第十三節 ― 聞こえない第五潮真名
青黒い沈名貝が見えなくなったあとも、ルカはしばらく穴の底を見つめていた。
マレナ=フィルになる前の名前は、もう見えない。けれど、消えたわけではない。ただ今は、呼ばれない深さへ戻っただけだ。
そのことを確かめるように、沈名庫を巡る青い潮路がゆっくりと明滅している。
《保護》。
《保留》。
二つの意味を抱いた新しい流れは、沈名庫の外縁へ静かに広がっていった。
「閉じ始めています」
セレ=アウナが言った。
白珊瑚の壁を走っていた亀裂が、少しずつ塞がっていく。押し出されていた沈名貝も止まり、上へ向かっていた名が一つ、また一つと、本来の深さへ向きを変え始めた。
「戻ってる」
ルカが息を吐く。
「うん」
エルンも、沈んでいく光を目で追っていた。
もう苦しそうではない。
眠名は眠る方へ。
護名は守られる方へ。
封名は閉じられる方へ。
それぞれが、それぞれの深さへ戻っていく。
ようやくルカは肩の力を抜いた。
「終わった……?」
誰に訊いたわけでもない。
セレが答えようとした、その直前だった。
沈名庫から、音が消えた。
「……え?」
ルカは顔を上げた。
最初は、自分の耳がおかしくなったのかと思った。
何も聞こえない。
水の流れも、白珊瑚の軋みも、貝殻が触れ合うかすかな音もない。沈み続ける瓶も、船名板も、食器も、遠くに停泊しているナミル=レイの名札さえ、何の音も立てていなかった。
「エルン?」
自分の声は聞こえた。
けれど、その声が沈名庫へ広がっていかない。口元を離れた瞬間、どこかへ吸い込まれてしまう。
「ルカ」
エルンの声も同じだった。
声はある。
なのに、響かない。
「何これ……」
ルカは周囲を見渡した。
螺旋を描いて沈み続ける無数のもの。貝、瓶、靴、髪飾り、名札、玩具、皿、封筒。
それらは変わらず動いている。
ただ、一つ一つに宿っていたはずの、ごく小さな気配だけが消えていた。
「名前が……」
聞こえない。
何万、何十万あるのかも分からない。沈名庫に眠るすべての名が、一斉に黙り込んでいる。
もともとルカには読めない名も多かった。深すぎるもの、眠りすぎているもの、固く閉じられているもの。そうした名は、声として拾えない。
けれど、読めないことと、存在さえ感じられないことは違う。
ここへ入ってからずっと、沈名庫そのものには低いざわめきがあった。
眠っている人々が、一つの大きな部屋で呼吸しているような気配。誰も話していなくても、そこに誰かがいると分かる静かな音。
それが今は、完全に消えている。
「セレ=アウナ」
不安になって振り向くと、沈名守も動いていなかった。
目を閉じ、腰の貝札へ片手を添えたまま、じっと何かを待っている。
「これ、普通?」
答えはない。
「セレ?」
「……動かないで」
ようやく返ってきた声は小さかった。
ルカはその場で足を止める。エルンも動かなかった。
静かだった。
これまで経験した、どんな静けさとも違う。
夜の海が静かでも、波はある。眠った港では船の縄が軋む。風のない凪でさえ、遠くで水が息をしている。深海にだって生き物がいて、潮が流れ、名が沈んでいく。
完全な無音など、海にはないはずだった。
なのに今は、何もない。
ルカは自分の心臓の音さえ消えたような気がして、胸へ手を当てた。
動いている。
鼓動はある。
けれど、その音だけが聞こえない。
「……怖い」
思わず漏らすと、隣でエルンが小さく頷いた。
その時、ルカは気づいた。
何も聞こえないはずなのに、何かがある。
「……?」
耳を澄ませても、当然ながら音はない。
それでも空白の中に、形があった。
たとえば、湿った砂浜へ貝殻が置かれていたとして。
誰かがそれを持ち去れば、貝殻そのものは消える。けれど砂には、丸い窪みや殻の縁がそのまま残る。
そこに何かがあったという、形だけが。
今、沈名庫を満たす無音の中にも、それと同じものがあった。
「エルン」
「うん」
「何か……ない?」
自分でも変な問いだと思った。
それでもエルンは笑わず、静かに目を閉じた。
長いあいだ何も言わない。
