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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第9話 沈んだ名は、還らないまま眠っていた
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第十一節 ― 「それを本当って決めないで」

 沈名庫の奥で、流れが逆転していた。


 ゆっくりと中央へ沈んでいたはずの螺旋が、一部だけほどけている。貝、瓶、髪飾り、古い名札。それらに宿る青白い光が、本来の深さへ沈むのではなく、上へ引かれていた。


 一つ。


 また一つ。


 深い場所へ留まろうとするたび、見えない力に押し返されていく。


「こっちです」


 セレ=アウナが先を急ぐ。


 ルカとエルンもその後を追った。


 沈名庫の外縁に近い場所。白珊瑚の壁と黒い潮板が幾重にも重なった一角へ着くと、異常はさらに明確になった。


 壁の中央に裂け目がある。


 ほんの腕一本ほどの細さしかない。けれど、その向こうからは強い潮圧が周期的に押し寄せていた。


 どん、と壁全体が震える。


 亀裂から青い光が漏れ、押し出された沈名貝が一つ浮かんだ。


 セレが貝札をかざす。淡い光が絡みつき、貝をその場へ留める。


「また護名です」


 息を整える暇もなく、次が来た。


「エルン、右!」


「うん」


 少年が手を伸ばし、沈みたがっている名の流れを読む。


「こっちは眠る。まだ触らないで」


「分かった」


「次、閉じる方から来る」


 セレが黒い貝札を構える。


 亀裂がもう一度揺れ、今度は薄い金属板が押し出された。名前の刻印はほとんど見えない。


 それでもエルンが示した瞬間、セレは直接触れず、別の潮布で包んだ。


「封名です」


「これも戻さないと駄目?」


 ルカが訊く。


「ええ。ただし、扱い方が違います」


「じゃあ私が――」


「触れないで」


 セレの声が強くなる。


 ルカはすぐに手を止めた。


「封名は私が戻します。あなたは護名を」


「分かった」


 役割が決まった。


 セレは封名を扱う。


 エルンは、それぞれの名がどの深さへ沈もうとしているのかを読む。


 ルカは護名を拾い、その流れへ戻す。


 これまでとは逆だった。


 海へ流すためではない。


 深い場所へ戻すために、名前へ触れる。


 一つ目は、古い靴へ結びついた名だった。


 誰かから逃れるために沈められたものらしい。名そのものは弱い。けれど水面側へ引かれるたび、怯えるように細かく震えている。


「こっちじゃない」


 ルカは呟き、貝札が示す沈みへそっと押し返す。


「戻って」


 光が深くなる。


 ゆっくりと、本来いた場所へ沈んでいく。


 二つ目は、小さな髪飾りだった。


 この名は、自分から何かを拒んだわけではない。


 守られていた。


 誰かが、この名前を見つけられないように。


 誰かが、この名を呼べないように。


 それでも、名の中に悪意はなかった。


 三つ目は、空の瓶。


 そこへ預けられていたのは、幼い頃の名前だった。


 持ち主は今も生きている。


 別の名で。


 別の場所で。


 違う人生を。


 ルカはそれらを読むたび、少しずつ分からなくなっていった。


 最初に考えていたほど、名を沈めるという行為は単純ではない。


 過去を消すことでも、名前を殺すことでもなかった。


 ただ、今はそこへ戻らない。


 その選択を、海の深い場所へ預けておく。


「ルカ」


 エルンが呼んだ。


 少年の視線が、亀裂の近くへ向いている。


「次」


「どれ?」


「あれ」


 青黒い貝だった。


 ほかのものより小さく、半分だけ開いている。


 その内側の光を見た瞬間、ルカの息が止まった。


「……知ってる」


 セレが振り向く。


「この名を?」


 ルカは頷いた。


 間違えるはずがない。


 メルナ=レイの浜で触れた。


 少女が泣きながら守ろうとしていた。


 母親の、昔の名前。


「マレナ=フィルさんの……」


 その先がうまく言えなかった。


 旧名。


 出生名。


 捨てた名。


 どれも間違いではない。けれど、どれも少しだけ足りない気がした。


 セレは貝を見つめる。


「護名ですね」


「やっぱり」


「ええ」


 青い貝札が、はっきりと反応していた。


「自ら沈められたものです」


 胸の奥へ重みが落ちた。


 予想はしていた。


 それでも、はっきり示されると違った。


「本人が?」


「そこまでは読めません」


 セレは首を振る。


「ただ、少なくとも保護のために沈められています」


 ルカは貝へ手を伸ばした。


 指先が触れる。


 冷たい。


 けれど、最初に浜で触れた時のような恐怖はなかった。


