↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第9話 沈んだ名は、還らないまま眠っていた
PR
103/104

第十二節 ― 第五潮鍵《保護/保留》

 沈める。


 そう口にしたあとも、ルカの両手はすぐには動かなかった。


 青黒い沈名貝は、掌の中で静かに開いている。


 かつて一人の少女が、その名で呼ばれていた。


 やがて彼女はその名を置き、別の名前を選んだ。その後はマレナ=フィルとして生き、誰かと出会い、娘を産み、母となった。笑い、叱り、病み、やがて死んだ。


 古い名前で生きた時間も、マレナ=フィルとして生きた時間も、同じ一人の人生だった。


「こっちです」


 セレ=アウナが中央の暗がりへ向かう。


 ルカとエルンも、その後へ続いた。


 沈名庫を巡る巨大な螺旋。その内側、光さえ吸い込まれそうな深い穴へ近づくにつれて、周囲の音が少しずつ遠くなっていく。


 水の流れ。


 沈名貝のかすかな震え。


 遠くで軋む白珊瑚の外縁。


 そのどれもが、厚い布を一枚ずつ重ねられていくように弱くなった。


「ここから先へ、投げるんですか?」


 ルカは訊いてから、すぐに自分の言葉へ違和感を覚えた。


 投げる。


 捨てる。


 どちらも違う。


 セレも首を振った。


「私が沈めるのではありません」


「え?」


「護名は、自分の深さを覚えています」


 セレは穴の縁から少し離れたところで止まった。


「本来の流れが戻れば、自ら沈みます」


「じゃあ、私は何を?」


「還さないでください」


 ルカは黙った。


 あまりにも簡単な答えだった。


「それだけ?」


「それが難しいのでしょう?」


 セレの言葉に、反論できなかった。


 これまでルカの手は、何度も名前を海へ返してきた。


 浜で拾った名札。


 誰にも届かなかった名。


 他人の中へ混ざった名。


 沈みすぎていた名。


 記憶の中にだけ残っていた呼び声。


 迷っているなら道を探した。帰りたいなら岸を探した。持ち主がいるなら届け、手放すべき時には海へ返した。


 名は流れるものだと思っていた。


 止めてはいけない。


 閉じ込めてはいけない。


 いつか還る場所へ辿り着くことこそが、名前にとって救いなのだと。


 だから今からしようとしていることは、これまでとは逆に見えた。


「ルカ」


 エルンが呼ぶ。


「うん」


「怖い?」


 ルカは少し考えてから、素直に頷いた。


「……うん。これでいいのかなって」


「さっきは分かったって言ってた」


「分かったのと、できるのは別」


「そっか」


 エルンは、それ以上何も言わなかった。


 急かさない。


 正しいとも言わない。


 ただ隣にいる。


 それが今は、ありがたかった。


 ルカは沈名貝へ目を落とす。


 薄い光が、ほんのわずかに揺れていた。


 指先で触れると、名前の奥に残るものが伝わってくる。


 昔の彼女。


 まだマレナ=フィルではなかった頃。


 呼ばれれば振り返った。


 その名を嫌ってばかりいたわけではない。嬉しい記憶もある。誰かの優しい声も、幼い日の笑い声も、温かい食卓も、その名で愛された時間さえ残っている。


「……そっか」


 ルカは小さく呟いた。


「嫌いだったから沈めたとは限らないんだ」


 セレは答えなかった。


 名前にも、一つの理由だけでは説明できないものがあるのだろう。


 大切だった。


 けれど離れた。


 愛していた。


 それでも戻らなかった。


 過去だったから捨てたのではなく、過去として自分の中へ置いた。


 そんな選び方もある。


「昔のあなたも」


 ルカは貝へ語りかけた。


「ちゃんといたんだよね」


 光が揺れる。


「その名前で生きたあなたも、本当だった」


 そこは変えない。


 ルカの脳裏へ、シアの顔が浮かんだ。


 涙。


 怒った声。


 遺品札を抱きしめた手。


 ――母さんは、マレナ=フィルだった。


「そのあとに生きたあなたも、本当だった」


 ルカはゆっくりしゃがみ込む。


 穴の縁から吹き上がってくるようで、実際には下へ吸われている不思議な潮が、髪を揺らした。


「どっちかを消さなくていい」


 それなら、二つとも残せばいい。


 ただし、二つとも同時に水面へ置く必要はない。


 その時、セレが手を上げた。


「ルカ=ネリス」


 名を呼ばれる。


「はい」


 ルカは反射的に振り向いた。


 セレは小さく頷く。


「その名を忘れないで」


「……うん」


「深い名へ触れながら沈める時、自分まで同じ流れへ乗る者がいます」


 ルカは胸元へ手を触れた。


 潮紙。


《ルカ=ネリス》


 深い海へ持ってきた、今の自分の名前。


「エルン」


「うん」


「もし私がぼーっとしたら」


「ルカ=ネリスって呼ぶ」


「お願い」


「何回?」


「戻るまで」


「分かった」


 簡単な約束だった。


 けれど、この深さではそれが命綱になる。


「始めます」


 セレが腰から青い貝札を外した。


《護名》。


 札を穴へ向けると、淡い青の線が伸びた。


 けれど途中で途切れる。


 外縁の事故によって、本来あるはずの沈みの流れが閉じているのだ。


「今は、ここまでしか道がありません」


「この先は?」


 ルカが訊く。


「名前自身が覚えています」


 セレは沈名貝を見る。


「ただし、手放せばよいというものではありません」


「手放すだけじゃ駄目?」