やがて、
「ある」
そう答えた。
ルカの背筋が震えた。
「やっぱり?」
「うん」
「何?」
「分からない」
「音?」
エルンは首を傾げた。
「音がないところ」
「今、全部ないよ」
「違う」
少年は胸元を押さえた。
「ここだけ、なくなり方が違う」
ルカは再び目を閉じた。
聞こうとしてはいけない。
そんな気がした。
音を探せば、あるのは無音だけだ。
ならば、聞こえなかったものの形を探す。
沈名庫から消えた無数の小さな音。そのすべてが残した大きな空白の中に、一つだけ異なる輪郭がある。
そこに音があった。
そうとしか思えない。
けれど、ルカには聞き取れなかった。
母音も、子音もない。
どこで息を切ればいいのかも、舌をどう動かせばいいのかも分からない。
発音するための手がかりが、何一つ残っていない。
それでも、存在だけは分かった。
「あ……」
何かがルカの中へ入った。
音ではない。
言葉でも、声でもなかった。
空白の輪郭。
何か一つを、あまりにもきれいに抜き取った跡。
それが胸の奥にある四つの潮真名の隣へ、静かに収まっていく。
第一。
第二。
第三。
第四。
そして、第五。
ルカは目を開けた。
「入った」
エルンがルカを見る。
「何が?」
「分からない」
「聞こえた?」
「聞こえてない」
「でも?」
「ある」
自分でも説明になっていない。
ルカは胸を押さえた。
「何も聞こえなかったのに、ちゃんとそこにいる」
四つだった場所の隣に、確かにもう一つ。
「五つ目がある」
その頃から、沈名庫へ少しずつ音が戻り始めた。
最初に、遠くからちり、と小さな音が届く。
ナミル=レイの名札だった。
続いて、水の流れ。白珊瑚のかすかな軋み。貝が触れ合う音。眠っていた無数の名の気配。
沈名庫が、ゆっくりと呼吸を再開していく。
ルカは慌てて潮鏡を取り出した。
「今、ここで?」
エルンが訊く。
「忘れたくない」
「聞こえないのに?」
「だから」
潮鏡へ水を張る。
ルカは呼吸を整え、胸の奥にある潮真名を一つずつ呼び出した。
一つ目が波紋を作る。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
そして、
「……五つ目」
呼ぼうとして、声が止まった。
やはり発音できない。
「やっぱり……」
それでも、潮鏡の上では確かに変化が起きていた。
四つの波紋の隣。
何もないはずの場所が、ほんの少しだけ凹んでいる。
水は震えない。
波紋も立たない。
なのに、そこだけを避けるように、ほかの波が流れていく。
「これ」
ルカは指差した。
「何もない」
エルンが覗き込む。
「うん」
「でも、あるでしょ?」
「ある」
「変なの」
ルカは苦笑した。
「潮真名なのに、音がない」
エルンは返事をせず、潮鏡をじっと見つめていた。
ルカは五片を順番に並べる。
第一。
第二。
第三。
第四。
第五。
最後の一片だけは鳴らない。
それでも無音の第五片を加えた途端、四つまでとは明らかに印象が変わった。
「……短い」
ルカが呟く。
これまでにも感じていた。
けれど、五つになって、いっそうはっきりした。
神名ではない。
少なくとも、ルカの知る祈祷神名とは形が違う。神を呼ぶための反復もなければ、称号も、属性を重ねる長い響きも、祈りを返すための音もない。
もっと短い。
もっと近い。
「誰かを呼んでるみたい」
ルカが言った。
「うん」
エルンも頷く。
「神様に祈る音じゃない」
「うん」
「町の名前でもなさそう」
「たぶん」
「船名?」
「違うと思う」
「じゃあ……」
そこまで口にして、ルカは止まった。
一つの可能性が頭をよぎる。
けれど、まだ言葉にするには早すぎた。
「……なんか」
潮鏡を見つめる。
「すごく、個人的」
誰か一人へ。
すぐ近くから振り向かせるような。
そんな呼びかけへ近づいている。
エルンは答えなかった。
「エルン?」
少年は第五の場所を見ている。
正確には、何もない水面を。
「どうしたの?」
「これ」
「五つ目?」
「うん」
エルンは指を近づけた。
