知らない男の背中が見えた。
嵐の前の灰色の海。
濡れた帆綱。
子どもを呼ぼうとした口の形。
けれど、声だけがない。
声のあった場所に、黒い水が詰まっている。
ルカは目を開けた。
息が乱れていた。
「ルカ?」
ミリカが不安そうに呼んだ。
ルカは答えようとして、すぐには声が出なかった。自分の喉にも水が入ったような感覚があった。名札から流れ込んだ冷たさが、胸の奥で小さく渦を巻いている。
セナ爺が、ルカの肩に手を置いた。
「読めたか」
ルカは首を横に振った。
ミリカの顔が、さらに白くなる。
ルカは慌てて言った。
「違うの。何もないわけじゃない」
ミリカの目が揺れる。
「お父さん、いないの?」
「いないんじゃない」
ルカは名札を見つめた。
自分の言葉を間違えてはいけないと思った。
ここで慰めるだけの嘘をつけば、ミリカはその嘘にすがってしまう。けれど、冷たい事実だけを渡せば、この子は父の声をもう一度失う。
ルカは、名札を胸の前に持った。
「名は、ある。たぶん、まだ沈んでる。消えたんじゃない。でも……」
言葉が喉で止まる。
読めない。
名拾いなのに。
名を拾うために船に乗っているのに。
ルカは、ミリカを見た。
「ごめんなさい。今の私には、深すぎて読めない」
ミリカは瞬きをした。
涙が一粒、頬を落ちた。
「深いって、海の底?」
「分からない。でも、水面には戻ってきていない。夢にも、歌にも、漂着物にもなっていない。どこかで止まっている」
「止まってる?」
ミリカの声に、恐れが混じった。
「じゃあ、お父さん、そこから動けないの?」
ルカは答えられなかった。
その沈黙が、答えになってしまうことを知っていたのに。
浜の人々のざわめきが、また広がる。
戻らない名札。
沈んだままの名。
声を忘れ始めた遺族。
それは、ただの不思議ではない。
この浜で暮らす人々の、死者との別れ方そのものを壊している。
ヨルナ婆が低く呟いた。
「一枚だけなら、名の迷いと言えた。二枚なら、潮の機嫌とも言えた。だが、もう七枚だ」
「七枚?」
ルカは顔を上げた。
セナ爺が重く頷いた。
「この半月で、空の名札が七枚戻った。戻るはずだった名は、どれも戻らん。夢にも出ない。歌にもならん。家の灯籠も応えない」
七枚。
その数に、ルカの胸の奥が小さく鳴った。
意味があるのかは分からない。
けれど、潮の物語で七という数が偶然であることは少ない。
「なぜ、もっと早く知らせなかったんですか」
ルカは思わず言った。
責めるつもりはなかった。けれど、声には少しだけ鋭さが混じった。
若い名拾いが目を伏せる。
「知らせようとした。メルナ=レイにも、潮名預かりの船にも。でも、誰もはっきり異変だと言えなかったんだ」
「なぜ」
「名が戻らないことは、あるから」
ヨルナ婆が代わりに答えた。
「海へ送った名が、必ず形になって戻るわけじゃない。戻らぬまま、静かに海へ溶けることもある。その時、遺された者が『戻らなかった』と泣くのは自然なことだ。だから、あたしたちは最初、それを事件にしたくなかった」
その気持ちは、ルカにも分かった。
海の祈りは繊細だ。誰かの名が戻らなかった時、それをすぐ異常だと言えば、遺族は「見送れなかった」と責められているように感じるかもしれない。名拾いも潮見役も、死者と遺された者のあいだに、無遠慮に踏み込んではならない。
けれど。
「声まで消えるのは、違う」
ルカは言った。
ヨルナ婆は、静かに頷いた。
「そうだ。だから、あんたを呼ぼうとした」
「でも、私が来る前に、黒い箱が流れ着いた」
「流れ着いたのではないよ」
ヨルナ婆の白い片目が、浜の祠の方を向いた。
「置かれたんだ。きっとね」
ルカの手の中で、ミリカの父の名札がかすかに震えた。
風のせいではない。
ルカは名札を見下ろした。
今、ほんの一瞬。
名札の奥の深い水の底で、何かが鳴った。
鐘。
あの黒い箱の中で聞いた音と同じだった。
ルカは思わず、潮見小屋の方を振り返った。
小屋の戸口は閉じている。中には、海底から来た少年が眠っている。名前を水の底に置いてきたと言った少年。
彼なら。
そう思った瞬間、ルカは自分でその考えに驚いた。
なぜ、そう思ったのだろう。
あの少年のことを、まだ何も知らない。名前も、出自も、なぜ箱から現れたのかも。助けを求めていたのか、何かを連れてきたのかさえ分からない。
