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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第2話 沈んだ名は、海底の少年を呼んだ
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第一節 ― 戻らない名札

 少年は、浜辺の潮見小屋へ運ばれた。


 ナラ=オルテの浜には、漂着物を見張るための小屋がいくつかある。白く乾いた流木を組み、屋根に海藻を編んだ素朴な小屋で、壁には拾得を待つ名札や、拾ってはならない漂着物の印が掛けられていた。


 その一番古い小屋に、少年は寝かされた。


 敷かれたのは、潮を通しにくい厚布だった。誰かが焚き火を起こし、誰かが温めた貝湯を持ってきた。だが、少年の身体は不思議なほど濡れていなかった。髪は水を含んでいるように見えるのに、布へ雫は落ちない。服も肌に貼りついているのに、砂も水も吸っていない。


 まるで、海から引き上げられたのではなく、海の記憶だけをまとって現れたみたいだった。


 少年は目を閉じていた。


 息はある。

 かすかだが、胸は上下している。


 けれど、その呼吸は浜の空気を吸っているというより、水の底に残した何かと細い糸でつながっているように、遠かった。


 ルカは少年の手を離せなかった。


 さっきまで自分が握っていた手だ。冷たかった。氷のように、ではない。氷なら、外から冷たさが刺してくる。少年の手は違った。内側に深い水を抱えていて、触れた者の体温を少しずつ底へ沈めていくような冷たさだった。


 今は、その手が厚布の上に置かれている。


 細い指。

 爪の際に残る、青白い光。

 手首には、黒い紐の跡のようなものがあった。


 海藻ではない。

 縄でもない。

 何かに結ばれていた痕。


 ルカがそれを見つめていると、セナ爺が低く言った。


「ルカ。あまり近くに寄るな」


 小屋の中には、セナ爺のほかに、二人の名拾いと、潮見役の老婆がいた。外では浜の者たちがざわめいている。誰も大声は出さない。けれど、黒い箱と少年を見たあとの浜は、波音だけでは隠しきれない緊張に包まれていた。


「この子は、漂着者なんでしょうか」


 ルカは尋ねた。


 セナ爺はすぐには答えなかった。


 焚き火にかけられた小鍋が、小さく鳴っている。貝と海草を煮た匂いが小屋に満ちていた。普通なら、冷えた身体を温める匂いだ。けれど今は、その温かささえ少年の冷たさに近づけずにいるようだった。


「漂着者なら、潮が連れてくる」


 セナ爺は言った。


「けれど、あれは箱から出た」


 潮見役の老婆が、壁際の椅子に腰かけたまま頷いた。


 老婆の名はヨルナといった。浜の者たちは、彼女をヨルナ婆と呼ぶ。片目が白く濁っているが、潮の色を読む力は誰よりも確かだという。


「箱から出た者は、拾ってよい者とは限らないよ」


 その声には、ルカを責める響きはなかった。

 だが、警告はあった。


「でも、あの手を放していたら」


「沈んでいたろうね」


 ヨルナ婆は、少年の顔を見た。


「沈んでいるべきものだったのか、沈められていたものだったのか。それが分からない」


 沈んでいるべきもの。


 その言葉に、ルカは胸の奥がざらりとした。


 名拾いは、沈んだものを何でも引き上げるわけではない。海へ還った名を、むやみに地上へ戻してはならない。死者の名、捨てられた名、捧げられた名、忘れたいと願われた名。そういうものまで拾い上げれば、名は祈りではなく、傷になる。


