第十一節 ― 「それを本当って決めないで」
沈名庫の奥で、流れが逆転していた。
ゆっくりと中央へ沈んでいたはずの螺旋が、一部だけほどけている。貝、瓶、髪飾り、古い名札。それらに宿る青白い光が、本来の深さへ沈むのではなく、上へ引かれていた。
一つ。
また一つ。
深い場所へ留まろうとするたび、見えない力に押し返されていく。
「こっちです」
セレ=アウナが先を急ぐ。
ルカとエルンもその後を追った。
沈名庫の外縁に近い場所。白珊瑚の壁と黒い潮板が幾重にも重なった一角へ着くと、異常はさらに明確になった。
壁の中央に裂け目がある。
ほんの腕一本ほどの細さしかない。けれど、その向こうからは強い潮圧が周期的に押し寄せていた。
どん、と壁全体が震える。
亀裂から青い光が漏れ、押し出された沈名貝が一つ浮かんだ。
セレが貝札をかざす。淡い光が絡みつき、貝をその場へ留める。
「また護名です」
息を整える暇もなく、次が来た。
「エルン、右!」
「うん」
少年が手を伸ばし、沈みたがっている名の流れを読む。
「こっちは眠る。まだ触らないで」
「分かった」
「次、閉じる方から来る」
セレが黒い貝札を構える。
亀裂がもう一度揺れ、今度は薄い金属板が押し出された。名前の刻印はほとんど見えない。
それでもエルンが示した瞬間、セレは直接触れず、別の潮布で包んだ。
「封名です」
「これも戻さないと駄目?」
ルカが訊く。
「ええ。ただし、扱い方が違います」
「じゃあ私が――」
「触れないで」
セレの声が強くなる。
ルカはすぐに手を止めた。
「封名は私が戻します。あなたは護名を」
「分かった」
役割が決まった。
セレは封名を扱う。
エルンは、それぞれの名がどの深さへ沈もうとしているのかを読む。
ルカは護名を拾い、その流れへ戻す。
これまでとは逆だった。
海へ流すためではない。
深い場所へ戻すために、名前へ触れる。
一つ目は、古い靴へ結びついた名だった。
誰かから逃れるために沈められたものらしい。名そのものは弱い。けれど水面側へ引かれるたび、怯えるように細かく震えている。
「こっちじゃない」
ルカは呟き、貝札が示す沈みへそっと押し返す。
「戻って」
光が深くなる。
ゆっくりと、本来いた場所へ沈んでいく。
二つ目は、小さな髪飾りだった。
この名は、自分から何かを拒んだわけではない。
守られていた。
誰かが、この名前を見つけられないように。
誰かが、この名を呼べないように。
それでも、名の中に悪意はなかった。
三つ目は、空の瓶。
そこへ預けられていたのは、幼い頃の名前だった。
持ち主は今も生きている。
別の名で。
別の場所で。
違う人生を。
ルカはそれらを読むたび、少しずつ分からなくなっていった。
最初に考えていたほど、名を沈めるという行為は単純ではない。
過去を消すことでも、名前を殺すことでもなかった。
ただ、今はそこへ戻らない。
その選択を、海の深い場所へ預けておく。
「ルカ」
エルンが呼んだ。
少年の視線が、亀裂の近くへ向いている。
「次」
「どれ?」
「あれ」
青黒い貝だった。
ほかのものより小さく、半分だけ開いている。
その内側の光を見た瞬間、ルカの息が止まった。
「……知ってる」
セレが振り向く。
「この名を?」
ルカは頷いた。
間違えるはずがない。
メルナ=レイの浜で触れた。
少女が泣きながら守ろうとしていた。
母親の、昔の名前。
「マレナ=フィルさんの……」
その先がうまく言えなかった。
旧名。
出生名。
捨てた名。
どれも間違いではない。けれど、どれも少しだけ足りない気がした。
セレは貝を見つめる。
「護名ですね」
「やっぱり」
「ええ」
青い貝札が、はっきりと反応していた。
「自ら沈められたものです」
胸の奥へ重みが落ちた。
予想はしていた。
それでも、はっきり示されると違った。
「本人が?」
「そこまでは読めません」
セレは首を振る。
「ただ、少なくとも保護のために沈められています」
ルカは貝へ手を伸ばした。
指先が触れる。
冷たい。
けれど、最初に浜で触れた時のような恐怖はなかった。
ここでは落ち着いている。
この名は、この深さを知っている。
ルカは目を閉じた。
もう一度。
今度は、きちんと読む。
名前の奥に、一人の少女がいた。