「その名が水面へ還るべきものだと、あなた自身が思っている限り」


 セレはルカを見る。


「あなたの潮は、上へ引くでしょう」


 ルカは息を呑んだ。


 確かにそうだ。


 名拾いとしての自分は、ずっと名前を上へ、人へ、岸へ、還そうとしてきた。


 ただ手を離しても、心のどこかに「返した方がいい」という迷いが残っていれば、この名を再び引き上げてしまう。


「……分かった」


 最後は、自分が選ばなければならない。


 ルカは両手で貝を包み、目を閉じた。


 昔の名。


 今の名。


 どちらが上でも、どちらが下でもない。


 どちらが本物で、どちらが偽物でもない。


 ただ一つ。


 本人が生きている間に、もう使わないと選んだ名がある。


 その選択を、死んだあとだからといって他人が勝手に取り消さない。


「マレナ=フィル」


 ルカは、ここにはない方の名前を呼んだ。


 少女の母が、最後まで生きた名前を。


「あなたは、マレナ=フィルだった」


 胸の奥へ、シアの声が重なる。


 その名を守るために、古い名前を消すのではない。


 ルカは沈名貝を穴の上へ差し出した。


 青黒い殻の中で、旧名が静かに光っている。


「あなたも」


 一度、息を吸う。


「ちゃんと、いた」


 光が揺れた。


「だから、捨てない」


 その瞬間、貝を上へ引こうとしていた何かが、ほんの少しだけ弱くなった。


 ルカには分かった。


 これだった。


 捨てるのではない。


 なくすのでも、消すのでも、間違いにするのでもない。


「また呼ばれていい日まで」


 ルカは沈名貝を持つ手を、ゆっくり下へ下ろした。


「ここで待ってて」


 手を離す。


 青黒い貝は、すぐには落ちなかった。


 ほんの一瞬、ルカの掌の下で静止する。


 まるで、本当にいいのかと確かめているように。


「うん」


 ルカは頷いた。


「今は、帰らなくていい」


 貝が沈み始めた。


 驚くほど静かに、ゆっくりと。


 青い線を辿り、途中までしか伸びていなかった《護名》の潮路へ触れる。


 その瞬間、途切れていた光が一筋、その先へ伸びた。


 セレが息を呑む。


「道が……」


 白珊瑚の壁へ青い潮紋が走った。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 沈名庫の外縁へ刻まれていた古い紋が、連鎖するように灯っていく。


 ルカは動かなかった。


 ただ、沈んでいく名前を見送った。


 貝殻は少しずつ小さくなり、光のない穴へ近づくほど外側の殻が透けていく。


 やがて貝ではなく、名だけが残った。


 淡い光。


 その中に、昔の少女の姿が見えた気がした。


 家を出る。


 振り返らない。


 けれど、過去を消しているわけではない。


 ただ前へ行く。


 その先に、《マレナ=フィル》という名前があった。


 ルカは胸元へ手を当てた。


「おやすみ」


 聞こえたかどうかは分からない。


 それでも名は、そのまま深い場所へ沈んでいった。


 消えたのではない。


 そこにいる。


 ただ今は、呼ばれない深さへ戻っていく。


 その時、外縁を走っていた潮紋が一斉に形を変えた。


「これ……」


 ルカは目を見開く。


 青い線が輪を作っていく。


 鍵の形ではない。


 穴を塞ぐ印でもない。


 一つの流れが沈名を受け入れ、守り、必要な時まで留め、それ以上は追わずに閉じる。


 そんな潮の道そのものが、目の前へ形を取っていた。


 セレ=アウナが、その流れを見つめる。


「《保護》」


 古い潮文字が一つ、淡く光った。


 その隣へ、もう一つ。


「……《保留》」


 ルカは二つの文字を見つめた。


 守るために、返さない。


 まだその時ではないから、返さない。


 同じ「還さない」でも、そこにある意味は違う。


「同じじゃないんだ」


 ルカが呟いた。


「何が?」


 エルンが訊く。


「返さないことと、捨てること」


 エルンは少しだけ考えてから、頷いた。


「うん」


 ルカは、目の前に生まれた潮路を見つめた。


 潮鍵は、どこかへ落ちている物ではない。


 少なくとも、今まで見つけてきたものはそうではなかった。


 漂着した名を拾い、覚えられた名を繋ぎ、持つべきでない記憶を返し、選ばなかった可能性を今の自分と並べた。その一つ一つで、名が進める新しい道が残った。


 そして今、初めてルカは、還さないという道を選んだ。


 だからといって、名を消したわけではない。


 むしろ逆だった。


 その名が本当に残るために、今いるべき深さへ戻した。


 水面へ出ることだけが、名前の生き方ではない。


 呼ばれずに眠ることもある。


 守るために沈むこともある。


 まだ返さないという選択そのものが、その名を未来へ残すこともある。


 ルカがずっと「還る道」として見ていた海には、最初からそれ以外の道もあったのだ。


 ただ、自分がまだ読めなかっただけで。


 青い潮路は沈名庫の暗闇へ深く伸びている。


 それが五つ目の道だった。


 ルカの胸の奥では、第一から第四までの潮真名が、呼応するようにかすかに震えている。


 新しい道は確かに生まれた。


 けれど、そこから新しい音はまだ聞こえてこなかった。


 ルカはそれを急いで求めようとはしなかった。


 今はまだ、待てばいい。


 還さないことと同じように。


 名には、呼ばれるべき時だけではなく、呼ばれないままでいるべき時もあるのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。