 だから、ルカはいつも確かめる。


 この名は、戻りたがっているのか。

 それとも、海に抱かれたままでよいのか。


 けれど、あの黒い箱に触れたとき、そんな問いを立てる余裕はなかった。


 手があった。


 水の底から伸びてきた手があった。


 だから掴んだ。


 それが正しかったのかどうかを、ルカはまだ分からない。


「……黒い箱は?」


 ルカが聞くと、セナ爺は戸口の方を顎で示した。


「浜の祠へ移した。まだ誰にも触れさせておらん。お前が触れたあと、文字はひとつだけ残ったが、読める者はいない」


「潮文字でした」


「あれを潮文字と呼べるならな」


 セナ爺の声は渋かった。


「古すぎる。ネリュエの還名式でもない。ナラ=オルテに伝わる漂着記号でもない。あれは……海のもっと底の字だ」


 海のもっと底の字。


 ルカは少年を見た。


 少年は眠っている。だが、その瞼の下で、何かを見ているようだった。朝の光が小屋の隙間から差し込み、彼の頬に細い線を作る。その顔立ちは静かで、整っていた。けれど、生きている人間特有のあたたかな曖昧さが薄い。


 貝殻の内側に残った、誰かの横顔。


 そんな印象があった。


「ルカ」


 外から、控えめな声がした。


 戸口に立っていたのは、浜の若い名拾いだった。年は二十歳前後。濡れた髪を布で結び、腰には名札を入れる籠を提げている。ルカとは昨日の夕方、ナミル=レイを入り江へ繋いだ時に少し話した。


「入っていいか」


 セナ爺が頷くと、彼は戸口から半歩だけ中へ入った。完全には入らない。漂着した少年を恐れているのではない。小屋の中に満ちている“分からなさ”を乱したくないのだろう。


「浜の者が集まってる。黒い箱のこともあるけど……それだけじゃない」


「それだけじゃない?」


 ルカが聞き返すと、若い名拾いは唇を結んだ。


 セナ爺が、深いため息をついた。


「話すしかないか」


「何をですか」


 ルカは不安になった。


 黒い箱。

 箱から出た少年。

 読めない潮文字。


 それだけでも、十分すぎるほど異常だった。けれど、セナ爺たちの顔には、それより前から抱えていた疲れがあった。突然の怪異に驚いているだけではない。もっと長く、何かを見ないふりをしてきた者の顔だった。


 ヨルナ婆が立ち上がった。


「ルカ。外へおいで。あんたに見せるものがある」


 ルカは少年を振り返った。


 彼の指が、ほんの少し動いた気がした。


 気のせいかもしれない。

 けれど、ルカが目を離そうとした瞬間、その指先が何かを探すように、布を撫でた。


「この子は」


「見ているよ」


 ヨルナ婆が言った。


「眠っている者の名を、勝手に覗いてはいけない。いまは寝かせておやり」


 ルカは迷ったが、頷いた。


 小屋を出ると、朝の光が一気に目に入った。


 夜明けはもう終わりかけている。空は淡い青へ変わり、海の上には細かな光が散っていた。だが、浜にいる人々の表情は明るくない。漁師、潮見役、名拾い、子どもを抱えた母親、網を繕う手を止めた老人。誰もが、ルカを見る。


 名拾いの少女。

 メルナ=レイのナミル=レイに乗る、潮から名を拾う子。

 昨日まではそう見られていたはずだ。


 けれど今は違う。


 黒い箱を開けた者。

 海の底から少年を引き上げた者。


 その視線が、ルカの肩に重く乗った。


 ルカは小さく息を吸った。潮の匂いが肺に入る。海藻と、濡れた砂と、焚き火と、漂着物の古い匂い。その中に、かすかに腐りかけた木の匂いが混じっていた。


 ヨルナ婆が浜の端へ歩き出す。


「こっちだよ」


 浜の西側には、漂着物を一時的に置く石囲いがあった。低い石を円形に並べ、その内側に、三度潮に洗われたあとも残ったものだけを置く場所だ。人々はそれを《待ち場》と呼んでいる。


 待ち場には、いくつもの名札が並んでいた。


 ルカは足を止めた。


 名札。


 大きさも形もばらばらだ。貝殻札、木札、潮紙を固めた札、骨片に潮布を巻いたもの。普通なら、名札には何かが残っている。文字が削れても、結び紐がほどけても、潮に触れた名のかすかな響きがある。