 ここでは落ち着いている。


 この名は、この深さを知っている。


 ルカは目を閉じた。


 もう一度。


 今度は、きちんと読む。


 名前の奥に、一人の少女がいた。


 若い。


 まだ、マレナ=フィルではない。


 その名前で呼ばれ、振り向く。


 誰かと食卓を囲み、叱られ、笑い、泣く。


 誰かと喧嘩をする。


 家を出る。


 走る。


 振り返らない。


 背後から声が追ってくる。


 古い名前で。


 それでも、立ち止まらない。


 やがて、その名は沈んだ。


 ルカは目を開けた。


「……本物だ」


 小さく言う。


 エルンが見る。


「うん」


「この名前も」


 ルカは貝を両手で持った。


「ちゃんと、マレナさんだった」


 胸が苦しかった。


 この名前で生きた時間がある。


 嘘ではない。


 誰かが勝手につけた偽名でもない。


 この名前で笑い、この名前で傷つき、この名前で生きた。


 なら、それを沈め直すことは、その人生まで否定することにならないのだろうか。


「セレ=アウナ」


「はい」


「護名を戻したら」


 ルカは貝を見つめたまま訊いた。


「その名前は、なくなる?」


「なくなりません」


「でも、呼ばれなくなる」


「今は」


 その言葉に、ルカは顔を上げた。


「今は?」


「護名は、消去ではありません」


 セレは静かに答えた。


「呼ばれない深さへ置くことです」


「でも」


 ルカの声が少し強くなる。


「本人が死んでるなら、もう自分で戻すって言えない」


「ええ」


「じゃあ、このまま沈めたら」


 ルカは貝を握る。


「昔の名前なんて、なかったことになるんじゃない?」


 セレは答えなかった。


 代わりに、エルンが少し首を傾げる。


「どうして?」


 ルカは彼を見る。


「だって、誰にも呼ばれなくなるんだよ」


「でも、ここにある」


「あるけど」


「ルカが今、読んだ」


 少年の声は静かだった。


「その人だったって」


 ルカは黙る。


「だったなら」


 エルンは貝を見る。


「なくならないと思う」


 簡単な言葉だった。


 けれど、それだけではまだ足りなかった。


「昔の名前だって、本当だった」


 ルカは呟く。


 それはもう分かっている。


 ネレイオンの子どもが教えてくれた。


 昨日の名前。


 今日の名前。


 幼名。


 潮名。


 成人名。


 伴侶名。


 親名。


 老名。


 死後名。


 どれも、その時の本人だった。


「だったら」


 ルカは自分へ言い聞かせるように続ける。


「戻ってきてもいいんじゃないの?」


 古い名前が、もう一度水面へ。


 誰かの記憶へ。


 戻ってきたなら、その人の過去は少しだけ揃う。


 失われていたものが補われる。


 それが、これまでルカのしてきたことだった。


 名を拾う。


 読む。


 還す。


 失われたものを、本来いるべき場所へ戻す。


 そのはずだった。


 けれど脳裏に、シアの声が蘇る。


 ――それを本当って決めないで。


 ルカの指が止まった。


 もう一度、少女の顔が浮かぶ。


 泣いていた。


 怒っていた。


 母親の遺品札を抱えて、必死に現在の名前を呼び続けていた。


 ――母さんは、マレナ=フィルだった。


 そして、あの言葉。


 ――だったかもしれない。


 ――でも、母さんが捨てた名前を、死んだあとで勝手に本当へ戻さないで。


「……あ」


 ルカの中で、何かが繋がった。


 旧名が本物なのか。


 偽物なのか。


 そこではなかった。


 最初から、シアは一度も昔の名前を否定していない。


 ルカが「どちらも本人の名前では」と言った時も、少女は「だったかもしれない」と答えていた。


「違う」


 ルカが呟く。


「何が?」


 エルンが訊く。


「私、ずっと考える場所を間違えてた」


 貝を見る。


「この名前が本物かどうかじゃない」


 旧名は本物だった。


 その名で生きた時間も、そこにあった家族も、痛みも、思い出も、消す必要はない。


「マレナさんは」


 ルカはゆっくりと言葉にする。


「この名前を捨てたんじゃなくて……」


 少し考える。


「……ううん。捨てたのかもしれない」


 それでも、


「でも、なかったことにしたかったかどうかは別なんだ」


 セレは何も口を挟まず、静かに聞いていた。


「ただ」


 ルカは胸の奥に残るシアの言葉を辿る。


「今は、この名前で呼ばれないって決めた」


 それだけだった。


 昔の自分を否定するのではない。


 昔の名が偽物になるのでもない。


 ただ今、その名前へは戻らない。


「マレナ=フィルとして生きるって」


 ルカの声が少し震えた。


「本人が選んだ」


 結婚し、子どもを育て、笑い、怒り、病み、そして死ぬまで。


