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ネル=エル諸海域と潮名の航海士 〜名が沈み、潮が還す海へ〜  作者: 秋月キアラ
第9話 沈んだ名は、還らないまま眠っていた
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第十三節 ― 聞こえない第五潮真名

 青黒い沈名貝が見えなくなったあとも、ルカはしばらく穴の底を見つめていた。


 マレナ=フィルになる前の名前は、もう見えない。けれど、消えたわけではない。ただ今は、呼ばれない深さへ戻っただけだ。


 そのことを確かめるように、沈名庫を巡る青い潮路がゆっくりと明滅している。


《保護》。


《保留》。


 二つの意味を抱いた新しい流れは、沈名庫の外縁へ静かに広がっていった。


「閉じ始めています」


 セレ=アウナが言った。


 白珊瑚の壁を走っていた亀裂が、少しずつ塞がっていく。押し出されていた沈名貝も止まり、上へ向かっていた名が一つ、また一つと、本来の深さへ向きを変え始めた。


「戻ってる」


 ルカが息を吐く。


「うん」


 エルンも、沈んでいく光を目で追っていた。


 もう苦しそうではない。


 眠名は眠る方へ。


 護名は守られる方へ。


 封名は閉じられる方へ。


 それぞれが、それぞれの深さへ戻っていく。


 ようやくルカは肩の力を抜いた。


「終わった……?」


 誰に訊いたわけでもない。


 セレが答えようとした、その直前だった。


 沈名庫から、音が消えた。


「……え?」


 ルカは顔を上げた。


 最初は、自分の耳がおかしくなったのかと思った。


 何も聞こえない。


 水の流れも、白珊瑚の軋みも、貝殻が触れ合うかすかな音もない。沈み続ける瓶も、船名板も、食器も、遠くに停泊しているナミル=レイの名札さえ、何の音も立てていなかった。