 だが、そこに並んでいる名札は、どれも白かった。


 白いというより、抜けていた。


 文字が消えているだけではない。

 傷も、匂いも、手触りも、呼ばれた記憶も、何かが不自然に薄い。


「これは……」


「戻ってきたものじゃない」


 ヨルナ婆は言った。


「戻れなかったものの、殻だ」


 ルカは、名札の前に膝をついた。


 手を伸ばす前に、いつもなら聞こえるはずのものがある。かすかな音。紙の繊維に残った呼吸。木の年輪に染みた声。貝殻の裏に反射する、誰かがその名を呼んだ時の温度。


 それがない。


 いや、正しくは、表面にはない。


 ルカは唇を噛んだ。


「いつからですか」


 若い名拾いが答えた。


「最初は、半月ほど前だ。還名儀式に流した札が、一枚、空で戻った」


「空で?」


「名前を書いたはずなのに、真っ白になっていた。潮で削れたのかと思った。そういうことは、たまにある。海が名を受け取った証だって言う者もいる」


 ルカは頷いた。


 名札が白く戻ること自体は、異常ではない。名が完全に海へ還った時、札だけが空になって戻ることがある。それは不吉ではなく、むしろ安堵として受け取られる。


 名はもう苦しんでいない。

 持ち主へ戻るのではなく、海へ還ることを選んだ。


 そういう名もある。


 だが、目の前の名札は違う。


「これは、還った白さじゃない」


 ルカは思わず呟いた。


 ヨルナ婆が、片目でルカを見た。


「分かるかい」


「……はい」


 ルカは名札に指を近づけた。まだ触れない。ただ、表面の気配を確かめる。


「還った名札は、白くてもあたたかいです。声が消えていても、見送られた感じが残る。けれど、これは……」


 言葉を探した。


 白い。

 けれど、清められていない。

 空っぽ。

 けれど、解放されていない。


 まるで、中身だけをどこかへ引き抜かれて、札の形だけが水面に浮かんできたようだった。


「沈んでいます」


 ルカは言った。


「名は、この札に戻っていない。けれど、消えたわけでもない。たぶん、まだどこかで……」


 言いながら、自分の声が少し震えるのが分かった。


「まだ、沈んでいる」


 浜にいた者たちが、ざわめいた。


 その言葉を、みんな恐れていたのだろう。けれど、誰かが口にするまでは、ただの不安でいられた。名拾いであるルカが言ってしまえば、それはもう不安ではなく、事件になる。


 セナ爺が目を伏せた。


「やはりか」


「セナ爺は、そう思っていたんですね」


「思いたくはなかった」


 セナ爺の声は、海風に削られたように低かった。


「名が戻らないことはある。戻らぬまま海に抱かれることもある。だが、戻るはずだった名が、途中で止まるのは別だ」


「途中で……止まる」


「そうだ」


 ヨルナ婆が、石囲いの外に立つ人々へ目を向けた。


「だから皆、あんたを待っていた。ナミル=レイが来たなら、読めるかもしれないと」


 ルカは黙った。


 期待されている。

 頼られている。


 それは名拾いとして、嬉しいことのはずだった。自分の力が誰かの役に立つなら、それはルカが船に乗る理由でもある。


 けれど、今は胸が重かった。


 読めるかもしれない。

 そう思われているものを、読めなかったら。


 自分は何を返せるのだろう。


「ルカ」


 小さな声がした。


 人垣の隙間から、ひとりの少女が出てきた。


 十歳くらいだろうか。髪は潮風で少し乱れ、細い三つ編みの先に青い貝殻が結ばれている。日に焼けた頬には、泣いたあとの赤みが残っていた。服は質素だが、胸元には小さな潮鈴がついている。


