第9話 平岡頼勝視点
我が主である中納言様が松尾山に陣を敷いたのは、関ヶ原の霧がまだ晴れぬ頃だった。
山上からは、東西両軍の旗が風に揺れるのが見える。
まもなく戦が始まる。
それは誰の目にも明らかであった。
だが――
我ら小早川勢だけが、未だに“どちらの軍”とも決まっていない。
表向きは毛利輝元様の旗下。
だが、実際には稲葉正成殿とわし・平岡頼勝は、
黒田長政殿と通じ、徳川方に味方する腹を固めていた。
黒田殿からは密書が届いている。
「時至らば、松尾山より一気に家康公へ馳せ参じよ」
わしはその密書を懐に忍ばせたまま、
何度も金吾様のもとへ足を運んだ。
「金吾様、いずれかにお決めくだされ。
このままでは、家中が割れまする」
金吾様は、静かに頷かれた。
「平岡、思慮しておる。
軽々に動くべき時ではない」
……また、それだ。
稲葉殿も同じように訴えた。
「金吾様、熟考は大切にござるが、
戦は待ってはくれませぬぞ」
金吾様は、少しだけ目を伏せられた。
「稲葉、時は必ず来る。
その時に動けばよい」
その“時”が、いつなのか。
それを仰ってくださらぬ。
わしは胸の内で叫んだ。
――その時を決めるのは、金吾様なのだ。
――その時を待っているのは、我らなのだ。
だが、金吾様は泰然としておられる。
焦りも、怒りも、迷いも見せぬ。
ただ、静かに戦場を見下ろしておられる。
稲葉殿が小声で言った。
「平岡……これは、いよいよ危ういぞ」
「承知しておりまする。
このままでは、徳川にも豊臣にも疑われましょう」
「金吾様は……何をお考えなのだ」
わしは答えられなかった。
長い付き合いでありながら、
金吾様の胸の内は、未だに読めぬ。
黒田殿は、わしらに期待している。
家康公も、金吾様の動きを注視している。
毛利本家は、金吾様の去就に揺れている。
――すべてが、金吾様の決断ひとつで動く。
だが、その金吾様が動かれぬ。
わしは、思わず拳を握った。
「金吾様……どうか、下知を……」
金吾様は、霧の向こうを見つめたまま言われた。
「平岡、戦は始まる。
だが、我らが動くべき時は……まだ先よ」
その言葉は、まるで霧のように掴みどころがなかった。
稲葉殿が歯噛みした。
「平岡、どうする。
このままでは、黒田殿にも家康公にも申し開きが立たぬ」
「……わかっておりまする」
わしは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
金吾様は、敵でも味方でもない。
動く気配も、拒む気配もない。
ただ、静かに“時”を待っておられる。
だが、その“時”がいつなのか、
わしらにはわからぬ。
――まったく、悩ましい。
戦の火蓋は、まもなく切られる。
その時、松尾山が沈むのか、
それとも天下を揺らすのか。
すべては、金吾様の胸の内にある。
だが、その胸の内は、
わしにも、稲葉殿にも、誰にも読めぬ。
それが、何より悩ましいのだ。