それなのに、ルカは感じていた。
この名札の深さと、あの少年の瞳の深さは似ている。
水面からは届かない場所。
ルカの手では読めない場所。
けれど、誰かがそこからこちらを見上げている場所。
「ルカ?」
ミリカが、不安そうに名を呼んだ。
ルカははっとして、少女を見る。
ミリカは、父の名札ではなく、ルカの顔を見ていた。
この子にとって、ルカが読めるかどうかが、父の声へ続く最後の道なのだ。
その重さを、ルカは両手で受け止めた。
「ミリカ」
「うん」
「今は、まだ読めない」
ミリカの唇が震えた。
ルカは続けた。
「でも、読めないから終わりにはしない。名があるなら、探す。沈んでいるなら、水面まで呼ぶ方法を探す」
「本当に?」
「本当」
「お父さんの声、戻る?」
その問いに、ルカはすぐに「戻る」とは言えなかった。
戻るかどうかは分からない。
声が完全に戻るとは限らない。
名が帰ってきても、失われた時間は戻らない。
けれど、今この子に渡すべきなのは、結果の保証ではなく、見捨てないという約束だった。
「全部は、戻らないかもしれない」
ルカは正直に言った。
ミリカの目が潤む。
「でも、何もなかったことにはさせない」
ルカは名札をそっとミリカへ返した。
「あなたが覚えていた声を、海が勝手に奪っていいはずがない」
ミリカは名札を受け取り、胸に抱いた。
泣き出すかと思った。
けれど少女は、唇を強く結んで頷いた。
「待つ」
「うん」
「でも、忘れちゃう前に、お願い」
その言葉は、ルカの胸に刺さった。
忘れちゃう前に。
名は、失われた瞬間だけが危険なのではない。
忘れていく時間もまた、名を削っていく。
ルカは立ち上がった。
海を見る。
ナラ=オルテの沖は、何事もないように光っていた。朝日を受けて、波は柔らかく揺れている。魚影が走り、海鳥が低く飛び、漁船の帆が遠くで白く膨らんでいる。
こんなにも普通の海なのに。
その下で、名が止まっている。
夢にもならず。
歌にもならず。
漂着物にもならず。
ただ、深すぎる場所で、声を失いながら沈んでいる。
ルカは、自分の手を見た。
名札を包んでいた指先が、まだ冷たい。そこには何も付いていない。水も、血も、潮文字も。けれど、さっき触れた深さだけが、皮膚の内側に残っている。
名がないのではない。
深すぎて、読めない。
その事実は、ルカにとって初めての壁だった。
今までにも、読みにくい名はあった。混ざった名、傷ついた名、怒っている名、戻りたくない名。けれど、それらは少なくとも水面の近くにいた。ルカが手を伸ばせば、向こうも何かを返してくれた。
今度は違う。
手を伸ばしても、届かない。
呼んでも、返らない。
ならば。
ルカは潮見小屋を見た。
閉じた戸の向こうに、海底から現れた少年がいる。
名前を水の底に置いてきた少年。
ルカが読めなかった深さと同じものを、瞳の奥に沈めていた少年。
そのとき、小屋の中で何かが落ちる音がした。
木椀か、貝皿か。
軽いものが床に転がる音。
続いて、短いざわめき。
セナ爺が顔色を変え、戸口へ向かう。ルカも反射的に走り出した。ミリカが名札を抱えたまま、あとを追おうとして、ヨルナ婆に止められる。
小屋の戸が開いた。
中から、潮見役の一人が飛び出してきた。
「目を覚ました!」
ルカは小屋へ駆け込んだ。
少年は、寝台代わりの厚布の上で半身を起こしていた。
貝湯の椀が床に転がっている。焚き火の光が彼の横顔を照らし、濡れているはずの髪に青白い影を落としていた。
少年は息を荒げていない。怯えているようにも見えない。
ただ、何かを聞いていた。
小屋の外。
浜の向こう。
海のさらに下。
ルカが近づくと、少年はゆっくりと顔を上げた。
その瞳が、ルカを通り越して、彼女の手に残った冷たさを見たように揺れる。
「……泣いてる」
少年が言った。
ルカは足を止めた。
「誰が?」
少年は小屋の外を見た。
そこには、ミリカがいる。
白い名札を胸に抱いたまま、戸口の向こうで震えている。
けれど少年は、ミリカを見ているのではなかった。
「名札じゃない」
彼の声は、まだ掠れている。
それでも、潮音より深く響いた。
「下にいる名が、泣いてる」
小屋の中が、しんと静まり返った。
ルカは、息をするのを忘れた。
読めなかった深さの底から、誰かが初めて声を返した気がした。