「エルン?」


 自分の声は聞こえた。


 けれど、その声が沈名庫へ広がっていかない。口元を離れた瞬間、どこかへ吸い込まれてしまう。


「ルカ」


 エルンの声も同じだった。


 声はある。


 なのに、響かない。


「何これ……」


 ルカは周囲を見渡した。


 螺旋を描いて沈み続ける無数のもの。貝、瓶、靴、髪飾り、名札、玩具、皿、封筒。


 それらは変わらず動いている。


 ただ、一つ一つに宿っていたはずの、ごく小さな気配だけが消えていた。


「名前が……」


 聞こえない。


 何万、何十万あるのかも分からない。沈名庫に眠るすべての名が、一斉に黙り込んでいる。


 もともとルカには読めない名も多かった。深すぎるもの、眠りすぎているもの、固く閉じられているもの。そうした名は、声として拾えない。


 けれど、読めないことと、存在さえ感じられないことは違う。


 ここへ入ってからずっと、沈名庫そのものには低いざわめきがあった。


 眠っている人々が、一つの大きな部屋で呼吸しているような気配。誰も話していなくても、そこに誰かがいると分かる静かな音。


 それが今は、完全に消えている。


「セレ=アウナ」


 不安になって振り向くと、沈名守も動いていなかった。


 目を閉じ、腰の貝札へ片手を添えたまま、じっと何かを待っている。


「これ、普通?」


 答えはない。


「セレ?」


「……動かないで」


 ようやく返ってきた声は小さかった。


 ルカはその場で足を止める。エルンも動かなかった。


 静かだった。


 これまで経験した、どんな静けさとも違う。


 夜の海が静かでも、波はある。眠った港では船の縄が軋む。風のない凪でさえ、遠くで水が息をしている。深海にだって生き物がいて、潮が流れ、名が沈んでいく。


 完全な無音など、海にはないはずだった。


 なのに今は、何もない。


 ルカは自分の心臓の音さえ消えたような気がして、胸へ手を当てた。


 動いている。


 鼓動はある。


 けれど、その音だけが聞こえない。


「……怖い」


 思わず漏らすと、隣でエルンが小さく頷いた。


 その時、ルカは気づいた。


 何も聞こえないはずなのに、何かがある。


「……?」


 耳を澄ませても、当然ながら音はない。


 それでも空白の中に、形があった。


 たとえば、湿った砂浜へ貝殻が置かれていたとして。


 誰かがそれを持ち去れば、貝殻そのものは消える。けれど砂には、丸い窪みや殻の縁がそのまま残る。


 そこに何かがあったという、形だけが。


 今、沈名庫を満たす無音の中にも、それと同じものがあった。


「エルン」


「うん」


「何か……ない?」


 自分でも変な問いだと思った。


 それでもエルンは笑わず、静かに目を閉じた。


 長いあいだ何も言わない。


 やがて、


「ある」


 そう答えた。


 ルカの背筋が震えた。


「やっぱり?」


「うん」


「何?」


「分からない」


「音?」


 エルンは首を傾げた。


「音がないところ」


「今、全部ないよ」


「違う」


 少年は胸元を押さえた。


「ここだけ、なくなり方が違う」


 ルカは再び目を閉じた。


 聞こうとしてはいけない。


 そんな気がした。


 音を探せば、あるのは無音だけだ。


 ならば、聞こえなかったものの形を探す。


 沈名庫から消えた無数の小さな音。そのすべてが残した大きな空白の中に、一つだけ異なる輪郭がある。


 そこに音があった。


 そうとしか思えない。


 けれど、ルカには聞き取れなかった。


 母音も、子音もない。


 どこで息を切ればいいのかも、舌をどう動かせばいいのかも分からない。


 発音するための手がかりが、何一つ残っていない。


 それでも、存在だけは分かった。


「あ……」


 何かがルカの中へ入った。


 音ではない。


 言葉でも、声でもなかった。


 空白の輪郭。


 何か一つを、あまりにもきれいに抜き取った跡。


 それが胸の奥にある四つの潮真名の隣へ、静かに収まっていく。


 第一。


 第二。


 第三。


 第四。


 そして、第五。


 ルカは目を開けた。


「入った」


 エルンがルカを見る。


「何が?」


「分からない」


「聞こえた?」


「聞こえてない」


「でも?」


「ある」


 自分でも説明になっていない。


 ルカは胸を押さえた。


「何も聞こえなかったのに、ちゃんとそこにいる」


 四つだった場所の隣に、確かにもう一つ。


「五つ目がある」


 その頃から、沈名庫へ少しずつ音が戻り始めた。


 最初に、遠くからちり、と小さな音が届く。


 ナミル=レイの名札だった。


 続いて、水の流れ。白珊瑚のかすかな軋み。貝が触れ合う音。眠っていた無数の名の気配。


 沈名庫が、ゆっくりと呼吸を再開していく。


 ルカは慌てて潮鏡を取り出した。


「今、ここで?」


 エルンが訊く。


「忘れたくない」


「聞こえないのに?」


「だから」


 潮鏡へ水を張る。


 ルカは呼吸を整え、胸の奥にある潮真名を一つずつ呼び出した。


 一つ目が波紋を作る。


 二つ目。


 三つ目。


 四つ目。


 そして、


「……五つ目」


 呼ぼうとして、声が止まった。


 やはり発音できない。


「やっぱり……」


 それでも、潮鏡の上では確かに変化が起きていた。


 四つの波紋の隣。


 何もないはずの場所が、ほんの少しだけ凹んでいる。


 水は震えない。


 波紋も立たない。


 なのに、そこだけを避けるように、ほかの波が流れていく。


「これ」


 ルカは指差した。


「何もない」


 エルンが覗き込む。


「うん」


「でも、あるでしょ?」


「ある」


「変なの」


 ルカは苦笑した。


「潮真名なのに、音がない」


 エルンは返事をせず、潮鏡をじっと見つめていた。


 ルカは五片を順番に並べる。


 第一。