若い。
まだ、マレナ=フィルではない。
その名前で呼ばれ、振り向く。
誰かと食卓を囲み、叱られ、笑い、泣く。
誰かと喧嘩をする。
家を出る。
走る。
振り返らない。
背後から声が追ってくる。
古い名前で。
それでも、立ち止まらない。
やがて、その名は沈んだ。
ルカは目を開けた。
「……本物だ」
小さく言う。
エルンが見る。
「うん」
「この名前も」
ルカは貝を両手で持った。
「ちゃんと、マレナさんだった」
胸が苦しかった。
この名前で生きた時間がある。
嘘ではない。
誰かが勝手につけた偽名でもない。
この名前で笑い、この名前で傷つき、この名前で生きた。
なら、それを沈め直すことは、その人生まで否定することにならないのだろうか。
「セレ=アウナ」
「はい」
「護名を戻したら」
ルカは貝を見つめたまま訊いた。
「その名前は、なくなる?」
「なくなりません」
「でも、呼ばれなくなる」
「今は」
その言葉に、ルカは顔を上げた。
「今は?」
「護名は、消去ではありません」
セレは静かに答えた。
「呼ばれない深さへ置くことです」
「でも」
ルカの声が少し強くなる。
「本人が死んでるなら、もう自分で戻すって言えない」
「ええ」
「じゃあ、このまま沈めたら」
ルカは貝を握る。
「昔の名前なんて、なかったことになるんじゃない?」
セレは答えなかった。
代わりに、エルンが少し首を傾げる。
「どうして?」
ルカは彼を見る。
「だって、誰にも呼ばれなくなるんだよ」
「でも、ここにある」
「あるけど」
「ルカが今、読んだ」
少年の声は静かだった。
「その人だったって」
ルカは黙る。
「だったなら」
エルンは貝を見る。
「なくならないと思う」
簡単な言葉だった。
けれど、それだけではまだ足りなかった。
「昔の名前だって、本当だった」
ルカは呟く。
それはもう分かっている。
ネレイオンの子どもが教えてくれた。
昨日の名前。
今日の名前。
幼名。
潮名。
成人名。
伴侶名。
親名。
老名。
死後名。
どれも、その時の本人だった。
「だったら」
ルカは自分へ言い聞かせるように続ける。
「戻ってきてもいいんじゃないの?」
古い名前が、もう一度水面へ。
誰かの記憶へ。
戻ってきたなら、その人の過去は少しだけ揃う。
失われていたものが補われる。
それが、これまでルカのしてきたことだった。
名を拾う。
読む。
還す。
失われたものを、本来いるべき場所へ戻す。
そのはずだった。
けれど脳裏に、シアの声が蘇る。
――それを本当って決めないで。
ルカの指が止まった。
もう一度、少女の顔が浮かぶ。
泣いていた。
怒っていた。
母親の遺品札を抱えて、必死に現在の名前を呼び続けていた。
――母さんは、マレナ=フィルだった。
そして、あの言葉。
――だったかもしれない。
――でも、母さんが捨てた名前を、死んだあとで勝手に本当へ戻さないで。
「……あ」
ルカの中で、何かが繋がった。
旧名が本物なのか。
偽物なのか。
そこではなかった。
最初から、シアは一度も昔の名前を否定していない。
ルカが「どちらも本人の名前では」と言った時も、少女は「だったかもしれない」と答えていた。
「違う」
ルカが呟く。
「何が?」
エルンが訊く。
「私、ずっと考える場所を間違えてた」
貝を見る。
「この名前が本物かどうかじゃない」
旧名は本物だった。
その名で生きた時間も、そこにあった家族も、痛みも、思い出も、消す必要はない。
「マレナさんは」
ルカはゆっくりと言葉にする。
「この名前を捨てたんじゃなくて……」
少し考える。
「……ううん。捨てたのかもしれない」
それでも、
「でも、なかったことにしたかったかどうかは別なんだ」
セレは何も口を挟まず、静かに聞いていた。
「ただ」
ルカは胸の奥に残るシアの言葉を辿る。
「今は、この名前で呼ばれないって決めた」
それだけだった。
昔の自分を否定するのではない。
昔の名が偽物になるのでもない。
ただ今、その名前へは戻らない。
「マレナ=フィルとして生きるって」
ルカの声が少し震えた。
「本人が選んだ」
結婚し、子どもを育て、笑い、怒り、病み、そして死ぬまで。
その名で生きた。