 少女は両手で、一枚の白い名札を抱えていた。


 抱えている、というより、落とさないように必死で押さえているようだった。


「ミリカ」


 若い名拾いが、少女の肩に手を置こうとした。


 だが少女は首を振った。


「私が言う」


 その声は震えていた。

 けれど、逃げなかった。


 ルカは膝をついたまま、少女と目線を合わせた。


「あなたが、ミリカ?」


 少女は頷いた。


「ミリカ=トウル」


 自分の名は言えた。

 けれど、そのあと唇を噛んだ。


「お父さんの名札が、戻らないの」


 ルカは、少女の手の中の名札を見た。


 貝殻札だった。細長い白貝の内側を磨き、そこに潮紙を貼っている。紐は青と灰色の二色。青は海へ送る名。灰色は、帰らぬ者を待つ家の色。


「お父さんは、海で?」


 ルカの問いに、ミリカは頷いた。


「嵐の夜。船が戻らなかった。船の欠片は、少しだけ戻った。でも、お父さんは戻らなかった」


 声は淡々としていた。何度も説明したことがある声だった。泣きすぎて、泣き方を覚えてしまった子どもの声。


「だから、名札を流したの。お母さんと、私と、おじいちゃんで。お父さんの本当の名じゃなくて、船で使っていた潮名を書いた。ちゃんと、潮見役に見てもらって、ネリュエの祈りもした」


 潮名。


 本名を海へそのまま流すことは、ナラ=オルテでも避けられる。海に本名を固定してしまえば、戻るべき魂まで潮に縛られると信じられているからだ。だから、海へ送るのは潮名。船の上で使った名、仲間に呼ばれた名、海と結んだ仮の輪郭。


 ミリカの父も、潮名を流されたのだろう。


「本当なら」


 ミリカは名札を強く握った。


「本当なら、お父さんの名は、夢か、歌か、潮騒で戻るって。全部じゃなくてもいいって。お父さんがちゃんと海に行けたなら、何か残るって」


 ルカは頷いた。


 その通りだ。


 海は死者を返さない。

 けれど、名の形で別れを返すことがある。


 夢の中で、最後に呼ばれた声。

 朝の潮騒に混ざる船歌。

 漂着した貝殻に残る手のぬくもり。

 そういうものを、人は「戻った」と呼ぶ。


 戻ったから生き返るのではない。

 戻ったから、ようやく別れを受け取れる。


 ミリカは名札を差し出した。


「でも、何も戻らない」


 ルカは受け取らなかった。


 すぐには触れなかった。


 ミリカの手が震えている。名札の白さより、その震えの方が痛かった。


「昨日の夜ね」


 ミリカは続けた。


「お父さんの声を思い出そうとしたの。寝る前に、いつもみたいに。私、お父さんの声を忘れないようにしてた。朝に魚籠を持ってくるときの声とか、船を出す前に私を呼ぶ声とか、嵐の前に歌ってた歌とか」