 第二。


 第三。


 第四。


 第五。


 最後の一片だけは鳴らない。


 それでも無音の第五片を加えた途端、四つまでとは明らかに印象が変わった。


「……短い」


 ルカが呟く。


 これまでにも感じていた。


 けれど、五つになって、いっそうはっきりした。


 神名ではない。


 少なくとも、ルカの知る祈祷神名とは形が違う。神を呼ぶための反復もなければ、称号も、属性を重ねる長い響きも、祈りを返すための音もない。


 もっと短い。


 もっと近い。


「誰かを呼んでるみたい」


 ルカが言った。


「うん」


 エルンも頷く。


「神様に祈る音じゃない」


「うん」


「町の名前でもなさそう」


「たぶん」


「船名?」


「違うと思う」


「じゃあ……」


 そこまで口にして、ルカは止まった。


 一つの可能性が頭をよぎる。


 けれど、まだ言葉にするには早すぎた。


「……なんか」


 潮鏡を見つめる。


「すごく、個人的」


 誰か一人へ。


 すぐ近くから振り向かせるような。


 そんな呼びかけへ近づいている。


 エルンは答えなかった。


「エルン?」


 少年は第五の場所を見ている。


 正確には、何もない水面を。


「どうしたの?」


「これ」


「五つ目?」


「うん」


 エルンは指を近づけた。


 触れずに、何もない部分の周囲へ沿わせる。


「変」


「聞こえないから?」


「それも」


 少年の眉が寄った。


「でも、違う」


「何が?」


「なくなった音みたいじゃない」


 ルカはその言葉の意味を考えた。


「消えたんじゃない?」


「うん」


「でも今、消えた音の形が入ったんでしょ?」


「そうじゃなくて」


 エルンは言葉を探した。


 うまく見つからないらしい。


 しばらく潮鏡を見つめたあと、ようやく言った。


「最初から、音が出せないようにされてる」


 ルカは瞬きをした。


「どういうこと?」


「分からない」


「壊れてる?」


「違う」


 返事だけは早かった。


「壊れた名前は、切れ方がばらばらになる」


 エルンは潮鏡へ手をかざした。


「流されたり、忘れられたり、混ざったりしたら、端が崩れる」


 指先が、見えない第五片の縁をゆっくり辿る。


「これは?」


「きれい」


 その言葉が、逆に怖かった。


「きれいに、ない」


 エルンが続ける。


 ルカは黙って、水面を見る。


「ここから、ここまで」


 少年の指先が、何もない一角を囲った。


「音だけが出ないようになってる」


「……誰かがやった?」


 エルンはすぐには答えなかった。


 何度も第五片の輪郭を確かめる。


「たぶん」


「自然に?」


 首を横に振った。


「こんなふうにはならないと思う」


「じゃあ、本当に……」


 ルカは潮鏡を見つめる。


「誰かが?」


「うん」


 エルンの声が低くなる。


「名前を壊したんじゃない」


「……え?」


「残してる」


 少年は、何もない第五片を指した。


「ここにあるって分かるように」


 言われてみれば、その通りだった。


 完全に消すのなら、輪郭まで残す必要はない。


 名そのものを破壊したのなら、こんなにも整った欠落が残るだろうか。


 何もない。


 けれど、何もない場所だけが、あまりにもはっきりしている。


「でも」


 ルカは喉へ手を当てた。


「呼べない」


「うん」


「聞けない」


「うん」


「なのに、ある」


「うん」


 誰かが名を失わせたのではない。


 名を残したまま、その一部だけを呼べない形へ変えた。


 その考えへ辿り着いた瞬間、胸の奥で五つの欠片がかすかに揺れた。


 第一。


 第二。


 第三。


 第四。


 そして、聞こえない第五。


 自然に砕けた名前ではない。


 潮に削られたのでも、時間に忘れられたのでも、偶然に散ったのでもない。


 少なくとも、この第五片には、誰かが意図して触れたような痕跡がある。


「なんで……」


 ルカの声が小さくなる。


「名前を残したまま、呼べなくするの?」


 答える者はいなかった。


 セレ=アウナも、エルンも、それを説明する言葉を持っていない。


 沈名庫には音が戻っていた。水は流れ、白珊瑚はかすかに軋み、遠くのナミル=レイから名札の音も聞こえる。


 それなのに、潮鏡の第五片だけは沈黙したままだった。


 空白ではない。


 欠損とも少し違う。


 そこに確かに名の一部があり、それだけが声になることを拒まれている。


 ルカは胸元へ手を当てた。


 四つの音と、一つの沈黙。


 五つを並べれば、やはり一つの名前へ近づいていく。神や都市へ向けた大きな呼びかけではなく、誰か一人を呼ぶための、ごく近い響きへ。


 けれど、その誰かが誰なのかは、まだ分からない。


 そして今度は、もう一つ分からないことが増えた。


 なぜ、その名前は呼べないようにされたのか。


 ごうん。


 遠く、沈名庫のさらに奥で鐘が鳴った。


 エルンが顔を上げる。


 ルカも潮鏡から視線を外し、暗い深みへ目を向けた。


 あの鐘はまだ、この先にある。


 五つ目の潮真名もまた、音を失ったまま胸の奥に残っている。


 ルカはもう一度、潮鏡へ視線を落とした。


 そこに波紋はない。


 何も鳴らない。


 それでも他の四つの波は、その場所だけを避けて流れていた。


 誰かが消したのなら、あまりにも丁寧だった。


 誰かが残したのなら、あまりにも不自由だった。


 何のために、名を残しながら呼べなくしたのか。


 その答えはまだ、深い海のどこかに沈んでいる。


 五つ目の音は、最後まで聞こえなかった。


 けれど、その沈黙だけは、誰かがそこへ置いたもののように、あまりにもはっきりと残っていた。

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