 その名で生きた。


 なら、死んだあとに誰かが昔の名前を拾い上げ、「こちらこそ本当でした」と決め直すことは、その選択を奪うことになる。


「……他人が決めちゃ駄目なんだ」


 ルカは言った。


「何を?」


 エルンが訊く。


「どの名前へ戻るか」


 答えは、自分でも驚くほど簡単だった。


「昔の名前が本物でも、今そこへ戻らないって選ぶことはできる」


 セレ=アウナが小さく頷いた。


「ええ」


「死んだあとでも、その選択は残る?」


「生きていた時に選んだものなら」


「残る」


 ルカが、自分で答えた。


 セレは何も言わなかった。


 その時、事故箇所がまた大きく震えた。


 どん、と白珊瑚の壁へ衝撃が走り、細い亀裂がさらに広がる。


「時間がありません」


 セレが言う。


「護名を戻さなければ、外縁は閉じません」


 ルカは貝を持ったまま、中央の暗い穴を見た。


 沈める。


 少し前までなら、怖かった。


 せっかく還ってきた名前を、もう一度深い場所へ送ることが、その人をもう一度失わせるように思えた。


 けれど、今は違う。


「消さない」


 ルカは小さく言った。


「ルカ?」


「この名前を消すんじゃない」


 マレナ=フィルになる前の、一人の女性の名前。


 確かに生きた。


 確かに本物だった。


 だからこそ、


「ただ、今は戻さない」


 その言葉を口にした瞬間、貝の中の光がほんの少し静かになった。


 ルカは目を閉じる。


 もう一度だけ、その古い名へ触れた。


 昔の笑い声。


 怒り。


 悲しみ。


 家を離れた日の足音。


 そのすべてが、マレナ=フィルへ至る前に確かに存在した人生だった。


 消してはいけない。


 でも、その人生が本物だったからこそ、勝手に今へ引き戻してもいけない。


 シアの声が、最後にもう一度、胸の奥で響いた。


 ――それを本当って決めないで。


「うん」


 ルカは小さく答えた。


 海面には届かない。


 シアにも聞こえない。


 それでも、


「分かった」


 昔の名が本当だったかどうかを、もう決め直す必要はない。


 本当だった。


 マレナ=フィルも本当だった。


 どちらも、その時の彼女だ。


 問題なのは、今どちらの名を呼ぶのか。


 今どちらへ戻るのか。


 それを、本人以外が勝手に塗り替えてはいけない。


 ルカは青黒い沈名貝を両手で包んだ。


「セレ=アウナ」


「はい」


「これ」


 中央の暗い穴を見る。


「私が戻してもいい?」


 セレは少しだけ目を細めた。


「できますか」


 問い方は、技術の話ではなかった。


 ルカは貝を見た。


 名拾いとして、ずっと名前を還すことが正しいと思ってきた。


 その手で、今度は逆へ送る。


 怖くないと言えば嘘になる。


 自分が読める名を、自分の手で深く沈めるのだから。


 それでも、今までと同じことが一つだけあった。


 自分が行かせたい場所へ運ぶのではない。


 その名が留まりたい場所へ、道をつなぐ。


 還る先が岸ではなく、深い海であるだけだ。


「やる」


 ルカは答えた。


「この名前が嫌いだからじゃない」


 貝の中で、古い名が静かに揺れる。


「本物じゃないからでもない」


 深い穴の向こうには、無数の名が眠っている。


 そのどれもが、忘れられたから価値を失ったわけではない。


 呼ばれないことを許され、そこに留まっている。


 ルカは息を整えた。


 自分の中にある迷いまで、潮へ沈めるように。


「今は、還さない方がいいから」


 エルンが隣で小さく頷いた。


 それを見てから、ルカは再び貝へ意識を向けた。


 名の行き先を読む。


 いつものように、人へではない。


 家へでも、遺品へでも、岸へでもない。


 深い方。


 呼ばれない場所。


 眠ることのできる場所。


 そこへ、細い流れが確かに伸びている。


 初めて見えた。


 還るためではない道が。


 ルカはその流れを両手で包むように受け取り、無理に押さず、引っ張らず、ただ貝が沈み始める方向へ少しだけ手を添えた。


 青黒い光がゆっくりと下へ向きを変える。


 先ほどまで何度も水面側へ押し戻されていた名が、初めて自分の望む深さへ戻ろうとしていた。


 ルカは手を離さない。


 消すためではない。


 忘れるためでもない。


 もう呼ばなくていいという、その人が生きていた時の選択を、今もそこへ残すために。


 貝は少しずつ暗い方へ沈んでいく。


 その光を見送りながら、ルカはようやく理解した。


 名拾いが探すべき道は、いつも「還る道」だけではない。


 ときには、還らないままでいられる道もある。


 それもまた、名の行き先なのだ。

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