 言葉が詰まった。


 けれど、ミリカは泣かなかった。


「でも、思い出せなかった」


 ルカの胸が、きゅっと縮んだ。


「顔は分かるの。手も分かる。笑った時に、右の頬だけへこむのも分かる。でも、声が分からないの。どんな声だったか、思い出そうとすると、波の音だけになる」


 ミリカはルカを見た。


 十歳の子どもの目ではなかった。

 喪失の意味を、年齢より早く知ってしまった者の目だった。


「お父さん、海に行ったんじゃないの?」


 その問いに、浜の誰も答えなかった。


 ミリカの声が、さらに細くなる。


「海って、返してくれるんじゃないの?」


 ルカは何か言おうとした。

 けれど、言葉が出てこなかった。


「じゃあ」


 ミリカの目に、ようやく涙が溜まった。


「どうして声までなくなるの?」


 波の音が、遠くなった気がした。


 ルカは少女の手元を見た。白い名札。その中に、本来なら父の潮名があったはずだ。名そのものではない。けれど、呼ばれた日々の残響があったはずだ。


 それが、なくなっている。


 ミリカが悲しんでいるのは、父が死んだことだけではない。

 父を見送るための最後の手触りまで、誰かに奪われようとしていることだった。


 ルカは、そっと両手を差し出した。


「見せてくれる?」


 ミリカは頷いた。


 名札が、ルカの手に乗る。


 軽かった。


 あまりにも軽い。


 名札は本来、重さを持つ。木や貝や紙の重さではない。呼ばれた時間の重さ。結ばれた祈りの重さ。書いた人の手の熱や、流す時にこぼれた涙の重さ。


 けれど、この名札には、それがほとんどなかった。


 ルカは目を閉じた。


 名を読む時、最初にするのは、探すことではない。待つことだ。こちらからこじ開けるのではなく、名がこちらへ浮かび上がるのを待つ。潮は急かされると濁る。記憶は掴もうとすると逃げる。