なら、死んだあとに誰かが昔の名前を拾い上げ、「こちらこそ本当でした」と決め直すことは、その選択を奪うことになる。
「……他人が決めちゃ駄目なんだ」
ルカは言った。
「何を?」
エルンが訊く。
「どの名前へ戻るか」
答えは、自分でも驚くほど簡単だった。
「昔の名前が本物でも、今そこへ戻らないって選ぶことはできる」
セレ=アウナが小さく頷いた。
「ええ」
「死んだあとでも、その選択は残る?」
「生きていた時に選んだものなら」
「残る」
ルカが、自分で答えた。
セレは何も言わなかった。
その時、事故箇所がまた大きく震えた。
どん、と白珊瑚の壁へ衝撃が走り、細い亀裂がさらに広がる。
「時間がありません」
セレが言う。
「護名を戻さなければ、外縁は閉じません」
ルカは貝を持ったまま、中央の暗い穴を見た。
沈める。
少し前までなら、怖かった。
せっかく還ってきた名前を、もう一度深い場所へ送ることが、その人をもう一度失わせるように思えた。
けれど、今は違う。
「消さない」
ルカは小さく言った。
「ルカ?」
「この名前を消すんじゃない」
マレナ=フィルになる前の、一人の女性の名前。
確かに生きた。
確かに本物だった。
だからこそ、
「ただ、今は戻さない」
その言葉を口にした瞬間、貝の中の光がほんの少し静かになった。
ルカは目を閉じる。
もう一度だけ、その古い名へ触れた。
昔の笑い声。
怒り。
悲しみ。
家を離れた日の足音。
そのすべてが、マレナ=フィルへ至る前に確かに存在した人生だった。
消してはいけない。
でも、その人生が本物だったからこそ、勝手に今へ引き戻してもいけない。
シアの声が、最後にもう一度、胸の奥で響いた。
――それを本当って決めないで。
「うん」
ルカは小さく答えた。
海面には届かない。
シアにも聞こえない。
それでも、
「分かった」
昔の名が本当だったかどうかを、もう決め直す必要はない。
本当だった。
マレナ=フィルも本当だった。
どちらも、その時の彼女だ。
問題なのは、今どちらの名を呼ぶのか。
今どちらへ戻るのか。
それを、本人以外が勝手に塗り替えてはいけない。
ルカは青黒い沈名貝を両手で包んだ。
「セレ=アウナ」
「はい」
「これ」
中央の暗い穴を見る。
「私が戻してもいい?」
セレは少しだけ目を細めた。
「できますか」
問い方は、技術の話ではなかった。
ルカは貝を見た。
名拾いとして、ずっと名前を還すことが正しいと思ってきた。
その手で、今度は逆へ送る。
怖くないと言えば嘘になる。
自分が読める名を、自分の手で深く沈めるのだから。
それでも、今までと同じことが一つだけあった。
自分が行かせたい場所へ運ぶのではない。
その名が留まりたい場所へ、道をつなぐ。
還る先が岸ではなく、深い海であるだけだ。
「やる」
ルカは答えた。
「この名前が嫌いだからじゃない」
貝の中で、古い名が静かに揺れる。
「本物じゃないからでもない」
深い穴の向こうには、無数の名が眠っている。
そのどれもが、忘れられたから価値を失ったわけではない。
呼ばれないことを許され、そこに留まっている。
ルカは息を整えた。
自分の中にある迷いまで、潮へ沈めるように。
「今は、還さない方がいいから」
エルンが隣で小さく頷いた。
それを見てから、ルカは再び貝へ意識を向けた。
名の行き先を読む。
いつものように、人へではない。
家へでも、遺品へでも、岸へでもない。
深い方。
呼ばれない場所。
眠ることのできる場所。
そこへ、細い流れが確かに伸びている。
初めて見えた。
還るためではない道が。
ルカはその流れを両手で包むように受け取り、無理に押さず、引っ張らず、ただ貝が沈み始める方向へ少しだけ手を添えた。
青黒い光がゆっくりと下へ向きを変える。
先ほどまで何度も水面側へ押し戻されていた名が、初めて自分の望む深さへ戻ろうとしていた。
ルカは手を離さない。
消すためではない。
忘れるためでもない。
もう呼ばなくていいという、その人が生きていた時の選択を、今もそこへ残すために。
貝は少しずつ暗い方へ沈んでいく。
その光を見送りながら、ルカはようやく理解した。
名拾いが探すべき道は、いつも「還る道」だけではない。
ときには、還らないままでいられる道もある。
それもまた、名の行き先なのだ。