触れずに、何もない部分の周囲へ沿わせる。
「変」
「聞こえないから?」
「それも」
少年の眉が寄った。
「でも、違う」
「何が?」
「なくなった音みたいじゃない」
ルカはその言葉の意味を考えた。
「消えたんじゃない?」
「うん」
「でも今、消えた音の形が入ったんでしょ?」
「そうじゃなくて」
エルンは言葉を探した。
うまく見つからないらしい。
しばらく潮鏡を見つめたあと、ようやく言った。
「最初から、音が出せないようにされてる」
ルカは瞬きをした。
「どういうこと?」
「分からない」
「壊れてる?」
「違う」
返事だけは早かった。
「壊れた名前は、切れ方がばらばらになる」
エルンは潮鏡へ手をかざした。
「流されたり、忘れられたり、混ざったりしたら、端が崩れる」
指先が、見えない第五片の縁をゆっくり辿る。
「これは?」
「きれい」
その言葉が、逆に怖かった。
「きれいに、ない」
エルンが続ける。
ルカは黙って、水面を見る。
「ここから、ここまで」
少年の指先が、何もない一角を囲った。
「音だけが出ないようになってる」
「……誰かがやった?」
エルンはすぐには答えなかった。
何度も第五片の輪郭を確かめる。
「たぶん」
「自然に?」
首を横に振った。
「こんなふうにはならないと思う」
「じゃあ、本当に……」
ルカは潮鏡を見つめる。
「誰かが?」
「うん」
エルンの声が低くなる。
「名前を壊したんじゃない」
「……え?」
「残してる」
少年は、何もない第五片を指した。
「ここにあるって分かるように」
言われてみれば、その通りだった。
完全に消すのなら、輪郭まで残す必要はない。
名そのものを破壊したのなら、こんなにも整った欠落が残るだろうか。
何もない。
けれど、何もない場所だけが、あまりにもはっきりしている。
「でも」
ルカは喉へ手を当てた。
「呼べない」
「うん」
「聞けない」
「うん」
「なのに、ある」
「うん」
誰かが名を失わせたのではない。
名を残したまま、その一部だけを呼べない形へ変えた。
その考えへ辿り着いた瞬間、胸の奥で五つの欠片がかすかに揺れた。
第一。
第二。
第三。
第四。
そして、聞こえない第五。
自然に砕けた名前ではない。
潮に削られたのでも、時間に忘れられたのでも、偶然に散ったのでもない。
少なくとも、この第五片には、誰かが意図して触れたような痕跡がある。
「なんで……」
ルカの声が小さくなる。
「名前を残したまま、呼べなくするの?」
答える者はいなかった。
セレ=アウナも、エルンも、それを説明する言葉を持っていない。
沈名庫には音が戻っていた。水は流れ、白珊瑚はかすかに軋み、遠くのナミル=レイから名札の音も聞こえる。
それなのに、潮鏡の第五片だけは沈黙したままだった。
空白ではない。
欠損とも少し違う。
そこに確かに名の一部があり、それだけが声になることを拒まれている。
ルカは胸元へ手を当てた。
四つの音と、一つの沈黙。
五つを並べれば、やはり一つの名前へ近づいていく。神や都市へ向けた大きな呼びかけではなく、誰か一人を呼ぶための、ごく近い響きへ。
けれど、その誰かが誰なのかは、まだ分からない。
そして今度は、もう一つ分からないことが増えた。
なぜ、その名前は呼べないようにされたのか。
ごうん。
遠く、沈名庫のさらに奥で鐘が鳴った。
エルンが顔を上げる。
ルカも潮鏡から視線を外し、暗い深みへ目を向けた。
あの鐘はまだ、この先にある。
五つ目の潮真名もまた、音を失ったまま胸の奥に残っている。
ルカはもう一度、潮鏡へ視線を落とした。
そこに波紋はない。
何も鳴らない。
それでも他の四つの波は、その場所だけを避けて流れていた。
誰かが消したのなら、あまりにも丁寧だった。
誰かが残したのなら、あまりにも不自由だった。
何のために、名を残しながら呼べなくしたのか。
その答えはまだ、深い海のどこかに沈んでいる。
五つ目の音は、最後まで聞こえなかった。
けれど、その沈黙だけは、誰かがそこへ置いたもののように、あまりにもはっきりと残っていた。




