第4話 稲葉正成視点
太閤殿下の命により付家老として小早川家に仕えて以来、わしは幾度となく家中の揺れを見てきた。
だが、今ほど揺れている時はない。
毛利家から来た家臣たちは、
「小早川家は毛利の一門」と誇りを持ち、
豊臣家から来た者たちは、
「金吾中納言様は殿下の甥御」と声を潜めて誇り、
元来の小早川家臣は、
「我らこそ本家の柱」と胸を張る。
三つの流れが、互いにぶつかり、絡み合い、
家中は常にきしみを上げておる。
その中心に立つべき金吾中納言様は――
のんびりと、泰然と、まるで春の日向のように穏やかでおられる。
「正成、今日の昼餉は何がよいと思う?」
「……は?」
「いや、ふと気になりましてな」
この時勢に昼餉の話か、と喉まで出かかったが、
その柔らかな笑顔を見ていると、
叱る気も失せてしまう。
金吾様は、そういう御方だ。
毛利家の家臣が不満を漏らせば、
「まあまあ、茶でも飲んで落ち着きなされ」
と笑い、
豊臣家から来た者が焦りを見せれば、
「焦っても仕方ありませぬ。流れは流れに任せましょう」
と肩を叩く。
元来の小早川家臣が誇りを語れば、
「それは立派なことですな」
と素直に褒める。
――どれも間違ってはいない。
だが、どれも“政治”ではない。
わしは付家老として、
金吾様を支え、導く役目を負っておる。
だが、導こうにも、
金吾様がどこを向いておられるのか、わからぬ。
ある日、家中の三派が激しく言い争った。
毛利派は「小早川は毛利の一門」と主張し、
豊臣派は「金吾様は殿下の甥御」と譲らず、
本来の小早川家臣は「我らこそ正統」と声を荒げた。
わしは仲裁に走り回り、
汗だくになってようやく場を収めた。
その時、金吾様は縁側で日向ぼっこをしておられた。
「正成、皆、元気ですなあ」
「……元気、でございますか」
「ええ。声が大きいのは、心が強い証です」
わしは思わず膝から崩れ落ちそうになった。
この御方は、
本当にこの時勢をどう乗り切るおつもりなのか。
頼られているのか、丸投げされているのか。
大名の器なのか、ただの若者なのか。
泰然自若なのか、ただの無頓着なのか。
わしには、どうにも踏み込めぬ。
ある夜、思い切って尋ねた。
「金吾様……家中の三派、どうお考えで?」
金吾様は、月を見上げたまま答えられた。
「正成、川の流れを見たことがありますか」
「は……?」
「石があっても、枝があっても、流れは止まりませぬ。
ただ、澱まぬように、時折、手を入れればよいのです」
わしは言葉を失った。
それは深いようで浅く、
浅いようで深い。
意味があるようで、ないようでもある。
だが、金吾様は続けられた。
「正成、あなたは頼りになります。
だから、任せております」
「……任せて、とは」
「ええ。私は流れを見ておきますゆえ」
――丸投げなのか、信頼なのか。
わしには、やはりわからぬ。
だが、その“わからなさ”こそが、
金吾様の魅力であり、悩ましさでもある。
金吾中納言様は、ほんに掴みどころがない。
だが、その掴みどころのなさが、
家中の三派すべてを、なぜか落ち着かせてしまう。
この御方は、
大名の器なのか、凡庸なのか。
わしにはまだ判断がつかぬ。
だが――
この御方のそばにいると、
なぜか「何とかなる」と思えてしまう。
それが、最も悩ましいのだ。