 ルカは、名札を両手で包んだ。


 潮の匂い。

 貝殻の冷たさ。

 ミリカの指の震え。

 焚き火の煙。

 浜の人々の沈黙。


 その奥へ、耳を澄ませる。


 最初に聞こえたのは、波だった。


 ざあ、と寄せる波。

 ざあ、と引く波。


 それだけ。


 ルカはさらに深く、名札に意識を沈めた。


 普通なら、ここで何かが触れる。欠けた言葉でもいい。笑い声の端でもいい。船の名を呼ぶ仲間の声でもいい。潮名を書いた瞬間の筆圧でもいい。


 だが、何も上がってこない。


 かわりに、下へ引かれる。


 ルカの指先から、冷たいものが入ってきた。名札の中に穴がある。そこから下へ、下へ、見えない糸が伸びている。


 名がないのではない。

 消えたのでもない。


 ルカは息を詰めた。


 深い。


 あまりにも深い。


 名札一枚に残るはずの名が、まるで海底の裂け目に沈み込んでいる。水面から覗き込んでも底が見えない。そこに名があることだけは分かる。けれど、手が届かない。


 さらに読もうとした瞬間、ルカの胸の奥が鈍く痛んだ。


 知らない男の背中が見えた。

 嵐の前の灰色の海。

 濡れた帆綱。

 子どもを呼ぼうとした口の形。

 けれど、声だけがない。


 声のあった場所に、黒い水が詰まっている。


 ルカは目を開けた。


 息が乱れていた。


「ルカ?」


 ミリカが不安そうに呼んだ。


 ルカは答えようとして、すぐには声が出なかった。自分の喉にも水が入ったような感覚があった。名札から流れ込んだ冷たさが、胸の奥で小さく渦を巻いている。


 セナ爺が、ルカの肩に手を置いた。


「読めたか」


 ルカは首を横に振った。


 ミリカの顔が、さらに白くなる。


 ルカは慌てて言った。


「違うの。何もないわけじゃない」


 ミリカの目が揺れる。


「お父さん、いないの?」


「いないんじゃない」


 ルカは名札を見つめた。


 自分の言葉を間違えてはいけないと思った。

 ここで慰めるだけの嘘をつけば、ミリカはその嘘にすがってしまう。けれど、冷たい事実だけを渡せば、この子は父の声をもう一度失う。


 ルカは、名札を胸の前に持った。


「名は、ある。たぶん、まだ沈んでる。消えたんじゃない。でも……」


 言葉が喉で止まる。


 読めない。

 名拾いなのに。

 名を拾うために船に乗っているのに。


 ルカは、ミリカを見た。


「ごめんなさい。今の私には、深すぎて読めない」


 ミリカは瞬きをした。


 涙が一粒、頬を落ちた。


「深いって、海の底?」


「分からない。でも、水面には戻ってきていない。夢にも、歌にも、漂着物にもなっていない。どこかで止まっている」


「止まってる?」


 ミリカの声に、恐れが混じった。


「じゃあ、お父さん、そこから動けないの?」


 ルカは答えられなかった。


 その沈黙が、答えになってしまうことを知っていたのに。


 浜の人々のざわめきが、また広がる。

 戻らない名札。

 沈んだままの名。

 声を忘れ始めた遺族。


 それは、ただの不思議ではない。

 この浜で暮らす人々の、死者との別れ方そのものを壊している。


 ヨルナ婆が低く呟いた。


「一枚だけなら、名の迷いと言えた。二枚なら、潮の機嫌とも言えた。だが、もう七枚だ」


「七枚?」


 ルカは顔を上げた。


 セナ爺が重く頷いた。


「この半月で、空の名札が七枚戻った。戻るはずだった名は、どれも戻らん。夢にも出ない。歌にもならん。家の灯籠も応えない」


 七枚。


 その数に、ルカの胸の奥が小さく鳴った。


 意味があるのかは分からない。

 けれど、潮の物語で七という数が偶然であることは少ない。


「なぜ、もっと早く知らせなかったんですか」


 ルカは思わず言った。


 責めるつもりはなかった。けれど、声には少しだけ鋭さが混じった。


 若い名拾いが目を伏せる。


「知らせようとした。メルナ=レイにも、潮名預かりの船にも。でも、誰もはっきり異変だと言えなかったんだ」


「なぜ」


「名が戻らないことは、あるから」


 ヨルナ婆が代わりに答えた。


「海へ送った名が、必ず形になって戻るわけじゃない。戻らぬまま、静かに海へ溶けることもある。その時、遺された者が『戻らなかった』と泣くのは自然なことだ。だから、あたしたちは最初、それを事件にしたくなかった」


 その気持ちは、ルカにも分かった。


 海の祈りは繊細だ。誰かの名が戻らなかった時、それをすぐ異常だと言えば、遺族は「見送れなかった」と責められているように感じるかもしれない。名拾いも潮見役も、死者と遺された者のあいだに、無遠慮に踏み込んではならない。


 けれど。


「声まで消えるのは、違う」


 ルカは言った。


 ヨルナ婆は、静かに頷いた。


「そうだ。だから、あんたを呼ぼうとした」


「でも、私が来る前に、黒い箱が流れ着いた」


「流れ着いたのではないよ」


 ヨルナ婆の白い片目が、浜の祠の方を向いた。


「置かれたんだ。きっとね」


 ルカの手の中で、ミリカの父の名札がかすかに震えた。


 風のせいではない。


 ルカは名札を見下ろした。


 今、ほんの一瞬。

 名札の奥の深い水の底で、何かが鳴った。


 鐘。


 あの黒い箱の中で聞いた音と同じだった。


 ルカは思わず、潮見小屋の方を振り返った。


 小屋の戸口は閉じている。中には、海底から来た少年が眠っている。名前を水の底に置いてきたと言った少年。


 彼なら。


 そう思った瞬間、ルカは自分でその考えに驚いた。


 なぜ、そう思ったのだろう。


 あの少年のことを、まだ何も知らない。名前も、出自も、なぜ箱から現れたのかも。助けを求めていたのか、何かを連れてきたのかさえ分からない。


 それなのに、ルカは感じていた。


 この名札の深さと、あの少年の瞳の深さは似ている。


 水面からは届かない場所。

 ルカの手では読めない場所。

 けれど、誰かがそこからこちらを見上げている場所。


「ルカ?」


 ミリカが、不安そうに名を呼んだ。


 ルカははっとして、少女を見る。


 ミリカは、父の名札ではなく、ルカの顔を見ていた。

 この子にとって、ルカが読めるかどうかが、父の声へ続く最後の道なのだ。


 その重さを、ルカは両手で受け止めた。


「ミリカ」


「うん」


「今は、まだ読めない」


 ミリカの唇が震えた。


 ルカは続けた。


「でも、読めないから終わりにはしない。名があるなら、探す。沈んでいるなら、水面まで呼ぶ方法を探す」


「本当に?」


「本当」


「お父さんの声、戻る?」


 その問いに、ルカはすぐに「戻る」とは言えなかった。


 戻るかどうかは分からない。

 声が完全に戻るとは限らない。

 名が帰ってきても、失われた時間は戻らない。


 けれど、今この子に渡すべきなのは、結果の保証ではなく、見捨てないという約束だった。


「全部は、戻らないかもしれない」


 ルカは正直に言った。


 ミリカの目が潤む。


「でも、何もなかったことにはさせない」


 ルカは名札をそっとミリカへ返した。


「あなたが覚えていた声を、海が勝手に奪っていいはずがない」


 ミリカは名札を受け取り、胸に抱いた。


 泣き出すかと思った。

 けれど少女は、唇を強く結んで頷いた。


「待つ」


「うん」


「でも、忘れちゃう前に、お願い」


 その言葉は、ルカの胸に刺さった。


 忘れちゃう前に。


 名は、失われた瞬間だけが危険なのではない。

 忘れていく時間もまた、名を削っていく。


 ルカは立ち上がった。


 海を見る。


 ナラ=オルテの沖は、何事もないように光っていた。朝日を受けて、波は柔らかく揺れている。魚影が走り、海鳥が低く飛び、漁船の帆が遠くで白く膨らんでいる。


 こんなにも普通の海なのに。


 その下で、名が止まっている。


 夢にもならず。

 歌にもならず。

 漂着物にもならず。


 ただ、深すぎる場所で、声を失いながら沈んでいる。


 ルカは、自分の手を見た。


 名札を包んでいた指先が、まだ冷たい。そこには何も付いていない。水も、血も、潮文字も。けれど、さっき触れた深さだけが、皮膚の内側に残っている。


 名がないのではない。

 深すぎて、読めない。


 その事実は、ルカにとって初めての壁だった。


 今までにも、読みにくい名はあった。混ざった名、傷ついた名、怒っている名、戻りたくない名。けれど、それらは少なくとも水面の近くにいた。ルカが手を伸ばせば、向こうも何かを返してくれた。


 今度は違う。


 手を伸ばしても、届かない。

 呼んでも、返らない。


 ならば。


 ルカは潮見小屋を見た。


 閉じた戸の向こうに、海底から現れた少年がいる。


 名前を水の底に置いてきた少年。

 ルカが読めなかった深さと同じものを、瞳の奥に沈めていた少年。


 そのとき、小屋の中で何かが落ちる音がした。


 木椀か、貝皿か。

 軽いものが床に転がる音。


 続いて、短いざわめき。


 セナ爺が顔色を変え、戸口へ向かう。ルカも反射的に走り出した。ミリカが名札を抱えたまま、あとを追おうとして、ヨルナ婆に止められる。


 小屋の戸が開いた。


 中から、潮見役の一人が飛び出してきた。


「目を覚ました!」


 ルカは小屋へ駆け込んだ。


 少年は、寝台代わりの厚布の上で半身を起こしていた。


 貝湯の椀が床に転がっている。焚き火の光が彼の横顔を照らし、濡れているはずの髪に青白い影を落としていた。


 少年は息を荒げていない。怯えているようにも見えない。

 ただ、何かを聞いていた。


 小屋の外。

 浜の向こう。

 海のさらに下。


 ルカが近づくと、少年はゆっくりと顔を上げた。


 その瞳が、ルカを通り越して、彼女の手に残った冷たさを見たように揺れる。


「……泣いてる」


 少年が言った。


 ルカは足を止めた。


「誰が?」


 少年は小屋の外を見た。


 そこには、ミリカがいる。

 白い名札を胸に抱いたまま、戸口の向こうで震えている。


 けれど少年は、ミリカを見ているのではなかった。


「名札じゃない」


 彼の声は、まだ掠れている。

 それでも、潮音より深く響いた。


「下にいる名が、泣いてる」


 小屋の中が、しんと静まり返った。


 ルカは、息をするのを忘れた。


 読めなかった深さの底から、誰かが初めて声を返した気がした。

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